手の中の戦争




第五話 星に願いを



期末テスト期間の、二日目の放課後。私は、これまた久々に、図書室にやってきた。
私は図書委員をしているので、普段は貸し出しカードの整理や本の整理などで、なかなか図書室を楽しめない。
本の中に紡がれる物語も好きだけど、本という情報媒体そのものも好きで、分厚い本などたまらなく素敵だ。
天井に繋がりそうなほど背の高い本棚に、ずらりと並んだ本に囲まれていたりすると、それだけで幸せになる。
奈々はそれを理解してくれないけど、それは仕方ないことだ。個人の趣味嗜好は、それぞれに違うのだから。
図書室の中は、廊下とは違って冷房が効いていて、心地良かった。何を借りようかと、新刊の並ぶ本棚を眺める。
だが、その中の大半は既に読んでしまっているので、残っている新刊はあまり興味のないジャンルばかりだ。
この機会に手を出してみるのも悪くないけど、読んでみてやっぱり興味が湧かなかったら、時間の無駄になる。
けれど、やっぱり興味がないものはないわけで、手を伸ばしたのは以前に読んだことのあるホラーだった。
真っ黒なカバーの掛けられたハードカバーの本は厚く、程良く重い。内容は、それなりにスプラッターだった。
私は、とりあえずこれでも読もうと、その本を抱えて振り返った。静かな図書室の中には、数人の先客がいた。
その中に、見知った顔がいた。窓際の席に座って読書に耽っている制服姿の男子、同じクラスの沢口陽介だ。
彼は、私がクラスの中でまともだと思う男子の中の一人だ。下手に騒がないし、なにより読書の趣味が合う。
教室にいる時はあまり話さないけど、図書室ではよく話すという、よく解らない友人関係であったりする。
私は足音を押さえながら歩き、沢口君の傍に近付いた。沢口君も私に気付き、本から顔を上げて私に向く。

「鈴木さん」

「久し振り、沢口君」

私は沢口君の傍の椅子を引き、腰掛けた。窓際といっても、北側なのでそれほど日差しは強くなかった。

「あ、それ読むの?」

私が持ってきた本を、沢口君は指差した。私は、分厚い黒い本を机に置く。

「前に一度読んで、内容は覚えてるんだけどね。新刊の棚にある本の中で、読みたくなったのはこれだけだから」

「その本は面白いよね。襲われる人間が一見すれば無作為だから、先が読めなくて」

沢口君は今し方まで読んでいた本に栞を挟んで、閉じた。私は、分厚い黒い本の表紙を開く。

「でも、ラストは蛇足かな。人間狩りをしていた犯人が現れて、最後の犠牲者を半殺しにしながら人間狩りをしていた理由を話すのは良いんだけど、セリフの後半になるといかにも取って付けたような理由ばっかりで、練りが甘いかなーって感じ。でも、この作家は文章も上手いし展開のテンポも速いし伏線の張り方も上手だから、あと何作か出せばもっと上手くなるんじゃない?」

「相変わらず、手厳しいねぇ」

沢口君は、ちょっと困ったように笑った。私は、そうは思わなかった。

「そう? でも、それが素直な感想なの。面白いんだけど、もう一味が足りない」

「それじゃ、鈴木さんはどういう一味だったら満足するわけ?」

沢口君の問いに、私は少し考えてから返した。

「二段オチ三段オチの上に、もう一捻りが欲しいな。だって、長編だよ? それぐらいのギミックがなきゃ」

「鈴木さんらしいね。それで、最近出た本に面白いのはありそう?」

「面白そうなのがないわけじゃないけど、様子見ってところ。つまらない話なんて、出来れば読みたくないもの」

面白そうだと思って買って、実は中身が薄っぺら、なんてこともないわけじゃないし、そんなのはお金の無駄だ。
私が喋るのを止めると、沢口君は窓の外に目を向けた。私もなんとなく、彼の目線の先を見下ろし、黙った。
横目に、沢口君を窺った。顔立ちはそれなりに整っていて、肩幅も広く、手足の長い、大人びた十五歳だ。
去年の二学期、つまり、私が中学二年の九月の初めに転校してきて、それからずっと私と同じクラスにいる。
柔和な雰囲気と涼しげな目元のおかげで女子の中では密やかな人気があるけど、男子の中では別だった。
物静かで騒ぎ立てないから、ノリが悪いだとか言われて、活発な男子共のグループからは遠巻きにされている。
それでも、落ち着きのある沢口君のことが好きな男子もいるので、彼はクラスの中ではあまり浮いていない。
対する私は、少々浮いている。仲の良い友達はそれほど多くないし、リーダー格の女子に鬱陶しがられている。
別に私が何をしたというわけではないのだけど、あちらとしてみれば、付き合いの悪い私が面白くないらしい。
だけど、やりたくもないカラオケだとかしたくもないプリクラだとかを、強制される筋合いはないと思うのだ。
以前にその辺りのことを奈々や沢口君に言ったら、同意してくれたので、私はその考えを今も変えていない。
大体、意味が解らない。多少目立つ存在だからと言って、無条件にその存在に従う理由はないではないか。
親でも教師でも上官でもない相手に、命令されたくない。私はぼんやりしていたが、あの悩みを思い出した。
沢口君なら、どうするだろう。一人で悩んでいるから、煮詰まってしまって、答えが出ないのかもしれない。

「ねぇ、沢口君」

沢口君がこちらを向いたので、私は彼に向き直った。

「自分は凄く会いたいのに、その相手からもう会いたくないって言われた挙げ句に、他の人からも会わない方がいいって言われたら、どういう判断をする?」

「鈴木さん、好きな人でも出来たの?」

沢口君が面食らったので、私はちょっと慌てた。

「あ、そういうんじゃないの。ただ、ちょっと意見を聞いておきたいだけだから。深読みしないで」

「難しい問題だなぁ…」

沢口君は椅子に持たれて腕を組み、物憂げに目を伏せた。

「その、他の人からの意見っていうのが難点だよね。第三者からの視点って言うのは、自分の視点よりも大分辛辣だけど正しいから、受け入れるに越したことはない。それに、その相手も会いたくないって言っているんだから、相当なものだよ。元からその相手との仲が悪いのなら、当たり前のやり取りだけど、仲が良かったのなら全く別になる。仲が良かったのに、そんなことを言われたんじゃ腹が立つし、不可解だ。だけど、仲が良かったのなら、その相手に余程のことがあったからそんなことを言ったんだろうね。自分に、というか、鈴木さんに迷惑を掛けたくないから」

「だから…」

と、私はまた否定しようとしたけど、否定の否定は肯定になるので止めた。これ以上、変に勘繰られたくない。

「まぁ、そうだろうね…」

あれだけ私に執心、いや、執着している北斗と南斗が、そう簡単に私を嫌いになるようには思えなかった。
あの二人の思考は、極めて単純だ。私を、あの日のような危険に晒したくないから、遠ざけたいのだろう。
その気持ちは、解らないでもない。呆気なく大破されてしまった二人は、プライドも何もかも砕けたはずだ。
そこから立ち直るのは容易ではないだろうし、挫折を知らなかった二人が元に戻るには時間が掛かるだろう。
今、会ったら、荒れているであろう二人に何を言われるか解らないし、私の存在をどう思うかも解らない。
だけど、だからこそ、会ってやりたい。傷を負ってしまった心を癒すためには、他者が不可欠だからだ。
それは、入院中に私が知ったことだ。家族や神田隊員やすばる隊員や朱鷺田隊長のおかげで、回復出来た。
一人だけでいたら、今もずっと、死の恐怖に怯えて縮こまっていただろう。本当に、皆には感謝している。
私が押し黙っていると、沢口君は言った。静かな図書室に良く馴染む、穏やかでひっそりとした口調で。

「でも、鈴木さんがそこまで会いたいって思うのなら、それが正しいんだと思うよ」

沢口君は目元を柔らかくさせ、笑った。私は、その笑みに合わせて笑んだ。

「そうだと、いいんだけどね」

「自信持ちなよ。鈴木さんは、もっと自信を持っていてもいいと思うよ」

沢口君に励まされ、私はなんだか妙に照れくさくなってしまい、表情を押さえた。

「…ありがと」

沢口君は、まじまじと私を見ていた。その視線がやりづらくて、私は逃げ腰になった。

「何よ」

「ああ、うん。やっぱり、鈴木さんってそういう人だよなぁって思ってさ」

「どういう意味?」

私が訝しむと、沢口君は苦笑いした。

「鈴木さん、退院して戻ってきてからやけに笑ってたからさぁ、それがずっと引っ掛かってて。いつもだったら、僕とか桜田さん以外じゃ必要最低限しか話さないのに、誰に話し掛けられてもにこにこ笑って話して、その、なんていうか、変な感じがしたんだよね。もちろん、笑ったり色んな人と話すのが悪いってわけじゃないし、むしろその方がいいんだろうけど、不自然な感じがして。さっきだって、僕に付き合って笑ったでしょ? いつもの鈴木さんだったら、絶対にそんなことはしなかったから、気になっちゃって」

そこまで言い終えてから、あ、と沢口君は申し訳なさそうにした。

「気に障ったのならごめん、忘れていいよ」

「そんなに、変だった?」

私は、ここ最近の自分の言動を思い出した。嘘を取り繕うために、気付かないうちに表情を作っていたらしい。
確かに、自分でも良く笑っていたと思う。根掘り葉掘り、入院生活を聞いてくるクラスメイトをはぐらかすためだ。
普段はそんなに使わない頬の筋肉を使って、にっこり笑ってこう言っていた。もう大丈夫、だから気にしないで。
そう言えば、大抵の人間は納得して、引き下がってくれるからだ。私の笑顔に、戸惑っていたのかもしれないが。
他人を無駄に不安がらせないように、家族や友人に心配されないように、かなり気に掛けながら暮らしていた。
それが、そんなに不自然だったとは。沢口君でも気付くのだから、家族や奈々はもっと気にしていたに違いない。
北斗と南斗が無理をしているのだとは解っていたが、いつのまにか、私までもがそんなに無理をしていたとは。
このまま、二人から離れてしまったら、二人も私も無理を重ねてしまうだろう。それが、容易に想像出来る。
頭の隅に追いやっていた、というか、考えないようにしていた北斗と南斗のことが、次から次へと出てくる。
今頃どうしているだろう。ボディは直ったのかな。電話してこないのも変だ。メールの一通もないのは異常だ。
ずっと、人型兵器研究所にいるのかな。負けたからって荒れていないかな。恐怖心に苛まれていないかな。
北斗と南斗の本心はどうなのかな。会って、話して、教えてもらいたい。そして、私の気持ちも教えてあげたい。
二人がやられた時に凄く辛かったかとか、どれだけ私が二人に依存していただとか、その辺の情けないことを。
瞬きすると、目元から水が落ちた。私は何事かと思いながら目を拭うと、手に涙が付き、驚いてしまった。

「大丈夫、鈴木さん?」

沢口君が心配そうに覗き込んできたので、私は勝手に出てくる涙を何度も拭った。

「ああ、うん。別に平気。気にしないで、なんでもないから」

私は足元に置いた通学カバンを取ると、まだ出てくる涙を我慢しながら、急いで沢口君から離れた。

「それじゃ、私帰るから。また明日ね」

そう言い残し、図書室を飛び出した。静まり返った廊下を夢中で駆けて、階段を下り、昇降口に向かった。
内履きを脱いでローファーに履き替えると、今度は本気でダッシュして校門を出たが、涙は全然止まらなかった。
走っても走っても収まらないので、少し気持ちを落ち着けようと、近場の児童公園に駆け込んで物陰を探した。
昼時なので子供の姿のない児童公園は、眩しい日差しに焼かれた遊具が、どこか寂しげな雰囲気で並んでいる。
児童公園の奧に木陰に覆われたベンチを見つけたので、そこに座った私は、ハンカチを出して目を押さえた。
止まらない。これは、我慢出来そうにない。私はタオルハンカチを濡らしていく涙を感じながら、声を抑えていた。
気を抜けば、大泣きしてしまう。こんなに悲しい気持ちになるのも、激しく泣いてしまうのも、かなり久々だ。
そうだ、そうなんだよ。私は二人に会いたいんだ、話したいんだ、謝りたいんだ、役に立てなかったことを。
いつもいつも守られてばっかりで、ろくに戦いもしないくせに口だけは達者で、北斗も南斗も無下にしてばかりで。
嫌われてもおかしくないのに、好きだ好きだって構いに来る二人のことが、なんだかんだ言って結構好きなんだ。
だからその二人から、二度と関わるな、なんて言われて凄くショックなんだ。でも、見ないようにしていたんだ。
朱鷺田隊長の言った通りにした方が楽だって、頭では解っているし、私もそうするべきだと何度も思っている。
だけど、それとこれとは全く別なんだ。危険だ、辛い、痛い、怖い、苦しい、って解っていても会いたいんだ。
だって、二人は私の大事な友達だ。ロボットだけど、馬鹿だけど、単純だけど、子供だけど、凄く大事なんだ。
声を殺して泣いていると、児童公園の前に車が止まった。ハンカチを外して顔を上げ、その車を見てみた。
可愛らしいオレンジ色の、フォルクスワーゲン・ニュービートル。その前に、見覚えのある人が立っていた。

「礼子ちゃん…?」

それは、すばる隊員だった。私服姿で、デニムのノースリーブジャケットと白いフレアスカートを着ている。
なんで、ここにすばる隊員が。私が面食らっていると、すばる隊員は慌てながら私の元に駆け寄ってきた。

「どないしたんや!」

すばる隊員は私の目の前にやってくると、スカートが汚れるのも構わずに身を屈めて、私の両手を取る。

「どっか痛いん? 学校で意地悪されたん?」

私は、違う、と言おうとしたけど声が詰まって言えなかった。すばる隊員は、自分のハンカチで私の頬を拭う。

「この近くまで来たから顔でも見ておこう思て来たんやけど、どないしたんや、ホンマに」

すばる隊員は、私を間近から見上げてくる。彼女の華奢な肩の上で、長い黒髪が緩く波打っている。

「なんでもええから話してみいや、礼子ちゃん。うちじゃ役に立てへんかもしれんけど、ちょっとは楽になるで」

辺りを見回したすばる隊員は、私の手を引いて立ち上がらせた。

「そやね、ここやと話しづらいかもしれんね。うちの車ん中で話そか、あっちの方が外よか涼しいし」

私が小さく頷くと、すばる隊員は私の手を引っ張って車に向かっていった。

「ほな、行こか」

そのまま、私はすばる隊員に連れられて車に乗せられた。私の手を掴むすばる隊員の手は、ひんやりしていた。
話したところでどうしようもないかも、とか、恥ずかしいところを見られた、とか、ごちゃごちゃ考えてしまった。
だけど、抵抗出来なかった。私は、それだけの気力も体力も出てこないほどに、苦しくて悲しかったのだ。
色々な思いが、ごた混ぜになっていた。


小一時間後。私は、なんとか落ち着きを取り戻していた。
ニュービートルの後部座席に座った私の隣にはすばる隊員がおり、支離滅裂な私の話をずっと聞いてくれた。
混乱しているし悲しいし苦しいしで、ちっともまとまらなかったけど、それでも一応言いたいことは言えた。
私は、涙やらなんやらでべとべとになったハンカチをスカートのポケットに押し込め、シートに身を沈めた。
散々泣いたので、すっきりした。濡れた頬に当たってくる、カークーラーの弱くて冷たい風が気持ち良かった。
すばる隊員の眼差しには、哀れみが滲んでいた。いつもは柔らかい表情を作る眉が、悲しげに下がっている。

「さよか…」

すばる隊員は、ローヒールのパンプスを履いた足を組んだ。長い足が、薄いストッキングに覆われている。

「礼子ちゃんも、辛かったんやねぇ。そうやよねぇ、礼子ちゃんはあの二人とずうっと一緒におるもんねぇ」

「一年とちょい、でしょうかね」

私は、北斗と南斗と関わるようになってから過ぎた年月を、指折り数えた。

「北斗に最初に会ったのは、ていうか、特殊演習をさせられたのは中二の時の中間テスト前で、五月でしたっけね。それから大分間が開いて、バレンタインの時にもう一度会って、その後からこんな生活が始まったんですよ」

私は、泣きに泣いたせいで上擦り気味の自分の声が多少気になった。すばる隊員は、少し笑う。

「うちは、人型自律実戦兵器開発実用化計画の途中から人型兵器研究所に異動して、特殊機動部隊に派遣されるようになったから、最初の頃のことはよう知らんけど、北斗と南斗のことも礼子ちゃんのことも、それなりに知っとるつもりやよ? 北斗と南斗はな、礼子ちゃんが来はる日をいつもえろう楽しみにしてんねんで。ホンマ、子供みたいにはしゃいでな、神田はんと隊長はんに怒られてばっかりなんよ。ホンマに嬉しそうで、見ている方も嬉しくなってくるぐらいなんよ。それぐらい、二人は礼子ちゃんのことが好きなんよ。だけど、北斗も南斗もまだまだ経験が少ないし、女の子の扱いっちゅうもんを全然知らへんから、おかしなことばっかりしとるけどな」

すばる隊員は、すっかり乱れてしまった私の髪を撫でてくれた。

「礼子ちゃんも、二人といる時は楽しそうな顔しとるんよ。そりゃ、演習とか訓練をしとる間はしんどそうやけどね」

「あの」

私は、髪を撫でられる感触がくすぐったく感じながら尋ねた。すばる隊員は、小さく首をかしげる。

「ん?」

「さっきすばるさんは、も、って言いましたけど、北斗と南斗も辛そうなんですか?」

私の問いに、すばる隊員はさも当然と言わんばかりに頷いた。

「当たり前やよ。北斗と南斗、グラント・Gに負けてしもうたからすっかり自信なくしてもうてなぁ。それで、礼子ちゃんを守れる自信がないゆうて、これ以上関わるなって隊長はんの口を借りて礼子ちゃんにゆうたんはええんやけど、これでもう二度と礼子ちゃんと会えなくなってしもうたって思って、二人共もんどりうっとるんだわ」

世話ないでホンマ、とすばる隊員は少し呆れた。

「自分で自分の首締めて、どないすんねんな。ホンマ、アホや」

「全くですよ」

私も、変にプライドの高い二人に呆れてしまった。

「最初から素直に、会いたいけどもう守れる自信がない、とでも言えばまだ恰好悪くないのに、変に格好を付けようとするからおかしなことになっちゃうんじゃないか」

「ホンマ、アホやよねぇ」

すばる隊員は、私の顔を覗き込んできた。私は少し戸惑ってしまい、身を引く。

「なんですか?」

「礼子ちゃん、時間空いとる? お友達と一緒に遊ぶ予定とかあれへん?」

「別に、ないですけど」

私は、明日のテストの予習をしておくべきだとは思ったがそれは夜に出来るので、別に後回しでいいだろう。
すばる隊員は、さよか、にんまり笑った。すばる隊員は更に身を乗り出して、私との間を詰め、囁いた。

「うちが、カササギになったげるで?」

「カササギって、あの、あれですか。織女と牽牛が会うために、天の川の橋になってくれる鳥ですよね?」

「明日、丁度七夕やしな。織姫と彦星は、ちゃあんと引き合わせてやらんと」

「え、って、ことは」

すばる隊員の言わんとしているところを察し、私は口籠もった。すばる隊員は、楽しげにする。

「礼子ちゃんが織姫で、北斗と南斗のどっちかが彦星や! なんや、ロマンチックでええやんか!」

「彦星って柄ですか、あいつらが」

私が変な顔をすると、すばる隊員は私の肩をぽんぽんと叩いた。

「まぁ、うちも、あの二人はそんなカッコええもんが似合うとは思わへんけどな。言ってみただけやよ」

すばる隊員は後部座席から出ると、運転席に座った。シートベルトを締めてから、私を手招いてきた。

「礼子ちゃんも前に乗り」

「え、今から行くんですか?」

それは早急すぎないか。と、私がきょとんとしていると、すばる隊員は苦笑した。

「だって、人型兵器研究所って遠いんやもん。ド田舎の山ん奧にあってな、行くのにえろう時間が掛かるんよ。ヘリでも使こうて行けば楽なんやろうけど、そうもいかへんし」

「何時間ぐらい掛かるんです?」

「えーとな、まず都内の高速乗ってそっから東北方面に乗り換えて、途中から下の道に入って、国道やのうて県道を使こうて、峠を二つ三つ越えて、トンネルくぐって、森抜けて、きっついカーブを何個も通った先にあるんやよ。そんな道ばっかりで飛ばせへんから、大体六七時間ぐらいは掛かってしまうねん」

「うげ」

その道を想像しただけで、私は車酔いになりそうだった。どれだけ山奥にあるんだよ、人型兵器研究所は。
何かの理由があるからなのだろうけど、それはやりすぎでは。すばる隊員は、嫌そうに顔をしかめた。

「ホンマ、けったいな場所にあるんやよ。そやけど、どないもならへんねん。しゃーないんよ、礼子ちゃん」

「妥協はしますけどね、妥協は」

私はこの時点でげんなりしたが、我慢した。北斗と南斗に会いたいのは変わらないが、乗り物酔いは嫌だ。
揺れに揺れる大型の軍用ヘリも嫌いだが、車もあまり好きじゃない。だけど、文句は言っていられない。
すばる隊員は、あくまでも親切で私を北斗と南斗の元に連れていってくれるのだから、堪えなくては。

「ほな、礼子ちゃん、行くんやね?」

「はい」

すばる隊員に問われ、私は頷いた。自分の本心に嘘は吐けないし、泣くだけ泣いたら気持ちが整理出来た。
私は、北斗と南斗に会いたい。平和な日常には心残りがあるけど、そうしなくては一生後悔する気がした。
後部座席を出て助手席に座り直すと、すばる隊員はニュービートルを発進させて、住宅街を後にした。
高速道路に乗った辺りで、私は家に電話をした。私が決めた道と、これからどこに行くかをお母さんに伝えた。
当たり前だが、お母さんには物凄く心配されてしまい、少し罪悪感が湧いた。だけど、もう揺るがなかった。
通学カバンの中に手を入れて、その中にあるグロック26にそっと触れた。鉄の手触りは、やはり冷たい。
私は、すばる隊員の運転する車に揺られながら、藍色の夜空を見上げてスピカとアルタイルを探した。
二つの星は、天の川を挟んで力強く輝いている。織女と牽牛は、私のお願い事を聞き入れてくれたようだ。
だって、私が短冊に書いたお願い事は。




それから何年か過ぎた頃に、私はこの日の決断を思い出すことがある。
私が短冊に書いて七夕に願ったことは、心も体ももっと強くなれますように、ということだったのである。
体の方はまだまだ頼りないままだったけど、少なくとも心の方は、自分では少し強くなったのではと思った。
平和な日常に背を向けて、戦う日々を選んだのだから。だけど、この時の私は先のことを考えていなかった。
まだ子供だったし、物事を深く知らなかったから、つい気持ちに流された判断を下してしまったのだ。
だが、後悔はしていない。後にも先にも、悲しくなるぐらい会いたくなったのは、あの二人だけだからだ。
思えば、この頃から私の心境は変化していた。自分でも気付かないぐらいの、小さなものでしかないけど。

それでも、変化は変化だった。





 


06 7/7