手の中の戦争




第九話 リターン・マッチ



私は、覚悟を決めなくてはならない。


特殊演習、或いは任務を行う時には、女であることだけでなく、敵に対しての感情も捨てなければならない。
甘い考えは、即座に死をもたらす。引き金を引くことに躊躇いを感じてしまっては、こちらが撃たれてしまう。
殴られても痛みを感じずに、撃たれても流れる血を厭わずに、立ち上がっていかなくてはならないのだ。
だけど。今の私には、まだそこまでの覚悟は出来ていない。やはり痛いものは痛く、苦しいものは苦しいのだ。
所詮は、子供ということだ。




ヒトゴロシ。そんな言葉で、私の二学期は始まった。
三年A組の教室に入ると、ざわついていた空気が一変した。全員の目線が私に向き、様子を窺ってくる。
その理由が何か、私は既に知っていた。お盆休みにあった夏祭りの日にで、同じクラスの沢口君が負傷した。
真相は、沢口陽介という日本名を名乗っていた中国人工作員、李太陽の暗躍を朱鷺田隊長が阻止したからだ。
けれど、外側から見たらそうではない。夏祭りの花火大会の最中に、沢口君は私と連れ立って、姿を消した。
その際に沢口君は何かしらの事件に遭遇して負傷し、救急車で搬送された、ということが表向きの事実だ。
そして、私は任務の都合でクラスメイト達の元に戻れないままでいたので、当然ながら疑われているのだ。
鈴木礼子が沢口陽介に手を掛けたのではないのか、と。こうなってしまった原因は、間違いなく私にある。
花火大会の前に私に絡んできた同じクラスの女子、植原明日香の腕を、反射的に捻り上げてしまったのだ。
それが、疑いの根拠らしい。薄っぺらで浅はかな根拠だとは思うが、何も知らなければそう思えるのだろう。
私は自分の机にやってくると、その上に真っ赤なポスターカラーマーカーで書かれた文字を見下ろし、読んだ。

「ヒトゴロシ」

またカタカナか。これを書いた主は、中学生にもなって漢字も書けないのだろうか。と、私は少し呆れた。
下駄箱の中にも、同じ文面のルーズリーフが突っ込まれていた。もう少し語彙はないのか、と思ってしまう。
私は通学カバンとジャージを入れたバッグを机の脇に掛けて、教室を見回し、犯人であろう三人を見つけた。
教室の一角に固まっている、植原明日香、笹岡京香、吉田恵美の三人は、いやらしい表情でにやついていた。

「漢字、知らないのかなぁ」

私は三人を無視して、ポスターカラーで書かれた文字を爪先で引っ掻いた。これなら、すぐに取れそうだ。

「人は二画しかないし、殺もそんなに難しい漢字じゃないのになぁ」

私は、明日香ら三人に目を向けた。

「あと、書いたならちゃんと消してくれないかな、植原さん達。公共物を破壊しないでくれる?」

明日香達は三人は、狂気じみた笑い声を上げた。明日香は、優越感を滲ませた笑みになる。

「何の証拠があるってのよ、言いがかり付けないでくれる? 沢口君殺したくせに!」

「その反応が思い切り状況証拠だし。ていうか、言いがかりを付けてきたのはそっちだと思うんだけど」

私は、机を掻き分ける勢いで近付いてきた明日香を見やった。明日香は二人と一緒になって、私を囲む。

「あと、慰謝料くれる慰謝料? あんたに捻られた腕、ずうーっと痛いんだけど!?」

「それは嘘でしょ。関節を痛めるようにやってないから、二三日もすれば痛みなんて消えているはずだよ。そんなに痛いんなら、さっさと病院にでも行ったらいいのに」

私が淡々と言い返すと、京香が私の肩を小突いた。

「気持ちの問題に決まってんでしょ、バーカ! 今すぐに払いなさいよ!」

「恐喝行為ってのは、大衆の面前でやるものじゃないと思うんだけど。目撃証言が出来ちゃうじゃない。つくづく何も考えてないんだねぇ」

私は、ちらりと教室の掛け時計を窺った。もう少し粘れば、先生が来る頃だ。

「ああ、それと。沢口君を、勝手に死んだことにはしないでね。沢口君はちゃんと生きているし、致命傷も負ってないって話だから。それに、私が殺しているとしたら、私はここになんて立っていないはずだよ。沢口君が負傷したのは八月十四日で、今日は九月五日だからそれからもう半月以上も経っている。本当に私が沢口君に手を出していたとしたら、とっくに警察の手が及んでいるはずだけど?」

「あんたが捨てたんでしょうが、凶器とか全部!」

得意げに、恵美が笑った。私は、私よりも少しだけ背の低い恵美を見下ろす。

「捨てたとしたら、どこに?」

「川に決まってるでしょ! 流れるし、底に入れば見えないじゃん!」

自信たっぷりに言い返してきた恵美に、私は馬鹿馬鹿しくなった。他に、もっと考えがないのか。

「短絡的だなぁ、もう。あの日は夏祭りで花火大会があったから、川には人間がうじゃうじゃいたでしょ。そんなところに投げ込んだら、すぐに警察に通報されて終わりじゃないの。二人は、他には何かないの?」

「粗大ゴミに混ぜたとか、地面に埋めたとか…?」

悩みながら、京香は例を挙げた。だが、明日香は思い付かなかったらしく、苛立ち紛れに叫んだ。

「だから、あんたが沢口君を包丁かなんかで殺して、そいつを川に流して、逃げてきたに決まってんでしょうが!」

明日香の金切り声のせいで、廊下を歩いてくる先生の足音が紛れていた。少しの間の後、教室の扉が開かれた。
その音に、クラスの全員がそちらに振り向いた。三人も例外ではなく、ぎょっとしたように目を見開いている。
三年A組の担任である江島先生は、三人から詰め寄られている私と三人を見ていたが、怖い顔をしていた。
この様子だと、先程までの会話を聞いていてくれたようだ。江島先生は怒りを押し込めた顔で、声を張り上げた。

「植原、笹岡、吉田! 職員室へ来い!」

教室全体を揺さぶる叫び声に、三人はびくりとした。だが、私はこれよりも凄いのを知っているので平気だった。
自衛隊の教官の方が、先生よりも余程怖い。教官は怒鳴るのが仕事だから、その迫力たるや凄まじいのだ。
三人は目線を彷徨わせていたが、もう一度怒鳴られて渋々歩き出し、江島先生に連れられて職員室に向かった。
足音が遠ざかると、教室はしんと静まり返った。江島先生の一喝の余韻が、教室の中の空気に残っている。
私はどっと疲れたような気分になり、どかっと椅子に座った。学校でまでこれとは、やりにくいことこの上ない。
また、クラス全員の目線が、私に向いていた。それは、畏怖やら感嘆やら好奇心やら色々なものがあった。
私はそれらを無視せずに、全員を見返した。彼らは私が反応するのを予想していなかったらしく、戸惑っている。

「私のことをどう思おうが、どう接しようが、それは全部そっちの勝手だけど」

私は銃を撃つ時のように腹に力を入れて、声を張り上げた。

「私は、沢口君に手を掛けてはいない。それだけは、間違いない事実だから」

私は、机に書かれた下手な字を消すために水を持ってこようと思い、机から離れた。周囲は、静まり返っている。
皆が皆、私が三人に取った態度に飲まれているようだった。無理もない、あの三人はいつも調子付いていたのだ。
自分達が世界の支配者であるかのように自惚れて、派手な化粧を自慢して、大人しいクラスメイト達をなじる。
彼女達は、小学校の頃からそうだった。三人とも親がそれなりの地位にいるために、大事に育てられすぎたのだ。
過剰に可愛がられて金をふんだんに与えられて、暇を持て余す日々を繰り返す。だから、刺激を求めている。
クラスメイトをいじめたりすることだって、彼女達にとっては、飲酒と同じような娯楽の一つに過ぎないのだ。
彼女達の態度があまりにも大きいのと、陰湿な報復が待ち受けているために、誰も反撃らしい反撃をしなかった。
私は、頭の足りない言葉と理論を振り翳して威圧だけしかしない三人に対して、ただ言い返してやっただけだ。
それだけのことなのに、なぜここまで戸惑われるのだろう。自衛隊の中に長くいると、感覚が麻痺するようだ。
客観的に見れば、ろくに会話もしないで本ばかり読んでいる私は、根暗の代表格のような存在だったのだろう。
その私があの三人に言い返したとなれば、そりゃ確かに意外かもしれないが、だからといって何なのだろう。
私は呆然と突っ立っているクラスメイト達の脇を抜け、水を取りに行くべく、教室の後ろにある扉に近付いた。

「礼ちゃん!」

その声に振り返ると、奈々が立ち上がっていた。奈々は、ぎこちなく笑った。

「私も、手伝っていい?」

「うん、いいよ」

私は彼女に向き、頷いた。奈々はクラスメイト達の視線を浴びてしまい、それに困惑しながら、近付いてきた。
扉の傍にある掃除用具入れから、バケツと雑巾を取り出した。あの手のものは、水だけで落ちるので楽だ。
二人で廊下に出ると、廊下はひっそりとしていた。他のクラスは授業を始めているので、当然のことだろう。
廊下の窓側に並んでいる水道の蛇口を捻り、バケツに水を満たした。その間、うるさい水音が廊下に響いた。
私の背後で、奈々は俯いていた。バケツに半分ほど水が溜まったので、私は蛇口を捻って、水を止めた。

「礼ちゃん」

私が振り向くと、奈々は毅然とした眼差しで私を見据えていた。

「何か、あったの?」

「ん、別に」

私は乾いてばりばりになっていた雑巾をバケツの水に浸し、絞った。奈々は、私の傍に回り込む。

「嘘だよ! だって礼ちゃん、今まであんなこと言ったりしなかったじゃない!」

「そうだっけか」

私がはぐらかそうとすると、奈々は語気を強める。

「そうだよぉ! 礼ちゃん、なんかおかしいよ! 三年になってから、ずっとそうだよ!」

奈々の言葉に、私は雑巾を絞る手を止めた。

「前は勉強出来てたのに、三年になったらガンガン成績落としちゃうし、ちょくちょく休むし、土日なんて連絡付かないことがあるし! 沢口君がケガしたって聞いても顔色一つ変えないし、なんか、なんか、なんか」

奈々は泣きそうな顔をして、声を震わせた。



「カバンの中、変なもの、あったし」



「何を、見たの?」

私は、奈々に目を向けた。奈々は一瞬びくりとして、肩を縮める。

「夏休み入る前に、礼ちゃんから、本、借りたじゃない? それ、返そうと思って、カバン、開けたんだけど」

「見ちゃったの?」

私はなるべく普通の口調を保とうと思ったが、声は重くなってしまった。奈々は、目を伏せる。

「う、うん。なんか、黒いのが、あった。小さいけど、その、あれは」

奈々の震える唇が、ぎゅっときつく結ばれた。拳銃、と言おうとしたのだろうけど、言えなくなったらしかった。
そうか。奈々は、見てしまったのか。私が護身用に持たされている、マーカー弾を装填してあるグロック26を。
完全に、隠し通せるわけがないんだ。大体、身に付けないで通学カバンの中に入れておいたのが悪いんだ。
だけど、学校にいる時は制服だからホルスターを装着するわけにもいかない。だから、通学カバンに入れていた。
それを、奈々が見つけてしまった。きっと、奈々も私の行動に対して、良からぬものを感じていたのだろう。
だから、通学カバンを開けてしまった。いつもなら直接手渡してくれるのに、今日に限ってそうなのは変だ。
感付かれたとしたら、やはりあの時か。私が交通事故という名目で入院した時に、妙なものを感じたのだろう。
奈々は、複雑な表情をしていた。グロック26を見てしまったのであれば、尚のこと、疑いを増すはずだ。
私は奈々に色々と言いたい気もしたし、何も言いたくない気もした。要は、上手く言葉がまとまってくれなかった。
グロック26のことをモデルガンだと言い張るのは簡単だけど、それを私が持っていることを裏付ける理由がない。
それに、また下手な嘘を奈々に吐きたくなかった。これ以上、嘘に嘘を重ねていくのは、さすがに苦しかった。
だけど、嘘を吐かなければこの場は凌げない。私は奈々に向き直ろうとしたが、ふと、窓の外から視線を感じた。
教室のある校舎、教育棟に面している道路に、この近辺では見掛けたことのない白のワゴン車が停車していた。
そのワゴン車の窓ガラスには、目隠し用のスクリーンが貼ってあり、車内の様子が覗けないようにされていた。
更に面倒なことに、白のワゴン車は教育棟と平行になって停車していて、ナンバーが見られないようになっている。
私は白のワゴン車に気を留めていないふりをしつつも、そちらが気になっていた。あれは、明らかに怪しい。
李太陽の所属している中国系武装組織・王龍か、或いはシュヴァルツ工業が派遣した別のエージェントか。
どちらにせよ、朱鷺田隊長の懸念は当たっていた。下見をしているということは、ここで何かを起こすつもりだ。
そして、その下見をしている様子をわざわざ私に見せると言うことは、特殊機動部隊への牽制か、もしくは。

「テロの準備かなぁ」

「え?」

奈々がぎょっとしたので、私は自分が何を言ったのか自覚した。ほとんど無意識に、口に出してしまった。

「あ、いや、うん」

私が言葉を濁していると、奈々は目を伏せた。

「礼ちゃん、本当に何があったの? 礼ちゃんが、礼ちゃんじゃなくなってる気がする」

奈々の言葉にどう返すべきか迷っていると、白のワゴン車は発進した。排気音だけを残して、道路に走り去った。
その姿が見えなくなって、私はほっと肩を落とした。気を張り詰めていたらしく、全身に緊張が漲っている。
奈々は、制服のスカートが歪んでしまうぐらい握り締めている。彼女は、色々と想像してしまっているのだろう。

「…ごめん」

本当に、ごめん。私は奈々に対する申し訳なさと、嘘を吐き続ける胸苦しさで、押し潰されてしまいそうだった。
奈々は、私の大事な友達だ。小学生の頃からずっと仲良くしてくれていて、これからも仲良くしていきたい子だ。
だから出来ることなら、嘘なんて吐きたくなかった。どんな理由があったって、嘘は嘘であることに変わりない。
嘘を嘘で塗り固めていくことは、もう嫌だった。それで、知らず知らずに奈々を傷付けていたのなら、尚更だ。
今になって、二度と関わるな、と言って私をはね除けようとした北斗と南斗の苦しさが、身に染みて解った。
相手を思い遣るが故に自分を偽ることほど、苦しいものはない。私は、手のひらに爪が食い込むほど握った。

「いつか必ず、全部話すから。それまでは、何も聞かないで」

自衛隊のことも、特殊機動部隊のことも、北斗と南斗のことも、私が戦っていることも、そして、沢口君の正体も。

「今じゃ、ダメ?」

懇願するように、奈々は私を覗き込んできた。私は、手に更に力を込める。

「今、話すと色々と面倒なことになるから。なっちんが想像していることよりも、ずっと、事は大きいの」

「やっぱり、何かあったんだね」

奈々は、安堵したように表情を和らげた。

「でも、良かった。礼ちゃんが、ほんのちょっとだけど本当のことを言ってくれたから」

「ずっと先になるかもしれないけど、ちゃんと全部話すから」

私は奈々に向き直り、言った。奈々は、うん、と頷いた。

「約束だよ」

「うん。約束する」

私が頷くと、奈々はようやく笑った。

「それでよろしい!」

奈々は水盤からバケツを持ち上げると、よっ、と両手に提げた。教室に戻る前に、私に振り向いた。

「それと。さっきの礼ちゃん、なんだかカッコ良かったよ? 私もさ、植原さん達には言い返したかったんだ!」

「あの分だと、停学でも喰らっているんじゃないのかな。夏休みの間にも色々とやらかしているだろうから」

私は雑巾を持って、奈々に続いた。奈々は教室の扉を開けようとしたが、その手を止めて、囁いた。

「あの黒いののことは、秘密にするね。私も、それは約束する」

「うん」

私は奈々の心遣いがありがたくて、嬉しくなった。奈々が扉を開けて先に教室に入り、私もそれに続いた。
教室の中の雰囲気は、相変わらず私には辛辣だった。あんなに派手なことをしてしまっては、当然だろう。
沢口君のことに関する疑惑が完全に晴れたわけではないし、植原明日香のシンパはあの二人だけではない。
だけど、別に気にはならない。奈々は私を信頼してくれているし、私も奈々を心から信頼するつもりだ。
それに、クラスの中で孤立しても、大したことではない。戦場に一人で放り出されてしまうよりは、余程楽だ。
私はそう思い、気持ちを切り替えた。





 


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