南の空を司る、星の名を持つ男が一人。 隣に座る弟の膝で、彼女が眠りこけている。 連日の激しい訓練の疲労が溜まっていたのと、直前まで行っていた作戦の緊張が解けたらしく、簡単に寝入った。 重たいパワードアーマーから戦闘服に着替えていて、呼吸するたびに、起伏の少ない胸が上下している。 車体が揺れるたびにその小さな体も揺れるが、決して落ちない。華奢な肩に、弟の手が添えられているからだ。 南斗はだらしなく足を組みながら、ちらりと弟を見やった。北斗の横顔は柔らかく、腹立たしいほど幸せそうだ。 礼子の手は、北斗の軍用ズボンを握り締めている。その仕草はいやに幼く、子供っぽいが可愛らしくもあった。 あまり感じたくない感情が回路に生じたのを感じ、南斗は僅かに口元を曲げながら、ずるりと腰を落とした。 「どうしたのだ」 北斗が南斗に向いたが、南斗は両手を軍用ズボンのポケットに突っ込んだ。 「べぇっつにぃー」 南斗は、意味もなく車内の天井を見上げながら、コアブロックの中心に位置している感情回路に意識を向けた。 感じないようにしていた疼きが、電子信号となって思考回路を軋ませる。あまり、気持ちの良い感覚ではない。 北斗は兄への興味が失せたのか、再び礼子を見下ろしている。車体が大きく揺れても、礼子は起きそうにない。 単調なエンジン音とタイヤの唸りが響き、うるさかった。だが、誰も喋らないので、妙な静寂が広がっていた。 おかしい。メモリーとエモーショナルの一部を遮断して、弟に感じた負の感情は追いやっていたはずなのに。 自分なりのプロテクトを掛けてロックを施し、意識を向けないようにして、思い出さないようにしていたのに。 礼子が北斗を好いて思いを告げ、世間一般で言うところの恋仲になった時、南斗はそれがとにかく不愉快だった。 南斗自身も礼子のことを憎からず思っていたからということもあるが、相手が弟だったことが最大の原因だった。 どこがどう違うんだ、なんでそっちなんだ、などと思ってしまって、苛立ちを表に出してしまったこともある。 だが、それは、なんとか押さえ込めるようになった。年月と共に理性が強くなり、自制心が発達してきたからだ。 だから、もう大丈夫だと思っていた。なのになぜ、また弟が妬ましくなる。南斗は、軽い自己嫌悪に陥った。 礼子。礼ちゃん。鈴木礼子。彼女の存在は、北斗のみならず、南斗にとっても特別であり大切なものだった。 生まれた頃から接してきたのは、高宮重工と自衛隊、政府の人間ばかりだった。初めて会った、民間人だった。 礼子が十四歳の頃に行った、三日間の特殊演習。あの時は、南斗は、作戦の都合上、礼子の敵側に回っていた。 特殊演習の設定は、北斗がテロリストで礼子が人質で、南斗が自衛隊側なので、厳密に言えばそうではない。 だが、礼子にとっての敵だった。だから、銃を向けられ、コンバットナイフを投げられ、手榴弾を喰らった。 その時のことは、一生忘れられない。保護するべき相手から敵意を向けられたことなんて、なかったからだ。 北斗もそうだが南斗の中にも、人質であった人間は第一に保護するべきだ、とのプログラムが施されている。 だから、礼子が攻撃してくるなんて思ってもみなかったし、予想の範疇を越えていた。だから、動けなかった。 応戦しようかどうしようかと迷っている間に、手榴弾が炸裂して死亡判定を受け、機能停止してしまった。 その結果、戦闘は負けたが、作戦は成功した。気位の高さ故に人間を疎んでいた北斗が、人間を好いたからだ。 割と奔放に生きていた南斗とは違い、北斗は当初から軍事教育を施されていて、正しく戦闘兵器だった。 感情を持ち合わせたロボットであるにもかかわらず、感情を殺して訓練を行い、いつしか人を見下した。 そして、人間を凌駕した性能を持つ己の力を過大評価するようになり、どんどん悪い方向へ進んでいた。 そんな状況の中、冷徹に戦果を上げる北斗は、自衛隊の上層から気に入られ、軍事教育は更に度を増した。 北斗の行く末を、二人の親とも言える、人型自律実戦兵器の設計者であり開発者の高宮鈴音は危惧していた。 このままでは、北斗は戦闘を最優先するようになってしまい、実戦で人命を尊重しなくなるかもしれない。 南斗も、そのことは気掛かりだった。その問題を解決するために、高宮重工と自衛隊は、議論を行った。 結果、民間人を関わらせて北斗に情緒をもたらそう、ということになり、無作為に選ばれたのが礼子だった。 抽選方法は至って簡単で、大量に集められた自衛隊へのアンケート用紙をかき混ぜて、箱に突っ込んだ。 その中に北斗が手を入れて抜き出したのが、礼子の母親が書いた、礼子の名が書かれたものだったのである。 最初の頃、北斗は特殊演習を嫌がっていた。民間人など自分達には関係のない存在だ、とも言っていた。 だが、いざ特殊演習を始めると、北斗は礼子に振り回されていた。そして最後には、彼女に心を開いていた。 南斗も、それは嬉しかった。しかし今度は、やたらと礼子に執着するようになって、子供に戻ってしまった。 礼子にとっては厄介かもしれないが、悪いことではない。弟に人間味が現れてきたのは、とてもいいことだ。 人型自律実戦兵器の人工知能は、生きている。電子信号とプログラム言語で成されているが、自己進化する。 だから、成長するのは素晴らしいことだと、鈴音は常々言ってくる。南斗も、成長はいいことだと思っている。 今まで解らなかった感情が解るようになり、出来なかったことも出来るようになるのは、なかなか気分も良い。 しかし、成長しなくていい部分まで成長してしまうのは困りものだ。北斗に、嫉妬などしたくないというのに。 北斗。人型自律実戦兵器五式七号機。南斗が目覚めて十五秒後に目を覚ました、同型の人工知能を持つ弟。 軍事教育の名残で、無条件に偉そうで考え方が硬く言い回しが古風だが、根の部分はしっかりした兵士だ。 掛け替えのない、弟だ。可愛げなど少ないが、南斗を兄とは思っていないようだが、それでも弟は弟だ。 南斗なりに可愛がって、大事にしてきたつもりだ。何かあったら盾となって、守ってやる覚悟も出来ている。 実際、グラント・Gとの初戦では、守ってやった。礼子がいたからと言うのもあるが、体が勝手に動いた。 照れくさいので、普段は表には出さないが、北斗のことは好きだ。兄としても、同僚としても、友人としても。 だから、嫉妬などしたくなかった。礼子が北斗を選ぶと思っていたし、自分から身を引くことを決めていた。 礼子も北斗も好きだから、二人が思い合う様を見るのは気分が良い。はずだったのに、無性に苛立ってしまう。 「やーってらんねぇ」 南斗は頭の後ろで手を組み、ごく小さく呟いた。音声回路から発せられた言葉は、いつもより弱々しかった。 なんて、情けないのだろう。好きなら好きでいいのに、嫉妬なんてしなくていいのに、勝手に感じてしまう。 感じないために、ふて寝することにした。エネルギーレベルを低下させて稼働効率を落とし、意識を弱める。 数秒後、フェードアウトした。 充電率、百パーセント。稼働効率、上昇。システム、オールグリーン。 音声が頭の中に響き、意識が引き戻された。南斗は視界に広がった天井と、繋がったケーブルに気付いた。 コンクリートだけの無機質な天井からは蛍光灯が吊り下げられ、青白い光を放ちながら、僅かに唸っている。 戦闘服の前が開けられて腹部装甲に太いケーブルが差してあり、内蔵の超高電圧バッテリーに接続してある。 天井との距離感と背後に感じる弱い日光から考えるに、窓際の壁に寄り掛かって、座っているのだろう。 誰がこんなことを、と考えるまでもなかった。体を起こすと、傍らに北斗がおり、胡座を掻いて座っていた。 「輸送車が駐屯地に着いても起きなかったから、何かと思えば、お前は節電モードになっておったのだ。そのままの状態でいられると邪魔である上に電圧低下で動作不良を起こしかねんと思い、ここまで運んできてやったついでに充電までしてやったのだ。自分に大いに感謝するが良いぞ、南斗」 「…えっち」 戦闘服の前を掻き合わせ、南斗は身を捩った。北斗は、物凄く嫌そうな顔をする。 「お前のデフォルトボディになど誰も欲情せんわい」 「お兄ちゃん、もうお嫁に行けないっ! 責任取ってよっ!」 高い声を作り、南斗は頬を押さえる。北斗は、嫌悪感を剥き出しにした。 「気色悪いだけなのだ。先程の戦闘で、コアブロックが破損したのか?」 「リアクション薄ぅー。ていうかマジつまんねー」 北斗の反応が弱いので、南斗は不満に思いながらケーブルを引き抜き、戦闘服を着直した。 「礼ちゃんはどうした?」 「まだ眠っている。礼子君が起きてくるまで、あと六時間程度はあるだろう」 礼子君はよく眠るからな、と北斗は天井を示した。特殊機動部隊専用営舎の三階には、礼子の部屋がある。 南斗は戦闘服の前を閉めていたが、襟元は閉めなかった。なんとなく、息苦しいような気分がするからだ。 ふと見ると、北斗はじっと南斗を見据えていた。南斗は変にやりづらい気持ちになってしまい、後退した。 「なんだよう」 「いや、別に」 暇なのだ、と北斗は付け加えた。南斗は北斗と同じように胡座を掻くと、背を丸めて頬杖を付く。 「カンダタも隊長も、G子もいねーしなー」 「うむ。グラント・Gは、オーバーホールと新装備を搭載するための改造を人型兵器研究所で行っておるから、昨日の作戦には参加しておらんかったからな。グラント・Gがおらんと静かで良いが、いなければいないで寂しいものだ」 「カンダタは家に帰っちまったし、隊長も官舎に戻っちまったしぃ。あーでも、オレらも書くものは書いておかねーと。使用弾数とか殺傷人数とか。あーかったりぃー」 「それぐらいはやらねばならんのだ。まぁ、自分も面倒だとは思うがな」 重要な情報ほど書面に残しておかねばならぬからな、と呟く北斗の声色は、南斗のものと全く同じ声質だった。 違うのは、イントネーションと言い回しだ。南斗が少々高めに声を出すのに対し、北斗は低めに出している。 おまけに口調が懸け離れているものだから、別人のようだが、そうではない。音声発生装置が、同型だからだ。 思考を日本語へ変換して音声変換するソフトも、人間に近い声色の電子音声も、内蔵スピーカーも全て一緒だ。 他にも、様々な部分が同じだ。フェイスパターンも、今のところはバリエーションがないので、やはり同型だ。 違っている部分は、片手で足りるほどしかない。だが、現在の最大の違いは、礼子との距離が近いか遠いかだ。 また、その方向に思考が引き戻されてしまった。南斗はそんなことばかりを考える自分が、嫌になってきた。 全く、どうしようもない。南斗がふて腐れていると、北斗は兄に顔を向けた。大きな背を丸め、訝しげにする。 「先程から、何をそんなに怒っておるのだ、南斗」 「べぇっつにい」 一際高く言い返し、南斗は北斗に背を向けた。北斗は身を乗り出し、兄を覗き込む。 「故障箇所があるなら、早々に報告しておいた方が良いぞ」 「別に、どこもおかしくなっちゃいねーよ。下らねぇ心配なんかすんじゃねーよ」 南斗は、苛立ち紛れに立ち上がった。北斗も立ち上がり、兄の背を仰ぐ。 「だから、何がどうしたのだ。お前らしくもない」 「うーるっせぇなー、もう!」 南斗は声を荒らげ、弟に振り向いた。収まらない苛立ちに任せて手を伸ばし、弟の胸倉を掴む。 「なんでもねぇっつたらなんでもねぇんだよ、いちいち気にするんじゃねぇよ、マジうぜぇんだよ!」 「…南斗」 今まで、聞いたこともない荒い言葉だった。北斗は唖然としながら、いきり立っている兄を、ただ見つめていた。 北斗の知る南斗は、態度こそ軽いがそれほど汚い言葉は使わない。鈴音から、言い聞かされているからだ。 それに、南斗自身の性格もそうだ。あまり表には見せたがらないが、基本的には、生真面目な性分の男だ。 礼節もちゃんと弁えているし、人間を遥かに超えた己の能力を熟知しており、無用な荒事は避ける傾向にある。 同型の戦闘兵器である北斗だけは例外だが、それでも、接し方は普通だ。兄と弟と言うより、友人関係に近い。 どんなにケンカをしてもじゃれあいのようなものなので、敵意を漲らせた刺々しい態度を取られたことはない。 だから、北斗は戦いていた。南斗の手は北斗の重たい体を物ともせずに持ち上げていて、かかとが浮いていた。 「一体、何が」 動揺に震える北斗の声で、南斗は力一杯握り締めた戦闘服の感触と、手首に掛かる弟の重量に気付いた。 「…あ」 南斗が慌てて手を放すと、北斗はよろけながらも姿勢を戻した。 「やはり、一通りチェックしてもらった方が良いのではなかろうか。明らかに、普通ではないぞ」 「悪ぃ…」 南斗は強烈な自己嫌悪に襲われ、手で顔を覆った。なんてことをしてしまったんだ、なぜあんなことをしたんだ。 感情ばかりが先走る。エモーショナルリミッターが効かない。このままでは、何かをやらかしてしまいそうだ。 気を逸らそうとするが、感情回路は思考回路と直結しているため、感情が収まらないと思考も落ち着きはしない。 情けなくて、自分が馬鹿馬鹿しくて、呆れ返ってしまいそうだ。ただの嫉妬で、ここまですることはないだろう。 だが、やってしまった。自分が思っている以上に、北斗に対する嫉妬が強かったことが、身に染みて実感出来た。 殴ることはしなかったが、それでも充分だ。威圧感を与えて敵意を示す、など、兄弟にやるようなことではない。 「ホント、マジ、悪ぃ…」 これ以上、北斗の傍にいたら、次こそは殴ってしまうかもしれない。南斗は足を引き摺って、事務室から出た。 北斗が声を掛けてきたような気がするが、聞こえなかったことにした。なんて、情けなくてダメな兄なのだ。 特殊機動部隊専用営舎から外へ出ると、冷たい夜風が吹き付けてきた。広大な駐屯地を、抜けてきた風だ。 今までにも、弟に嫉妬したことはある。それはどれも些細なことで、いつのまにか消えてしまうほどだった。 こんなに根が深いのは、初めてだ。切り捨てても、追いやっても、データにあるまじき勢いで再生してくる。 プログラム言語で組み上げられただけの疑似人格のはずなのに、自分でも呆れるほど、人間臭くなっていた。 成長、と言えば聞こえはいいが、こんな形での成長はごめんだ。嫉妬は、怒りよりも発散しずらい感情だ。 怒りは外へ吐き出すことが出来るが、嫉妬はいつまでたっても内側で燻っていて、外へ出すのも難しい。 しかも、特定の相手にしか出せないのだから、余計に扱いづらい。なぜ、人間はこんな感情を覚えるのだ。 嫉妬は、主に羨望や悔恨で成されている。どちらも根源は一緒だが、方向性は違う、これまた面倒なものだ。 同一の方向に向かえばいいのに、そう出来ないものだから、妙な具合に捻れて絡み合って嫉妬に変貌する。 どうにかして処理したかったが、具体的な方法が出てこない。南斗は、軍用ズボンのポケットに手を入れた。 ひっそりと静まり返った駐屯地の周囲では、眩しい照明が焚かれている。その一帯は、昼間のように明るい。 夜空を仰ぐと、色味が薄らいだ藍色が広がっていた。都市部の昼間のような明かりのせいで、闇が弱っている。 そんな中でも、北側の空に浮かぶ星座ははっきり見えた。どの星も強く光っているので、すぐに見つけられる。 「北斗七星かぁ」 柄杓の形をした、七つの星が瞬いていた。弟の名の由来でもあるその星は、どこにいようが、良く見える。 それに比べて、自分はどうだ。南十字星、もとい、南斗六星は南半球まで行かないと見えない、厄介な星だ。 ますます、卑屈な気分になる。星の見える位置はどうにもならないと思うが、それでもなんだか苛々した。 「どーせオレは、地球の裏側だよ!」 虚空に喚き、南斗は駆け出した。 「試験用ロボットだったよ!」 関係のないことも、喚く。 「テスト機だよ! お蔵入り予定だったよ! 軍事利用されるはずなんて、なかったんだよ!」 北斗だけが軍事教育を受けた理由は、そこにある。六号機、すなわち南斗は、試験機に過ぎない機体だった。 高宮重工が人型自律実戦兵器の開発を始めた頃、高宮重工と自衛隊の両者は、失敗作が出来ることを恐れた。 そこで、様々な問題点を試験したり、実際に動かした時の不具合を調べるために、テスト機が最初に造られた。 人工知能も、意識こそなかったがテスト機として扱われ、その頃は六号機という番号すら付けられていなかった。 そして、あらゆる面が改良された上で造られたのが、七号機、北斗だ。つまり、弟は完全なる自分とも言える。 当初は、自衛隊は北斗だけを実戦投入する予定だったが、それでは心許ないと言うことで、南斗も加えられた。 あくまでも、完全な機体である北斗のサポートとして扱われた。同型で同部隊にいても、少し、立場は違う。 だが、次第に南斗の性能も認められて、人工知能の特性に合わせて、ボディのカスタマイズも行われた。 自衛隊も南斗を北斗のサポートではなく、自衛官の一員として扱うようになったし、もうテスト機ではない。 しかし、そのことを思い出してしまった。それが根底にあったから、弟への嫉妬が、膨らんでいたのだろう。 尚のこと、情けなくなった。忘れるべき事項なのに、思い出す必要なんてないのに、過去に過ぎないのに。 ぐちゃぐちゃに乱れた感情から目を逸らすために、走り続けた。 06 9/26 |