手の中の戦争




エンドレス・デイズ



そして、夕方近くに、神田は帰宅した。
もっと早く帰るつもりだったのだが、途中で、翼の誕生日プレゼントを買い忘れていたことを思い出した。
何を買おうかと色々と考えていたはずなのだが、いざ決めようとすると迷ってしまい、時間が掛かった。
欲しがっているものはすばるから聞いていたが、その中のどれにすれば翼が一番喜ぶのか、必死に考え抜いた。
普段、あまり家にいない分、喜ばせてあげたい。考えに考えた結果、女の子らしいクマのぬいぐるみになった。
戦隊物や仮面ライダーが好きで、どちらかと言えば男の子っぽい性格の翼が、珍しくぬいぐるみを欲しがった。
デパートのおもちゃ売り場で散々ごねていた、とすばるが言っていた。だから、それにしようと決めたのだ。
そして、神田は黒のジープラングラーの助手席に、クマのぬいぐるみを座らせて自宅へ向けて車を飛ばした。
神田とその家族の自宅は、駐屯地からあまり遠くない場所にある。車を使えば、十五分もしないで到着する。
新興住宅地の一角にある二階建ての住宅で、屋根は赤みがかった茶で壁は薄いベージュ、広くないが庭もある。
玄関脇にある車庫は二台駐車出来るスペースがあるが、今はすばるのニュービートルだけが駐められている。
その隣に、ニュービートルよりも大きく重量感のある車体、黒のジープラングラーが滑り込み、停車した。
エンジン音が止まると、排気音も止まった。運転席から降りた神田は、体を伸ばしてから、車庫の外へ出た。
シャッターを下ろしてから、玄関に行こうとすると、家の中から小さな足音が聞こえ、玄関の扉が開いた。

「おかえんなさいー!」

玄関から転げるように出てきた幼女が、神田に走り寄ってきた。神田は、娘を抱き上げる。

「ただいま、翼」

「あんなー、つーな、おかあちゃんといっしょにおそとみたってたん。そしたらな、おとうちゃんのくるまがきたってん。せやからな、おむかえにきたんや!」

翼は神田の胸元にしがみ付き、舌っ足らずながらも懸命に喋る。神田は、娘の小さな頭を撫でる。

「お迎え、ありがとう」

「お帰り、葵はん」

翼に遅れて玄関から出てきたすばるは、今し方まで家事をしていたのか、エプロンで手を拭いていた。

「ただいま」

神田がすばるに返すと、すばるは翼を撫でながら神田に笑む。

「良かったねぇ、つー。お父ちゃんが早う帰ってきはって。ケーキ、一緒に食べられるなぁ」

「うん!」

翼は大きく頷くと、目を輝かせながら、父親を見上げる。

「あんなー、つーな、おかあちゃんといっしょにケーキつくったんよ!」

「本当か?」

神田がすばるに尋ねると、すばるは頬を緩める。

「ちゅうても、つーはクリームべたべた塗っとっただけやけどね。せやから、デコレーションも無茶苦茶や」

「つー、おてつだいしたんやよ! えらい、おとうちゃん、つー、えらい?」

褒めて欲しそうな顔で迫ってくる翼に、神田は頷いた。出来不出来はともかく、手伝ったという事実が嬉しい。

「ああ、偉いぞ」

「ほんなら、葵はんも食べてや? うちとつーの合作やし、食べへんっちゅうことはないやろ?」

得意げに笑むすばるに、神田は再度頷いた。

「まぁ、な」

「葵はんには、早う甘いもんを好きになってもらわんと、うちとしても困るんやよ。つーを喜ばすためのお菓子作りの練習しても、量が出来てまうから、一人やと全部処分出来へんのよ」

太りとうないもん、とすばるは独身時代に比べれば丸くなった頬を押さえた。翼は、丸い目で神田を見上げる。

「そやよー。おかあちゃん、いっしょうけんめいなんやから、おとうちゃんもたべへんとあかんよー」

「努力はしているんだよ、努力は」

神田は、妻と娘の視線に苦笑いした。甘いものは、嫌いなのではなく苦手だ。甘さが口に残るのが、嫌だからだ。
それが、タバコを吸うようになって顕著になり、すばるが作ってくれるお菓子も、食べたり食べなかったりだ。
だが、このままではすばるにも翼にも悪いと思っているので、なんとか食べるのだが、やはりまだ好きになれない。
翼は、神田の着ているジャケットを握り締めている。神田の手のひらに容易く収まるほど、小さく柔らかな手だ。
生まれたばかりの頃に比べれば大きくなったが、それでもまだ小さい。すばるは、神田の腕を掴んで軽く引いた。

「ほな、家に入ろか。ずっと外におってもどうしようもあらへん」

「ケーキやケーキー」

神田の腕の中で浮かれた翼に、すばるは語気を強めた。

「それはお夕飯の後や。先にケーキを食べてしもたら、つーはお夕飯を食べへんやろ?」

「おかあちゃんのいじわるー」

翼がむくれ、小さな手を振る。すばるは先に玄関に戻ると、神田と翼を中に入れてから自分も入り、扉を閉めた。

「意地悪で言うてるんとちゃうよ、つーに大きゅうなってほしいから言うとるんや」

「そうだぞ、翼」

神田は翼を降ろすと、その足から靴を抜いて廊下に立たせた。翼は、まだむっとしている。

「つー、ごはんよりもおかしのほうがすきや!」

「気持ちは解らんでもないけど、ちゃんとご飯を食べなアカンのや」

めっ、とすばるは身を屈めて翼を見下ろした。翼は、丸い頬を膨らます。

「いーやーやー!」

「ええ子にせんと、ケーキはやらんよ!」

すばるが声を張ると、翼は縋る目付きで神田を見上げてきた。

「おとおちゃあん…」

「いい子にしたら、ちゃんと食べさせてやるから。だから、ちょっとだけいい子にしてような?」

神田は廊下に膝を付いて、翼と目線を合わせた。翼は、神田に寄る。

「ホンマ?」

「ホンマやよ。せやから、ええ子にしたってや。お夕飯が出来るまで、つーはお父ちゃんに遊んでもらい」

すばるは引っ掛けていたサンダルからスリッパに履き替え、ぱたぱたと鳴らしながら、キッチンに向かった。
すっかり、母親だ。昔の頼りなさは消え、その代わりに太い芯が通った感じだ。女性は、こうも変わるのか。
それに比べて、神田はあまり変わりがない。変わったところと言えば、一人娘にでれでれになったぐらいだ。
相手は三歳になったばかりの幼い子供なので、腹が立つこともないわけではないが、それでも愛しい娘だ。
翼は、おとーちゃんとあそぶー、と言いながらジーンズのジャンパースカートの裾を翻し、リビングに走った。
神田はその後を追ってリビングに入ると、直前まで翼が遊んでいたらしい、着せ替え人形が散らばっている。
翼は着せ替え人形をおもちゃ箱に放り込んでから、おもちゃ箱の中に顔を突っ込み、目当てのものを探している。
これちゃうー、これもちゃうー、と言いながら、翼はおもちゃ箱に入ってしまいそうなほど、身を乗り出している。
翼のおもちゃの選別は、長くなりそうだ。神田は壁際のソファーに腰掛け、タバコを出そうとしたが手を止めた。
手持ち無沙汰だったが、翼がいるのだから、吸わないべきだ。神田は、リビングの角にあるテレビの、上を見た。
以前に翼が描いた家族の絵が、ご丁寧にアルミフレームの額縁に入れて飾ってあった。すばるの仕業である。
クレヨンで描かれたぐちゃぐちゃの線の上に、顔と思しき円が描いてあり、背景には空と雲と太陽がある。
一番大きく、緑色の服を着ているのが神田で、二番目に大きくエプロンを付けているのがすばるで、中心が翼だ。
目は黒いクレヨンでぐりぐりと豪快に描かれ、鼻はなく、口に至っては赤いクレヨンを大きく動かしただけだ。
滅茶苦茶なのに、雰囲気で人物の表情が解るのが不思議なものだ。すばると翼は笑っているが、神田は違う。
どことなく、怖い顔をしている。前に、その理由を翼に聞いてみたところ、実にストレートな言葉が返ってきた。
だって、おとうちゃん、たまにめぇがこわいんよ。ずっとおらんようになってたあとは、めっちゃこわいねん、と。
怖くない時はどういう時か、と尋ねてみると、おかあちゃんとつーとおるときや、と満面の笑みで答えた。
たまに家に来る髪の短いお姉さんはちょっと怖いけど優しいとか、でっかい小父さんは凄く怖い、とも言った。
そんなことは、翼に言われなければ解らなかった。長期の任務を終えた後は、自分でも摩耗していると自覚する。
だが、もう慣れてしまったとばかり思っていた。すばるも別に何も言わなかったので、気にしたこともなかった。
やはり、任務とはいえ、仕事とはいえ、他人に手を掛けることが辛くないわけがない。若い頃は、強く後悔した。
本当にこれで良いのかと、これ以外の方法もあるのではないのかと悩んだが、下される任務の内容は同じだった。
社会のためになる、と頭では解っていても、引き金を引いた感触とブローバックの重みが手から離れなかった。
戦う意義を見失いそうになる時も、戦いを拒みたくなる時もあった。だが、自分にしか出来ないと言い聞かせた。
しかし、そのうちに解ってきた。戦って、戦って、戦い続けても、報われる時が来るのはあまりないのだと。
だが、それでも、戦った。自分がこうするのだと決めたのだから、迷うことなどない、躊躇うことなどない、と。
今となっては、それで良かったのだと確信している。神田が物思いに耽っていると、翼がおもちゃを取り出した。

「これやこれー!」

翼が高々と掲げたのは、仮面ライダーの人形だった。今年放映しているもので、装飾が多く、色も派手だ。

「んで、おとうちゃん、これなー」

翼は仮面ライダーの人形を足元に放ってから、別のものを引っ張り出した。今度は、仰々しい怪人の人形だった。
ほい、と怪人の人形を神田に手渡してから、翼は遊び過ぎて塗装が剥げ気味の仮面ライダーの人形を構えた。

「さあ、かかってくるんや、かいじんべるぜー! せいぎのかめんらいだーがあいてやー!」

「今回もこれか」

神田は、手渡されたソフビ製人形を見下ろした。これもまた塗装が剥げていて、ツノや手足には傷も付いている。
大きな複眼の目と六本の手足、あまり大きくない昆虫の翼に凶悪な顔付き。怪人ベルゼブブン、という名だ。
それを、翼は全部言えないのでべるぜーと言っている。我が子ながら、センスが解らず、神田は首をかしげる。

「ラインナップには、もっとまともな怪人もいたはずなんだけどなぁ…」

「かかってこんならこっちからいくでー、おとーちゃん!」

嬉しそうにしながら、翼は仮面ライダーの人形を神田に向けてきた。仕方なく、神田は娘の遊びに付き合った。
だが、やはりセンスが理解出来ない。このハエの怪人は、良くある一話だけの怪人で、一撃で吹っ飛んでいた。
人間に擬態していた時も、怪人の時も、これといってキャラ立ちしているわけでもなく、デザインも平凡だ。
翼は、数ある怪人の中でも怪人ベルゼブブンを異様に気に入って、ベルゼブブンの出てくる話を何度も見た。
そして、すばるにねだって人形まで買ってもらい、塗装が剥げてしまうほど振り回し、毎日のように遊んでいる。
ハエの怪人のどこが翼を惹き付けたのか、考え付かなかった。神田は腑に落ちないまま、翼とごっこ遊びをした。
夕食を作り終えたすばるが二人を呼ぶまで、その遊びは続いた。




遊び疲れた翼は、気持ちよさそうに眠っている。
神田が誕生日プレゼントとして買ってきた、大きめのクマのぬいぐるみを枕元に置いて、深く寝入っていた。
規則正しい寝息が繰り返されていて、小さな胸が上下している。夕食のオムライスも、ケーキも存分に食べた。
その後、お風呂に入れて歯を磨かせて寝かし付けた。最初は眠りたがらなかったが、横にすればすぐに眠った。
小さなベッドの上で熟睡している翼を起こさないように気を付けながら、神田は子供部屋の扉を慎重に閉めた。
背後から覗き込んでいたすばると顔を見合わせてから、足音を押さえて寝室に戻り、こちらの扉もそっと閉めた。
蛍光灯を消して、ベッドサイドのスタンドだけを灯した。すばるはダブルベッドの上に座ると、肩を落とした。

「やっと今日が終わりやー」

「ご苦労様」

神田がすばるを労うと、すばるはふにゃっと表情を崩した。

「でも、ええの。つーと一緒やから、一人やないから」

すばるは体を傾けて、神田に寄り掛かった。筋肉の付いた硬く太い腕に、しがみ付く。

「あー、これやこれ。離れてたんが二日だけやっても、やっぱり寂しゅうもんは寂しいわぁ」

「オレもだ」

神田はすばるを引き寄せると、そのまま倒れ込んだ。小さく悲鳴が上がったが、強めに抱き竦めて押さえてしまう。
すばるは抵抗することなく、神田に身を寄せてきた。厚い胸板に頬を擦り寄せて、心地良さそうに目を閉じる。
肩を押さえる手を緩める代わりに、細さを保っている腰に手を回した。気恥ずかしげに、妻は顔を伏せる。

「今更、なんで照れるんだ」

神田が笑うと、すばるはますます顔を伏せてしまう。

「だってぇ…。恥ずかしいもんは、恥ずかしいんや」

すばるは腕の中から、上目に夫を見る。

「うち、こんなに幸せでええんやろか」

「何度も言っただろ。いいんだ、それで」

神田はすばるの前髪を掻き分けると、広めの額に唇を触れさせた。すばるは、小さく頷いた。

「…そやね」

すばるの長い黒髪に指を差し込み、滑らせていく。リンスの匂いがほのかに立ち上り、神田の鼻先を掠めた。
彼女と出会った頃は、こうなるとは思っていなかった。シュヴァルツ工業の裏切り者、としか思わなかった。
すばるの不幸な身の上に同情した鈴音の気持ちも解らないでもなかったが、対応が甘すぎる、と感じていた。
シュヴァルツ工業の情報を出せるだけ出させて、その後にシュヴァルツ工業に引き渡すべきだと考えていた。
単なる産業スパイだとしか思っていなかったから、なのだが、その過去を知ればそうは思わなかっただろう。
だが、知らなかったにしても、冷酷な考えだ。それを誰にも意見せずにいて良かった、と神田はほっとした。
同じ部隊の隊員として接している間に、すばるの人間性が理解出来てきて、信頼の置ける仲間となった。
的確なオペレートによって助かったことは、一度や二度ではない。彼女も、充分頼りになる戦士の一人だ。
だが、すばるが前線に復帰することはない。結婚してしばらくした時に、もう戦いたくない、と漏らした。
特殊機動部隊の隊員達と共にいることは楽しいし、仕事もやりがいはあるが、戦うことは苦しいだけだ、と。
本当はそんなに強くない、それ以外に生きる方法がなかったから戦ってきただけなんだ、と心中を吐き出した。
神田にも、すばるの気持ちは十分理解出来た。すばるがそうしたいのなら、と彼女の切ない願いを聞き入れた。
すばるの手が伸ばされ、神田の首に回された。体をずり上げて神田と目線を合わせ、照れくさそうに笑う。
神田は顔を前に出し、すばるの柔らかな唇を塞いだ。すばるの方から深められ、ひとしきり愛し合った。
唇を放し、すばるは照れで僅かに上気した頬に手を添えた。互いの唾で濡れた唇を、舌先で軽く舐めた。

「二人目、どないする?」

「どうしようか?」

神田はすばるの細い鎖骨に、指先を這わせた。すばるは、むず痒い感覚に身を捩る。

「そこ、ダメやっていつも言うとるがなぁ」

神田の肩に顔を埋め、すばるは上擦り気味の声で呟いた。

「まぁ…うちも、もう一人ぐらいはええかなぁって思うとるよ。葵はんもええなら、しても、ええよ?」

「でも、昨日はほとんど寝てないからなぁ。最後まで至れるかどうか」

「そないなこと言うて、きっちり最後までやっとるんはどこの誰やねん」

体力有り余っとるんやもん、とすばるは拗ねたような口調になる。神田は、彼女の髪に頬を当てる。

「嫌じゃないくせに」

「だってぇ…」

その言葉を最後に、すばるは黙ってしまった。神田が顔を上げさせると、照れているのか、眉根をしかめている。
それすらも可愛らしく思え、神田は顔が緩んできた。どんなに些細なことであっても、愛しく思えて仕方ない。
恋とは、根本から違う。高校時代の恋は、ただ切ないだけだった。叶うことのない憧れだけを、募らせていた。
彼女と娘に感じるのは、間違いなく愛情だ。与えて、与えらている。これがあるから、明日もまた、戦える。
銃を持ち、立ち上がっていくために必要なのは、使命感ではない。守るべきもののための、譲れない思いだ。
強き思いがある限り、戦いは、終わらない。


そして、この、掛け替えのない日々も。







06 10/5