手の中の戦争




ある人生に花束を



 食卓は、花瓶に生けられた花々に彩られていた。
 オレンジ色のバラにピンクのスイートピー、白いカスミソウがコーディネイトされたもので、生花店の店員に 任せた結果だった。花瓶は礼子の親友である桜田奈々の結婚式の引き出物だったので、分厚いガラス製の 花瓶の底には奈々とその夫のイニシャルが刻まれていたが、花を生けられているとまるで見えなかった。
 独り暮らしにしては少々大きめのテーブルには、礼子の力作のディナーが並んでいた。タラバガニの身と ペンネとブラウンマッシュルーム白ワインの効いたホワイトソースに絡み、香ばしく焼けた粉チーズが掛かった カニグラタン。トマトベースのスープで大豆と細かく切った野菜が柔らかく煮込まれた、ミネストローネ。焼いた ベーコンにトマトを合わせ、バルサミコビネガーとオリーブオイルのドレッシングを掛けた水菜のサラダ。 デザートは前日に焼いておいたチョコレートケーキ。それらが全てテーブルに並ぶと壮観だったが、食卓に 着いている礼子の機嫌は戻りきっていなかった。カニグラタンに突き刺されるフォークは荒っぽく、向かい側に 座っている北斗はグラタン皿の底にフォークの歯が当たるたびに緊張感に苛まれた。

「やんなっちゃう」

 やっと口を開いた礼子は、最後に残ったペンネでホワイトソースを刮げ取ってから口に運んだ。

「すまない。つい…」

 北斗が五回目の謝罪をすると、礼子はペンネを飲み下した。

「違う、そうじゃない、私のこと」

 口元に付いたホワイトソースを舐め取り、礼子はフォークを置いた。

「あんなこと、言うつもりじゃなかったんだけど」

「ああ、あれか」

 欠陥品。北斗は礼子の罵倒の文句を思い出すと、礼子は湯気の昇るミネストローネを啜った。

「だから、その、ごめん」

 俯きがちに呟いた礼子に、北斗は当たり障りのない言葉を返した。礼子から罵倒されるのには慣れているし、 そう言われるからには何かしらの原因があると知っている。自分や南斗の行動記録を後で見返すと、我ながら ひどいと思う時も多かった。そういった時は、もちろんデータのフィードバックをして今後に役立ててきた。だから、 礼子の罵倒は決して無駄ではない。考えようによっては、最も辛辣ながら最も真摯なユーザーの意見なのだから。

「怒って、ない?」

 礼子はスプーンを下げ、北斗を覗き込んできた。

「誰が怒るものか」

 礼子の機嫌が悪い原因を悟った北斗が笑うと、礼子は安堵したのかスプーンを上げた。

「なら、いいけど、うん」

 要は、礼子は北斗を怒らせたのではないかと心配していたのだ。だから、北斗との距離を保って口数も 減ってしまっていた。今更何を気にする必要がある、と北斗は思ったが、好き合っているからこそ不安にも なるのだろう。礼子はミネストローネを食べ、サラダを食べ、デザートのチョコレートケーキに手を付けた。

「で、これは何のために? 御機嫌取り? 花のセレクトはそこそこ好きだけど」

 冷静さを取り戻した礼子は、チョコレートクリームの付いたスプーンで花瓶の花を指した。

「無論、それもあるのだが」

 北斗が理由を述べようとすると、礼子は北斗の言葉を遮ってケーキを頬張った。

「ああ、そう」

 なんだそれだけか、と言わんばかりに目を逸らした礼子に、北斗は弁解したくなったが、礼子はそれ以上は 話を聞くつもりもなさそうだった。可愛らしい態度を見せたかと思えば些細なことで不安がり、それが終わったかと 思えば今度は拗ねてしまった。北斗は若干辟易したが、それだけ気を許されている証だと認識した。チョコレート ケーキまで食べ終えた礼子は、手間暇掛けて作った夕食の名残である皿の山をさっさと片付けてしまい、コーヒー メーカーに水を入れたポットを掛けてマグカップを取り出した。

「そっか、それだけか」

 洗い物の溜まったシンクの傍に立った礼子はしみじみと呟いてから、目元を擦った。

「それだけで、いいんだけどさぁ」

 シンクに寄り掛かった礼子は、ごぼごぼと泡立ち始めたコーヒーメーカーを横目に見た。

「ずっと、ずうっと、夢だったんだぁ」

 気取った服装からラフな麻のワンピースに着替えて化粧も落とした礼子は、スリッパを履いた足を揺らした。

「一緒に出掛けて、一緒に帰って、一緒にご飯食べたりするのが。営舎とか本部の中じゃ、本当に二人きり ってわけじゃないし。今までは外出出来てもほんの数時間で、どれだけ変装しても目立ちすぎるから、大した距離も 移動出来なかったし、行ける場所も限られていたし。だから、夢のままで終わると思っていたの」

 礼子はシンクの縁を掴む手に力を込め、つま先で床を小突いた。

「私は、この時のためだけに戦ってきたんだ」

 分解された自動小銃を短時間で組み立てる手が、何百何千回と拳銃の引き金を引いた指が、鮮やかに ナイフを操ってテロリストの喉笛を切り裂く手首が、ガンアクションの反動にも耐える腕が、頼りなく震えている。

「凄く、馬鹿なことだよね」

 北斗の絶え間ない駆動音が、礼子の浅い呼気に馴染み、重なり、広がっていく。

「世界のためだとか、誰かのためだとか、正義だとか何だとか、そんなのは最初から私の中になかったもん。 家族と友達と、でもって、あんたを守りたかっただけ。本当に、それだけ」

 礼子のつま先が止まり、スリッパの底がシンク下の戸棚を擦った。

「…そんなんで戦ってきて、ごめん」

 積み重なった皿に水道水が滴り、小さく弾けた。礼子は肩が怒るほど強くシンクの縁を握り締めていて、 顔を上げなかった。北斗は椅子を引いて立ち上がると、礼子は顔を背けた。

「軽蔑するでしょ」

「自分は…」

 北斗はその言葉を否定しようとしたが、言い淀んだ。好きな花の種類のように、北斗は礼子については まだまだ情報が不足している。それを知りたいと思うのは常であり、情報が増えていくことによって礼子に対する 理解も深まると漠然と信じている。だから、これもまた礼子の一面なのだと理解しようとしたが、理解するために 必要な情報処理を行うのを躊躇った。気高く、冷静で、確かな芯を持った女性であり戦士。それが北斗の知る 礼子の一面であり、北斗が慕う礼子の大部分でもあったからだ。弱さがあることももちろん知っていたが、その 方向性までは全て把握しきれていなかった。だから、意外に思ってしまい、上手い返事が出てこなかった。

「私さ、あんたの傍が一番居心地が良いんだ。落ち着くの」

 礼子は顔を上げ、また目元を拭った。

「ガキみたいなことを言うようだけど、あんたのこと、独り占めしたいんだ。出来ることなら、高宮からも 国からも買い取りたいって思っちゃうぐらい。そのためにお金なんて貯めちゃって、馬鹿だよね」

「それは」

「解っているよ。そんなこと、出来るわけがない。あんたは国家機密レベルの技術を使いまくって造られた 地上最強のロボットであるべきで、私は戦闘員の一人であるべきで、単なる家庭用ロボットとそのマスター にはなれない。もしもそんな関係だったら、私はあんたのことなんて好きにならなかった。でも、そうだったら 良かったな、とか、その方が楽だったな、とか、思っちゃう」

 礼子はシンクの縁を離し、北斗に向き直った。

「だから、ごめんね」

 彼女の言葉を否定するための材料は、決定的に不足していた。それは、北斗の秘めたる願望でも あったからだ。兵器として生まれたにも関わらず、戦いを放り投げて礼子のものになりたいと願ってしまう。 願えば願うほど、己の生まれと立場と比較しては滑稽に思う。けれど、何千回と思考回路から廃絶しても、 その願望は消えるどころか強さを増して蘇ってくる。彼女と同じところで逡巡しているのだ、と知り、北斗は 訳もなく嬉しくなった。が、訳もなく切なくもなった。願望とは、現実からは程遠いからこそ美しく見える。

「それは真実だ。そして、抗えぬ事実に違いない」

 北斗は目を潤ませた礼子に歩み寄り、その肩に大きな手を添えた。

「だが、現実とはそれだけではないはずだ」

 ぐいと礼子の肩を押した北斗は、彼女の顔を上げさせてダークブルーのゴーグルにその表情を映した。

「自分とて、出来ることならば任務を放棄して礼子君の傍で稼働していたいと願う。だが、それは叶えられぬ。 自分が一機抜けてしまえば、礼子君が部隊を抜けてしまえば、戦力はおろか部隊の戦闘能力は低下し、引いては 国全体の危機を招いてしまうやもしれん。自分達は盾であると同時に矛であるがために生み出された存在であり、 編成された部隊なのだ。何事にも、揺らぐわけにはいかん」

「うん、解ってる」

 憂いげに礼子は目を伏せ、頷いた。

「だから、自分は戦うのだ。自分でなければ、礼子君を守れないと自負しているからだ」

 北斗は礼子の体を押し、その背を鈍く唸る冷蔵庫に押し付けた。

「だから、礼子君も自負してくれたまえ。礼子君でなければ、自分を守れまいと。引いては隊を統べられまいと」

「…ごめん」

 礼子は北斗の体の下で謝ったが、今までとは語気が違っていた。照れと後悔、嬉しさが混じっていた。

「ちょっと考えすぎた。あんまり嬉しいことが続くもんだから、なんか、怖くなっちゃって」

「ならば、その不安を拭おうではないか」

「どこで?」

 悪戯っぽく微笑む礼子に、北斗は口角を吊り上げた。

「その決断は礼子君に委ねよう」

 銀色の唇とグロスルージュの赤味が残る唇が迫り、静かに重なった。礼子の手が北斗のライダースーツを 握ると、北斗の手も礼子の背を柔らかく掴んだ。礼子が吐露した不安と北斗が感じた懸念を互いの温度で溶かす かのように、きつく抱き合った。レザーのスーツと麻のワンピースが擦れ合い、絡む。

「じゃあ、選択の余地はないね」

 北斗の腕の中で甘く囁いた礼子に、北斗は得も言われぬ感覚が込み上がった。本人は自覚していない ようだが、礼子は少女の殻を破って女として完成している。体格は出会った頃と大して変わらないが、だからこそ、 余計に変化が目に付く。北斗は礼子の女性らしい柔らかさと戦士に相応しいしなやかさが宿った体を抱き締めると、 これまでの経験を分析し、判断し、礼子が最も喜ぶであろう愛情表現を駆使した。
 少しでも、彼女の幸福を長らえてやるために。




 充電を終えてケーブルを回収し、腹部の外装を閉じた。
 スタンバイモードから再起動を終えて各機関の稼働状況を確かめてから、北斗はベッドから起き上がり、 周囲を見渡した。部屋は薄暗く、カーテンの隙間から差し込む朝日は日の出から間もない角度だった。機械熱を 冷ますための吸気口から吸い込んだ空気はほのかに暖かく、礼子の体温だと解ると無性に照れ臭くなった。 その礼子はといえば、北斗の隣で眠っていた。独り暮らしには大きすぎるダブルベッドだ、と運び入れた時に 思ってしまったが、この時のためのものだったに違いない。ベッドの下のフローリングには、ろくに畳みもせずに 放り投げた礼子の衣服が散らばっていて、感情回路が起こす照れのレベルが一気に跳ね上がった。慎重に 様子を窺うと、まだ起きる様子はなかったので、北斗はキッチンに積み重なったままの皿を洗っておこうと 寝室から出た。隠密行動を前提として設計されているため、稼働時のモーター音と関節の摩擦音がほとんど しないのは好都合だった。
 ベッドのサイドボードで冷え切っていたコーヒーが底に残ったマグカップを運び、キッチンで洗い物を終え、 ついでに風呂掃除もしてから、北斗が寝室に戻ると礼子が起きていた。寝起きの弛緩した顔ではあったが、 不満げに唇を尖らせた礼子は北斗を睨んできた。

「どこ行ってたの」

「皿洗いと掃除であるが」

 北斗が素直に報告すると、礼子は、あ、と頬を歪めて寝乱れた髪に指を通した。

「すっかり忘れてた。まあ、うん、あの状況で思い出せって方が無理か…。シャワー浴びた後、爆睡しちゃったし…」

「して、礼子君。何か入り用であれば、自分が輸送いたすが」

 北斗がベッドまで近付くと、礼子は片方の眉を上げた。

「それはそれとして、あんたのその格好、なんとかならないの?」

「ライダースーツ以外の自分の衣服といえばこれしかないのだ。それこそ、選択の余地はあるまい」

 北斗は黒のタンクトップに着慣れすぎて最早体の一部である迷彩柄の戦闘ズボンを履き、ホルスターを 付けて武装まで整えていた。黒いレザーのライダースーツは、戦闘服のジャケットと共に畳んで置かれていた。 確かに選択肢などないのは紛れもない事実だが、もう少し色気が欲しかった、と礼子はげんなりしたが贅沢は 言えまい。

「ま、いいや」

 彼の自由時間は、まだ半日もある。礼子は気を取り直し、北斗の腕を引いた。

「今、必要なのはあんただけ。だから、他には何もいらない」

「しかし、礼子君」

 北斗が戸惑うと、礼子はにんまりしながら体を寄せてきた。

「次はいつになるか解らないじゃない。それに、充電はとっくに終わってんでしょ?」

「…うむ」

 北斗は少々迷ったが礼子が望むのならと身を乗り出し、散々重ね合った唇を寄せた、正にその時。枕元の携帯電話が 盛大に鳴り出し、礼子は北斗から身を引いて携帯電話を取った。

「あーあ、これで休暇も終わりか。世界が平和になればいいのに」

 気怠さと甘ったるい気持ちを振り払うために一息吐いてから、礼子は電話を受けた。

「はい、こちら鈴木」

「北斗だ」

 同時に通信を受け取った北斗が応答すると、二人の耳に伊原からの連絡が届いた。

『甘ったるい休日を過ごしているところを悪いが、二人共、緊急事態につき出動だ。外交官を乗せた車が 何者かに拘束され、行方不明になった。犯人の目星は付いているが、武装していることも判明した。当初は SATが出動する予定だったんだが、立てこもり事件が同時に発生してしまった。だから、K−9シリーズは そちらに回されている』

「了解。合流地点と出動までの時間は?」

 礼子は携帯電話を北斗に持たせて伊原との会話を続けながら、手近な下着を取って身に付けた。

『そちらの準備を待ちたいところだが、時間があまりないんだ。北斗を使用して直接現場まで急行してくれ。 待てても三十分、それ以上は無理だ』

「了解した。そのように行動する。隊長によろしく伝えてくれ」

 北斗が礼子に代わって応答すると、伊原は短く返した。

『迅速に頼む。繰り返すが、緊急事態だからな。交信終了』

「じゃ、急ぐとするか」

 礼子は携帯電話の通話を切ってベッドのサイドボードに置いてから、下着姿のままクローゼットを開き、 年相応の趣味の服が掛かったハンガーを脇に押しやった。その奥に隠しておいた武装一式を引っ張り出し、 アンダーを着てからホルスターを付け、拳銃とマガジンを差し込み、両足の脛にベルトを巻いてナイフを差し、 几帳面な折り目が付いた迷彩柄の戦闘服に袖を通し、ジャングルブーツを履いた。

「飛ばすのはいいけど、私を吹っ飛ばさないでよね。あんたにはシートベルトはないんだから」

 礼子はヘルメットを出して北斗に投げ、駆け出しかけたが、立ち止まって振り向いた。

「言いそびれてたけど、私さ、マリーゴールドが好きなんだよね。だから、次は鉢植えでもいいよ?」

「了解した」

 北斗が思わず笑むと、礼子は背を向けてキッチンに駆けていった。

「それだけだから!」

「現在、事件発生現場との最短距離を割り出しておる。その程度の猶与はあるとも」

 北斗は礼子のヘルメットを抱えて寝室から出ると、ドアを閉めた。コップに満たした水を呷った礼子は、 大きく息を吐いてから深呼吸し、気持ちを引き締めると声を張り上げた。

「行くよ、北斗! とっとと片付けて、二度寝してやるんだから!」

「アイサー!」

 ベランダに出た北斗は、ヘルメットを被った礼子をしっかりと抱えて空中に巨体を踊らせた。落下しながら 背部のブースターを出して方向指示翼を展開し、反重力装置を起動させ、青い炎を噴出すると、二人は 一直線に住宅街の上空を駆け抜けた。戦闘服越しに抱き締めた礼子の体の感触は素肌を重ねた時よりも 硬かったが、温もりと重みは変わらなかった。移動するに連れて寝起きの気怠さが抜けていき、強張りを持ち始めた 礼子を感じながら、北斗は最重要事項を記憶容量に刻み付けた。
 これからも、礼子に花を贈ろう。その苛烈な人生と愛情を全力で祝福し、限りある幸福を彩らんがために。 目に見えた愛情を表現すれば、礼子は不安で揺らがなくなる。同じ道を進んでいても同じ人生を歩むことは出来ない かもしれないが、だからこそ、礼子の内に何かを残してやらねばならない。
 硝煙臭さのない、恋人同士の甘い思い出を。


 そして、今日もまた、二人は戦う。
 闇を貫く一点の星となり、暴力と悪意を砕く弾丸とならんがために。

 戦士よ、ただただ気高く在れ。






10 4/24