手の中の戦争




ある人生に花束を



 礼子のマンションは、特殊機動部隊本部からはやや離れている。
 といっても、私鉄を三駅過ぎた程度なので大した距離ではない。高層マンションだが立地条件が今一つで、 駅から遠い上に道が入り組んでいる。少し前に起きたマンションバブルの売れ残りなので、入居者がまばらな 割に家賃が高いという面倒臭い物件だ。間取りは家賃に見合った広さの4LDKで、だだっ広いリビングと 対面式のキッチンに寝室と洋間が二部屋に和間が一部屋あり、洋間は礼子が今までに買った本がぎっちりと 詰め込まれている。礼子がそのマンションに引っ越す際、朱鷺田らからは趣味が悪いと突っ込まれたが、礼子は それでもいいと言い切って引っ越した。礼子によれば、大きな図書館が近いから、だそうだが、それ以外にも 理由はありそうだった。
 黒王号のアクセルを緩めた北斗は、礼子のマンションが見える高台で一時停止した。斜面沿いに大きく曲がった カーブからだと、周囲の建物が低いので特に目立つのだ。上手くすれば狙撃出来そうだが、高台からでも一キロ 程度の距離が開いている。他の建物から狙撃を行うには低すぎて、撃った後に弾丸が下がってしまうので、まず 狙えないだろう。ヘリボーンされた兵士が屋上から降下するにしても、ヘリコプターが通れば嫌でも目立ってしまう。 かといって、空を飛べるロボットなど飛ばせば一般市民の目に付く。暗殺には不向きな物件だ。礼子はそれも 考慮して選んだに違いない。その礼子の部屋は、三十五階建てマンションの最上階の角部屋で、北斗の視力ならば 容易に見つけられたが、リビングの窓はカーテンに閉ざされていた。外出しているのだろうか。

「人の部屋、覗くつもり?」

 背後からいきなり声を掛けられて北斗が驚いて振り返ると、その礼子が歩いてきた。

「なぜ」

 このルートが、と北斗が言いかけると、礼子は北斗の傍に立って自宅マンションを見上げた。

「あっちから見てるとよく解るの。伊原さんから移動ルートのメールももらってたから、待ち伏せてみたってわけ」

「なるほど」

 北斗は納得した。こちらから見えるのであれば、あちらからも見えるのが至極当然だ。移動時間が 徒歩にしては早すぎる、と思わないでもなかったが。礼子は黒王号のシートに手を掛け、さりげなく牽制していた。 バイクで勝手にどこかに行ってしまっては困る、と言いたげな顔だった。礼子の服装は季節に合わせたもので、 世間の流行も取り入れていた。シフォンのワンピースの上に薄いグリーンのジャケットを羽織り、レギンスと 黒いエナメルのパンプスを履き、薄く化粧を施していた。

「で、その…」

 礼子はちょっと言い淀んでから、北斗のライダースーツの袖を掴んだ。

「買い物、付き合って」

「それは一向に構わぬのだが、何を買うつもりなのだ」

「夕飯の材料だよ」

「乗るかね?」

「当たり前じゃん」

 北斗がシートの下から礼子のヘルメットを取り出すと、礼子はすぐさま受け取って跨った。

「ここまで歩いてくるの、結構きつかったんだから」

「礼子君ならば、フル装備で十キロを走り抜ける体力を有しているではないか」

「これ」

 礼子はパンプスを履いた足を上げ、眉根を歪めた。

「可愛いから買ってみたんだけどさ、ちょっと歩いただけで足が痛いのなんのって。だから、もう歩くの嫌」

「右足を負傷した状態で敵を三人も射殺したというのに?」

「あの時はアドレナリンが出まくってたし、あんた達が来るまで後少しだって解っていたから踏ん張れたの。 で、それとこれとは別だからね。多少の銃創はなんとか我慢出来るけど、足が痛いのは耐えられない」

 礼子はフルフェイスのヘルメットを被り、ストラップを顎の下で止めた。

「だから、本音を言えば、こんな靴なんて脱いじゃいたいけどそうもいかないし。良い値段したから」

「女性とは苦労が絶えぬのだな」

 北斗は黒王号に跨ると、スタンドを蹴った。礼子は北斗の広い背に寄り掛かり、腰に腕を回した。

「見た目が良いものに限って使い心地が最悪なんて、よくあることだよ。武器だってそうだもん」

 ほら行こ、と礼子に急かされ、北斗はハンドルを回転させた。白線の外側から車道に入り、カーブを曲がって 住宅街に通じる道路に下りた。背中にしがみついている礼子の感触は、北斗が記憶している中で最も古い礼子の 記憶と然したる代わりはない。礼子は道中で頻繁に利用する量販店の名を出したので、それに従って運転した。 住宅街を抜けて店舗の並ぶ区画に進み、目的の店の駐車場に入ってバイクの駐輪スペースで停車した。
 世間的にも休日なので、店には家族連れの姿が多かった。そして、荷物運び用であろう個人所有の人型 ロボットも多く闊歩していた。北斗が偽装しているマスクフェイスとほとんど同じ顔ではあったが、服装や頭部の 外装のデザインなどに所有者のセンスが現れていた。なので、北斗は何の苦労もなく風景に馴染んでしまった。 これが三年前なら、こうはいかなかっただろう。北斗と南斗の要素を受け継いだ量産機達の稼働振りを何の気なしに 眺めていると、北斗の右手が礼子の左手に掴まれた。

「ほら」

 礼子が北斗の手を引いて歩き出したので、北斗は引っ張られる形で足を前に進めた。

「別に自分は迷いもせんし、礼子君を見失うようなことは有り得ないのだが」

「いいじゃない、別に」

 礼子はそう言ったきり、前を向いたままになった。パンプスのヒールを不慣れなテンポで鳴らしながら 歩く礼子は、山のように積み重なったカゴから一つ取るとカートに乗せた。それを空いた右手で押していくが、 やはり北斗には振り返らない。近付こうとしても、すぐに顔を背けてしまった。照れている時はいつもこうだ、と 北斗は察したが、余計なことを言うとますます機嫌を損ねてしまうので無駄口を叩かないように努めた。 スーパーの順路である野菜売り場から入ると、礼子は名残惜しげな手付きで北斗の手を離した。売り場に 積み上げられた商品を見渡した礼子は、目的のものを見つけたらしくカートをごろごろと押していった。やはり、 その歩調は普段よりも格段に遅く、北斗の歩調では追い越すどころか引き離してしまいかねなかったので、 北斗はなるべく歩調を緩めて礼子の後に続いた。

「して、礼子君が作成する調理品とは何なのであるか」

 北斗が無難な話を切り出すと、礼子は棚からマッシュルームを取った。

「カニグラタン」

「それは礼子君の母上の得意料理ではなかったかね」

「そうだよ。だから、この前実家に帰った時に教えてもらったの。自分でも作れるようにって」

 礼子はホワイトマッシュルームとブラウンマッシュルームを両手に持って見比べ、北斗に向けた。

「どっちでも大して変わらないんだけど、敢えて聞いてみる。どっちがいいと思う?」

「食すのは礼子君だ。よって、礼子君の判断に」

「…私はあんたに聞いてんの」

 礼子はまた顔を背けかけたが、北斗を窺った。

「で、どっち?」

「色が付いている方が栄養価が高いのではなかろうか」

「じゃ、こっちね」

 礼子はブラウンマッシュルームをカゴに入れると、少し背伸びをしてホワイトマッシュルームを棚に戻した。

「次、行くよ」

 具体的な理由は解らないが、礼子はどこか満足げだった。北斗は礼子の機嫌が戻ってくれたことに 安堵したが、何も食べられない自分が付いていても何の意味もないのでは、と考えてしまった。実際、周囲の ロボット達もそんなもので、所有者である家族連れからは意見を求められずに、荷物を持って突っ立っている。 だから、意見を求められても答える必要はどこにもない、とも北斗は考え込みそうになったが、カートを押す礼子の 横顔は見るからに弾んでいたので、特に言及しないことにした。

「作るのはグラタンだけじゃないからね。他にもあるんだから」

 調味料の陳列棚を曲がったところでカートを止め、礼子は北斗に振り向いた。

「スープとサラダも作ろうと思ってるんだ」

「それを全て一人で食すのかね」

「さすがに一度に全部じゃないよ。明日の朝の分もあるし、ともすれば明後日のにもなるし。本当は 余るほど作りたくはないんだけど、一食分だけ作るのは逆に不経済だから」

「それは道理だ」

「まぁね。明日の朝に何か作るのが面倒だってのもあるんだけど」

 礼子はスープに使うための缶詰を選んでいたが、カットトマトとクリームコーンの二つを取った。

「また聞くけど、どっちがいいと思う?」

 表情は平静を保っているが、礼子の声色は明るかった。北斗はすぐに答えてしまうのは勿体ないような、 だからといってあまり間を置くと悪いような、微妙な感情の狭間で揺れた。北斗に見えやすいようにと缶詰を 少し高く掲げている礼子の仕草を見ているだけで、回路が温まっていく。北斗は礼子が触れた温もりが残留する 右手を挙げ、カットトマトの缶を指した。

「では、こちらを選択しよう」

「じゃ、ミネストローネになるね」

 礼子はクリームコーンの缶を棚に戻してから、カットトマトの缶をカゴに入れた。それじゃ次は、とパスタの 並ぶ棚を目指して進む礼子を追い掛けながら、北斗はマスクの下で口元を綻ばせた。これが礼子の在るべき姿だ。 年相応のお洒落をして、買い物をして、パンプスを履いた足が痛いと嘆く、二十四歳の女性だ。見ているだけで 感情回路がざわめき、思考回路が乱されそうになる。

「後は白ワインと、ついでにリキュールでも買おうかな」

 大して飲めないけど、と礼子は楽しげに言い、酒類の陳列棚に向かった。

「礼子君」

 北斗は礼子に追い付き、背後から覗き込んだ。

「何? ていうか、あんた、今日はいやに大人しいね。外に出てきたから?」

 礼子は白ワインのボトルを取ってラベルを眺めていたが、北斗を一瞥した。

「それもあるのだが、なんというか、その」

 北斗は言い淀んだが、回路を巡る感覚を言語として表現した。

「むず痒いのだ」

「あー、うん。私もなんかそんな感じ…」

 礼子はホワイトソースに入れる白ワインを選び、ボトルをカゴの中に横たえた。

「ていうか、あんたと私ってさ、普通に出来ることなんてなかったじゃん? 環境が環境だったし、一緒に 外に出たとしても任務絡みだしで、こういうことは一生出来ないなーって思ってたから、実際に出来るように なると嬉しいんだけど恥ずかしいっていうかで」

 一歩後退した礼子は、北斗のライダースーツに覆われた胸に後頭部を当てた。

「だから、私、変な顔してない?」

 心配そうに眉を下げた礼子に、北斗はつい笑った。

「そのようなことはない」

「だったら良かった。昨日から、もう、どうすりゃいいかよく解らなくって」

 礼子は北斗に寄り掛かり、意味もなく前髪を抓んだ。

「部屋なんかそんなに汚れてもいないのに掃除しまくったり、余計なことばっかり考えちゃったり、どんな服 着て迎えに行こうかとか、待っているだけじゃつまらないから途中で会えそうなところに行こうだとか」

「…くぅ」

 北斗は衝動を堪えるため、唸った。ここが店の中でなければ、礼子を思いきり抱き締めていただろう。

「普通ってさぁ、凄いよね」

 礼子は北斗の胸元から背を離し、照れ隠しのためにカートを押して前進した。

「大したことないほど、実は物凄く大したことがあるわけだし。買い出しとか、ああ生きてるなーって感じがする」

「ああ、自分もだ!」

 北斗は理性回路が働き切らず、礼子の前に回って拳を突き上げた。

「というわけであるからして礼子君、早急に食料品の購入を終え、礼子君と自分に与えられた三十二時間を 何事もなく過ごすために策を講じようではないか!」

「…え」

 ああまたいつもの調子に、と礼子が呆れると、北斗は礼子のカートを引っ張った。

「手始めに礼子君の部屋にブービートラップを、マンションの玄関ホールにはワイヤートラップ、エレベーターには 地雷を仕掛け、屋上には各種無線機器を妨害するための電波発射装置を、極め付けに全自動自律戦車を周囲五十キロ 圏内に配置し、その上でF-22ラプターの編隊を上空に!」

「うぁああああっ!」

 北斗の物騒な発言を打ち消すために礼子は声を上げ、両足を踏ん張ってカートを引っ張り返した。

「そ、それはいいから、別にどうでもいいから! 今は普通に買い物するの!」

「なぜ止めるのだね礼子君、自分と礼子君がベッタベタでイッチャイチャな一時を過ごせるのは今だけで あるからして、今を逃せば次はまたいつこのような時間が取れるのか予測が付かぬのであるからして、万全の 姿勢で望まねばならぬのだ!」

「それはそうかもしれないけど、考えすぎだ! ああもうせっかく普通っぽかったのにー!」

「いやいやいや、これもまた十二分に普通のシチュエーションであるからして!」

「どこが普通だ! 私が言う普通っていうのは、ええとつまり、さっきみたいな会話とかのことであって!」

「ははははははは、自分にとっての普通とは礼子君を守り抜く日々の全てであり、それこそが普通なのだ!」

 妙な自信が湧いてきた北斗は胸を張るが、礼子は肩から掛けていたバッグを振り上げた。

「いいから黙れ、この欠陥品が!」

 見事な軌道を描いた高級ブランドのショルダーバッグは強かに北斗の側頭部に命中し、超合金製の外装と 革製品が衝突して硬い音を響かせた。恥ずかしさとその他諸々で赤面した礼子は、北斗の手からカートを強引に 引っこ抜き、足早に歩き出した。少々遅いが苛立ちが現れた足取りで遠のいていく礼子に、北斗はまずいことを してしまったと自覚したが、時既に遅く、礼子の姿は他の客の間に紛れてしまった。礼子の持っている携帯電話が 発している電波を探知すれば礼子を捜し出すのは訳もないのだが、さすがに気が引けた北斗は売り場に突っ立っていた。
 買い物が終わった、との礼子からのメールが北斗の通信装置に届いたのは十数分後で、北斗はどうやって 許してもらおうかと思考しながら、他の客の視線が突き刺さったために恐ろしく居心地が悪かった売り場を後にした。 ふて腐れているであろう礼子が待つ黒王号の元に戻る道中、食料品売り場に併設した生花店に目を留めた。
 現状を打開するには、この手しかない。





 


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