非武装田園地帯




第十話 体育祭



 訳が解らない。
 正弘は鋼太郎が機嫌を損ねた理由が全く解らず、しきりに首をかしげた。彼の中で、何かあったのだろうか。
サイボーグボディに異常を来したわけでも、百合子と言い争ったわけでも、からかわれたのが原因でもない。
正弘もそれほどきついことを言った覚えはなく、逃げ出されるようなことはしていない。困ってしまいそうだ。
たまたま鋼太郎の機嫌が悪かっただけなのかもしれないが、それにしては唐突すぎて理解に苦しんでしまう。
 正弘が不可解な気持ちを抱えてグラウンドに向かおうとすると、校舎から離れた校門に車の影を見つけた。
校門の傍に、見覚えのあるセダンが停車している。正弘は反射的にそちらを見、視覚に集中して拡大させた。
僅かなラグの後、視界一杯にセダンの運転席が映し出された。そこには、またも、見覚えのある人物がいた。
 正弘が彼を見ていると、彼も正弘に気付いた。運転席の窓から中学校を見ていたが、正弘を見、片手を挙げる。
正弘が車に近付くと、相手は運転席のドアを開けて降りてきた。くたびれたスーツを着込んだ、中年の男だ。
着古されたジャケットのポケットにはタバコが無造作に突っ込まれ、表情も柔らかいが、目付きは違っていた。
一般人のそれとは明らかに雰囲気が違っていて、鋭い光を帯びていた。正弘は彼に近付き、軽く頭を下げた。

「お久し振りです、谷崎さん」

「元気してたか、正弘君」

 中年の男、谷崎一馬は正弘に朗らかに笑いかけてきた。正弘は、顔を上げる。

「ええ、まぁ、一応は。でも、どうしてここにいるんですか?」

「去年、香川からこっちに転勤になったんだ。それでだよ」

 谷崎の胸ポケットからは、黒い表紙の手帳が少しはみ出ていた。それは、警察手帳だった。

「そうですか」

 正弘は、旧知の人物と再来出来た嬉しさを感じていたが、同時にやりきれなさも胸中に重く垂れ込めてきた。
谷崎がこちらにいるということは、村田一家の事件の捜査に力を入れている人物が減ってしまったということだ。
 事件当初は二百人体制で捜査を行っていたが、一年経っても二年経っても、八年経っても成果は出なかった。
証拠も少なく、目撃証言も大したものが取れず、犯人の足取りが掴めないまま時間だけがいたずらに過ぎた。
警察も、成果の上がらない捜査にばかり人員を回せるわけもなく、日に日に捜査に当たる警察官は減っていった。
 そして、事件発生から八年が過ぎた今、村田一家の事件は迷宮入りにも等しい状態となってしまっていた。
そんな中、谷崎や数人の刑事は執念深く捜査を続けており、特に谷崎は誰よりも熱心に事件を追いかけていた。
乏しい目撃証言や遺留品をあらゆる角度から検証し、靴を履き潰して歩き回る、古典的な捜査方法をとっていた。
目に見えた成果は上がっていなかったが、正弘はその気持ちが嬉しく、また谷崎自身の人間性も好きだった。
だから、サイボーグ化されたばかりの頃は、病院や自衛隊関係者には心を閉ざしても谷崎だけには開いていた。
 彼が刑事だからと言うこともあるが、天涯孤独となってしまった正弘に気を掛けてくれた、というのもある。
谷崎の人の良い笑顔を見ていると、正弘は安堵感を覚えた。無意識の警戒心を解き、心から力を抜いていた。

「橘さんともこの前会ったんだが、その分だと、聞いていないみたいだな」

 谷崎が、やけに残念そうにする。正弘は、首を横に振る。

「はい。少しも」

「前も、そんなことがあったな」

 困ったもんだよ、と谷崎は苦笑する。正弘は、谷崎に同調する。

「本当ですよ」

「あの人も忙しい人で、ついでに言えば俺よりもだらしない人だから、忘れられたのかもしれないが」

「たぶん、そうじゃないですか。橘さんですから」

 正弘は呆れ気味に半笑いになりながら、谷崎に返した。こういったことは、あまり珍しいことではない。
静香はサイボーグ技術の開発を行っている会社の社員で、間接的にとはいえ、自衛隊に関わっている人間だ。
正弘に言えないことがあるのは、重々承知している。だが、彼女は言っておくべきことを言わないこともある。
玄関の蛍光灯が切れていることや、絨毯に灰皿をひっくり返したことなどといった、些細なことばかりだが。
 最初は正弘もいちいち言っていたのだが、次第にそれが面倒になってきて、最近ではあまり言わなくなった。
言えばその分静香が言い返してくるから、というのもあるのだが、その方が二人にとってやりやすいからだ。
正弘と静香は、所詮他人だ。同居人として干渉すべきところはするが、それぞれにプライベートの部分がある。
 たとえば、正弘の少女漫画趣味であったり、静香のだらしないことこの上ない自室での姿であったり。
それでも、連絡するべき事項は連絡するように決めてある。だが、静香にとっては谷崎は重要ではないらしい。
だから、正弘に谷崎に会ったことを言わなかったのだろう。静香の性格からすれば、仕方ないことかもしれない。

「体育祭か? 懐かしいな」

 グラウンドの様子と正弘のジャージ姿で察した谷崎は、頬を緩める。正弘は、内心で眉を下げた。

「オレは、気を抜いてますけどね、こういうときは」

「またどうして」

「だって、悪いじゃないですか。他の連中に」

 正弘が小さく肩を竦めると、谷崎は訝しげにする。

「だったら尚のこと、見せ付けてやればいいじゃないか。正弘君の実力ってやつを。君なら、簡単だろう?」

「簡単と言えば簡単ですけどね。自衛隊の標準タイプの機体に換装したのは中学に入ってからで、この体を使うのは今年でもう三年目ですから、操縦には大分慣れました」

 正弘はグラウンドに振り返ったが、声色を沈めた。

「やろうと思えば百メートルなんて八秒ぐらいで走れますけど、オレはそういうことをしたくはありません」

「そうかな。正弘君がその体を操れることは、正弘君の立派な才能だと思うけどね」

「こんなの、誰だって出来ますよ。別に、大したことじゃありません」

 正弘は、自嘲気味に笑った。谷崎はポケットからタバコを抜いて、ライターで火を灯す。

「君からすればそうかもしれないが、俺からすれば充分凄いことさ」

 別に、と繰り返した正弘に、谷崎はタバコの煙と共にため息を吐いた。彼の心は、まだ完全に氷解していない。
体を失ってからは大人ばかりに囲まれて育ったので、他人に従順な性格になり、あまり前に出ようとしない。
元々気が優しいからなのだろうが、自分の意見をあまり言おうとしない部分が、谷崎からすれば不安だった。
 サイボーグである自分と他人が深く関わらないようにするために、意思を表に出さないようにしているのだ。
肉親の全てと体を一時の間に失い、一度は感情まで失ってしまった経験が、正弘に過剰な謙虚さをもたらした。
 どうにかしてやりたい気持ちはあるが、谷崎は一介の警察官に過ぎず、正弘にはあまり深入り出来ずにいる。
谷崎は煙を味わいながら、正弘にどういう言葉を掛けてやろうか考えていると、校舎から生徒がやってきた。

「ムラマサせんぱーい!」

 高く明るい、少女の声。その声に正弘が反応したので、谷崎はその声の主を見やった。

「後輩か?」

「友達です」

 正弘が谷崎に返すと、校舎側から百合子がやってきた。肩の上で、長いお下げが跳ねている。

「そろそろグラウンドに戻りましょー!」

 百合子は谷崎に気付くと、あれ、と目を丸くする。

「先輩、知り合いの人ですか?」

「まぁ、そんなところだよ」

 正弘が百合子に言うと、百合子は谷崎に小さく頭を下げた。そして、正弘の手を取る。

「次、騎馬戦ですよ! 三年生の競技だから、ムラマサ先輩も行かないと!」

「あ、いや、けど、オレは」

 百合子に手を引かれながら、正弘は谷崎に向いた。谷崎は笑み、頷く。

「頑張ってこい、正弘君」

「あ、はい。それじゃ、また」

 正弘は挨拶もそこそこに、百合子に手を引かれてグラウンドに向かった。振り返ると、谷崎は笑っている。
だが、転んではいけないので前に向いた。百合子は走ってはいなかったが、精一杯早足で歩いていた。
 体格の良い正弘が小柄な女子に手を引かれている様が妙に微笑ましく思え、谷崎はにやけてしまった。
どうやら、彼女は正弘の友人らしい。友人がいなかった小学校時代から考えれば、かなり大きな変化だ。
このまま順調に進み、正弘の心がもっと解放されてくれればいい。そのためにも、捜査を続けなければ。
 谷崎は半分ほど吸ったタバコを口元から外し、携帯灰皿を取り出して、その中に吸い殻を押し当てた。
じりっ、と灰が擦り付けられる。火が消えたのを確かめてから携帯灰皿を閉じ、ポケットに突っ込んだ。
 村田一家惨殺事件の捜査は、事件が起きた当初はそれなりの成果を上げていたが、近頃は滞ったままだ。
なんとかして、捜査を前に進めてやりたい。そうでもしなくては、正弘が浮かばれず、また谷崎も悔しい。
しかし、手掛かりが足りなさすぎる。あれだけ酷い事件だったにもかかわらず、物証も証言も少なかった。
その少なさには、多少なりとも不可解さを覚える。だが、この数年間、そこから先に至ることが出来ずにいる。
 谷崎は中学校に背を向けると、車に乗り込んだ。運転席に腰を沈め、グラウンドを一瞥してから発車した。
 そして、思考を、現在担当している事件に切り替えた。


 グラウンドの手前で、百合子の足は止まった。
 それに合わせて、正弘も足を止める。数十メートルを足早に歩いただけなのに、百合子は息を荒くしていた。
正弘の手を掴んでいる手からも力が抜けていて、指先が緩んだ。額に滲んだ汗を、ジャージの袖で拭う。
あまりに息を荒げているので、正弘は少し心配になってきたが、百合子は正弘に振り返って見上げてきた。
 大丈夫、とでも言うように笑っている。正弘が百合子に伸ばしかけた手を下ろすと、百合子は言った。

「ムラマサ先輩」

 百合子の笑みが、陰った。

「ちょっと、お願いがあるんです」

「一体、何だい」

「さっき、鋼ちゃんの様子がちょっとおかしかったですよね」

「ああ、そうだな。鋼の奴、どうしちまったんだか」

 正弘が返すと、百合子はちょっと首をかしげた。

「それでですね。ムラマサ先輩、鋼ちゃんが相談事とかしてきたら、ちゃんと相手してあげて下さいね」

「それぐらい、言われなくてもやってやるさ。友達だもんな」

「良かったあ。そう言ってくれると思ってました」

 百合子の笑みの陰りは、次第に濃くなる。

「本当のところを言えば、私が鋼ちゃんの役に立ちたいけど、鋼ちゃんは私なんかは頼りにしてこないみたいだし、ていうかそもそも頼る気なんてないみたいだし」

「それは、ないと思う。鋼も、ゆっこを頼りにしているさ」

「ありがとうございます。でも、私が頼りにならないのは、私が一番良く知っているから」

 百合子は顔を上げると、表情を明るくさせた。

「じゃ、私も行きますね。頼みましたからね、ムラマサ先輩! 私の分まで、頑張って下さいね!」

 百合子は小さな手をひらひらさせながら、テントに向かった。正弘は頷いたが、その場に立ち尽くしていた。
本当に、百合子は鋼太郎のことが好きなのだ。鋼太郎が元気でいてほしいからこそ、正弘に頼んできた。
自分の力の限界を弁えているからこその行動だが、少し切なかった。ならば、百合子はもっと切ないだろう。
 幼い頃から傍にいるのだから、鋼太郎の役に立ちたいという気持ちは強いはずなのに、それを押し殺している。
鋼太郎も、それを知らないことはないはずだ。それなのに、鋼太郎は百合子の気遣いを乱暴にあしらった。
何かしらの理由があったのかもしれないが、少々腹立たしくなる。正弘は気を紛らわそうと、グラウンドを眺めた。
 一年生の障害物競走も、終盤に近付いていた。





 


06 11/11