非武装田園地帯




第十話 体育祭



 そして。体育祭は、終了した。
 どの軍も得点は多く、最後の軍対抗リレーまで決着が付かなかったが、勝利を収めたのは黄軍だった。
応援団長と副団長が表彰されている様を見ていたが、正弘の注意はそちらではなく、百合子に向いていた。
 百合子は午後の競技の半分程まで見ていたが、途中から校舎に戻り、保健室に行ったのだと透から聞いた。
なんでも、頭痛がしてきたからだという。長時間外にいただけだったのだが、百合子は疲れてしまったらしい。
 普段に比べればはしゃいでいなかったが、それは恐らく、体力を温存しておくために大人しくしていたのだろう。
だがそれでも、元から少ない百合子の体力は持たず、午後の競技を全て見ることが出来なくなってしまった。
校舎裏に集まる時は、たまに押されてしまうほど明るいのに。いつもの様子からは、想像も付かない弱さだ。
 正弘は、表彰されている黄軍の代表者達を見るふりをしながら、校舎の保健室のある方向に目線を向けていた。
今頃、百合子はどうしているのだろう。後で保健室に寄って、顔でも見てこよう。大丈夫だとは思うが心配だ。
 正弘は首を動かして、赤軍の方を窺った。透は正弘を見ていたのか、目が合い、透は顔を伏せてしまった。
そろそろと顔を上げた透は、目線を彷徨わせている。鋼太郎はと思い、正弘は二年生の中にいる彼を見やった。
鋼太郎の目線は上がっているが、その先には何もない。表彰されている生徒も、教師も、目に入ってない。
 ならば彼は、どこを見ているのだろう。




 保健室のベッドに横たわり、百合子は天井を見つめていた。
 体育祭が終わり、生徒達は帰りの準備を始めるために校舎に戻ってきて、そこかしこからざわめきが聞こえる。
保健室にやってくる生徒もいるが、明るい声で養護教諭の小夜子と話をした後、元気良く保健室を出ていった。
薄いカーテンに囲まれたベッドの中は薄暗く、蛍光灯だけが眩しい。百合子は、鈍い痛みのある頭を押さえた。
 先程熱を測ってみたが、微熱があった。この分だと、家に帰る頃にはもっと熱が出て頭が痛くなるだろう。
自分では無理をしたつもりはなかったのに、体には辛かったようだ。いつものことだが、苦しいのは変わりない。
熱のせいで目が潤んでいるため、視界が僅かにぼやけている。吐き気がない分、まだ楽だと思うべきだろう。
体力もなく、抵抗力もなく、持久力もまるでない百合子の体は、特に酷い時は四十度近くも熱が出てしまう。
 それに比べれば、と思おうとするが痛みは紛れなかった。百合子が目を閉じていると、扉が開く音がした。
失礼します、と囁くような細い声と、失礼しまーす、と荒っぽい言い回しの声と、失礼します、と丁寧な低い声。
 小夜子が彼らに何か言っているのが聞こえた。程なくして、百合子のベッドを囲んでいるカーテンが開いた。
逆光の中に透が現れ、その背後に正弘と鋼太郎がいる。百合子は起きようとしたが、鈍い頭痛に顔を歪めた。

「痛いなら、あんまり、無理しないで下さい」

 透は心配げにしながら、ベッドの傍にやってきた。鋼太郎は、校舎の外を指す。

「ゆっこ。お前の母さん、四時半ぐらいに迎えに来るってよ」

「大丈夫か?」

 正弘が身を屈めてきたので、百合子は弱々しく答えた。

「あんまり…」

「他の薬はあったけど、肝心の解熱剤がカバンの中になかったぜ。忘れたのか、ゆっこ?」

 鋼太郎は、教室から持ってきた百合子の通学カバンをベッドの足元に置いた。百合子は、小さく呟く。

「切れてたの。だから、持ってこられなかった」

「やっぱり、その、ゆっこさんは、お医者さんの処方した薬じゃなきゃいけないんですか?」

 透が尋ねると、百合子の代わりに鋼太郎が答えた。

「市販のだと変なことになっちまうかもしれねぇから、飲んじゃいけねぇんだ。ゆっこは、昔っからそうなんだ」

「正直、面倒」

 口元を歪めて無理に笑ってみせた百合子に、鋼太郎はため息を吐いた。

「辛いんだったら、大人しく寝てろ。それが一番だ」

「でも」

 百合子の目が動き、正弘と透を捉える。その意味を察し、透は手を横に振る。

「あ、いいんですよ。私のことは、気にしないで下さい。あんまり、気を遣わないで、休んでいて下さい」

「苦しい時に無理をしたって、もっと悪くなるだけだ。ゆっこ、鋼の言う通りにしておけ」

 正弘が百合子を見下ろすと、百合子は申し訳なさそうな顔をしたが、頷いた。

「はぁい」

「大体、解るだろうが。丸一日外に出たらどうなるか、なんてのは。具合悪くなる前に、引っ込めば良かったんだ」

 鋼太郎が百合子に迫ると、百合子は言葉を濁す。

「だってぇ…」

「だってもくそもあるか」

「だって。初めて」

 百合子の言葉は足りないが、その意味は容易に掴めた。初めて、体育祭に出られたのが嬉しかったからだ。
だから、早退してしまうのが惜しかったのだ。百合子の気持ちは解らないでもないが、それとこれとは別問題だ。
ただの発熱で終わればいいが、それだけで終わらない可能性もないわけではない。鋼太郎は、少々苛立った。

「そりゃそうかもしれねぇけど、いい加減に自分の限界を弁えろよ」

「鋼。ゆっこを責めたってどうしようもないんだ」

 正弘が鋼太郎を諫めると、鋼太郎は腕を組む。

「そりゃそうっすけどね、本当に学習能力がないんすよ、ゆっこは。毎度毎度、こうなんすから」

「だって」

 今度の、だって、には抗議の意思が込められていた。鋼太郎は、やりにくそうにする。

「ガキじゃねぇんだからさぁ」

 百合子にも、鋼太郎の言いたいことも解る。だが、少しでも長く体育祭を見ていたかった。ただ、それだけだ。
百合子は言い返したかったが、頭痛と熱で頭が回らず、喉も動きが鈍いので言えず終いになってしまった。
 あ、と不意に透が小さく声を上げた。保健室の壁に掛かっていた時計を見上げると、三人に頭を下げた。

「あの、私、そろそろ帰ります」

「そうか。じゃ、透、また来週」

 正弘が軽く手を振ると、透は顔を上げた。

「はい、それでは、さようなら」

 透が床に置いた自分の通学カバンを取ろうとすると、鋼太郎が肩掛けベルトを掴み、持ち上げてしまった。

「あ」

 透が驚くと、鋼太郎はそれを担いで昇降口を指した。

「昼休みのあれの礼だ。そこまで持ってってやるよ、山下。悪ぃな、変なこと聞いちまって」

「いえ、別に。私の方こそ、何の役にも立てなくて、ごめんなさい」

 透がかぶりを振ると、鋼太郎は先に廊下に出た。透は、ジャージの入っているショルダーバッグを担いだ。
小夜子にも挨拶をしてから、鋼太郎に続いて出ていき、二人分の足音が昇降口に向かって遠ざかっていった。

「村田君は、まだ帰らないの?」

 小夜子に問われ、正弘は返した。

「ゆっこが心配ですから、もうしばらくいることにします。橘さんが帰ってくるのは、今日も遅いですから」

「そう。いつも、大変ね。あんまり頑張り過ぎちゃダメよ」

 帰る時は気を付けてね、小夜子は正弘に言ってから、椅子を回してコンピューターの載った机に向かった。
今日一日で小夜子が手当てした生徒のデータを打ち込んでいるらしく、軽快にキーボードを叩いている。
ホログラフィックビジョンを用いたモニターには、打ち込まれていくデータと共に、立体グラフが表示されていた。
 正弘は小夜子から目を外し、ベッドの上の百合子に視線を落とした。薄暗い中でも、その顔色の悪さは解る。
血の気が失せて青ざめた頬に、軽く結ばれた唇。微かな呼吸が繰り返されていて、薄い瞼は閉ざされていた。
 正弘は無意識に、百合子に掴まれた右手を握り締めていた。




 下駄箱からローファーを出し、揃えた。
 透はかかとの下に指を差し込みながらかかとを入れ、つま先をとんとんと揃え、ショルダーバッグを肩に掛けた。
下駄箱の中には、もうあまり靴は残っていなかった。大半の生徒は既に帰ってしまい、校舎内は静まっていた。
 透が靴を履き終えたのを見計らい、鋼太郎は通学カバンを差し出した。透は右手を出し、それを受け取った。
ショルダーバッグの肩掛けベルトをずらしながら通学カバンを背負うと、少しずれてしまったメガネを直す。

「黒鉄君、あの、どうも、ありがとうございます」

「気にすんな。別に大したことじゃねぇよ」

 鋼太郎は、昇降口に向かう透の背を見送る。

「さようなら」

 透はガラス製のドアに手を掛け、振り向いた。鋭く差し込む西日に、横顔は輪郭が縁取られる。

「鋼ちゃん」

 いきなりのことに鋼太郎は心底驚いたが、声を上擦らせないように努力し、返事をした。

「あ、お、おう」

「はい。それじゃ」

 透ははにかみながら、昇降口を出ようとドアを開けた。



「またな、透」



 そう言ってしまってから、鋼太郎はまたもや混乱した。ごく自然に口から出てしまい、意図したわけではない。
なぜ、どうして、こんな時に。そんなことをごちゃごちゃと考えていると、透は影の中でも解るほど頬を染めた。

「あの、私も、気にしませんから。どう呼んでくれても、構いませんから」

「あ、ああ」

 鋼太郎の曖昧な返事の後、透はドアの隙間をすり抜けた。階段を下りた彼女は、校門に向かっていった。
体の芯を誰かに握り締められたかのような、不可解な感覚が起きる。喉もないのに、詰まったような気がする。
辺りが静かなので、透の足音は良く聞こえていた。普通よりものんびりしている歩調が、次第に遠ざかっていく。
それが、サイボーグの聴覚でも聞き取れなくなった頃、ようやく鋼太郎は力を抜いて両腕をだらりと下げた。
 いつのまにか、体に力が入っていたらしい。やりづらい感覚を振り払おうとしても、なかなか消えそうにない。
保健室に戻ろう、と思うが、足を前に進める気が起きなかった。しばらく、鋼太郎はその場に立ち尽くしていた。
 頼りない口調。気弱な表情。儚げな笑み。メガネの奧の、澄んだ瞳。それらが、頭の中にこびり付いている。
視覚を刺すように注がれている西日が、下駄箱の側面だけを明るくさせていたが、廊下側は真っ暗だった。
廊下の蛍光灯が瞬き、青白い光が陰りを弱めた。鋼太郎はドアに背を向けて、保健室に戻るべく歩き出した。
 鋼ちゃん。そればかりが、頭を巡る。





 


06 11/11