そして。体育祭は、終了した。 どの軍も得点は多く、最後の軍対抗リレーまで決着が付かなかったが、勝利を収めたのは黄軍だった。 応援団長と副団長が表彰されている様を見ていたが、正弘の注意はそちらではなく、百合子に向いていた。 百合子は午後の競技の半分程まで見ていたが、途中から校舎に戻り、保健室に行ったのだと透から聞いた。 なんでも、頭痛がしてきたからだという。長時間外にいただけだったのだが、百合子は疲れてしまったらしい。 普段に比べればはしゃいでいなかったが、それは恐らく、体力を温存しておくために大人しくしていたのだろう。 だがそれでも、元から少ない百合子の体力は持たず、午後の競技を全て見ることが出来なくなってしまった。 校舎裏に集まる時は、たまに押されてしまうほど明るいのに。いつもの様子からは、想像も付かない弱さだ。 正弘は、表彰されている黄軍の代表者達を見るふりをしながら、校舎の保健室のある方向に目線を向けていた。 今頃、百合子はどうしているのだろう。後で保健室に寄って、顔でも見てこよう。大丈夫だとは思うが心配だ。 正弘は首を動かして、赤軍の方を窺った。透は正弘を見ていたのか、目が合い、透は顔を伏せてしまった。 そろそろと顔を上げた透は、目線を彷徨わせている。鋼太郎はと思い、正弘は二年生の中にいる彼を見やった。 鋼太郎の目線は上がっているが、その先には何もない。表彰されている生徒も、教師も、目に入ってない。 ならば彼は、どこを見ているのだろう。 保健室のベッドに横たわり、百合子は天井を見つめていた。 体育祭が終わり、生徒達は帰りの準備を始めるために校舎に戻ってきて、そこかしこからざわめきが聞こえる。 保健室にやってくる生徒もいるが、明るい声で養護教諭の小夜子と話をした後、元気良く保健室を出ていった。 薄いカーテンに囲まれたベッドの中は薄暗く、蛍光灯だけが眩しい。百合子は、鈍い痛みのある頭を押さえた。 先程熱を測ってみたが、微熱があった。この分だと、家に帰る頃にはもっと熱が出て頭が痛くなるだろう。 自分では無理をしたつもりはなかったのに、体には辛かったようだ。いつものことだが、苦しいのは変わりない。 熱のせいで目が潤んでいるため、視界が僅かにぼやけている。吐き気がない分、まだ楽だと思うべきだろう。 体力もなく、抵抗力もなく、持久力もまるでない百合子の体は、特に酷い時は四十度近くも熱が出てしまう。 それに比べれば、と思おうとするが痛みは紛れなかった。百合子が目を閉じていると、扉が開く音がした。 失礼します、と囁くような細い声と、失礼しまーす、と荒っぽい言い回しの声と、失礼します、と丁寧な低い声。 小夜子が彼らに何か言っているのが聞こえた。程なくして、百合子のベッドを囲んでいるカーテンが開いた。 逆光の中に透が現れ、その背後に正弘と鋼太郎がいる。百合子は起きようとしたが、鈍い頭痛に顔を歪めた。 「痛いなら、あんまり、無理しないで下さい」 透は心配げにしながら、ベッドの傍にやってきた。鋼太郎は、校舎の外を指す。 「ゆっこ。お前の母さん、四時半ぐらいに迎えに来るってよ」 「大丈夫か?」 正弘が身を屈めてきたので、百合子は弱々しく答えた。 「あんまり…」 「他の薬はあったけど、肝心の解熱剤がカバンの中になかったぜ。忘れたのか、ゆっこ?」 鋼太郎は、教室から持ってきた百合子の通学カバンをベッドの足元に置いた。百合子は、小さく呟く。 「切れてたの。だから、持ってこられなかった」 「やっぱり、その、ゆっこさんは、お医者さんの処方した薬じゃなきゃいけないんですか?」 透が尋ねると、百合子の代わりに鋼太郎が答えた。 「市販のだと変なことになっちまうかもしれねぇから、飲んじゃいけねぇんだ。ゆっこは、昔っからそうなんだ」 「正直、面倒」 口元を歪めて無理に笑ってみせた百合子に、鋼太郎はため息を吐いた。 「辛いんだったら、大人しく寝てろ。それが一番だ」 「でも」 百合子の目が動き、正弘と透を捉える。その意味を察し、透は手を横に振る。 「あ、いいんですよ。私のことは、気にしないで下さい。あんまり、気を遣わないで、休んでいて下さい」 「苦しい時に無理をしたって、もっと悪くなるだけだ。ゆっこ、鋼の言う通りにしておけ」 正弘が百合子を見下ろすと、百合子は申し訳なさそうな顔をしたが、頷いた。 「はぁい」 「大体、解るだろうが。丸一日外に出たらどうなるか、なんてのは。具合悪くなる前に、引っ込めば良かったんだ」 鋼太郎が百合子に迫ると、百合子は言葉を濁す。 「だってぇ…」 「だってもくそもあるか」 「だって。初めて」 百合子の言葉は足りないが、その意味は容易に掴めた。初めて、体育祭に出られたのが嬉しかったからだ。 だから、早退してしまうのが惜しかったのだ。百合子の気持ちは解らないでもないが、それとこれとは別問題だ。 ただの発熱で終わればいいが、それだけで終わらない可能性もないわけではない。鋼太郎は、少々苛立った。 「そりゃそうかもしれねぇけど、いい加減に自分の限界を弁えろよ」 「鋼。ゆっこを責めたってどうしようもないんだ」 正弘が鋼太郎を諫めると、鋼太郎は腕を組む。 「そりゃそうっすけどね、本当に学習能力がないんすよ、ゆっこは。毎度毎度、こうなんすから」 「だって」 今度の、だって、には抗議の意思が込められていた。鋼太郎は、やりにくそうにする。 「ガキじゃねぇんだからさぁ」 百合子にも、鋼太郎の言いたいことも解る。だが、少しでも長く体育祭を見ていたかった。ただ、それだけだ。 百合子は言い返したかったが、頭痛と熱で頭が回らず、喉も動きが鈍いので言えず終いになってしまった。 あ、と不意に透が小さく声を上げた。保健室の壁に掛かっていた時計を見上げると、三人に頭を下げた。 「あの、私、そろそろ帰ります」 「そうか。じゃ、透、また来週」 正弘が軽く手を振ると、透は顔を上げた。 「はい、それでは、さようなら」 透が床に置いた自分の通学カバンを取ろうとすると、鋼太郎が肩掛けベルトを掴み、持ち上げてしまった。 「あ」 透が驚くと、鋼太郎はそれを担いで昇降口を指した。 「昼休みのあれの礼だ。そこまで持ってってやるよ、山下。悪ぃな、変なこと聞いちまって」 「いえ、別に。私の方こそ、何の役にも立てなくて、ごめんなさい」 透がかぶりを振ると、鋼太郎は先に廊下に出た。透は、ジャージの入っているショルダーバッグを担いだ。 小夜子にも挨拶をしてから、鋼太郎に続いて出ていき、二人分の足音が昇降口に向かって遠ざかっていった。 「村田君は、まだ帰らないの?」 小夜子に問われ、正弘は返した。 「ゆっこが心配ですから、もうしばらくいることにします。橘さんが帰ってくるのは、今日も遅いですから」 「そう。いつも、大変ね。あんまり頑張り過ぎちゃダメよ」 帰る時は気を付けてね、小夜子は正弘に言ってから、椅子を回してコンピューターの載った机に向かった。 今日一日で小夜子が手当てした生徒のデータを打ち込んでいるらしく、軽快にキーボードを叩いている。 ホログラフィックビジョンを用いたモニターには、打ち込まれていくデータと共に、立体グラフが表示されていた。 正弘は小夜子から目を外し、ベッドの上の百合子に視線を落とした。薄暗い中でも、その顔色の悪さは解る。 血の気が失せて青ざめた頬に、軽く結ばれた唇。微かな呼吸が繰り返されていて、薄い瞼は閉ざされていた。 正弘は無意識に、百合子に掴まれた右手を握り締めていた。 下駄箱からローファーを出し、揃えた。 透はかかとの下に指を差し込みながらかかとを入れ、つま先をとんとんと揃え、ショルダーバッグを肩に掛けた。 下駄箱の中には、もうあまり靴は残っていなかった。大半の生徒は既に帰ってしまい、校舎内は静まっていた。 透が靴を履き終えたのを見計らい、鋼太郎は通学カバンを差し出した。透は右手を出し、それを受け取った。 ショルダーバッグの肩掛けベルトをずらしながら通学カバンを背負うと、少しずれてしまったメガネを直す。 「黒鉄君、あの、どうも、ありがとうございます」 「気にすんな。別に大したことじゃねぇよ」 鋼太郎は、昇降口に向かう透の背を見送る。 「さようなら」 透はガラス製のドアに手を掛け、振り向いた。鋭く差し込む西日に、横顔は輪郭が縁取られる。 「鋼ちゃん」 いきなりのことに鋼太郎は心底驚いたが、声を上擦らせないように努力し、返事をした。 「あ、お、おう」 「はい。それじゃ」 透ははにかみながら、昇降口を出ようとドアを開けた。 「またな、透」 そう言ってしまってから、鋼太郎はまたもや混乱した。ごく自然に口から出てしまい、意図したわけではない。 なぜ、どうして、こんな時に。そんなことをごちゃごちゃと考えていると、透は影の中でも解るほど頬を染めた。 「あの、私も、気にしませんから。どう呼んでくれても、構いませんから」 「あ、ああ」 鋼太郎の曖昧な返事の後、透はドアの隙間をすり抜けた。階段を下りた彼女は、校門に向かっていった。 体の芯を誰かに握り締められたかのような、不可解な感覚が起きる。喉もないのに、詰まったような気がする。 辺りが静かなので、透の足音は良く聞こえていた。普通よりものんびりしている歩調が、次第に遠ざかっていく。 それが、サイボーグの聴覚でも聞き取れなくなった頃、ようやく鋼太郎は力を抜いて両腕をだらりと下げた。 いつのまにか、体に力が入っていたらしい。やりづらい感覚を振り払おうとしても、なかなか消えそうにない。 保健室に戻ろう、と思うが、足を前に進める気が起きなかった。しばらく、鋼太郎はその場に立ち尽くしていた。 頼りない口調。気弱な表情。儚げな笑み。メガネの奧の、澄んだ瞳。それらが、頭の中にこびり付いている。 視覚を刺すように注がれている西日が、下駄箱の側面だけを明るくさせていたが、廊下側は真っ暗だった。 廊下の蛍光灯が瞬き、青白い光が陰りを弱めた。鋼太郎はドアに背を向けて、保健室に戻るべく歩き出した。 鋼ちゃん。そればかりが、頭を巡る。 06 11/11 |