非武装田園地帯




第十一話 百合子、葛藤する



 紅茶を淹れ終えても、百合子の様子は変わらなかった。
正弘は、前に作って冷凍しておいたホットケーキがあったことを急に思い出したので、それを添えることにした。
冷凍室の中には三枚あったので、レンジで二枚解凍して四等分に切り分け、バターを乗せてハチミツを掛けた。
ダージリンの紅茶を注いだ二つのティーカップを、角砂糖の入った瓶とホットケーキの皿と共に盆に載せた。
 それをリビングのテーブルまで運んでいっても、百合子は反応しなかった。下を向いたままになっている。
正弘は少し考えてから、ガラステーブルの上から盆を持ち上げ、立ち上がった。百合子は、やっと顔を上げる。

「オレの部屋の方がいいかもしれない。ここにいたら、橘さんがいつ出てくるか解らないから」

 あの人はいきなり起きてくるから、と正弘は廊下の左手にある扉を逆手に指した。百合子は、従う。

「そうですね」

 正弘は盆を右手の平の上に乗せ、扉に手を掛けて気付いた。自分の部屋の中も、全く片付けていなかった。
昨夜、気分が乗っていたので、下書きのまま放置していた自作の少女漫画にペンを入れて仕上げていた。
今日はその原稿にトーンでも貼ろう、と思ってそのままにしていた。資料も、道具も、原稿も出しっぱなしだ。
 正弘は、出ないはずの冷や汗が出た気がした。背後の百合子を窺うと、正弘が扉を開けないことを訝っている。

「どうしたんですか、ムラマサ先輩?」

「ゆっこ」

 正弘は、精一杯理性を保つ。ここで下手に慌てたら、盆の上のものが落ちてしまうかもしれない。

「オレの部屋の中にある物のこと、誰にも言わないでくれないか」

「あ、はぁ」

 百合子は不可解げにしながらも、頷いた。正弘は、どうにでもなれ、と自棄になって部屋の扉を開けた。
それに続いて部屋に入った百合子は、驚いて目を見開いた。本棚に、漫画の単行本がずらりと並んでいる。
しかも、その全部が少女漫画だ。最近のものもあれば数年前に流行ったものもあり、全て全巻揃っている。
 部屋の中央にある大きめのテーブルには、傾斜の付いた台とインクの瓶、ペン軸とペン先が置いてある。
そして、その台の上には枠線を引かれて主線を書き込まれた、繊細で可憐な絵柄の漫画の原稿があった。

「…これは」

 百合子が恐る恐る漫画の原稿用紙を指すと、正弘は顔を背けた。

「オレが、描いた…」

「えっ、えー!? 超意外ー! っていうか、ムラマサ先輩のイメージと全然違うー!」

 百合子が混乱に任せて叫ぶと、正弘は盆を勉強机に置いてからそっと扉を閉めた。

「自分でも、そう思う。だから、お願いだから、鋼にも透にも他の誰にも言わないでくれないか」

 その口振りがあまりにも気弱だったので、百合子は首を縦に振った。約束しなければ、悪い気がした。

「あ、はい。解りました。鋼ちゃんにも透君にも言いません」

「もう少し待って。テーブルだけでも片付けるから」

 正弘は意気消沈しながら、漫画を描くための台や道具などを片付けていった。原稿は、机の引き出しに入れる。
下書きを消す際に大量に出てしまう消しゴムのカスを小型掃除機で吸い、インクの散ったテーブルを強く拭く。
その間、正弘はずっと黙っていた。百合子には口止めしたものの、やはり多少なりとも不安になってしまう。
後悔に潰されそうになりながらも、正弘は片付けを終えてから、勉強机からテーブルの上に盆を移動させた。
 百合子を手招くと、百合子は正弘の向かい側に座った。ポシェットを背後に置き、その上に麦わら帽子を被せる。
正弘が、百合子の前に紅茶が八分目程度入ったティーカップを出した。百合子は、カップの取っ手に指を絡める。
先程から、下ばかりを見てしまう。せめて顔を上げないと、相手をしてくれている正弘に悪いというのに。
だが、何をどうやっても気持ちは晴れない。百合子は少ししか飲まなかった紅茶を、ソーサーの上に戻した。

「あの。相談、っていうか、独り言に近いんですけどね」

 百合子は、湯気の昇る水面を見つめる。

「最近、鋼ちゃんが透君の呼び方を変えたこと、ムラマサ先輩も知っていますよね?」

「ああ」

 正弘は、軽く頷いた。以前、鋼太郎は透のことを名字で呼んでいたが、ここ最近は下の名前で呼んでいる。

「それで、その。鋼ちゃんって、ほら、ぶきっちょじゃないですか」

 百合子は、角砂糖の入った瓶から角砂糖を取り出し、琥珀色の中に沈めた。

「だから、私以外の女子は名字でしか呼ばないんです。でも、なんか、透君はそうじゃないみたいで」

 ソーサーに添えてあったスプーンを取り、丁寧に掻き混ぜて砂糖を溶かしていく。

「鋼ちゃんと透君は友達同士だから、仲良しになってきたら呼び名が砕けてくるのは当たり前のことだし、鋼ちゃんと透君が仲良しになってくれるのは嬉しいし、私もそうなったらいいなぁって思っていなかったわけじゃないんです」

 百合子の独白に口を挟んではいけないような気がして、正弘は黙っていた。

「だから、鋼ちゃんが透君のことを下の名前で呼ぶことは嬉しいことだし、もっともっと皆で仲良くなれるのはとってもいいことなんです。鋼ちゃんに、それはいいことだよって言うのが普通で、私もそう思うのが当たり前のはずなんだけど。そう思わなきゃ、おかしいはずなんだけど」

 かちり、とソーサーの端にスプーンが横たえられる。

「なんか…面白くなくて」

 百合子は、薄い唇をきゅっと噛み締めた。

「透君も悪くないし、鋼ちゃんも悪くないし、誰も何も悪いことなんてしてないんだ。なのに、なんか、嫌なんだ」

 小さな肩が、細かく震えている。

「嫌だって思わないようにしても、嫌で嫌で、鋼ちゃんだけじゃなくて透君まで嫌いになっちゃいそうで」

 百合子は、乱暴に目元を拭った。

「怖いんだよう」

 声も震え、上擦っていた。

「でも、違うんだ。そうじゃないんだ。鋼ちゃんも透君も好きなんだ、大好きなんだ、だからもっと嫌になるんだ」

 百合子は背を丸め、項垂れてしまう。膝の上に、ぼたぼたと涙が落ちる。

「ホントに、だいすきなんだよお…」

「ああ。それは、傍から見ているだけでもよく解る」

 正弘の、穏やかな言葉が広がって消えた。百合子は独りでに出てくる涙を、何度も何度も手の甲で拭った。
ここしばらく、ずっと悩んでいたことだった。いつか誰かに吐き出さなければ、押し潰されてしまいそうだった。
 本当に些細なことだ。百合子も何度もそう思おうとしたが、些細だからこそ気になって仕方なくなった。
意識しないようにすればするほど鋼太郎と透に意識が向いて、気にしないようにすればするほど気に掛かる。
嫌な自分になりたくないけど、鋼太郎らと一緒にいることはとても楽しいから、そちらの方を優先していた。
校舎裏での会話の楽しさで、心の奥底に生まれたどす黒いものを紛らわそうとしようとしたが無理だった。
 いくら悩んでも、解決策は出てこなかった。そうこうしているうちに、嫌な感情は日に日に強くなっていった。
好き。大好き。けれど、嫌。百合子はしゃくり上げるのを堪えながら、べたべたに濡れてしまった頬を拭う。

「ごめんなさい。こんな、先輩にはどうでもいい話しちゃって」

 百合子は呼吸を落ち着けるため、深く息を吐いた。

「でも、こんなこと、他の誰にも言えないから。当たり前だけど、鋼ちゃんにも透君にも話せないもん」

「だから、オレなのか」

 正弘が納得すると、百合子は泣いたせいで赤らんだ目元を擦った。

「うん。ごめんなさい」

「いや、構わないさ。少しは、役に立てたか?」

「話したら、ちょっとだけですけど、楽になった気がします。ホント、ごめんなさい」

「だから、気にするな。オレとゆっこは、友達なんだから」

「はぁい」

 百合子は、目元に涙が残っていたが笑った。

「あ、そうだ。ムラマサ先輩、こういうの、どうです?」

「ん、なんだ?」

 正弘が聞き返すと、百合子はテーブルに手を付いて身を乗り出して正弘を指した。

「私がムラマサ先輩の趣味を秘密にする代わり、ムラマサ先輩も私の悩み事を秘密にするのはどうですか!」

「ギブアンドテイクってやつだな」

 正弘は少し笑う。百合子は、なぜか自慢気に胸を張った。

「じゃ、そういうことでお願いしますね!」

「了解」

 正弘が答えたので、百合子は座り直した。少し冷めてしまった紅茶を、啜る。

「先輩、器用ですねぇ。漫画もそうですけど、紅茶を葉っぱから淹れられる男の人なんてそんなにいないですよ?」

「細かいことが好きなんだよ、割と」

「嫁いらずってやつですね」

「それ、褒められているのかけなされているのか、解らないな」

「褒めてるんですってば。鋼ちゃんみたいな人だったら、紅茶とお菓子なんて絶対に出さないだろうし!」

 フォークを握って力説してから、百合子は四等分に切り分けられたホットケーキにフォークを差し、囓った。
窓を閉め切っているのだが、全ての部屋に自動空調システムが完備されているので空気は涼しくなっていた。
寒すぎず、かといって暑くもない弱い風が、天井の隅に据え付けられている空調装置から吐き出されている。
 それから、百合子と正弘は少女漫画について延々と語り合った。どの作者の漫画が一番面白いか、などと。
どの漫画家のストーリーがぶっ飛んでいて、どの漫画家は設定倒れで、どの漫画家は人物以外は下手かなども。
入院生活の間に様々な少女漫画雑誌を読んでいた百合子と、長年単行本を集めている正弘は話が通じ合った。
 よって、二人は時間を忘れて喋ってしまった。面白いくらいに話が通じ合ったので、楽しくて止まらなかった。
二人のテンションの高い話はなかなか終わらず、少女漫画の話題に区切りがついたのは、午後一時頃だった。
 その頃には、さすがに静香も目を覚ましていた。





 


06 11/13