リビングに入った途端、正弘は潰れた声を漏らした。 あれほど掃除したのに、元通りになっている。ガラステーブルには、灰皿から溢れた吸い殻が落ちている。 洗濯カゴに入れたものとは別の服が散乱し、缶ビールの空き缶が床に転がり、酒臭さも復活している。 百合子は正弘の陰から顔を出し、リビングの中を窺った。ソファーの上で胡座を掻いている女性がいる。 飾り気のないTシャツにショートパンツを履き、長い髪を大きめのピンで一纏めにして後頭部で留めている。 ソファーの背もたれに腕をもたせかけ、銜えタバコで正弘と百合子を見ていたが、タバコを口から外した。 「マサ。その子、あんたのお客さん?」 「ええ、まぁ。というか、起き覚めに酒を飲まないで下さい。正直、困ります」 正弘が嘆くと、女性は寝癖の付いた前髪を乱した。 「あたしは困らない。それに、今日は休みなんだからいいじゃないの」 「えっと、ムラマサ先輩の友達の、白金百合子です。お邪魔してます」 正弘の後ろから出た百合子が頭を下げると、女性はタバコを灰皿に押し付けて火を消した。 「橘静香よ。マサの、村田正弘の保護者ね」 「どっちが保護しているんだか…」 正弘は肩を落とし、キッチンに入った。静香は新しいタバコを抜こうとしたが、中身がなかったので握り潰した。 百合子は、初対面の相手なので若干緊張しながらも、静香と向かい合う位置にあるソファーに腰を下ろした。 静香の強い眼差しに捉えられた百合子がちょっと戸惑うと、静香はやけに可笑しそうにしながら正弘に向いた。 「マサ。あんた、自分の部屋に女の子連れ込んだくせに、何もしてないの?」 「普通と逆の心配なんてしないで下さいよ」 正弘は冷蔵庫から取り出した鍋を、がん、とコンロの上に据えた。静香は、けらけらと笑う。 「そこまで純情だと、ある意味不健全よねぇ」 「自堕落なよりは余程マシだと思いますけど」 少々語気を強めて言い返してから、正弘はコンロの火を点けた。程なくして、カレーの独特の匂いが漂ってきた。 お玉で掻き混ぜて、焦げ付かないようにする。正弘は冷蔵庫の中を覗いていたが、リビングの二人に向いた。 「何も注文がないならカレーうどんにしますけど」 「喰えるならなんだっていいわよ。百合子ちゃんは?」 静香に話を振られ、百合子はすぐに返した。 「カレーもおうどんも好きです。でも、真夏にカレーうどんですか?」 「いつものことよ。マサはね、何がなんでもうどんだけは常備する奴なのよ」 静香はさも面白そうに、にやついている。正弘は冷蔵庫から、うどんの麺が入った袋を三つ取り出した。 「うどんだけは欠かしちゃいけないんですよ」 「そうかなぁ…」 百合子が首をかしげると、静香は空き箱を捨てて新しいタバコの箱を開け、一本出して銜えた。 「マサは四国の出なのよ」 「ああ、そういうことですか。そういえば、六月に瀬戸大橋の絵はがきをもらいましたっけ」 静香の言葉足らずな説明で、百合子は納得したようだった。正弘は手際良く、カレーをうどん用に仕上げていく。 「使い勝手が良いからって言うのもあるし、ないとなんか落ち着かなくてさ」 静香の吸っているタバコはメンソールなので、彼女の吐き出す煙には僅かに爽やかな匂いが混じっていた。 百合子は煙で咳き込みそうになったが、堪えた。身近にはタバコ飲みがいないので、慣れていないのだ。 両親とも、酒もタバコもやらない人間である上に、そういった嗜好を持つ大人には近付いたことがない。 タバコを挟んでいる静香の指先は、ヤスリで綺麗に磨いた爪を長く伸ばしていて、大人の女性らしい手だ。 思わず、百合子は自分の手と見比べた。百合子が何度も視線を動かしていると、静香はタバコを下ろす。 「まだ中学生なんだから、あたしみたいなことはしない方がいいわよ」 「え」 百合子は、慌てて自分の手を下ろした。静香はタバコの先端の灰を落としてから、フィルターを銜える。 「若いうちは、何もしないのが一番よ」 「あ、はぁ」 「過剰な化粧とブランド品はね、大人の贅沢なのよ。子供がするもんじゃないわ」 静香がもっともらしく言ったので、うどんを茹でていた正弘は口を挟んだ。 「そりゃそうかもしれませんけど、何万円もするバッグをその辺りに放り投げておかないで下さいよ」 「あたしのものなんだから、どうでもいいじゃないのよ」 静香が面白くなさそうにすると、正弘はうどんをほぐしていた菜箸を掲げる。 「いいえ、良くありません。それと、ああいうものはちゃんと虫干しをしないと革が傷むんですから、して下さい」 「マサがやってよ」 「そこまで世話を焼く義理はありません」 ザルを取り出した正弘は、シンクの中に置き、その中にうどんを茹でていた鍋を傾けて麺と茹で汁を流し込んだ。 ダシ汁で伸ばしたカレールーを煮詰めている間に、上に乗せるネギをみじん切りにし、どんぶりも三つ用意する。 見れば見るほど、手慣れている。百合子は正弘の手際に感心してしまい、気の抜けた声を漏らしてしまった。 普段の会話の端々からも、彼がしっかりしているとは解っていたが、まさかここまでとは思ってもみなかった。 百合子は、部屋の掃除ぐらいは自分でやろう、と内心で思った。体が弱いせいもあるが、親に頼り過ぎている。 正弘ほどとまではいかなくても、せめてもう少しは自立しなければ。と、百合子は密かに決意を固めていた。 カレーうどんは、着々と出来上がっていた。 真夏の強烈な日差しが弱まってきた午後三時半頃、百合子は帰路を辿っていた。 正弘が途中まで送ってやると言ってくれたので、それに甘え、乗ってきた電動自転車を彼に押してもらっていた。 百合子の身長に合わせた二十二インチの自転車で、車体のフレームは赤で、フェンダーは銀。少々派手だ。 そのサドルの下には、軽量型バッテリーと補助用モーターが備え付けられている。だが、今は動かしていない。 動かしていなければ車体の重量が増えるだけだが、動かしていれば、一度踏み込んだだけで相当走れる。 体力のない百合子でも乗れる自転車を、と、去年の退院祝いに父親が百合子に買い与えてくれたものだった。 タイヤの回転に合わせてチェーンがちりちりと鳴り、百合子と正弘の大きさの違いすぎる影が道路に伸びる。 町の東側と西側を繋げる橋を渡り終え、土手ではなく田んぼ沿いの道路に入り、遅い足取りで歩いていった。 正弘は、百合子の一歩後ろを付いて歩いていた。自転車のハンドルの中央を左手で掴み、軽々と押している。 徐々に夕方の気配を帯びてきた日光には、赤みが混じっている。鮮やかに煌めく川面も、朱色が加わっている。 ふと、百合子は足を止めた。正弘も立ち止まり、自転車も止まる。正弘は身を屈めて、百合子を覗き込んだ。 「どうした?」 「あの、ちょっと思ったんですけど」 百合子は、麦わら帽子の鍔を押さえた。 「鋼ちゃんが透君のことを下の名前で呼ぶ理由って、仲良くなったから、ですよね?」 「そりゃ、まぁそうだろうな」 「うん。それで」 百合子は、麦わら帽子の鍔をぐいっと下げた。 「透君って、可愛いんじゃなくて、なんか、綺麗な感じしますよね?」 鍔に隠れて、目元は見えなくなった。 「すらっとしてて背も高いし、私と同い年のはずなのに結構大人っぽいし、それに、私みたいに馬鹿じゃないし」 一度言葉を区切り、語気を強めた。 「すっごく、いい子だし」 百合子は、更に顔を伏せてしまう。 「だから、無理ないよなぁって思って」 「ゆっこ、お前」 正弘は、百合子が言いたいことを察した。百合子は、目元を擦る。 「そういうのは、鋼ちゃんの自由だから。私が、どうこう出来る問題じゃないし、そもそも口出しするべきじゃないし」 長い黒髪が、川からやってきた強い風に弄ばれる。 「だから、何も言わないでおこうって思って。鋼ちゃんは、鋼ちゃんなんだから」 好き。大好き。 「鋼ちゃんが誰を好きになったって、鋼ちゃんの勝手なんだから!」 だから。 「私には、関係ないんだもん!」 百合子の叫びは、道路を走ってきたダンプの轟音で掻き消された。排気混じりの風で、サンドレスの裾が翻る。 正弘は百合子の肩に手を伸ばそうとして、下げた。態度で、言葉で、視線で、どれだけ彼を好きなのか解る。 百合子は、独りでに出てきてしまう涙を必死に拭った。流すまいと思っていても、意思に反して溢れてくる。 「私が、大人になればいいだけなんだ。それだけなんだ」 「ゆっこ…」 「本当に、色々とごめんなさい。こんな話ばっかりで」 口元を押さえた百合子に、正弘は首を横に振った。当たり障りのないことしか、言ってやれなかった。 「いいさ。オレは構わない。この話も、当たり前だけど秘密にするよ。他の誰にも、言っちゃいけないな」 「ごめんなさい。ありがとうございます」 百合子は、正弘の右手を両手で掴んできた。正弘は、頷く。 「オレに出来ることは、それぐらいしかないしな」 「それだけで、充分です。本当に、ありがとうございました」 百合子は頭を下げると、目元に残っていた涙を全部拭った。電動自転車のハンドルを、両手で握る。 「あの、ここから一人で帰れますので」 「ん、そうか?」 正弘はハンドルから手を離し、身を引いた。百合子はサドルに跨ると、笑ってみせた。 「それじゃ、また学校で。それと、カレーうどんおいしかったです! ごちそうさまでした!」 正弘が言葉を返す前に、百合子はペダルを踏んだ。その姿が見えなくなるまで、正弘はその場に立っていた。 酷く妬けた。百合子にそこまで思われている鋼太郎が、とても羨ましかった。人間としても、友人としても。 百合子が鋼太郎に執着している理由の根底にあったのは、やはり恋心だ。想像していなかったわけではない。 むしろ、そうでなければ不自然だ。性格も趣味も合わない彼に付き合うのだから、それ相応の動機が必要だ。 百合子自身も、いつからそうだったのかは解らないだろう。だが、確実に百合子は鋼太郎を好いている。 それだけは、明確な事実だ。正弘は踵を返して町へと向かいながら、自転車の重みが残る手を下げた。 左手はいつものクセでジーンズのポケットに突っ込んでいたが、右手だけはそうする気が起きなかった。 彼女の最後の笑顔は、とても痛々しかった。 06 11/14 |