非武装田園地帯




第十三話 納骨



 現実と、向き合おう。


 夏休みも、中盤に差し掛かっていた。
 八月初旬に行われた鮎野町の夏祭りも終わり、一ヶ谷市の夏祭りも終わり、平穏な夏の休日が続いていた。
 早朝、百合子は自転車に乗って橋を渡りながら、その先にある坂に視線を据えていた。なんとなく、来てしまう。
早朝であっても、蒸し暑いことには変わりなかった。だがそれでも、日中に比べれば大分涼しく心地良かった。
ペダルを踏んで自転車を走らせ、狭い歩道の脇を進む。アスファルトからは、昨日の熱気が立ち上っている。
今日は三日ではないので、鋼太郎の肉体の月命日ではないが、朝早く目が覚めたら無性に行きたくなってしまう。
それではいけない、とは思うが、なかなかやめられずにいた。だが、いつか必ずやめなければいけないことだ。
 橋を渡りきった場所でブレーキを握り締め、自転車を止めた。事故現場の傍に、軽自動車が横付けされている。
テールランプが点滅する様を見つめながら、百合子は訝った。ここに車を止めている人間など、見たことがない。
きゅっ、とブレーキを掛けると、車体の陰に隠れていた人間が振り返った。まだ若い女性だが、顔色は青白い。
服装はきちんとしているものの、顔には疲れが色濃く滲み出ていて、瞳の色もどこか淀んでいるように感じた。
 百合子は自転車から降りたが、彼女には近付かなかった。女性は立ち上がって百合子を見たが、目を伏せた。
彼女の背後には傷付いて曲がったガードレールがあり、支柱の足元には、菊の花束と供え物が置かれている。

「あの」

 百合子は、その女性に声を掛けた。彼女は、うっすらと唇を開く。

「あなたは、黒鉄さんの妹さんですか?」

「いいえ。私は、鋼ちゃんの友達です」

 百合子が言うと、女性は深々と頭を下げて言葉を詰まらせた。

「本当に、申し訳ありません」

 失礼します、と言い残し、女性は軽自動車に乗り込んだ。丸みを帯びた白い車体が、長い坂を下りていく。
車の走行音が遠ざかっていき、メタノール臭が僅かに残留していた。百合子は、ハンドルを握り締めていた。
 朝早くから鳴き始めたセミの声が、そこかしこから流れてくる。川から吹き上がってきた風が、髪を乱した。
麦わら帽子を飛ばさないために深く被り直し、自転車に跨った。車が来ないのを確かめてから、漕ぎ出した。
 東の空から、鮮やかな陽光が切れ込んでいた。




 その日の日中。鋼太郎は、百合子と向かい合って宿題をしていた。
 毎日のように百合子が押しかけてくるので、鋼太郎も無下に出来なくなってしまい、すっかり恒例となっていた。
テーブルの上に教科書や参考書を隙間なく広げ、プリント類も散乱しているので、テーブルは狭くなっている。
最初の頃はすぐに集中力が途切れたり話を始めて脱線してしまったりしていたが、最近ではまともになっていた。
といっても、そこは成績が今一つ良くない二人なので、捗っていると言ってもあまり大したことではなかった。
 毎日うんざりするほどの暑さだが、今日は特に暑く、真っ青な空から降り注ぐ日光は凶悪なまでに強かった。
そんな気温なので、サイボーグボディが過熱してしまったら困るので、窓を閉め切って空調装置を付けていた。
 程良い湿気と冷気の混ざった風が、緩く流れる。だが百合子にとっては寒いのか、長袖シャツを羽織っている。
こつ、と百合子のシャープペンシルの先が、プリントの脇に置いてある計算式だらけのルーズリーフを小突いた。

「そういえばさ」

 不意に、百合子が口を開いた。

「お盆だねぇ」

「夏休みももう半分になっちまったなー。祭りも終わっちまったし。毎年思うけど、時間が過ぎるの早すぎねぇか?」

 鋼太郎も、計算式を書いていた手を止める。百合子は、背後に掛けてあるカレンダーを仰ぎ見た。

「だよねー」

「ゆっこの父さん、お盆休みには帰ってくるんだろ?」

「ううん。帰ってこられない」

「どうしてだよ? お盆だったら、どこの会社でも大抵一週間ぐらいは休みをくれるんじゃねぇの?」

 鋼太郎が不思議そうにすると、百合子は残念そうに眉を下げた。

「うん。お父さんも、ちゃんとお休みはもらったらしいんだけどね。一週間の半分ぐらいが、移動で潰れちゃうんだ。月面基地からシャトルで飛び立って、スペースコロニーを経由して、東京宇宙港までやってくるのに二日掛かって、東京からここに来るまでに半日も掛かっちゃって、帰りもそれぐらい掛かっちゃうから。軌道エレベーターが完成していたら、移動時間は一日ぐらい減るんだけど、その軌道エレベーターが完成するのは後何年も先だから。だから、帰ってきても仕方ない、って帰ってこないの。寂しいけど、仕方ないよね。お金も掛かるし」

「やっぱ、月って遠いんだな」

「遠いよお。一度ぐらいは、お母さんと一緒に月まで行ってお父さんに会いたいけど、シャトルの代金も高いしさー。一番安いシートだって、七桁なんだよ、七桁! 有り得ないっつーの!」

 ぼったくりだ、と百合子は頬を張る。鋼太郎は、真っ青な空に浮かぶ白い月を見上げた。

「全くだな。大宇宙時代だーとか言ってるけど、そう言うんだったら、宇宙旅行の代金を一般市民の手の届く範囲にしとけってんだよ」

「お年玉で行けるぐらい?」

「おう。それぐらいが理想だな」

「でもさでもさ、鋼ちゃんだったら、シャトルじゃなくてスペースシップにだって乗れちゃうんもんね!」

 百合子は体を前のめりにし、身を乗り出した。

「宇宙仕様の改造さえ受ければ、鋼ちゃんだって宇宙探索チームに入れるんだもんね! すっごいよね!」

「ああ、宇宙開発連盟が言ってる、勇気あるサイボーグの志願を求む、ってやつか? でも、オレは勘弁だな」

「どーして? 宇宙旅行なんてなんか恰好良いじゃんかー」

 百合子が首をかしげると、鋼太郎は大きな肩を竦める。

「宇宙に出ちまったら、やることねーじゃん。スペースシップは広いかもしんねぇけど、精密機械まみれだから、その中で野球なんか出来ねぇだろ。いくら凄くったって、野球が出来なきゃごめんだぜ」

「じゃ、いっそのこと宇宙大リーガーになればいいじゃん」

「なんだよ、その安っぽいネーミングは。ていうかダセぇ」

「言ってみただけー。まぁ、宇宙に出れば、誰だって大リーガーになれちゃうんだけどね」

 重力の関係で、と百合子は付け加えた。鋼太郎は頬杖を付き、かつんかつん、とマスクを指先で叩いた。

「それも嫌なんだよな、安易すぎて。自力で勝たねぇと何の意味もねぇんだよ」

 だよねぇ、と百合子は相槌を打ったが、会話が途切れた。

「そういえばさ」

 急に、彼女は表情を強張らせた。

「鋼ちゃんの骨って、どうするの? まだ、床の間にあるんだよね?」

 鋼太郎は、百合子と向き直った。

「ある」

 骨。それは、交通事故でダメになった、鋼太郎の肉体の残骸だ。荼毘に付して骨にし、桐の箱に入れてある。
鋼太郎の意思ではなく、鋼太郎の両親の意思でそうなった。最初は驚いたが、ありがたい配慮だと思った。
退院して家に帰ってきて、こぢんまりとした箱に入っている自分と初めて対面した時、強い安堵感を覚えた。
自分が生きていた、人間であった証拠が残っていることが嬉しくて、それ以降も何度となく骨を眺めていた。
 己の存在が掴めなくなった時、機械の体であることがおぞましくなった時、とても冷たい体が寂しくなった時。
そんな時、かつての自分に会って、自分が自分であることを確かめて、心に安定と平穏をもたらしていた。
もっと早い時期に、黒鉄家の墓に収めるはずだったのだが、鋼太郎が渋っていたので先延ばしになっていた。
両親も骨を墓に入れるべきか否かを決めかねていたので、鋼太郎を急かすこともせず、決断を下していなかった。
箱にすっぽり収まるほど小さくなったとはいえ、息子は息子だ。それに、鋼太郎は脳髄だけだが生きている。
 だからこそ、躊躇いがあった。だが、ずっと床の間に置いておくのも、どこかおかしいような気がしている。
以前の鋼太郎も鋼太郎だが、現在の鋼太郎も鋼太郎だ。前のものが在り続けるのは、少し違和感があった。
しかし、どちらも本物の自分だ。鋼太郎が思い悩んでいると、百合子は表情をほんの少し緩め、眉尻を下げた。

「あのね、私ね」

 百合子は言葉を飲み込みかけたが、言った。

「鋼ちゃんを撥ねちゃった人の知り合いの人に、会ったの」

「…それがどうした」

 鋼太郎の呟きには、怒りや焦燥などが混ざっている。百合子は気圧されてしまい、顔を伏せる。

「その人が、鋼ちゃんを撥ねちゃった人とどういう関係なのかとか、どういう名前なのかは知らないよ。今朝に、あのガードレールのところで会っただけ。私も、鋼ちゃんの友達だって言っただけ」

 あの女性は、二十代前半に思えた。顔立ちも割と整っていたが化粧気は一切なく、顔色は悪くやつれていた。
彼女が百合子に謝ってきた際の声が、忘れられない。重たい苦しみと深い悲しみが現れていて、辛そうだった。

「その人ね、女の人なの。鋼ちゃん、会ったこと、ない?」

「ねぇよ。あるわけねぇだろうが」

 鋼太郎は、急に語気を荒げた。

「そんなの、今はどうだっていいだろうが!」

 百合子は条件反射で首を縮めたが、元に戻し、鋼太郎を窺った。

「でも、一度は会わなきゃいけないと思うよ」

「だからなんだってんだよ、うるせぇな!」

 鋼太郎が腰を上げながら喚くと、百合子は怯えて顔を引きつらせ身を引いた。大きな目が、徐々に潤んでくる。
それに気付いた鋼太郎は、悪ぃ、と呟きながら座り直した。怒りは収まらず、じりじりと胸の内を焦がしている。
 会いたいわけがない。会ったところで何がどうなるというわけでもない。出来れば、一生顔を合わせたくない。
加害者については、鋼太郎も多少は知っている。県内に住んでいた三十一歳の独身男性で、妹と同居していた。
連日の残業で疲れ果てた体で家路を急いでいたところで、鋼太郎を撥ねてしまい、自身は死亡してしまったのだ。
 鋼太郎が知っていることは、それぐらいだ。それ以上知りたいとは思わないし、知っても怒りが増してくるだけだ。
だが、いつか会わなければならない。相手と、そして現実と向かい合う必要がある。けれど、勇気が持てなかった。
 百合子の心遣いはありがたい。サイボーグ化したばかりの頃にも、百合子は鋼太郎を元気付けてくれた。
今回もそうなるのは、さすがに気が引けてくる。いつも百合子に頼ってばかりいるのは、男として情けない。
 百合子は鋼太郎をちらちらと見ていたが、宿題に戻った。だが、顔は今にも泣き出しそうで、切なげだった。
反射的に怒ってしまったのが、いけなかったのだ。怒るべき相手は百合子ではなく、加害者であるはずなのに。
 焦燥が、収まらない。





 


06 11/22