更に翌日。鋼太郎は、事故現場に向かった。 楓と会うことは、百合子以外は知らない。どこへ行くのか、と両親が聞いてきたが適当にはぐらかしておいた。 自転車に乗って、長い橋を渡る。その先の坂には、昨日と同じく、白い軽自動車と喪服を着た楓が待っていた。 鋼太郎は軽自動車の傍までやってくると、自転車を止めた。自転車から降りてスタンドを立て、彼女に向いた。 楓は、沈痛な面持ちで鋼太郎を見つめていた。髪を後頭部で一纏めにしていて、首筋に後れ毛が落ちている。 二人の脇を、数台の車が通り抜けていく。楓の目元には涙が溜まっていて、零れ落ちてしまいそうだった。 「…本当に」 楓は、これ以上ないほど深く頭を下げた。 「申し訳ありませんでした」 楓は、なかなか顔を上げなかった。鋼太郎の頭の内には様々な罵倒が駆け巡ったが、言葉に出来なかった。 項垂れた楓の首筋は、華奢を通り越して痛々しいほど痩せ細っている。それを見ては、何も言えなくなる。 頭ごなしに罵声を浴びせ、これまでずっと抱いていた憎しみや恨みをぶちまけてしまえば、鋼太郎は楽になる。 体を失った苦しみと悲しみを晴らすことが出来、楓とその兄を、完全なる悪に仕立て上げてしまえるからだ。 目に見えた悪を造り出してしまえば、その悪に向けてやりきれない感情や衝動をぶつけてしまうことが出来る。 だが、相手は同じ人間だ。鋼太郎が黙り込んでしまっていると、楓はゆっくりと上体を起こし、涙を落とした。 「私の口からでは、何を言っても言い訳にしか聞こえないでしょう。ですが、話させて頂きます」 楓は、涙を拭おうとはしなかった。 「兄は、早朝に出勤して深夜に帰宅する日々が続いていました。あの日も、徹夜明けでそのまま仕事を続け、久し振りに定時で帰ることが出来たんです。同僚の方の話ですと、兄は仮眠も取らずにそのまま帰っていったそうです。その帰り道に、兄は黒鉄さんと接触して…。そこでほんの少しでも休んでいれば、結果は違っていたのでしょうけど、今更、何を言ってもどうにもなりませんから、あまり言わない方が良いですね」 白いハンカチを持った手で、顔を押さえる。 「ですが、そうなってしまったのは私のせいなんです」 「どういう意味ですか」 楓がなかなか答えないので鋼太郎が水を向けると、楓は肩を落とした。 「私がこんな体でさえなかったら、兄も無理をしなかったでしょうし、黒鉄さんもそうはならないはずでした」 彼女の口調には、憎しみが籠もっていた。誰でもない、自分自身への憎悪だ。 「私は、学生の頃にひどい病気をして心肺機能が低下してしまい、そのままでは死んでしまうと診断されたんです。ですが、手遅れになる前に人造心肺を医師が入手してくれて、移植してもらいました。そのおかげで私は死なずに済み、普通に生きていられるのですが、その代わりに兄を苦しめてしまったんです」 楓の手が、服の胸元をきつく握り締めている。 「その頃には、私達は両親とは死別していましたから、兄だけが頼りでした。だから、頼りすぎてしまったんです」 握り締める手が、僅かに震える。 「私は働けるほどの体力はないので、兄が働いてくれなければ私の体を維持し続けることが出来なかったんです。両親の保険金を切り崩したり、公共機関にも頼りましたが、それだけではやはり足りなくて…」 鋼太郎の脳裏には、明るく笑う百合子の姿が過ぎる。 「しばらくの間は、兄の遺した貯金と死亡保険金で持たせられますが、限りがありますから、尽きるのは時間の問題です。ですが、黒鉄さんへの賠償金だけは、きちんとお支払いします」 憎んでしまいたい。恨んでしまいたい。怒鳴り散らしてしまいたい。だが、そのどれも出来るわけがなかった。 鋼太郎は、立ち尽くすしかなかった。これでは、百合子と同じだ。境遇は違うが、状況はかなり似通っている。 楓は、心臓だけでなく肺までもサイボーグ化しているとなれば、精神的にも肉体的にも相当な苦労があっただろう。 幼い頃から百合子の傍にいたのだから、手に取るように解る。それが解らなければ、まだ良かったかもしれない。 やはり、会わない方が良かったのだ。楓とその兄の境遇や何も知らずにいたら、迷うことなどなかったのだから。 「これから」 鋼太郎の口から、独りでに言葉が出た。 「あなたは、どうするんですか」 「人造臓器の試験患者にでも、なろうかと思っています。そうすれば、とりあえず生きていけますから」 「それは…」 鋼太郎は、目線を落とした。それは、サイボーグ技術を開発する企業に、自分の身を差し出すということだ。 確かに、その道へ進めばサイボーグの部分を維持することが出来、上手くすればより良いものを付けてもらえる。 だが、それは良い方向に向かった場合だ。下手をすれば、試験の最中に命を落としたり、病状が悪化してしまう。 生きていけることは生きていけるかもしれないが、決して楽ではないだろう。楓は、寂しげな眼差しを遠くに投げた。 「いいんです。どうせ、私は、一人ですから」 夏の暑さが、楓の頬の涙を乾かす。 「兄がいなくなってしまったのだから、私には、もう帰る場所も待っている人もいませんから」 「それで」 いいんですか、と続けようとしたが、鋼太郎は言えずに飲み込んだ。 「ありがとうございます。でも、もう、本当にいいんです。私は、それでいいと決めたんです」 楓の口調が、少し強まった。 「兄の犯した罪は、誠心誠意償います。それだけは、保証いたします」 また、深々と頭を下げた。 「お会いして頂けて嬉しかったです、黒鉄さん。きちんと謝罪させて頂けたことを、本当にありがたく思っております。どうか、私と兄のことは早くお忘れになって、先へ進んで下さい。あなたはまだお若い人です、未来が拓けているんです。ですから、いくらでも、どうにでもなるんです」 初めて、楓は声を張った。 「どうか、生きて下さい」 それでは失礼します、と楓は鋼太郎に背を向けた。楓の言葉が物悲しくて、切なくて、鋼太郎は胸苦しくなった。 きっと、この人とはもう二度と会えないのだろう。明確な理由は解らないが、鋼太郎はそんな確信を得ていた。 楓もそう思っているからこそ、そんなことを言うのだ。鋼太郎は軽自動車に乗り込もうとする楓に、声を掛けた。 「あの」 「はい」 楓はドアに手を掛け、鋼太郎に向いた。 「お兄さんは、どんな人だったんですか」 「兄は、優しい人でした。いえ、優しすぎたんですね」 楓は、それでは、と軽自動車に乗り込んだ。鋼太郎は、発進を妨げないように、一歩引いて距離を空けた。 程なくして白い軽自動車は発進し、大きく曲がった長い坂を下りて、町の方へと向かって走っていった。 田んぼの間に伸びている道路を白い車体が通るのを見送ってから、鋼太郎は背を向け、自転車に跨った。 橋を通って、集落に戻る。橋を渡り終えてすぐの場所にある、鎮守社を囲んでいる杉林までやってきた。 その杉林の傍に、二十二インチの赤いフレームの自転車が留まっていた。隣には、百合子が立っている。 鋼太郎はブレーキを握り、彼女の手前で止まった。百合子は橋の先にある、事故現場を見つめていた。 「鋼ちゃん」 百合子は物憂げで、何か言いたげだった。鋼太郎も言いたいことは色々あったが、言ったのはこれだった。 「帰るぞ、ゆっこ」 「うん」 百合子は頷いた。自転車に跨った百合子は、あっ、と唐突に高い声を上げた。 「んだよいきなり」 鋼太郎が驚いて振り返ると、百合子は悔しがっている。 「自転車、乗って来なきゃ良かった! そしたら、鋼ちゃんのに乗っけてもらえたんじゃんよー!」 「馬鹿か。ここからお前んちまでせいぜい数百メートルだぞ、そんなのどうでもいいじゃねぇか」 鋼太郎が呆れると、百合子はむくれながらスタンドを足で蹴り、跳ね上げた。 「どうでもよくないよお。二人乗りってのはね、校則違反である前に青春のロマンスなんだよー!」 「訳解んねぇ」 鋼太郎が漕ぎ出したので、百合子も慌ててペダルを踏んだ。 「あっ、待ってよ!」 「待てるかってんだ」 「この意地悪サイボーグぅー」 「言ってろ」 百合子の文句を背に受けながら、鋼太郎は自転車を走らせた。少し早くすると、あっという間に距離が空いた。 百合子は追い付こうとしているようだったが、タイヤの大きさと体力が違いすぎるので追い付けるわけがない。 普段であれば置いていくのだが、なんとなく待っていた。百合子が並んでから、また自転車を漕ぎ出した。 お互いの家までの距離は、本当に短い。集落自体もあまり広くないが、家が少ないのでそう見えないだけだ。 鋼太郎は家に向かいながら、楓の話を思い返していた。忘れることが出来ない、いや、忘れてはならないことだ。 お盆なので、近所の家々には遠方から身内が帰省しているらしく、あまり見慣れない車が何台も停車していた。 百合子の家の方が手前なので、先に到着した。この集落の中では近代的な雰囲気の、洒落た白い壁の家だ。 車庫の前で自転車を止めた百合子は、降りた。スタンドを立てて鍵を掛けている彼女に、鋼太郎は言った。 「ゆっこ」 鋼太郎は集落の奧にある、墓地の方向を見やった。 「オレの骨、墓に入れるよ」 「そっか」 百合子は、笑った。鋼太郎は前に進んだのだ。それならば、自分も前に進まなくてはならない、と思った。 これからは、鋼太郎の死した場所に行くのは止めよう。彼が振り切ったのだから、自分自身も振り切らなくては。 一抹の寂しさが胸を過ぎったが、呆気なく消え失せた。鋼太郎は目の前で生きている、だから悼まなくていい。 「理由とか、あんまり聞くんじゃねぇぞ」 鋼太郎は、百合子に視線を戻した。 「聞かないよ。だって、そういうことは鋼ちゃんの自由だもん」 じゃあね、と自転車の鍵を持った百合子は手を振りながら家に入った。鋼太郎は地面を蹴り、走り出した。 アスファルトから立ち上る熱気は、サイボーグボディを過熱させる。生身なら、汗がだらだら出ているだろう。 ペダルを踏むと、それに合わせてチェーンが動き、後輪を回転させる。自宅に続く道を辿り、集落の中を進む。 鎮守社とは別の小さな神社の脇を通り、そこかしこから聞こえるアブラゼミの鳴き声を浴びながら、走っていた。 アスファルトの上で、陽炎が揺らいでいる。 そして、八月十五日。お盆の終わりということもあり、黒鉄家には親戚が集まっていた。 親戚達と黒鉄家の墓参りをした後に、鋼太郎は自分の手で骨を全て墓に入れた。食べた一片を、除いては。 己の骨を食べたことは、誰にも言わなかった。言ったところで理解してくれないだろうし、してもらうつもりはない。 自分でも、なぜ骨を食べたのかは解らない。その理由を説明しろと求められても、解らないのだから無理だ。 ただ、あの瞬間、食べたくなったから食べてしまったのだ。魔が差した、とでも表現するのが妥当だろう。 道中に、この集落を守っている無人の寺に参り、家路を辿っていた。親戚の子供と、弟と妹が遊んでいる。 銀次郎も弾けた表情を見せていて、楽しそうだった。今は、鋼太郎の存在を頭の中から消しているのだろう。 それを寂しいと思いながらも、考えないことにした。焼け付くようなアスファルトを踏み締めて、黙って歩いた。 手には、空っぽになった骨箱がある。その軽さがとても寂しく、また、得も言われぬ達成感を生み出していた。 骨箱を両手で抱えるように持っていたので、自然と目線は下がっていた。だから、気付くのに遅れてしまった。 すぐ傍を、黒い影が通りすぎた。見覚えのある詰め襟と季節外れの学ラン、短く切った髪、忘れもしない顔立ち。 鋼太郎は急いで振り返ったが、少々遅かった。道路伝いに流れてきた生温い風が、足元を吹き抜けていった。 背後には、誰もいなかった。黒光りする高温のアスファルトと、青々とした田んぼが道の両脇にあるだけだ。 「あれは…」 自分だ。いや、自分だった者、だ。 「気のせい、だよな」 気のせいでなかったら、どれほど嬉しく、また切ないことか。鋼太郎の胸中に、強烈な感情が込み上げてきた。 笑いたいのか、泣きたいのか、嘆いてしまいたいのか、自分でもよく解らなかった。ただ、苦しいのは確かだ。 鋼太郎は歩調を緩め、親戚達から離れて歩いた。彼と擦れ違った場所から離れてしまうのが、名残惜しかった。 次にまた彼と会えるとしたら、きっと来年のお盆だろう。お盆は、死者があの世から帰ってくる日なのだから。 来年のお盆にまた会えたら、今度こそちゃんと顔を見てやろう、と思いながら鋼太郎は墓地へと一度振り返った。 そして、前に向き、歩調を早めた。 06 11/24 |