心を歪める、過去の楔 鈍色の線路が、強烈な日差しに焦がされていた。 ホームの後ろにある斜面からは、八月の終盤になっても全く勢いの落ちないアブラセミの声が鳴り響いていた。 四人は日陰になっているベンチに腰掛け、このホームに五分後にやってくる、一ヶ谷行きの電車を待っていた。 右から、百合子、鋼太郎、正弘、透の順番だ。百合子は、爽やかな白の帽子と水色のワンピースを着ている。 鋼太郎はタイガースのロゴが入った半袖Tシャツとジーンズ姿で、正弘もそれとあまり変わらない恰好をしている。 透はTシャツの上にネイビーブルーのサマーカーディガンを羽織っており、細身のストレートジーンズを着ていた。 ホームの端に伸びる白線の手前に、彼が立っている。黒のタンクトップと、ミリタリー調のハーフパンツ姿だった。 良く日に焼けた太い腕は、上腕の上半分がやや白くなっていて、首筋も似たような具合に肌の色が違っている。 左肩にデイパックを引っ掛けていて、その肩掛けベルトを左手で持っている。透の兄、亘は、四人に苦笑いする。 「悪いな、無理言って」 「あ、いえ、別に。オレ達は気にしていませんから、亘さんも気にしないで下さい」 正弘が返すと、亘はベンチに座る四人を見下ろした。 「ありがとう。なるべく邪魔をしないように努力するよ」 「はぁ」 鋼太郎は、曖昧な返事をした。百合子はスカートから伸びた細い足を、ぶらぶらさせている。 「でも、せっかく一緒なんですから、透君のお兄さんもお買い物しましょーよー」 「するのはお前だけだ。オレはしねぇ。つうか、オレらまで付き合わせるんじゃねぇよ」 鋼太郎が百合子をぞんざいにあしらうと、百合子はむくれる。 「いいじゃんよー、別にぃ! 一人で行ったってつまんないんだもん!」 「あ、私も、買い物はしたいです。一ヶ谷の駅ビルには、前々から、行ってみたかったし」 透が小さく言うと、正弘は鋼太郎の側頭部を小突いた。 「いちいちゆっこに突っ掛かるな。鋼、虫の居所でも悪いのか?」 「鋼ちゃん、寝起きなの?」 百合子が首をかしげると、鋼太郎は言い返した。 「違ぇよ、そんなわけあるか」 「おっかしーのー」 百合子は鋼太郎の態度を訝ったが、それ以上は言わなかった。亘がいるので、ケンカに発展させないためだ。 鋼太郎は百合子が問い詰めてこないことに安堵しつつも、ゴーグルの下で目線だけ動かして、透の様子を窺った。 兄が傍にいるから、普段よりも緊張していないように思える。口調は相変わらず頼りないが、表情は穏やかだ。 服装は、五月の連休にスケッチを行っていた時とさほど変わらない。トレーナーが、カーディガンになっただけだ。 透の兄である亘は、透と言葉を交わしている。見るからに健康的な体躯なので、都会っぽさは感じられない。 腕と首回りだけが白いのは、恐らくユニホームのせいだろう。透の話によれば、亘は野球部の部員らしい。 鋼太郎は彼の境遇が素直に羨ましくもあり、また少しばかり妬ましいと感じたが、気を紛らわせて払拭した。 なぜ、亘がサイボーグ同好会に同行するのか。その理由は至って簡単で、亘が三人に会いたがったからだ。 前々から会いたがっていたらしいのだが、なかなか都合が付かず、そして透が三人に遠慮していたからである。 そんな折、四人で一ヶ谷にでも買い物に行こう、と百合子が言い出した。その時、透が控えめに進言した。 お兄ちゃんが皆さんに会いたがっているので、お兄ちゃんが一緒でもいいですか、と、細々とした声で言った。 百合子はすぐに承諾し、正弘も多少戸惑いながらも承諾したので、鋼太郎も流れで承諾せざるを得なかった。 鋼太郎は不可解な気持ちがあったのだが、三人からの許可を得た透の喜びようを見ては、何も言えなかった。 普段は高揚しても気恥ずかしげに笑うだけなのに、その時の透は、本当に嬉しかったのか少しはしゃいでいた。 その様子に、鋼太郎の感じた不可解さは強くなった。なんともいえない不快感に似たものが、湧いてきた。 不快感を引き摺っているせいか、百合子の子供っぽさがやけに鼻に付いてしまい、余計に機嫌が悪くなった。 自分のことなのに、上手く掴めない。子供の癇癪じゃあるまいに、とも思うが拭いきることが出来なかった。 駅員のアナウンスが聞こえ、四両編成の電車が近付いてくるのが見えた。 一ヶ谷駅に到着した五人は、駅ビル内の店舗に向かった。 五階建てのビルの四階のフロアには、女の子向けの服や雑貨を揃えた店が多く、客層も学生ばかりだった。 百合子は駅ビル内の店には何度も来ているらしく、慣れた様子で歩いているが、他の面々はそうではない。 透は可愛らしい服や雑貨に目を奪われているが、他の三人はどうにも居心地が悪いので歩調が遅くなっていた。 小中高の少女達が多い中を歩くのだから、普段以上にサイボーグボディが目立ってしまい、人目を引いてしまう。 鋼太郎と正弘は、気恥ずかしさとやりづらさのせいで俯いてしまう。正弘は鋼太郎に顔を寄せ、小さく話し掛けた。 「ある意味、異空間だな」 「そうっすね…」 鋼太郎は、はしゃぎ回る百合子に強引に引っ張られていく透を見ていたが、フロアの内装をぐるりと眺めた。 とにかく、派手だ。商品棚に並んでいる商品も、様々な原色が使われているので見ているだけでうんざりする。 擦れ違う女の子達から零れている化粧の匂いを、嗅覚が全て感知しているが、センサーを遮断したくなった。 整髪料や制汗料だけでも匂いがあるのに、更に香水や多種多様な化粧品を使っているので、ごちゃ混ぜなのだ。 生身であればある程度抜けるのだが、嗅覚のセンサーには問答無用で入ってくるので、全て受け止めてしまう。 このままここにいたら、彼女達の匂いで酔いそうだ。鋼太郎は嗅覚から気を逸らそうと、百合子らを探した。 気付けば、二人はフロアの奥の方にある店に行っていた。百合子はとても楽しそうな笑顔で、手を振ってくる。 早くこっちに来い、との意味なのだろう。鋼太郎が仕方なしに歩調を早めながら、正弘の後方にいる亘に尋ねた。 「あの、亘さんは平気なんすか?」 「何がだ?」 亘が不思議そうにすると、鋼太郎はうんざりしながら嗅覚センサーの付いた部分、耳元を覆うカバーを指す。 「香水とかの匂いっすよ。なんかもう、凄ぇんすよ、さっきから」 「そうか? 確かにきついとは思うが、凄いとまではいかないんじゃないのか」 亘が言うと、正弘は耳元のカバーを手で押さえながら鋼太郎に向いた。 「鋼、後でセンサーのパラメーターをいじろう。そうでもしないと、とてもじゃないが耐え切れない。気が狂いそうだ」 「了解っすー」 鋼太郎は、力の抜けた敬礼をした。正弘は、頭を横に振った。 「一人二人ならまだしも、これだけ人数がいるとたまったもんじゃないな」 「大変だな、君達は」 亘に同情され、正弘は苦笑気味に返した。 「楽なことの方が少ないですよ。まぁ、慣れているから平気ですけど」 あー気持ち悪ぃ、と漏らしながら、鋼太郎は百合子の待つ店までやってきた。透は、百合子の陰に隠れている。 この店にある洋服は、周囲の店とは色合いが少し違っていて、少女趣味でパステルカラーの服が多かった。 ハンガーに下がっている服の中には、以前百合子が着ていたものもあるので、百合子のお気に入りの店らしい。 「透君、お金どれぐらい持ってきた?」 百合子が尋ねると、透はポシェットから財布を取り出した。 「大した量じゃないですけど、一応、あるにはあります」 「じゃ、行こう! ここよりも右側の棚にある服の方が、ちょっとだけ安いんだ!」 百合子は透の手を引っ張って歩き出そうとしたが、足を止め、三人に振り返った。 「途中でどこか行っちゃわないでね、鋼ちゃんも先輩もお兄さんも! はぐれたら困るから!」 「あ、でも、あの」 戸惑っているのか、透の頬はうっすらと紅潮している。そんな透に、亘は笑いかけた。 「待ってるから、行ってこいよ」 「じゃ、改めて!」 意気揚々とした百合子に連れられ、透は店の奥に消えてしまった。鋼太郎は、どうするべきか迷ってしまった。 二人が買う服を選び終わるまで時間が掛かるだろうから、ここにいても暇だ。しかし、はぐれてしまったら困る。 正弘も同じ考えのようで、辺りを見回していたが、エスカレーター付近に設置されているベンチを見つけた。 「それじゃ、オレ達はあそこにでもいますか」 「透には悪いが、ここにいたってどうしようもないからな」 亘が同意したので、鋼太郎はそのベンチに向かった。 「じゃ、そうしましょう」 昇りのエスカレーターと下りのエスカレーターの間の手狭な空間に、自動販売機が一台押し込められている。 その前に幅広のベンチが二つ設置され、向かい合わせになっている。小休止出来るように、とのことだろう。 なんとなく、鋼太郎と正弘は亘と向かい合って座った。こうして正面から向き合うのは、初めてかもしれない。 電車の中では、珍しく混雑していたので立っていたし、最初に会った時も挨拶をしてすぐに駅舎に入った。 駅で待っていた時も、会話らしい会話をしていなかった。お互いに興味はあったが、切り出せなかったのだ。 どちらも話を始めるのを躊躇ってしまったため、妙な沈黙が生まれた。しばらくして、亘が口火を切った。 「黒鉄君と村田君だったか」 「下の名前でも構いませんよ」 正弘が言うと、亘は照れくさそうにする。 「それじゃ、いっそのこと呼び捨ててもいいか? 君、なんて付けると恥ずかしくってさ」 「解ります」 正弘が少し笑うと、鋼太郎は頷いた。 「別になんでもいいっすよ。オレは気にしませんから」 「オレもです」 と、正弘も続けた。亘は気さくな笑顔で、ありがとう、と言ってから二人のいる店を見やった。 「透、いつもあんな感じなのか?」 「あー、はい。大体あんな感じっすよ。最近は、前よりはまともになったっすけどね」 「いつも敬語なのか?」 亘の問いに、今度は正弘が返した。 「たぶん、オレ達が上級生だからじゃないですか。鋼とゆっことは同い年ですけど、学年は一年違いますから」 「そうか…」 亘が急に表情を硬くしたので、鋼太郎がきょとんとした。 「あの、それがどうかしたんすか?」 「いや、なんでもないんだ。透が元気なら、それでいいんだ。ありがとう」 亘は表情を戻し、笑んだ。二人のサイボーグはマスクフェイスなので表情こそ見えないが、態度は悪くない。 透の話から窺った雰囲気と、あまり変わらなかった。鋼太郎は態度は少々荒いが、正弘は誠実そうな少年だ。 百合子も体こそ小さいが明るく屈託のない少女で、これなら透を任せておいても大丈夫だ、と亘は思っていた。 敬語で話しているということだけは少し引っ掛かるが、それは正弘の推測と同じ理由と考えてもいいだろう。 あまり、マイナスに考えてはいけない。不安に駆られて、余計なことをして透の邪魔をしてはならないのだ。 亘は二人のいる店を見やり、百合子に可愛らしい洋服を押し付けられて困っている透の姿に、目を細めた。 遠くからでも、彼女が赤面しているのが解る。百合子の押しの強さに困惑しているのか、もしくは照れているのか。 表情を緩めている亘の横顔に、鋼太郎は視線を据えていた。あのおかしな不快感が、じわりと胸の内に迫る。 山下亘は、好感の持てる人間だ。妹がサイボーグだからだろうが、鋼太郎と正弘にも偏見を持たずに接してくる。 彼が野球好きであることもそうなのだが、どちらかと言えば好きなタイプの人間だが、何かが面白くないのだ。 初対面の相手にそんなことを思うのはどうかと思うが、焦燥に似ているが明らかに違う感情は、勝手に強くなる。 鋼太郎は誰とも目を合わせられず、顔を逸らした。正弘は亘の視線の先と、鋼太郎の態度を、交互に見た。 まさかな、と正弘は自嘲した。もしも、百合子が以前に言っていた推察が、推察ではなく真実だったとしたら。 彼女の想像した通りに、鋼太郎が透のことを気に掛けているのだとしたら、その先にまで至っているとしたら。 そうだとしたら、百合子が哀れでならない。正弘は百合子に対する強い同情と、鋼太郎に対する苛立ちを感じた。 店内の明るいBGMが、聴覚を上滑りしていた。 06 11/27 |