非武装田園地帯




第十四話 傷痕



 試着室の中で、透は困っていた。
 壁に備え付けられた全身鏡に映っている自分は、今まで一度も着たことがない、可愛らしい服を着ている。
淡いピンクのブラウスで、襟は丸みを帯びていて袖口にはレースが付いている、いかにも女の子らしいものだ。
百合子が着たら似合いそうな、というより、百合子の趣味そのものだ。まるで、着せ替え人形になった気分だ。
 透は左手の手袋を填め直してから、カーテンを開けた。すると百合子がすぐさま顔を出し、別の服を差し出した。

「じゃ、その上にこれね!」

「え、あ、まだあるんですか?」

 透が眉を下げると、百合子は薄手の白いカーディガンを透に渡す。

「上がこれなら下はジーンズよりもスカートの方がいいよね。じゃ、次、スカートも持ってくるね!」

「あっ、あの」

 商品棚に向かおうとした百合子に、透は手を伸ばして引き留めた。百合子は、透に振り返る。

「なあに、透君?」

「あの、私、スカートは、ちょっと」

「透君は、スカートって好きじゃないの?」

「はい、あんまり。だから、その、ごめんなさい」

 透が恐縮しながら謝ると、百合子はにこにこして手を横に振る。

「いいよ、それならそれで別のを持ってくるから。じゃ、ちょっと待っててね!」

 百合子の足音が遠のいてから、透は安堵してカーテンを閉めた。彼女から渡されたカーディガンを、広げてみた。
レース生地で出来ていて、手触りも柔らかい。胸の下に細い紐が通してあり、それを結べばシャーリングになる。
これでは夏というよりも春っぽい恰好だが、長袖を着ないと外へ出られない透に配慮しての選択なのだろう。
 百合子の気遣いを嬉しく思いながらも、透は自分の趣味からは懸け離れている服を着ることを躊躇していた。
だが、せっかくなので着ないのはまずいだろう。透は怖々、カーディガンに袖を通し、胸元で紐を結んでみた。
必然的にリボン結びになるので、一層可愛らしくなった。透は鏡の中の自分を見た途端、逃げ出したくなった。
 着慣れない服を着ることは、とてつもなく恥ずかしい。カーディガンの長めの裾を、ちょっと持ち上げてみる。
確かに、これではジーンズよりもスカートの方が合う。透もそう思ったのだが、スカートは本当に好きではない。
制服は着なくてはならないので着ているが、私服では一枚もない。透は、鏡の中の自分から目を逸らした。
しばらくすると、足音が近付いてきた。透が外を覗き見ると、丈が短めのジーンズを持った百合子が戻ってきた。

「これならいいよね?」

「あ、はい。大丈夫です」

 透は百合子から、そのジーンズを受け取った。これもまた可愛らしいが、上に比べればシンプルなデザインだ。
それじゃ、と透はカーテンを閉めて百合子の持ってきた丈の短いジーンズを足元に置いて、ジーンズを脱いだ。
サイズは伝えた通りのものを持ってきてくれたので、問題はないようだ。透は両足を入れて、引き上げた。
 股上が浅いものなので、腹部と尻が目立ってしまうのがちょっと気になってしまうが、サイズはぴったりだ。
ジーンズの裾はふくらはぎの半分ほどになっていて、涼しげだ。透はまたカーテンを開けて、百合子に言った。

「あの、これでいいですか?」

「うん、いいよ! じゃ、ちょっと待っててね、鋼ちゃん達呼んでくるから!」

脱いじゃダメだよ、と百合子は強調してから三人のいるベンチに向かっていった。透は、身を縮める。

「そんな…」

 自分で見るだけでも恥ずかしいのに、他人に見せたらどれだけ恥ずかしいのか。しかも、その相手が彼らだ。
透は脱いでしまいたかったが、そんなことをしては百合子に悪い。だが、この姿を見られてしまうのは困る。
鏡を見ると、頬は真っ赤に染まっている。自分でも呆れてしまうほどだが、どうにもすることは出来なかった。
 外からは、三人の声と百合子の話し声が近付いてくる。逃げられないのだから、覚悟を決めてしまおう。
そう思ったが、やはり恥ずかしい。透は火照っている頬を両手で隠し、精一杯体を縮め、顔を伏せてしまった。
 そして、カーテンが開かれた。




 それから、およそ二時間後。駅ビル内にあるカフェで、五人は休んでいた。
 窓際のテーブル席に座っていて、鋼太郎と正弘が右手の席に、百合子と透と亘は左手の席に並んで座っていた。
百合子の足元には買ったばかりの服や雑貨の入った買い物袋がいくつもあり、透の脇にも、袋が二つあった。
 その片方には、百合子の着せられた服が入っている。試着してお披露目された後、押し切られて買ってしまった。
百合子ら三人だけでなく、亘まで可愛いと褒めてきたので、買わなければいけない雰囲気になったからだった。
透はグラスに入ったレモンスカッシュをストローで吸っていたが、服の入った袋を横目に見、弱々しく漏らす。

「…やっぱり、自信、ありません」

「そんなことないよお。透君、すらっとしてるからなんでも似合うもん」

 いいなー、と羨ましげに言いながら、百合子はアイスココアを啜った。鋼太郎は、百合子の足元の袋を見下ろす。

「ていうか、お前は買いすぎだ。そんなにいらねぇだろ、服なんか」

「必要なものは必要なの! 同じのばっかり着ているわけにいかないじゃんかー」

 百合子が言い返すと、鋼太郎は首をかしげる。

「その方がいっそ楽じゃねぇの? 選ぶ手間がなくて」

「その選ぶのが楽しいんだってば! 鋼ちゃんってつくづく女心が解らないんだねぇー」

 ねぇ透君、と百合子がいきなり話を振ってきたので、透は一瞬ぎょっとしたが受け応えた。

「あ、はい、そうですね。沢山あると、楽しいですもんね。絵の具も、色鉛筆も、種類は多い方がいいし」

「透らしいな」

 透の喩えに、亘は笑った。透は兄を横目に見たが、目線を彷徨わせる。

「だ、だって、それしか、思い付かないから…」

「しかし、服を選ぶだけで二時間か。えらく時間が掛かるな、ゆっこの買い物は」

 正弘の言葉に、鋼太郎は頷いた。

「さっさと決めちまえばいいんだよ、そんなのは。どうせ大したものじゃねぇんだから」

「そんなことしたら、お買い物の楽しみが九割減じゃんかー! そんなんじゃ、女の子とデート出来ないぞ!」

 百合子が鋼太郎を指差すと、鋼太郎は顔を逸らす。

「別に出来なくてもいい。ていうか、お前とはしねぇから安心しろ」

「…うー」

 百合子は不満げに眉を曲げていたが、姿勢を戻して座り直した。正弘は、可笑しくなってきた。

「じゃ、鋼の代わりにオレがしてやろうか、ゆっこ」

「ホントにいいんならお願いしちゃっていいですか、ムラマサ先輩? 鋼ちゃんは当てにならないから」

 百合子がにやりとすると、鋼太郎は正弘に向いて百合子を指した。

「こんなのと一日中一緒にいるのなんて、うんざりするだけっすよ、ムラマサ先輩」

「別にうんざりはしないさ。それに、ゆっこといるのは楽しいから」

 正弘が百合子に向き直ると、百合子は正弘を見上げてきた。

「私もです」

 真正面から向けられた笑顔は底抜けに明るく、可愛らしかった。痛みに似た感覚が、いや、錯覚が駆け抜けた。
その錯覚はすぐに消えたが、余韻は濃く残っていた。正弘は次第に動揺を感じてきたが、ぐっと押さえ込んだ。
カフェは駅ビルの最上階にあるため、一ヶ谷駅前が見渡せた。バスターミナルには、何台もバスが止まっている。

「午後は、商店街にあるお店に行こうかなー。この間、病院帰りに寄ったんだけど、良さそうなものがあったから」

 駅前を見下ろしながら声を弾ませる百合子に、鋼太郎はげんなりした。

「まだ買うのかよ、お前」

「そりゃ買うよお。そのために、必死にお小遣い貯め込んでるんじゃんかー。今使わずにいつ使うのだっ!」

 腰に手を当て、百合子は胸を張る。鋼太郎は、やれやれと言わんばかりに首を振る。

「あーもう、オレ、帰りてぇー…」

「堪え性がないな」

 鋼太郎の言い草に、正弘は笑った。彼らのやり取りを見ながら、透はレモンスカッシュを啜り、飲み干した。
酸味の強い炭酸が喉を過ぎ、爽やかな味が舌に残る。ストローを外して隣に座る亘を見ると、亘と目が合った。
驚いた透は、慌てて目を逸らした。そっと目を戻すと、亘はとても嬉しそうに頬を緩めながら妹を見ている。
 きっと、気付かないうちに浮かれていたのだろう。透はまた熱を持った頬に触れながら、グラスの中身を混ぜた。
溶けかけた氷がストローで動かされ、グラスの内側にからからとぶつかり合い、硬質で涼しげな音色を出す。
透はその手を止め、いつのまにか緩んだ口元に気付いた。兄が傍にいるからだろうか、意識しないでも笑えた。
今までは、彼ら三人の前でも、上手く表情が出せなかった。嬉しさよりも、緊張が先に立ってしまったせいだ。
窓ガラスに映る自分を見ると、まだぎこちないながらも笑っている自分がいた。透は、ますます嬉しくなった。
 不意に、カバンの中から電子音が聞こえた。その発生源は透のポシェットで、携帯電話の着信音らしかった。

「誰だろう」

 透は不可解に思いながら、ショルダーバッグを探って携帯電話を取り出し、フリップを開いて着信名を見た。
見た途端に、心臓が縮み上がり口の中が干上がった。背筋を駆け上ってきた嫌悪感が、一気に溢れ出した。
早く、早く、早く、こんなものを捨ててしまえ。こんなもの、こんなもの、こんなもの、絶対に必要ないのだ。
 直後、グラスを跳ね飛ばした。氷が飛び散る。携帯電話を窓に力一杯叩き付け、ぱぁん、と硬い音が響いた。
本体の表面に、細かなヒビが出来ていた。携帯電話を放り投げた機械の左手が、ぎしぎしと軋んでいる。

「う」

 透は、目を見開いていた。窓から滑り落ちた携帯電話は、鳴り続けている。

「透君?」

 百合子が慎重に声を掛けると、透は項垂れた。左手を、力の限り握り締めている。

「嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌!」

 最初は小さかった声が次第に上擦り、金切り声になる。

「嫌あ!」

 右手で左腕を掴み、爪を立てる。背中を丸めて震え出した透を支え、亘は妹を宥める。

「大丈夫だ、大丈夫だから」

 その優しい声と透の嗚咽に、携帯電話の着信音が混じる。電子音ながらも音域の広い音楽が、流れ続ける。
テーブルには溶けかけた氷が散らばり、グラスが倒れている。テーブルの端から、水滴が涙のように落ちていく。
 鋼太郎は急に怯え出した透を見つめていたが、鳴り続ける携帯電話を取った。飾り気のないデザインのものだ。
端にヒビが走っている液晶モニターには、相手の電話番号とアドレス帳に登録されている名前が表示されていた。
 着信名は、お母さん。





 


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