目線だけで、ボールの行く末を追った。 大きく弧を描いたボールがスコアボードの手前に落下すると、三塁にいたランナーとバッターが駆け出した。 ホームベースに戻ってきた二人の選手は、他の選手達と手を叩き合い、二点リードしたことを喜び合っている。 四回裏。ファイターズが未だに得点出来ずにいるのに対し、イーグルスはホームランのおかげで四点になった。 このままイーグルスのペースが続けば、ファイターズに勝ち目はない。銀次郎も、そうなるのだと思っている。 あまり、面白くない試合だ。ファイターズは一方的に攻められているだけで、イーグルスに太刀打ち出来ない。 少しでも反撃するのであれば、まともだが、ファイターズの打撃陣は敵の変化球に負けて三振を繰り返している。 このまま、逃げ切られるに決まっている。銀次郎が黙っていると、また、透が頼りない声で話し掛けてきた。 「あの、えっと、銀次郎君」 「今度は何」 銀次郎がやる気なく返事をすると、透は途切れ途切れに言った。 「次の、ファイターズの一番バッターは、さっき、ヒットを打ち上げた選手、なんですよ」 「だから?」 「えっと、だから、たぶん、打ってくれると思います」 「打ってもホームに戻れなきゃ意味ないよ」 「それは、きっと、外野手が」 「透さんって、ファイターズの方を応援してるの?」 「いえ、そうじゃなくて、えっと、その。その方が、面白いんじゃないかなって…」 透の声は、次第に小さくなってしまった。そろりと目を動かし、正弘を見上げる。 「お、お願いします、ムラマサ先輩。私じゃ、その、無理、です」 「まだ一分も経ってないぞ?」 正弘はゴーグルの端を、自分の視界の隅にある時計を指す。透は泣きそうになり、ぶんぶんと首を横に振る。 「だっ、だめなんです、ほんとうに、もう、ほんとうに」 「いかにゆっこの存在が大事か、よく解ったよ」 間が持たない、と正弘は苦笑した。透は、こくこくと頷く。 「私じゃ、会話が、続きません…」 「仕方ない。じゃ、オレの番か」 正弘は前のめりになり、前の座席の背もたれに腕を載せた。階段の出入り口を窺うと、二人は引っ込んでいた。 来るな、と意図したのは正弘だが、まさかここまで透が持たないとは予想外だった。彼女の弱さは物凄い。 最初のうちは、透に頑張ってもらって銀次郎と会話しようと思っていたが、頑張る以前の問題だったようだ。 どうにかして、銀次郎と会話をしなくては。間が持たないからということもあるが、鋼太郎のためでもある。 彼は、幼い弟と和解したがっている。だから、兄弟の仲を少しでも良い方向に進ませたい、と思っている。 だが、勝手が解らない。正弘は、家族が健在な頃は末の兄弟だったし、幼い子供と接する機会などない。 何を話せばいいのか、どうやって相手をすればいいのか、まるで見当が付かず結局正弘も黙ってしまった。 三人の間に、妙な沈黙が流れる。バットが大きく振られる音がし、ストライク、と審判が威勢良く判定した。 「なぁ」 正弘は言葉を選びながら、銀次郎の背に話し掛けた。 「銀、でいいかな。銀は、ゆっこは平気なんだな?」 「別に、なんでもいい。ゆっこ姉ちゃんは、普通だから」 銀次郎は、淡々としている。正弘は身を乗り出して、銀次郎の傍に顔を出す。 「だが、ゆっこも心臓は機械だぞ?」 「でも、見た目は普通じゃん。中学生っぽくないけどさ」 だから、と銀次郎は締めた。正弘は、腕を組む。 「まぁな。ゆっこはそういうもんだ。じゃあ、オレは平気か?」 「うん」 銀次郎は頷いた。正弘はそれが意外で、内心で目を丸くした。てっきりサイボーグが嫌いなのだと思っていた。 人間であるが、人間とは懸け離れた存在であるサイボーグを毛嫌いする人間は、世の中にはいくらでもいる。 生理的な嫌悪感や外見への恐怖、脳だけで生きる人間を人間と認めたくない思想、などが主だった理由だ。 銀次郎も、そういう類の性格なのだとばかり考えていた。だから、正弘のことが平気なのが不思議だった。 不可解さを感じながらも、感情をなるべく声に出さないようにしながら、正弘は銀次郎との会話を続けた。 「オレも、鋼と同じだぞ? AI制御式疑似人体使用者であることは変わらないはずだが」 正弘は、敢えて口調を明るくした。銀次郎は、横目に正弘を見やる。 「でも、ムラマサ先輩は平気なんだ。本当に」 「えっと、どうして、なんですか?」 恐る恐る、透が会話に混じってきた。銀次郎はちょっと考えてから、口を開いた。 「たぶん、ムラマサ先輩が普通だった頃を、知らないからだと思う。ゆっこ姉ちゃんも、最初からああだったから」 「つまり、先入観があるんだな? 鋼が普通だった頃を知っているから、今の普通じゃない、いや、そういう言い回しは良くないな、今のサイボーグの鋼に対して違和感があるんだな?」 正弘が並べた言葉が解らないのか、銀次郎はきょとんとしている。ややあって、透が捕捉する。 「えっと、その、ですね。前の黒鉄君と、今の黒鉄君が違うから、変な気がするんじゃないかってことです」 「そうなのかなぁ」 銀次郎は、兄に似て少々きつめの眼差しをグラウンドに投げた。正弘は、首を竦める。 「オレの主観だ。あまり真に受けなくてもいい」 かぁん、と硬質な音が放たれた。バッターが真上に打ち上げたファウルボールを、キャッチャーが受け止める。 銀次郎は、再度正弘を窺った。兄とは違う形状のマスクフェイスをしていて、表情は兄以上に読み取れなかった。 兄は動きがあるからまだ解るのだが、座っているからと言うこともあり、正弘はあまり身動きしていなかった。 じっと見ていると、正弘の視線が銀次郎に向いた。ぎっ、と首の内側でシリンダーとシャフトが動いた音がする。 「ん?」 正弘のグリーンのゴーグルに、無表情な子供が映っている。銀次郎は、正弘のマスクフェイスを見つめた。 夏の暑さを残した日差しに照らされて白んでいるマスクは、輪郭が輝き、ゴーグルは薄明かりを放っている。 つい、彼を兄と重ねていた。兄が帰ってきた日。鋼太郎が退院してきた日のことは、未だに忘れられない。 その日を、とても楽しみにしていた。大好きな長兄が家に帰ってくる、ということではしゃいですらいた。 鋼太郎が入院している間は、銀次郎と亜留美はお見舞いに行かせてもらえず、兄には会えず終いだった。 その間、心配で不安でたまらなかった。中学校が終われば帰ってくるのでは、と何度も玄関を覗いたりした。 両親や百合子から鋼太郎の様子を聞くたびに、会いたくなってしまい、一人で病院に行こうと思ったこともある。 だがそれは、遠いからダメだ、と両親から止められた。今にして思えば、それがどういう意味なのか、解る。 銀次郎も亜留美も両親の様子から、薄々、兄は普通のケガをしたのではないということを感じ取っていた。 半年近くも入院しているのだから、相当ひどいケガをしたのだと、色々なところをケガをしたのだと思った。 だが、サイボーグ化している、などとは考えなかった。いや、考えたくなかったから、考えなかったのだろう。 そして、兄は帰ってきた。兄とは似ても似つかない機械の固まりが、鋼太郎だと言われた。信じられなかった。 見たこともないロボットが、聞いたこともない機械音声で喋るが、その口調は鋼太郎そのものでおかしかった。 妹は、何度も兄を問い詰めた。兄はまだ体の扱いに慣れていないのか、ぎこちない動きで妹に接していた。 そのうち、妹は兄に慣れた。ロボットの中身が鋼太郎だと信じることが出来たらしく、笑いかけるようになった。 だが、銀次郎は慣れなかった。兄だと思おうとしても、鋼太郎本人だと信じようとしても、心が受け付けない。 兄が帰ってきたばかりの頃、兄の手が銀次郎の頭を撫でた。銀次郎は、兄の手は熱いものだと思っていた。 だから、髪を乱す手はそうなのだと信じていた。だが、訪れた感触は硬く冷え切った金属で、背筋が逆立った。 その瞬間に、このロボットは鋼太郎とは全くの別物だ、兄ちゃんじゃない、という確信が銀次郎を貫いた。 鋼太郎は、鋼兄ちゃんは冷たくない。鋼兄ちゃんはでかい。鋼兄ちゃんはあったかい。鋼兄ちゃんは人間だ。 でも、これはただの機械だ。ロボットだ。だから、鋼兄ちゃんじゃない。鋼兄ちゃんの、偽物のロボットだ。 「偽物なんだ」 銀次郎は、無意識に呟いていた。 「本物じゃないんだ。あんなの、鋼兄ちゃんじゃないんだ。鋼兄ちゃんは、あんなに冷たい手じゃない」 「偽物…」 透は膝の上に載せた左手を、握り締めた。正弘のゴーグルに、グラウンドが移り込む。 「そうだな。偽物だな。偽物。紛い物。作り物。人工物。模造品。機械人形。よく言われたな、小学生の頃に」 「あ…」 透が、不安げに正弘を見上げる。正弘は、平気だ、と透に返してから続けた。 「銀も、オレのことはちょっとは知ってるだろ? 噂ぐらいは、聞いたことがあるだろ?」 「…うん」 銀次郎は、控えめに答えた。本人が目の前にいるので口に出すのは気が引けたが、知っていることを話した。 「遠いところで変な事件に遭って、そんなふうになったって。だから、普通じゃないから、あんまり近付いちゃいけないって。仲良くするなって、仲良くしたらいけないって。普通じゃないから」 「ああ。オレは普通じゃない。詳しくは言えないが、ひどい目に遭ってこうなったんだ。もう、大分前だけどな」 正弘は、銀次郎を見下ろす。少年の血色の良い頬は、日に焼けている。 「オレは、自分で言うのもなんだけど、幸せな方じゃない。オレがサイボーグになったのは、銀よりももっと小さい頃だった。色々とあったよ。でもな、今は悪くないって思うんだ。ゆっこも鋼も透もいる。オレを人間として扱ってくれる。オレの友達になってくれている。そりゃあ、嬉しかったさ。オレも人間だからな」 正弘は、人間、の部分を強調した。銀次郎は、正弘を見やる。 「じゃ、その前は?」 「そうだな。話せる範囲だけだが、話してやろうか」 出来るだけ軽く、なんでもないことのように、正弘は過去を明かした。 「オレは、鋼達と友達になる前は学校ではほとんど喋らなかったから、いいようにされてな。まず最初に、いないことにされる。次に、ランドセルを捨てられる。その次に、オレの体に感覚がないと思っているのか、石とか消しゴムとか投げてくる。黙っている上に動かないものだから、擦れ違い様に適当な文句を言う。他にも色々とあるが、思い出すのも嫌だからやめておくよ。中学校に入って、サイボーグボディを子供サイズから大人サイズに換装したら、減ってはいるがなくなってはいない。余程、暇なんだろう」 馬鹿らしい、と正弘は吐き捨てたが、口調を戻した。 「教師に相談しても、お前も何かしたんだろう、で終わりだった。オレがサイボーグだから扱いが面倒なのは解るが、職務怠慢もいいところだよ。でも、オレは学校には行った。勉強がしたかったし、何より、学校に行かなければ一日が潰れなかったからだ。オレの保護者も同じ部屋に住んでいるんだが、その人は社会人だから、昼間は仕事に出ていていないんだ。だから、部屋に一人だけになるのが耐えられなくてな。全く、そんな調子でよく六年も耐えたと思うよ。中学に入って、少しはまともになったが、オレの相手をする人間は相変わらずいなかった。当然だ、学校が変わっても周りの人間は変わっていなかったからだ。一年、二年とその状態が続いて、三年になった。野球で言うところの、九回裏、ってところだろう」 正弘の太い指が、スコアボードを示す。 「そこで、逆転満塁ホームランがあった。それが、鋼だ」 銀次郎が、顔を上げる。 「なんで?」 「鋼が、友達になってくれたからだ。そして、ゆっこも透も友達になってくれた。それだけのことかもしれないが、オレにとっては大事だった。初めて、学校が楽しいって思えたんだ」 こつ、と正弘は側頭部を小突いた。 「確かに、オレ達サイボーグの体は偽物だ。本物じゃない。多少の規格の違いはあるが、基本的な構造は同じで、特別なカスタマイズでもしない限り外見はあまり変わらないし、搭載機能も似たようなものだ。でもな、この中身は、間違いなく本物なんだ。オレがオレであるように、また鋼も鋼なんだ。それだけは覚えておいてほしい」 正弘は銀次郎の横顔を、覗き込む。 「率直に聞くが、銀は鋼のことが嫌いなのか?」 銀次郎は、答えに詰まった。鋼太郎のことは、好きだ。兄としても、また年上の友人としても好きだった。 だが、あの体だけは好きになれない。銀次郎は正弘にどう返そうか迷っていたが、思ったままを言葉にした。 「鋼兄ちゃんは好き。でも、今の鋼兄ちゃんは、嫌だ」 「手が、冷たいから、ですか?」 透が問い掛けた。銀次郎は、透に目を向ける。 「それもある」 「他には?」 今度は、正弘が問う。銀次郎は、眉を下げる。 「よく、わかんないや」 好意と嫌悪感が、錯綜する。野球観戦に行く気が起きたのは、兄と一緒にいたいと心の隅で思ったからだ。 自分でも、あれだけ好きだった兄を嫌うのは心苦しい。自分の行動で、兄を落ち込ませてしまっている。 罪悪感も、やるせなさも、空しさも感じる。だが、冷たい手と機械の体に対する嫌悪感は増すばかりだった。 兄に遊んでもらっている亜留美が、妬ましいと思う日もある。その反面、よく遊べるよな、とも思ってしまう。 相反する感情はどちらかが強くなることもあるが、どちらも消えない。どっちつかずのままになっている。 鋼太郎が好きだ。だけど、鋼太郎が嫌だ。銀次郎は目元が熱くなり、視界がぼやけてきたので拭った。 「わかんねぇよ」 「あの、えっと」 透は、心持ち前に出た。 「黒鉄君は、銀次郎君のこと、大事に思っていますよ。それは、確かですよ」 「解らなくても、鋼と話してみたらどうだ?」 正弘の言葉に、銀次郎は目元を擦っていた手を外す。 「でも、オレ、鋼兄ちゃんにすっげぇひどいこと言った」 「じゃ、尚更だ。鋼に謝ったらどうだ」 「許してくれるかな」 銀次郎が俯くと、透はぎこちなく微笑みを浮かべた。 「ちゃんと話せば、解ってくれますよ、きっと」 だといいけど、と銀次郎は不安を滲ませている。正弘はもう一言掛けてやろうと思ったが、ふと思い出した。 階段出入り口の方を見ると、鋼太郎が恨めしそうにグラウンドを睨んでいる。試合が、良く見えないらしい。 その背後にいる百合子が、正弘に顔を向けた。口の動きで、まだなんですかぁ、と言っているのが解った。 正弘は両手を重ね合わせ、すまん、と頭を下げた。それに気付いた鋼太郎は、大股に外野席にやってきた。 ろくに試合が見られなかったので、苛立っているようだった。銀次郎の会話は、聞いていなかったらしい。 正弘は今の話を鋼太郎にしようかと思ったが、それでは銀次郎に悪いので言わないことにしておいた。 透も同じ考えのようで、薄い唇を締めて表情を硬くしている。銀次郎は無表情ながら、泣き出しそうだった。 また、打撃の快音が聞こえた。 06 12/13 |