非武装田園地帯




第十六話 ブラザー・アンド・ブラザー



 そして、午前十時。二軍同士の試合が始まった。
 先制はファイターズで、イーグルスの若手の投手がマウンドに立っている。スパイクが、土を蹴る音がする。
ボールがミットに叩き込まれると、小気味よい音が弾ける。選手同士の掛け声が、外野席まで聞こえていた。
 五人の居る場所は、外野席の下側だった。あまり観客が多くないので、内野席寄りの席に座ることが出来た。
外野席なので、ダイヤモンドとの距離は開いていたが見えないことはない。試合は、一回表の真っ直中だ。
 ファイターズは、第一打席で早速ヒットを放って二塁までランナーを送ったが、そこから先が続かなかった。
イーグルスのピッチャーは変化球を駆使し、バットを振らせようとする。ファイターズのバッターは、打とうとする。
どちらも、相手を自分のペースに巻き込んで試合展開を有利に進めたいのだ。程良い緊張感が漂っている。
遠目に見ても、選手達は体格が良い。ユニホームの袖から垣間見える首筋や腕には、厚い筋肉が付いている。
イーグルスのピッチャー、十七番の選手はキャッチャーからのサインを読んでいたが、小さく首を横に振った。
 それが何度か続いていたが、頷いた。どうやら、次に投げるボールが決まったらしく、ピッチャーは構えた。
流れるような動きで右足をマウンドに踏み込ませ、肩から腕に力を動かし、右手の中から白球を放った。
弾丸のように飛び抜けたボールは、ファイターズのバッターが振ったバットの下を擦り抜け、ミットに命中した。
ずばぁん、と激しい音が響き渡った。審判は手を振り上げながら、鋭い声でストライクの判定を下した。

「…ボールが見えない」

 百合子は前のめりになっていたが、姿勢を戻した。鋼太郎は、マウンドから視線を外さない。

「見えるわけねぇだろ。最低でも時速百キロぐらいはあるんだから」

「オレ達の目には見えるが、打てるかどうかは別問題だ」

 正弘は、観覧席の小さな座席に収まらない大きな体を持て余しているようで、少々居心地が悪そうだった。

「鋼ちゃんとムラマサ先輩なら、打てるんじゃないんですか?」

 百合子は、一段上の席に座っている二人を見上げた。鋼太郎は、けっ、と変な声を出した。

「そう簡単に言うなよ」

「所詮、オレ達の体は道具に過ぎないものだからな。道具は、それを使う人間の技能で性能を左右される。だから、鋼はいつまでたってもカーブすら投げられないんだ」

 正弘が可笑しげに笑ったので、鋼太郎は大きな肩を竦めた。

「だって、曲がらないもんは仕方ないじゃないっすか」

「あ」

 透が、小さく声を漏らした。直後、かぁん、と甲高い音が炸裂し、バットに打たれた白球が空へと昇っていった。
バッターはバットを放り出して駆け出し、一塁へと走る。イーグルスの外野手も、落下地点を目指して走る。

「センターフライ、かな」

 透の呟きが消えると、高々と飛んでいた白球は途中で曲がり、外野のセンターを目指して落下していった。
外野手は駆けていき、すかさずボールをグラブに収めると、ランナーが走り出す前に、二塁に向けて送球した。
ランナーが二塁を踏んだ直後、セカンドのグローブにボールが入った。セーフ、と審判が力強く叫んでいる。

「次は、送りバント、かな?」

 透は、視線を球場に据えていた。次にバッターボックスに立ったバッターは、最初からバットを横にしている。

「三塁に送って、一点でも先制するのが得策だもんな」

 鋼太郎は百合子の座っている座席の背もたれに、もたれかかった。百合子は、透を見やる。

「透君は、野球が解るんだね」

「はい、一応は。選手の見分けは、付きませんけど、ルールぐらいだったら。お兄ちゃんが、教えてくれたから」

 透は、照れくさそうに目を伏せる。百合子は、けらけらと笑う。

「私はさっぱりだよお。鋼ちゃんから色々説明されたけど、ちっとも頭に入らないんだー」

 ファイターズのバッターは、ストライクゾーンの内角に投げ込まれたボールをバットに当て、転がして走った。
地面をバウンドしながら転がるボールを、イーグルスの守備陣が追う間に、ランナーは二塁から三塁に向かう。
バントを放ったバッターはアウトを取られたが、送りバントは成功し、ファイターズのランナーは三塁を取った。
 このままファイターズが先制するかと思われたが、簡単に事が運ぶはずはなく、ランナーはアウトを取られた。
三番バッターが放ったレフトフライを外野手が取り、素早く三塁に送球し、それをキャッチャーに送ったのだ。
これで、ファイターズはアウトが二つ。もうワンアウト取られれば、一回は裏になり、イーグルスの攻撃となる。
 一回が終わっても、銀次郎は黙っていた。




 四回表が終わり、トイレに行こうとした百合子を鋼太郎は捕まえた。
 観覧席からトイレに向かう途中の階段で、文字通り首根っこを捕まえて、踊り場の壁にぐいっと押し当てた。
両手の中の肩は小さく、力を込めれば容易く壊れそうだ。途端に、百合子は湯気が出そうなほど赤くなった。
透のように視線を彷徨わせて身を縮めている百合子に、鋼太郎は少し呆れた。何か、勘違いしているようだ。

「おい、ゆっこ。オレは別に、お前に何かしようってわけじゃねぇぞ」

「うぇ?」

 声を裏返した百合子は、真っ赤になった頬を押さえた。

「違うの? キス、するんじゃないの?」

「違ぇよ!」

 鋼太郎は、全力で否定した。百合子は頬を赤らめたまま、膨れる。

「つまんないー。うっかり期待しちゃったじゃんよー」

「うん、まぁ、オレも悪ぃけどさ」

 鋼太郎は百合子を押さえ付けていた手を離し、下げた。焦っていたせいで、実力行使に及んでしまった。
コンクリートの壁から背中を外した百合子は、ワンピースの背中を軽く払ってから、鋼太郎を見上げてきた。

「何なの、鋼ちゃん」

「銀のことだ」

 鋼太郎は、なるべく口調を落ち着けさせた。

「ゆっこ。お前、どうやって銀を言いくるめたんだ?」

「んー、何も?」

 百合子は、悪気のない顔をしている。鋼太郎はますます焦れったくなり、百合子との距離を狭める。

「何もじゃ解らねぇよ。何をどう言って、銀をその気にさせたんだ」

「だから、別に何もしてないんだってば」

 百合子は両手を腰に当て、かかとを上げて背伸びをする。鋼太郎は、首を捻る。

「マジなのか?」

「マジも大マジー。私が一緒に野球観に行こうかって誘ったら、ちょっと渋ったけどうんって言ったんだもん」

 嘘じゃないもん、と百合子は拗ねている。鋼太郎は、呆気に取られた。

「そんな、簡単なもんなのか?」

「だって、そうなんだから仕方ないじゃん。それよりさ、鋼ちゃん」

「なぁ、ゆっこ。銀は、他に何か言ってなかったのか? 本当にそれだけなのか?」

 鋼太郎が百合子ににじり寄ると、百合子はもじもじした。

「私、おトイレ行きたいんだけど」

「悪ぃ、忘れてた。さっさと行ってこい」

 言われて思い出した鋼太郎は、百合子に道を譲った。

「鋼ちゃんの意地悪」

 そう言い残し、百合子はぱたぱたと階段を下りた。鋼太郎は、やりづらい気持ちを抱えながら立っていた。
別に、意地悪をするつもりで引き留めたわけではない。銀次郎がいない今なら、問い詰められると思ったからだ。
だが、百合子から得た情報で、余計に解らなくなってしまった。銀次郎は、自分を毛嫌いしているはずなのに。
一緒にいることすら嫌がって、傍に近付くと逃げてしまうほど嫌われている。なのに、野球観戦に付き合っている。
 野球が観たかったのか、とも思うが、銀次郎は野球よりもサッカーが好きだ。ボール扱いも足の方が上手い。
だから、その線はないと思っていい。百合子と一緒にいたかったのでは、とも思うが、それもないのではないか。
 確かに、子供っぽい性格の百合子は鋼太郎の下の兄弟と仲が良いが、特別仲が良いというほどの仲でもない。
銀次郎の考えが解らない。鋼太郎は壁に背を預け、悶々としていると、すっきりした顔の百合子が帰ってきた。
 トイレから戻ってきた百合子は、ピンクのタオルハンカチで手を拭っていたが、鋼太郎の前に立ち止まった。

「鋼ちゃん、もう裏は始まってるよ。行かないの?」

「ちょっと、どうしようかって思ってよ」

 鋼太郎は階段の出口まで進んだが、頭を引っ込めた。

「それとも鋼ちゃんもおトイレ? 行くならさっさと行ってきた方がいいよ?」

「だから、違うっつってんだろ」

 百合子は背伸びをして、鋼太郎の視線の先を辿った。外野席に座っている三人は、正弘のせいで目立っていた。
その正弘は、先程鋼太郎がしていたように、前の座席の背もたれに腕を載せていて、前のめりになっていた。
透は、銀次郎と何か言葉を交わしている。透の声がささやかなのと、銀次郎の声が小さいのとで聞こえなかった。
 ふと、正弘の視線が鋼太郎に向けられた。鋼太郎が片手を挙げると、正弘は僅かに首を横に振ってしまった。
どうやら、来るな、との意思表示らしい。鋼太郎は百合子と顔を見合わせていたが、正弘の意図を口にした。

「来るなってよ」

「銀ちゃん、透君と話してるもんね。邪魔しちゃいけないよね、うん」

 百合子は、素直に引き下がった。そして、鋼太郎のシャツの裾を引っ張った。

「ほら、鋼ちゃんも」

「あ、おう」

 鋼太郎も身を下げたが、スコアボードを見上げた。二回裏、イーグルスが二点先制してから膠着状態だ。
逃げ切りたいイーグルスと、追い上げたいファイターズ。さぞや、熱の入った攻防が繰り広げられるだろう。
そう思ったら、試合展開が気になってきた。階段の陰からでは、ダイヤモンドはおろかフィールドも見えない。
 鋼太郎の内で、試合を見たい気持ちと、銀次郎と友人達の交流を邪魔してはいけない気持ちがぶつかった。
すると、バットが空を切る音がし、空高くボールが打ち上げられた。白球は風に乗り、高く、高く、昇っていく。
これは、ホームランになる。外野手を急かす監督の声が聞こえていたが、観客達から歓声が沸き上がった。
無事、バックネットに入ったようだ。鋼太郎はホームランの瞬間が見られなかったのが、悔しくてたまらない。
だが、今優先するべきは弟だ。鋼太郎は焦燥感を押さえ込み、内心で歯を力一杯食い縛りつつ、堪えた。
 試合展開は、後で正弘にでも聞くとしよう。





 


06 12/12