非武装田園地帯




第十七話 初恋



 心が交錯する。


 山下透。
 文字数にして僅か三文字。情報容量にしてたったの六バイト。液晶画面に表示された角張った字を、睨んでいた。
総重量が百グラムにも満たない携帯電話であるにもかかわらず、今ばかりは、妙に重たいような気がした。
手の中の薄っぺらい携帯電話を握り締め、開いたままのアドレス帳を操作することもないまま、固まっていた。
 鋼太郎は椅子の上に強引に胡座を掻いていたが、どごっと机に突っ伏し、携帯電話をあらぬ方向に突き出した。

「うーわー、なんだこりゃー!」

 鋼太郎は空いている方の手で頭を抱え、机に額を擦り付けた。疼きに良く似た、おかしな感覚に苛まれる。
昨日まで、そんなことはなかった。今日の昼休みに、正弘からあの言葉を言われるまで、自覚していなかった。
そして、透のあの笑顔と、あの呼び名を囁かれるまで目を逸らしていた。生まれて初めての感情から。
 瞼の裏に、正確にはスコープアイを通じて捉えた映像が脳裏に蘇る。透の、頼りなくも柔らかい笑みが。
あの笑顔を再生する。何度となく再生する。普通のサイズだったものを拡大し、解像度を上げて、思い返す。
大振りなメガネの下の透き通った瞳、繊細な睫毛、実はちょっと低めだった鼻、そして、桜色の艶やかな唇。
記憶などではない本物の映像として思い出せるので、こういう時はサイボーグであることがありがたかった。
 鋼太郎は、起き上がれなかった。透の映像を視界に張り付かせたまま、携帯電話を持った手を下ろした。

「わっけわかんね」

 無論、自分が、だ。

「つーか、こんなの、有り得なくね?」

 語尾を変な具合に上げながら、鋼太郎は上半身を起こした。すると、部屋のふすまが開かれた。

「鋼兄ちゃん、何騒いでんだよ?」

 ふすまの隙間から、パジャマ姿の銀次郎が顔を覗かせた。鋼太郎は、弟に手を振る。

「なんでもねぇよ。早く寝ろよ、おやすみ、銀」

「鋼兄ちゃんもね」

 おやすみ、と銀次郎はふすまを閉めて向かいにある子供部屋に入った。下の兄弟二人は、共同の部屋なのだ。
銀次郎の気配が遠ざかったのを確認してから、鋼太郎は項垂れた。携帯電話を閉じ、充電器に突っ込んだ。
 初めは、透に電話でもしようかと思った。彼女の様子が気になってどうしようもなくて、声を聞きたかった。
だが、いざ話そうと思ったら、透と共通の話題などほとんどないことに気付き、気持ちを持て余したのだ。
ないはずの心臓が締め付けられるような感覚が発生し、息苦しい気分になってしまい、ますますやりづらい。
気付くと気付かないでは、こうも違うものか。鋼太郎は胡座を解いて椅子から下りると、布団の上に座った。
 パジャマの裾をめくって腹部の装甲を出し、充電用のケーブルを引っ張り出して、コンセントに差し込む。
視界の隅に充電状況を表すパラメーターが出現したのを確かめてから、大の字に寝っ転がり、天井を見上げた。

「オレ、変だ」

 恋ではなく、変だ。甘酸っぱく可愛らしい恋の字よりも、異様さを表している変の字の方が相応しい状態だ。
独り言ばかり繰り返しているのも、変だ。一人の人物ばかりを思い出してしまうのも、それだけで悶えるのも。
明日から、どんな顔をして透に会えばいいのだ。昼休みの間だけの付き合いだが、あの語らいは一日の要だ。
教室では友人達とあまり話せなくなってしまった今は、四人で集まって下らない話に興じるのがとても楽しい。
 透との距離を今以上に狭めたいが、もっと傍に近付きたいが、近付こうと思っただけで照れくさくなってしまう。
その状況を想像しただけで逃げ出したいほど恥ずかしくて、頭がおかしくなりそうだ。鋼太郎は、枕に顔を埋めた。

「どうすりゃいいんだよ」

 訳もなく、エネルギーが有り余っている。肉体的なものではなく、精神的なものが衝動のように押し寄せてくる。
意味もなく走り回ってしまいたいような、吼えてしまいたいような、外に出たいような、とにかく高ぶっている。
思わず、股間に手を当ててしまった。幸い、理由のないエネルギーは下には向いていないようで、ほっとした。
 このままでは、くたびれてしまう。早く眠ってしまおう、と鋼太郎は電気を消して布団に入ったが気が休まらない。
今日一日の疲労があるはずなのに、頭が冴えている。目を閉じるつもりで視覚をオフにしても、同じだった。
 山下透。彼女のことが、頭から離れない。




 翌朝。鋼太郎は、寝不足の状態で登校していた。
 あの後、上手く寝付けなかった。さっさと眠りたかったのに気持ちが落ち着かないので、眠くならなかった。
眠れないので、また意味もなく携帯電話のアドレス帳を開いて透の名前を見たり、映像を出して見たりした。
我ながら、一連の行動が怪しすぎる。自分でもそう思うのだから、他人から見ればさぞ不気味だったことだろう。
この分だと、透と会ったら挙動不審になりそうだ。透のそれは可愛らしいが、自分の場合は気色悪いだけだ。
 あー、と鋼太郎は力のない呻きを漏らした。後ろを歩いているはずの百合子が、鋼太郎の隣で歩いている。

「鋼ちゃん、具合でも悪いの?」

「わかんね」

 鋼太郎は、いつのまにか百合子に合わせていた歩調を戻した。ぼんやりしているせいで、遅くなっていたようだ。
速度を速めると、百合子はむくれながらも付いてきた。鋼太郎は頭を振ってみたが、一向に目が覚めない。
 生身であれば顔でも洗っていたのだろうが、サイボーグが顔を洗ってみたところで、外装が綺麗になるだけだ。
冷たさを感じないのだから、目が冴えるわけがない。それでも、気休めになるかと思い、側頭部を叩いてみた。
視界がぶれただけだった。鋼太郎は透に会いたい気持ちとやりづらさが入り混じり、ため息を吐いてしまった。

「風邪でも引いたの?」

 百合子が、冗談交じりに言う。鋼太郎は振り返ることもなく、返す。

「オレが風邪引くわけねぇだろ」

「じゃ、学校に行きたくないとか?」

「それはねぇよ」

「じゃ、眠いの?」

「まぁ、そんなとこだ」

 鋼太郎がやる気なく呟くと、百合子は早足になって鋼太郎の隣に追い付いた。

「だったら、保健室でお昼寝したら?」

「オレが出来るか、そんなこと。ゆっこなら出来るだろうけどな。つーか、お前、たまにやってるだろ」

 鋼太郎は、百合子の顔を指す。百合子は、ちょっと得意げに笑う。

「まぁねー。だって、気持ちいいんだもん」

「小夜子先生って、優しいっつーより甘いんだよなぁ。特に、オレらみてぇのには」

 養護教諭の顔を思い出しながら、鋼太郎は少し笑った。百合子は、通学カバンを背負い直す。

「うん。でも、いいじゃん」

「まぁ、悪いことじゃねぇよな、たぶん」

 鋼太郎は、顔を上げて先を見渡した。道路の左手には、土手沿いの平地に作られた田んぼが並んでいる。
もう、稲刈りの季節だ。無数の金色の稲穂が頭を垂れていて、風が渡るたびに波打ち、ざわざわと騒がしい。
既に稲刈りが終わった田んぼもあり、刈り取られた稲の根と稲刈りの際に吐き出された稲の屑が落ちている。
所々の農家からは乾燥機の唸りも聞こえ、順調に収穫は進んでいるようだった。百合子は、鋼太郎を見上げる。

「鋼ちゃんちの稲刈りは始まった?」

「先週から始めたんだけど、またこき使われちまってよー。参るぜ、全く」

 と、鋼太郎は肩を竦める。百合子は、進行方向に目を戻す。

「今年のは良さそう?」

「悪くはねぇみてぇだぜ。オレは良く解らないけど」

「ふうん」

 百合子の足音は、鋼太郎からワンテンポどころかツーテンポ遅れて続いている。鋼太郎は、彼女を見下ろす。
ブラウスの上にカーディガンを羽織った小さな肩の上に、手入れの行き届いた長い黒髪が載り、光を撥ねている。
白いヘアバンドで前髪を上げ、露わにしている額は相変わらず広い。なので、上からだとそこに目が行ってしまう。
 鋼太郎は回転の鈍い頭を動かし、昨日の出来事を思い出していた。正弘に言われて、ようやく気付いたのだ。
透への好意も、百合子が正弘の元を一人で訪ねた理由も、正弘の言葉の意味も。我ながら、鈍いと思った。
自分のことなのに、透のことが好きだということを気付くのが遅すぎた。なぜ、今まで解らなかったのだろう。
 透のことを本格的に女子として見る切っ掛けは、五月の連休の時に透が鋼太郎を鋼ちゃんと呼んだからだろう。
百合子以外の人間からそう呼ばれたのは初めてで、その時はかなり困惑してしまったが、反面嬉しくもあった。
だが、好きになった理由はそれだけではない。透の、あの儚げで繊細な笑顔に、どうしようもなく惹かれる。
 同じ笑顔でも、百合子や妹の笑顔とは正反対だ。下手に触れたら壊れてしまいそうで、危うさすら感じられる。
透の名の通りの、透明な雰囲気がある。言うならば、彼女は、透き通ったガラスで作られた細工物のようだ。
鋼太郎は眠気とは違った意味でぼんやりしていたが、ふと思った。百合子は、このことを知っていたのだろうか。
 いや、知っていたのだ。知っていなければ、一人で正弘の元に行き、正弘との間に隠し事など作らないだろう。
二人がどんな約束を取り交わしたのかは鋼太郎には察することが出来ないが、何かを隠しているようなのだ。
百合子にも百合子なりの事情があるとは解っているが、隠し事をされていたという事実が、面白くなかった。

「なぁ、ゆっこ」

 鋼太郎は百合子に振り返り、尋ねた。

「お前、一人でムラマサ先輩んちに行ったんだよな? 何か話したんだろ? 何を話したんだ?」

「どうでもいいじゃん、そんなの。鋼ちゃんには関係ないもん」

 百合子はむくれると、鋼太郎から視線を外した。鋼太郎は、その態度にむっとする。

「お前、何怒ってんだよ。別に変なことじゃねぇだろうが」

「怒ってなんかないもん」

 言葉とは裏腹に、百合子の口調は高ぶっていた。それに釣られ、鋼太郎も苛立ってしまった。

「オレがなんかしたのかよ、してねぇだろうが」

「してないもん。なんでもないもん」

 百合子は歩調を早めて鋼太郎との距離を空けたが、鋼太郎はすぐに追い付いた。

「だったらなんで怒ってるんだよ」

「だから、怒ってなんてないんだから!」

 立ち止まった百合子は、声を張り上げた。明らかに目が潤み始めていて、声も上擦り、泣き出す一歩手前だ。
鋼太郎は、戸惑った。一体何に怒っているのか、そして、なぜいきなり泣き出すのか全く解らなかった。

「どうしたんだよ」

「どうもしてない!」

 百合子は目元を拭うと、ぎゅっとプリーツスカートを掴んだ。

「どうもしてないんだもん」

「だったら、泣くんじゃねぇよ。ほら、さっさと行くぞ」

 困り果て、鋼太郎は百合子の肩を押して顔を上げさせた。百合子は唇を曲げ、奥歯を噛み締めている。

「…だから」

 百合子は鋼太郎の腕を押して離れると、背を向けた。

「泣いてなんか、ないもん」

 頼りない足取りで、百合子は歩き出した。鋼太郎は百合子に声を掛けようかと思ったが、出来ず終いだった。
忘れていた。透への恋心で舞い上がっていたせいで、百合子の存在を、百合子の気持ちを、完全に無視していた。
百合子の後ろ姿が遠ざかり、小さくなっていく。元から小柄だが、泣いているせいで普段以上に小さく思えた。
 鋼太郎は、百合子への罪悪感は感じていたが気にならなかった。それどころか、透に会えると思うと浮き立つ。
押し殺した小さな泣き声は聴覚を掠めていくが、今はそれどころではない。透の姿が、頭の中をちらついている。
 百合子に気を回せるほどの、余裕がなかった。





 


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