非武装田園地帯




第十七話 初恋



 三時間目の中盤、正弘のバッテリー残量がレッドゾーンに突入した。
 昨日の夜、眠気に負けて充電を忘れてしまい、朝もまた忙しくてその暇がなく、そのまま登校してきてしまった。
しかも、そういう時に限って予備充電用バッテリーボックスを机の上に忘れてしまった。つくづく、抜けている。
夜、眠る前にバッテリーだけは何があってもチェックする習慣を付けていたが、時折忘れてしまうことがある。
静香に振り回されてしまった時や、少女漫画のストーリーを練ることに集中しすぎた時などにやってしまう。
 今回はそのどちらでもないが、ど忘れしていたのは確かだ。正弘は情けなかったが、教師に言って教室を出た。
充電自体はコンセントさえあればどこででも出来るが、充電している姿を見られるのは、それなりに恥ずかしい。
そのため、こういう場合は保健室を使うのが常だった。一階まで下りて保健室にやってきた正弘は、扉を叩いた。

「失礼します」

 引き戸を開けて入ると、事務机に小夜子が向かっていた。小夜子は、あら、と意外そうにする。

「どうしたの、村田君」

「バッテリー切れになりそうなので、しばらく充電させて下さい」

 後ろ手に引き戸を閉めて、正弘は苦笑した。小夜子は立ち上がると、カーテンで囲まれた窓際のベッドを指す。

「今、白金さんがいるから、静かにしていてね」

「ゆっこが? 具合でも悪いんですか?」

 正弘は小夜子の肩越しに、カーテンに覆われているベッドを見やった。小夜子は、細い眉を下げる。

「熱はないみたいなんだけど、凄く元気がないのよ。私、これから職員室でやらなきゃいけないことがあるんだけど、目を離すのが心配なの。悪いんだけど、村田君、彼女のことをお願い出来るかしら」

「構いませんよ」

 正弘は、即座に頷いた。小夜子はやや不安げだったが、お願いね、と正弘に念を押して保健室を後にした。
百合子のベッドに近付こうとしたが、その前にコンセントを探さなくては。充電用ケーブルは、あまり長くない。
壁伝いに歩いて探していくと、丁度、ベッドの周りに巡らされているカーテンの陰にコンセントがあった。
 正弘は手近な椅子を持ってきてから、カーテンをそっと開けた。ベッドの上では、毛布を被った少女が寝ている。
カーテンを開けて入っても、彼女は身動き一つしない。眠っているのか、と思いながら正弘は椅子を置いた。
その上に座って、ベルトを外してワイシャツの裾を出し、腹部の装甲を開いて充電用ケーブルを引き出した。

「…せんぱい?」

 か細く、掠れた言葉が聞こえた。正弘は充電用ケーブルをコンセントに差し込んでから、顔を上げた。

「悪い、起こしたか?」

 百合子は起き上がると、首を横に振った。長い髪は乱れていて、ほつれた毛先が白い頬に張り付いている。

「ずっと、起きてましたから」

 色の白い頬から血の気が失せていて、青ざめている。目元には涙の筋が付き、薄い瞼は腫れぼったい。
百合子が寝ていた枕にも、涙の染みが付いている。正弘はケーブルを伸ばし切ってから、彼女に近付いた。

「どうしたんだ」

 百合子は、薄手の毛布を握り締める。

「なんでもないんです」

「嘘だ。なんでもないなら、泣くわけがないだろう」

 正弘は椅子を引き摺ってベッドの傍に寄り、百合子との距離を狭めた。百合子は、顔を伏せる。

「でも、本当に、なんでもないんです」

「…鋼か?」

 静かに、だが力を込めて正弘は呟いた。百合子は僅かに頷く。

「鋼ちゃん、やっぱり、透君のことが好きなんだよ。昨日の昼休みに、見てたもん。グラウンドから、透君のこと」

「ああ。そうだな」

 正弘も、そのことには気付いていた。鋼太郎は、一階の廊下にいた透を見つけた途端動かなくなってしまった。
だが、それはグラウンド側から見ていたから解ったことで、二階にいた百合子には解らないはずのことだ。
正弘が少し不可解に思っていると、百合子は涙をたっぷり吸い込んだハンカチを掴み取り、目元に押し当てた。

「解るもん、それぐらい。鋼ちゃんは、いつも透君が待ってるところを見てたんだもん。それに、鋼ちゃんが見るのは、透君だけなんだ。私のことなんか、最初から見てやしないんだ」

 百合子は背を丸め、顔を覆う。

「それぐらい、解ってるはずなんだ。そんなの、当たり前なんだ。だって、鋼ちゃんは男の子だもん」

 その姿が痛々しくて、正弘は百合子の震える肩に手を添えた。

「ゆっこ」

「病気ばっかりして、ちっとも大きくならなくて、甘ったれてて、馬鹿な奴なんか、好きになるわけがないんだ」

 百合子は正弘の太い腕にしがみ付き、ぼろぼろと涙を落とした。

「それが、当たり前なんだよお…」

 身を切られる思いがした。百合子の泣きじゃくる声を聞きながら、正弘はマスクを押さえ付けて唸りを殺した。
鋼太郎は、百合子の気持ちを知らないはずがない。幼い頃から傍にいたのだから、知らない方がおかしい。
それを知っているはずなのに、彼は透に思いを寄せている。正弘からしてみれば、それは悪意に等しかった。
 他人から好意を寄せられることは、素晴らしいことだ。愛とまではいかなくても、好かれるだけで嬉しくなる。
長い間、誰からも好かれることがなかった正弘は、孤独の冷たさも拒絶の痛みも、嫌と言うほど知っている。
だからこそ、好意を無下に出来ない。増して、それが恋心なら尚更だ。正弘は、涙を流す百合子を見下ろす。

「そんなことはないさ」

「ムラマサ先輩は、優しいですね」

 百合子は正弘の腕から手を外し、肩の上から正弘の大きな手を押しやった。

「でもね、でもね、やっぱり、鋼ちゃんは、男の子だから。綺麗な子を、好きになるのが、普通だから」

 百合子の手が、ブラウスの胸元を握り締める。

「透君は、腕だから。私みたいに、胸に穴が開いてるわけじゃないから。だから、きっと、普通に出来るもん」

「何が」

 正弘は、この先を聞くまいとは思ったが聞いてしまった。百合子の濡れた頬が、少し赤らむ。

「…えっちいこと」

「あのな、男の全員が全員、そういう基準で女子を選んでいるというわけじゃないぞ、本当だぞ、ゆっこ!」

 正弘は、急いで弁解した。別に百合子に対して言い訳する必要もないのだが、しなければいけない気がした。

「でも、フルサイボーグだって、やることやれるもん」

 百合子は頬を赤くしたまま、顔を逸らした。正弘もなんだか恥ずかしくなってしまい、顔を逸らした。

「うん、まぁ、一応、な。構造上は、可能だ」

 しばらく、会話が止んだ。百合子は自分で言った言葉に照れてしまい、熱を持った頬を両手で押さえて俯いた。
正弘も正弘で、意味もなく天井を見上げてしまったりした。授業を行う教師の声が、遠くから流れてくる。
百合子が身を縮めたので、衣擦れの音がした。毛布にくるまれた膝を抱えると、真っ赤な顔をして呟いた。

「なんてこと言っちゃったんだろ…」

「まぁ、うん、恋愛感情は種の保存の本能らしいから、当然といえば当然の思考じゃないかな」

 正弘は、的外れだとは思ったが何か言わなければならない気がしていた。百合子は、膝に顔を埋める。

「もう、やだ」

 足を抱えている細い腕に、力が入る。

「馬鹿みたい」

 正弘は、今度こそ何を言うべきか解らなくなった。気落ちしている百合子を励ましてやりたいが、出来ない。
彼女の苦しみの根源には、鋼太郎への好意と鋼太郎の恋心にある。それを、どうにか出来るわけがない。
自分の心ならまだしも、他人の心だ。外から意見を言ったとしても、本人がそれを受け入れなければ意味がない。
 それに、もしもの話だが、鋼太郎が透への恋心を切り捨てたとしても百合子が幸せになるとは思えなかった。
切り捨てさせたことに罪悪感を感じて、更なる苦しみに陥るだろう。正弘は、やりきれない気持ちになっていた。
いっそのこと百合子が鋼太郎のことを諦めてしまえばいいとも思ったが、極論も極論、有り得ない話だ。

「ホント、馬鹿だ」

 百合子は膝から顔を上げると、正弘に向けて、弱々しく笑った。

「ムラマサ先輩の方を好きになってたら、こんなことにはならなかったのになぁ」

 思い掛けないことに、正弘は言葉に詰まってしまった。百合子は、ほつれた髪を掻き上げて耳に乗せる。

「嫌いになろうって思えば思うほど、好きになっちゃうんだもん」

 百合子の切なげな眼差しが、正弘を捉えた。

「鋼ちゃんの悪いところを思い出そうって思っても、それよりもずっと沢山、いいところを思い出しちゃうんだ。意地悪なことばっかり言うけど、ちゃんと優しいんだ。ゆっこの代わりに走ってやるー、って運動会で一等賞取ってくれたし、私が遠足に行けなかったからお土産に色んな落ち葉を持ってきてくれたし、修学旅行にも行けなかったから旅行先の写真を一杯撮ってきてくれたし、集団登校から遅れちゃった私と一緒に歩いてくれたし、友達になってくれたし」

 黒い瞳が、潤んでいく。

「だけどね、嫌なところだって一杯あるんだよ。口が悪いし、野球以外のことはさっぱりだし、その肝心の野球だってノーコンで空振りばっかりで守備以外じゃほとんど役に立たないし、それに、それにね」

 百合子は泣くのを堪えているのか、声が震えていた。

「でも、好きなんだぁ…」

 つい、手を伸ばしていた。小さな体を縮めて泣き腫らす百合子があまりにも哀れで弱々しくて、肩を引き寄せた。
二人の間にあった距離が一気に狭まり、百合子の頭が顔のすぐ下に来た。胸元に、重みのないものが当たる。
百合子が、ふぇ、と驚いて変な声を出したが、泣き声に紛れてしまった。正弘は、百合子の薄い背に手を添える。
 ブラウス越しに手のひらに伝わってくる体温が、胸の奥を締め付ける。右手を出さぬように、固く握り締める。
両腕で抱き締めてしまったら、歯止めが効かなくなる。自制心を奮い立たせ、溢れ出しそうな気持ちを抑えた。
左腕だけで抱き締めた百合子の体は、驚くほど小さかった。人造心臓と思しきモーターの唸りが、聴覚に届く。
正弘は自分の行動に戸惑いながらも、百合子の体を離すことが出来なかった。離したら、壊れてしまいそうだ。

「無理はするな」

 言えたのはそれだけだった。喩えようのない苦しさと激しい後悔と、手のひらの温もりが入り乱れていた。
こんなことをするつもりはなかった。考えてもいないはずだった。手を伸ばしても、取られるわけがないのだから。
だが、体が勝手に動いてしまった。腕の中の少女は正弘のワイシャツに顔を埋めて、声を殺して、泣いている。
 こんな状態の百合子を放っておけるわけがない。何もせずにいたら、罪悪感に苛まれる。だから、こうした。
しかし、それが言い訳であることは自分が一番理解していた。華奢な肩を掴んでいる左手に、自然と力が入る。
今までは、朧気な形でしか捉えていなかった。四人の関係を壊したくないから、自覚するのを躊躇ってしまった。
 友人関係という均衡が保たれている四人の間柄を、自分一人の勝手な感情で崩すのがとても恐ろしかった。
だが、それは鋼太郎が先に行ってしまった。百合子からの好意を知っているはずなのに、透へ恋心を抱いた。
彼の好意が透に知れるのは、時間の問題だろう。せっかく築いた心地良い関係が、失われるのは非常に惜しい。
四人の関係が完全に失われてしまうことはなくても、均衡を維持するために誰かが犠牲になるのは忍びない。

「ゆっこ」

 正弘は、百合子の長い髪に指先を伝わせた。

「泣くだけ泣け」

 胸の上で、百合子が頷いたのが解った。これで、少しでも百合子の心が楽になるならそれに越したことはない。
正弘が、百合子にしてやれることは限られている。出来ることと言ったら、彼女の苦しみを知ってやることぐらいだ。
 それでも、やれるだけのことをやってやりたい。百合子が正弘に好意を示したように、正弘も百合子に示したい。
友人として、そして、異性として。手のひらにしか百合子の体温が感じられないのが、とても残念で仕方なかった。
 三時間目の終わりを告げる、チャイムが鳴った。





 


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