非武装田園地帯




第十九話 薄闇



 笑顔の、裏側に。


 秋は、日に日に深まっている。
 九月が終わるや否や、ねっとりとした残暑は終わって吹き付ける風は冷え始め、空気は乾燥で張り詰めた。
十月に入ったことで制服も夏服から冬服に切り替わり、鋼太郎と百合子は野暮ったい制服を着て登校していた。
美しく波打っていた黄金色の稲穂は全て刈り取られ、田んぼは土ばかりになり、景色からは色彩が失われた。
山々に紅葉が訪れるのはまだ先のことだが、夏の鮮やかさは失せてしまっているという中途半端な状態だ。
気温も、やけに暑い日があったかと思えば底冷えするほど寒い日があったりで、季節の変わり目の真っ直中だ。
 その変動に耐えきれない百合子は近頃休みがちになっていたが、今日は体調が良いので久々に登校した。
三日も休んでいたので、顔色はあまり冴えていなかったが悪くはない。鋼太郎は、隣を歩く百合子を見やる。

「調子悪くなったら、さっさと帰るんだぞ」

「大丈夫だよお」

 百合子は鋼太郎を見上げ、頬を張る。

「今日は頭もお腹も痛くないし、熱もないんだもん。最後までいられるってば」

 大丈夫だもん、と百合子はもう一度繰り返してから前を向いた。表情もいつもと変化はなく、至って普通だ。
どこをどう見ても、変わった様子などない。確かに、先月末から今月の頭に掛けて体調は崩していた。
だが、それだけだ。それもまた、体の弱い百合子にとってはいつものことであり、鋼太郎にとっても同様だ。
変化などない。どれだけ鋼太郎が気を向けていても、百合子が鋼太郎に見せる表情は相変わらず幼い。
 九月の中旬頃、正弘は鋼太郎に怒りを剥き出しにした。知らず知らずのうちに、百合子を傷付けている、と。
その時は、正弘の気性の激しさと彼の剣幕に押されてしまい、正弘の言ったことをほぼ鵜呑みにしていた。
時間が経つに連れて、あれはもしかしたら正弘の思い過ごしだったのでは、と疑問を抱くようになっていた。
 理由は、百合子があまりにも普通だからだ。正弘の言うような、大人じみた一面や恋心を吐露することはない。
いつものように鋼太郎にべたべたとまとわりついて、脈絡もなく取り留めもない下らない話を、延々と続ける。
笑った顔も拗ねた顔も子供っぽいままで、体格もほとんど成長していない。見れば見るほど、疑念は深まる。
鋼太郎はちょっと首を傾げつつ、百合子と同じように真正面に向いた。歩道には、ちらほらと生徒の姿がある。
 鮎野小学校の前を通って、田んぼといくつかの住宅を過ぎると、鮎野中学校の年季の入った校舎が見えてきた。
なんとなく、歩調を百合子に合わせて歩きながら、校門を通る生徒達の姿を眺めていた。彼女を、探していた。
だが、透は校門周辺にはいなかった。先に来てしまったのか、もう少し後に登校してくるのかは解らないが。
 あれから、透との関係には一切の進展はない。鋼ちゃんと呼んでもいいと言ったが、未だに呼び名は黒鉄君だ。
非常に残念であると同時に、ほんの僅かながら安堵もしていた。相反する感情だが、どちらも本当のことだ。
 今日もまた、日常が始まる。




 給食の時間が終わると、校舎裏には二人がやってきた。
 いつもは百合子が先に威勢良く飛び込んでくるのだが、体調が完璧ではないからか、透と並んでやってきた。
だが、それでも、透は百合子の後ろに隠れていた。昨日までの三日間は、その代わりに校舎の壁に隠れていた。
もう気兼ねするような仲ではないのだが、そっと様子を窺うのはクセのようなものだ、と透が以前言っていた。
だから、治らないらしい。透は百合子の陰から一歩横へ出ると、鋼太郎と正弘に向けて、小さく頭を下げた。
 百合子はにんまりと笑い、ぴょんと跳ねて鋼太郎と正弘との間を詰めると、片手を挙げて元気良く挨拶した。

「お久し振りですー、ムラマサ先輩! 元気してましたかー?」

「ゆっこ、もう大丈夫なのか?」

 正弘は身を屈め、百合子を見下ろす。百合子は、腰に両手を当てて胸を張る。

「気を抜いたらまたガタ落ちしますけど、もう大丈夫です! 熱が下がればこっちのもんなんです!」

「そうなのか?」

 正弘は、鋼太郎に振り向いた。鋼太郎は答えに詰まったが、曖昧に返した。

「あー、まぁ、大体は」

 幼馴染みでも、百合子の体調の判断基準など知っているわけがない。ただ、熱が下がればというのは本当だ。
むしろ、熱が下がってしまえば無理にでも良くなった、と判断しているのだ。そういうことが何度もあった。
なので、熱はなくとも喉をやられていたり、他の部分が痛かったりしている状態でも、鋼太郎と遊びたがった。
そういうことがあるので、一概にそうとは言い切れないが、今回は百合子の顔色は普通なので大丈夫なのだろう。
 百合子は透にも話し掛けていたが、あ、と急に言葉を切った。スカートのポケットをまさぐり、何かを取り出す。

「忘れるとこだった」

 ぱきん、ぱきん、とプラスチックのシートからカプセルタイプの錠剤を二つ押し出すと、口の中に放り込んだ。
百合子は慣れているのか、水も使わずにカプセルを嚥下した。カプセルがまだ六つ残るシートを、ポケットに戻す。

「それ、何のお薬ですか?」

 透が、百合子のポケットを指差した。百合子は、きょとんとする。

「さあ、よく解らない。先生から説明されたけど、イマイチ内容が掴めなくて。でも、効くからいいじゃんよ」

「処方されているのはそれだけなのか?」

 正弘が言うと、百合子は手を広げて指折り数えた。

「これだけだったらいいんだけど、朝と夜にどっさりあるんですよー、これが。いつもは昼の分はないんだけど、また具合が悪くなったら困るからってことで処方されたんですよ。ぶっちゃけ、飲む手間が増えちゃって面倒ですよう」

「オレ達は病院との縁が切れない以上、薬とも縁が切れないからな」

 仕方ないことさ、と正弘は付け加えた。透も、小さく頷く。

「ですね」

「それとね、鋼ちゃん」

 百合子は背伸びをし、鋼太郎との距離を縮める。

「今日帰ったら、鋼ちゃんちに着替えとか運ぶの手伝って? 三日ほど鋼ちゃんちでお世話になるから!」

「なんだよ、いきなり」

 鋼太郎が戸惑うと、百合子はポケットからピンクの携帯電話を取り出してフリップを開き、画面を突き出した。

「お母さんがね、出張に出ちゃったの。これが証拠」

 液晶モニターには、メールが表示されていた。それは、百合子の母親である白金撫子の名で送信されている。
鋼太郎は、仕方なくそれを読んだ。撫子らしい丁寧な文体だったが、娘が相手なので口調は砕けている。

  件名:急なことでごめんね

  会社から、どうしても外れることの出来ないお仕事を任されました。
  なので、三日ほど家を空けなければならなくなりました。ごめんね、百合。
  その間、黒鉄さんのお宅でお世話になってね。黒鉄さんのご両親には、もうお話ししてあります。
  具合が悪くなったり、心臓の調子がおかしくなったら、すぐに病院の先生に連絡して下さい。
  それじゃ、夜に電話するね。 母より

 百合子は、画面をスクロールさせて最後まで読ませてくれた。---END--- が現れ、ボタンを押す指が止まる。
鋼太郎が読み終えたのを確認してからぱちんとフリップを閉じて、スカートのポケットに携帯電話を戻した。

「ね?」

 百合子は首をかしげ、鋼太郎を見上げた。鋼太郎は、納得するしかなかった。

「まぁ…嘘だとは思わねぇけどさ」

「つまり、鋼とゆっこは三日ほど寝食を共にするわけだな?」

 口調は朗らかだったが、威圧感のある重みが加わっていた。正弘は、鋼太郎の後頭部にごりっと拳を当てる。

「過ちは犯すんじゃないぞ?」

 言い方こそ巫山戯ているが、至って本気だ。その証拠に、鋼太郎の頭は彼の拳で徐々に前のめりになった。
明らかに、嫉妬されている。百合子のことは諦めたんじゃ、と思ったが人の気持ちは簡単に変えられない。
諦めるとは言ったが、正弘自身はその気持ちを押し殺しているだけで、本当は恋心が残ったままなのだろう。
 鋼太郎は痛みこそ感じないものの、正弘の嫉妬心を背中でびりびりと感じていた。なんとも、やりづらい。

「しませんよ、そんな。ていうか何するんすか、ムラマサ先輩」

「あっ、うっ、あう…」

 過ち、で何を想像したのか、透が頬を染めた。百合子は、くすくす笑いながら鋼太郎に擦り寄る。

「痛くしないでね、鋼ちゃん? 優しくしなきゃダメなんだよお?」

「だっ、誰がするかっ!」

 鋼太郎は慌てながら、百合子に言い返した。正弘の手の力が更に強くなり、ごぎ、と首の関節が鈍く鳴った。

「そういうことはな、高校を出てからするものだぞ、鋼」

「でも、でもですね、ムラマサ先輩の好きな制服プレイは学生時代にしかっ!」

 鋼太郎が正弘に反論すると、途端に正弘は仰け反って声を裏返した。

「おっ、お前、不意打ちだぞそれは!」

何言うんだいきなり言うなそういうことは、と早口でまくしたてている正弘を見、百合子はにたりと口元を歪めた。

「制服ですかぁ。オーソドックスって言えばオーソドックスですねぇ、ムラマサ先輩」

「制服ぅ…」

 また想像を巡らせたのか、透は首筋まで赤らめて頬を覆い、俯いた。正弘は、鋼太郎を指差して喚く。

「それを言うなら、鋼の方が変だ! 鋼はメ」

「うわーうわーうわー! 言っちゃダメっすよていうかそれだけはダメっすそんなご無体なー!」

 鋼太郎は慌てながら声を張り上げて、正弘の言葉を強引に遮った。正弘はころりと態度を変え、にやついた。

「お前がオレのを曝すというのなら、オレもお前のを曝してやろうじゃないか、うん?」

「あうぅ…」

 一人で物凄い想像をしているのか、倒れてしまうのではないかと心配になるほど、透は真っ赤になった。

「い、いけません、いけないんです、ああ、そんな…」

「透。何をどこまで考えたんだ」

 透の独り言に気付いた正弘が、透に向いた。透は、ひゃっ、と変に高い声を上げた。

「ちっ、違います、違うんです、別に、あの、はい、何も!」

「透君。なんだったら、今度教えてあげようかー? 資料は鋼ちゃんちにどっさりあるからさぁー」

 百合子は透ににじり寄り、迫った。鋼太郎は色々な意味で動揺してしまい、二人の間に割って入った。

「ダメだダメだろそれこそダメなんだよ! 何考えてんだ、お前はあ!」

「んー。べっつにぃー?」

 百合子は鋼太郎の陰から顔を出し、透を見やった。

「で、透君の意見は?」

「わっ、私は、別に、その、えと、えっと…」

 透の声はだんだん弱くなっていき、最後には聞き取るのが難しいほど小さくなってしまった。

「み」

「み?」

 百合子が繰り返すと、透は目線を足元に落としてスカートを握り締めた。

「見て、みたい、かも…」

「透! いけない、それは君のキャラじゃない! そりゃ確かにその方向性はちょっと面白いかもしれないが!」

 正弘が透に詰め寄ったので、鋼太郎も透に振り返る。

「そうだあ! そりゃ確かにそうなったらそれはそれでいいかもしれねぇけど、透には似合わないぞ!」

「え、あ、う」

 二人に迫られてしまった透は、条件反射で後退した。百合子は興味深げな目で、二人を見上げる。

「じゃ、私はどうなの? 鋼ちゃん、ムラマサ先輩」

 その言葉に、鋼太郎と正弘は顔を見合わせた。しばらくして、正弘が少し笑った。

「別に構わない、というか、ゆっこの場合は何を知っていたとしてもあまり気にならないなぁ。不思議だが」

「そうっすね。ゆっこは恥じらいとか似合わねぇし」

 鋼太郎が、さも当然だと言わんばかりに頷いた。百合子は、二人の言い草にむくれた。

「えー。つまんないー」

「な、何を、知って、いるんだろう…」

 透は視線を彷徨わせながらも、百合子に定めた。頬の色はちっとも落ち着かず、赤く火照ったままだった。
鋼太郎は正弘と百合子と透の決定的な違いを話しながら、ちょっとむっとしているが楽しげな百合子を窺った。
百合子が休んでいた間も三人で会話をしていたが、百合子がいるのといないのでは、テンションの高さが違う。
 やはり、どこをどう見ても百合子は百合子だ。幼くて、底抜けに明るくて、良く笑って、元気良く喋っている。
正弘の言葉を、ますます疑ってしまう。正弘のことを信用しないわけではないが、どこを切っても普段通りなのだ。
 だから、信じる気が起きなかった。





 


06 12/23