非武装田園地帯




第一話 サイボーグ・ミーツ・ガール




 十三歳の秋。黒鉄鋼太郎くろがね こうたろうは、死んだ。


 半年前。十月初旬。
 午後五時半を過ぎ、辺りは既に暗かった。
 家に向かうまでの道にある街灯は、設置の間隔が広く、一つ追い越したら次の街灯は十数メートル先だった。
街灯の下を出ると、明るさが失われて一瞬目が眩む。光と闇の落差が何度となく続き、無意識に目元をしかめる。
左手には広大な田園が広がっているが、稲刈りは大半が終わっていて、田んぼには稲の根元しか残っていない。
どこかの家でモミの乾燥機を回しているのか、唸るような低い音が流れてきて、空気も全体的に埃っぽかった。
 マウンテンバイクのペダルを踏みながら、鋼太郎はギアを切り替えた。程なくして、目の前に長い坂が現れる。
しばらく進むと、その坂に乗り上げる。この坂は、途中で止まらずに一気に昇らないと、却って苦しいのだ。
ペダルを踏む足に力を入れ、サドルから腰を上げる。背中のザックに突っ込んだグローブとボールが、揺れる。
授業が終わったあと、壁を相手に一時間ほど投球練習をしていた疲れが残っていたが、気にしてはいられない。
ザックの下に背負っている通学カバンとジャージの入ったスポーツバッグが、ペダルを漕ぐたびに背に当たる。
英和辞典は教室に置いてくるべきだった、と後悔したが、今更遅い。辞典と教科書の重みが、肩に食い込んでくる。
 息を荒げながら、坂の半ばまで昇り切った。上を見ると、坂の先は左側に少し曲がっていて、カーブミラーがある。
そこに、黒の学ランの上下を着た自分が映り、鋼太郎は少しほっとした。こんなに暗いと、誰でも心細くなる。
中学生になって体が大きくなったとはいえ、顔立ちはまだあどけなく、黒の学ランも袖が若干長く持て余し気味だ。
スポーツ刈りの頭が前に動き、カーブミラーに近付いていく。ミラーに映る少年の姿も、次第に大きくなる。
坂を昇り切ってマウンテンバイクを止め、鋼太郎は荒い息を整えた。足の筋肉が熱を持って、張り詰めている。
 坂が終わったその先には高い石垣があり、その脇から出ている道と、もう一本の太い道が交わっている。
その太い道の先には橋が掛かっていて、道路と同じく街灯はまばらにしか付いていない、薄暗い橋だった。
鋼太郎の家は、その橋を渡った先の集落にある。早く帰らないと母親がうるさい、と鋼太郎はペダルを踏んだ。
 前を見ていたから、橋の向こうからやってくる車に一瞬気付かなかった。車も、少年の姿に気付かなかった。
長い距離で、しかも直線である橋を飛ばしてきた乗用車は、ハイビームのまま坂の先を通り過ぎようとした。
そして鋼太郎も、ペダルを深く踏み込んで坂へと進んだ。ハイビームが鋼太郎を包んだその瞬間、飛んだ。
 急ブレーキを掛けられたタイヤがアスファルトと擦れ合い、ゴムの焼ける匂いと、甲高いブレーキ音を発した。
時速五十キロ以上で走ってきた乗用車は、少年の体を軽々と吹き飛ばし、マウンテンバイクを踏み潰した。
フロントガラスに少年が衝突したことに驚いた運転手は、ハンドルを切り損ね、ガードレールに突っ込んだ。
金属のひしゃげる嫌な音と、ガードレールが折れ曲がる激しい音が響き渡り、機械油のきつい匂いが広がった。
 鋼太郎は、その様子をアスファルトの上から見ていた。衝突した際に落としてしまった、ザックが目の前にある。
だが、手が動かない。足も動かない。全身のあらゆる部分から激しい痛みが生じ、生温いものが溢れている。
教科書はバラバラに飛び散って、あの厄介な英和辞典が破れて、英語の並ぶページに赤黒い飛沫が散っていた。
口の中には鉄臭い味のものが溜まっていて、気色悪い。徐々に、英和辞典の文字もザックもぼやけてきた。
 ああ、死ぬんだ。そう、漠然と感じた。




 目が、覚めた。
 鎮痛剤を投与されているので意識はぼんやりとしていたが、とても嫌なものを感じて、上半身を起こした。
ベッドの枕元に置いてあるハート型の目覚まし時計は、午後六時十五分を指していて、秒針が動いている。
 その目覚まし時計の手前にある、泥に汚れた野球ボールが目に付いた。コウタロウ、と名前が書いてある。

「百合、起きたの? トイレ?」

 目を覚ました百合子に、母親が声を掛けてきた。百合子は、ベッドの脇にいる母親の撫子に顔を向ける。

「違う。なんか、怖い夢、見た気がするの」

 百合子は、コウタロウと書かれた野球ボールを手にした。今にも泣きそうな娘に、撫子は不安げにする。

「鋼太郎君の夢?」

「お母さん、後で鋼ちゃんに電話してもいいかな? なんか、すっごく怖いんだもん」

 百合子は小さな手で、野球ボールをきつく握り締めた。二人のいる病室の窓の外から、サイレンの音がした。
同時に赤いパトライトの閃光も差し込み、カーテンを赤で染める。百合子は、その音で更に不安が膨らんだ。

「六時頃に出たのが帰ってきたのね。事故かしら」

 撫子は眉をひそめ、広めに造られている窓に目をやった。百合子は、そこに映る自分の姿を凝視していた。
術後なので顔色は悪く、腕には点滴の管が付けられ、胸元からはコードが伸びている。好きではない、姿だ。
なんだろう、凄く怖い。怖くて怖くて仕方ない。いつになく、サイレンの音とパトライトの赤い光が嫌だ。
 救急車が止まり、患者が搬送されてきたのか、ストレッチャーを押す音と救急隊員達の叫び声がしてきた。
リョウテリョウアシフクザツコッセツ、シュッケツタリョウ、シンパイテイシカクニン、ナイゾウハレツフクスウ。
もう一台救急車が止まり、新たな患者が搬送された。ミャクハクテイシ、コキュウテイシ、ドウコウカクチョウ。
 端から聞くだけで、ひどい事故だったのだと簡単に想像が付く。両者とも、かなりの重傷を負っているようだ。

「六時…」

 百合子は、文字盤を見つめた。救急車がどこから患者を搬送してきたのか解らないが、出たのは六時だそうだ。
 六時。その時間は、百合子にとっては少し特別だった。鋼太郎が、投球練習を終えて帰ってくる時間だからだ。
百合子は、いつもそれを待っていた。鋼太郎の家に繋がる道に面した、自分の部屋の窓を開けて彼を待つのだ。
 幼馴染みだけど中学校に入ってからは自然と距離が出来て、あまり会話をすることがなくなってしまった。
登校する時も別々だし、帰りだって時間が違うし、友達だって男子と女子では大違いで会話の話題も違う。
だから、顔を合わせられるのは、壁が相手のピッチングを終えた鋼太郎が中学校から帰ってくる時だけだ。
家の前を通り過ぎる鋼太郎に、鋼ちゃんお帰り、とだけ百合子は言って、鋼太郎は、おう、とだけ返してくる。
 それだけだ。それだけでも、百合子にとっては特別で、鋼太郎との付き合いが続いているのだと実感出来た。
手の中にある泥の染みが付いた野球ボールは、鋼太郎が少年野球チームに入っていた頃に、もらったものだ。
使い込まれているせいで縫い目が擦り切れていて、白かったはずのボールは茶色で、捨てるはずだったものだ。
鋼ちゃんが捨てるんならちょうだい、と言ってみたら、鋼太郎は百合子の方を向かずに投げて寄越してきた。
 それだけだ。でも、大事だ。どんどん不安が増してくるが、心臓は高鳴らず、それがなんだか悲しくなった。
バッテリーが動力源の機械仕掛けの心臓は、一昨日の手術で新しく移植してもらった、最新型の人造心臓だ。
胸の中心には人造心臓の充電用ソケットが埋め込まれ、術後間もないなので充電用ケーブルが繋いである。

「鋼ちゃんなわけ、ない、よね?」

 不安をはぐらかすために、百合子は無理に笑った。撫子は、娘の長い髪を撫で付けた。

「そうよ。鋼太郎君なわけないわ。ほら、もう一度寝なさい。一杯眠って、体力を戻さなきゃ学校に行けないわよ」

「うん」

 百合子は野球ボールを枕元に置いてから、ベッドに横たわった。目を閉じても、なかなか眠気は訪れなかった。
鎮痛剤が回っているので、いつもならすうっと落ちるように呆気なく眠れるが、強い不安が眠気を妨げていた。
 鋼太郎に電話したい。でも、この状態ではロビーまで行けない。せめて明日にならないと、体を動かせない。
電話してもろくな返事はしてくれないのは解っているけど、すぐに切られるかもしれないけど、それでもいい。
 彼が、生きてさえいれば。




 九回裏、ツーアウト、スリーベース。
 スコアボードに並ぶ得点は、相手チームと自チームが競り合っていて、総計では自チームが一点勝っている。
だが、油断してはいけない。ここで気を抜いた球を投げたら、観客席にホームランを打ち込まれてしまう。
スパイクでマウンドの土を蹴り、手の中のボールをグローブに打ち付ける。全ての塁には、ランナーがいる。
 誰一人、走らせるものか。だが、バッターボックスに立っているバッターは打率三割を超える強打者だ。
ヘルメットの下から鋭い目を上げ、マウンドに立つ鋼太郎を見据えている。こちらが本気なら、敵も本気だ。
上等だ。絶対に打たせるものか。鋼太郎はキャップを直すと、ボールを握り締め、大きく振りかぶった。
ボールが離れる寸前まで力を込め、手首ではなく肩で投げ、力を出すだけ出してボールを放ったはずだった。
だが、ボールは投げられることはなく指から滑り落ちた。とん、とマウンドでバウンドし、ころころと転がる。
 なんて恰好悪い失投だ。ボールを追いかけようと手を伸ばすが、手は動かず、体も言うことを聞かなかった。

「なんで」

 ボールに向けて伸ばしたままの指先は凍り付き、強烈なライトを浴びたボールからは四方に薄い影が出ていた。
それを、取らなければ。バッターボックスにいるキャッチャーに目をやると、キャッチャーは指示を出している。
 チェンジアップ。ストライクゾーンから落ちる寸前で受け止めてやる、とのキャッチャーの意思が伝わってくる。
でも、ボールが取れない。悔しい、情けない、腹立たしい。鋼太郎が焦りで顔を歪めると、キャッチャーが言った。

「鋼ちゃん」

 体格の良いキャッチャーがいたはずが、いつのまにか紺色のセーラー服を着た小柄な少女に変わっていた。

「こーちゃーん」

「るせぇ」

 こっちは忙しいんだ、お前になんか構ってられるか。鋼太郎は口の中で毒突き、早くボールを取ろうと努力した。
手の先に意思を伝えようとしても、肩から先がちっとも動かない。まるで、右腕が他人の体になったみたいだ。

「こーちゃんってばぁー」

 髪の長い少女、百合子は頬を不愉快げに膨らませた。前髪をヘアバンドでまとめていて、広い額が出ている。

「うるせぇなちったぁ黙ってろ!」

 焦りに任せて鋼太郎が声を荒げても、百合子は動じない。

「やだ!」

「大体、なんでお前がそこにいるんだよ! 試合の邪魔だ、さっさと出てけ!」

 鋼太郎が叫び散らすが、百合子は膝丈よりもやや長めのプリーツスカートをぎゅっと握り締めた。

「やだ! だって、鋼ちゃんと一緒に帰りたいんだもん!」

「一人で帰れ、そんなの!」

 鋼太郎が更に叫ぶと、ナイター試合を行っていた球場が蜃気楼のように揺らぎ、景色が別のものに変わった。
夕焼け空。見慣れた通学路。田んぼと山が朱色に染められていて、足元の影は色濃く、ボールの影も深まった。
百合子は、やはりそこにいた。但し、小学生の姿で。小さな体にランドセルを背負い、こちらをじっと見ている。

「やだ」

 百合子の表情は先程のものと同じだが、声は幾分幼くなっていた。

「だって、鋼ちゃんがいないと寂しいんだもん」

「オレは寂しくない」

 鋼太郎の声も、声変わりが始まる前の高めのものになっていた。左手に填めているグローブも子供用だ。

「邪魔なんだよ。帰れよ」

 鋼太郎が邪険にすると、百合子は俯いた。今にも泣きそうな百合子に罪悪感を感じたが、彼女に背を向けた。
あまり、他人に見られたくないのだ。ボールのコントロールが甘いのも、投球フォームが情けないところも。
少年野球チームでレギュラーを掴んでいたなら、自信を持てていただろうが、今は自信など砕けていた。
同じクラスのチームメイトがポジションに付けたのに、自分だけはまだ補欠で、ボール拾いが主な練習だ。
 だから、練習に練習を重ねて、レギュラーの座を掴み取って、試合に出られるようになれば見せたかった。
まだ早いんだよ、と鋼太郎はむくれていた。手の中のボールは砂まみれで、それを握る手も大分汚れていた。
鋼太郎がボールを投げていたコンクリートの壁には、二人の影絵が伸びていて、遠くではカラスが鳴いている。
壁際には鋼太郎の黒いランドセルがぞんさいに転がしてあり、使い込まれた黒革が夕日を浴びて光っていた。

「じゃ、待つ」

 百合子は顔を上げると、赤いランドセルの肩掛けベルトを握り締めた。

「鋼ちゃんが帰るまで、私、待ってる」

「馬鹿言うな。暗くなっちまうだろうが」

 鋼太郎は振り返り、百合子の胸元を指した。百合子は、平坦な胸を張ってみせる。

「だいじょーぶ! 暗くなっても、怖くなんてないもん!」

「いや、だからな…」

 鋼太郎は、どうやって百合子を追い返そうかと思案した。百合子は、得意げににんまりする。

「私、一人でも暇じゃないもん。鋼ちゃんの練習の邪魔、しないって約束するよ。だから、ね、いいでしょ?」

 こいつ、何が楽しくて笑っているんだ。鋼太郎は不可解だったが、邪魔をしないのであればいいかとも思った。
鋼太郎は百合子を追い返すのを諦めて、投球練習の続きに戻った。だが、彼女はやっぱり邪魔をしてきた。
百合子からしてみれば邪魔ではなかったのだろうが、一球投げるたびに、鋼ちゃんは凄い、と褒め称えてくる。
たとえ、その球が狙った場所から大いに逸れていても、跳ね返ってきたのを受け損なったとしても褒めてきた。
 あー邪魔くせぇ。鋼太郎は何度となくそう思ったが、褒められるのは悪い気がしないので、放っておいた。
結局、その日、二人は家に帰るのが遅れた。帰った頃にはもう外は暗くなっていたので、二人とも怒られた。
なんだかんだ言って、鋼太郎は調子に乗っていたのだ。ああもべた褒めされると、その気になってしまう。
 どっちも馬鹿だよな、と、鋼太郎は少し笑った。


 でも。鋼太郎が少年野球チームのレギュラーになったのは、それから二年も過ぎた、小学六年生の頃だった。
そのレギュラーが決定した時に、今まで自分が使っていた汚れきったボールを、百合子にあげた。
 レギュラーになったお祝いに新しいものを買ってもらえるから、捨てるのも惜しいから、放り投げただけだ。


 ただ、それだけだった。




 百合子は、また目を覚ました。
 枕元にある鋼太郎のボールを掴むと、外部電源ケーブルを引っ掛けないようにしながら、ぎゅっと抱き締めた。
母親は既に帰っていて、消灯時間が過ぎているために病室の中は真っ暗だったが、廊下の蛍光灯は点いていた。
個室なので、病室の中は静まり返っている。ドアに填め込んである磨りガラスから、青白い光が入り込んでいた。
 今度も夢を見た気がするが、良く覚えていない。だが、気分は先程よりも大分心地良く嫌な感じはしなかった。
やっぱり、夕方に見た夢はただの悪い夢だ。あの予感も、ただの気のせいだ。そう思い、百合子は息を吐いた。
ベッドサイドに置いてある大型のコンピューターのモニターが光っていて、人造心臓の様子を表示させている。
血圧を表しているグラフは九十から百の間を上下していて、規則正しく血液を送り出し、全身に回している。
 体が成長したことに合わせて、以前よりも少々大きい人造心臓を埋め込まれたが、まだ馴染んでいなかった。
胸に異物感があり、鈍い重みが感じられた。これが気にならなくなるまで、多少の時間が掛かることだろう。
 百合子は幼い頃から体が弱く、物心付いた頃には病院に入院させられていて、幼稚園に行った記憶は一切ない。
家に帰ったことも少なかったので、百合子の世話に来た両親が帰る際に、どこへ帰るの、と言ったこともある。
それからしばらくして、百合子は生まれてから何度目かの手術を受けたが、それは今までのものとは違っていた。
 小児外科ではない、特殊外科という聞き慣れない科の医師に手術され、目覚めたらケーブルが繋がっていた。
最初の頃は、それはもう派手に泣いた。胸元から伸びたケーブルが怖くて、抜こうとしたが手に力が入らない。
百合子のためなんだよ、これさえあれば外で遊べるんだよ、学校にも行けるんだよ、と諭されたが泣き喚いた。
 だが、それから数日後に百合子は泣くのを止めた。歩いても苦しくないし、胸が痛くなることもなくなったのだ。
それは、初めての経験だった。たった数年だったが、生きていた中で、苦しみのない日が遥かに少なかった。
だからそれが嬉しくて、百合子は初めて走った。外にも遊びに出られるようになった、家にも帰ることが出来た。
その頃には、胸に埋め込まれた人造心臓を疎むことはなくなっていて、逆に親しみすら感じるようになっていた。
 その、幼児用サイズの人造心臓との付き合いは長かった。理由は、百合子の身長があまり伸びなかったからだ。
人造心臓を得たあとも体調を崩しやすく、入院ばかり繰り返していたので、運動量も少なく、発育が悪かった。
中学校に入ってもそれは同じで、十三歳になっても身長は百三十五センチ程度で、体重もかなり軽かった。
だが、身長が百四十センチに近くなると、部品交換して使い続けてきた幼児用人造心臓では事足りなくなった。
これからも背が伸びるのであれば、ということで、昨日の手術で新しい物に交換したが、やはり重かった。
使用されている金属や部品自体は変わらないのだが、大きさが大きくなれば、必然的に比重も増えるものだ。
 得も言われぬ息苦しさを感じ、百合子は唸った。手術後の痛みには慣れているが、この感覚は初めてだった。

「うー…」

 息苦しさも相まって目が冴えてしまい、百合子は上半身を起こした。ベッドの頭上にある、ライトを付ける。
数回瞬いてから灯った蛍光灯が、百合子を後ろから照らした。ベッドの周囲だけが、青白い光に包まれる。
ケーブルや点滴の管を引き抜いてしまわないように気を付けながら、手を伸ばし、右側の棚から本を取った。
 少女漫画の月刊誌で、手にすると少々重みがある。百合子は落とさないように気を付けつつ、身を引いた。
掛け布団の下で膝を曲げて、その上に月刊誌を置いて開いた。一度読んだので、内容は既に解っている。
お気に入りの作家の連載を読み始めたところで、病院の外から、再び救急車のサイレンが聞こえてきた。
だが、今度はストレッチャーの音や救急隊員の叫びは聞こえてこない。するのは、せわしない足音だけだ。
患者でないのであれば、移植用の臓器か手術に必要な量の血液を輸送してきたのかな、と百合子は思った。
 百合子は、何が運ばれてきたのかを気にすることもなく、漫画のストーリーに没頭した。甘ったるい恋愛ものだ。
線の細い美形のヒーローと、なんだかんだでちやほやされるヒロインが付き合うまでの様が描かれている。
どの漫画も、大抵がそのパターンだが、近頃は性描写がどぎつくなっていて百合子の好みとは違っていた。
ページをめくると、切ない告白の場面から一転して、ヒロインが床に押し倒されて服をひん剥かれていた。
 好きだからってすぐにやっちゃうことはないでしょ、と、百合子は引きつった笑いを口元に浮かべた。
いきなり押し倒す男も男だが、ろくな抵抗もせずに受け入れてしまう女も女だ、と呆れずにはいられない。
きっと、彼らはその後を考えていないのだ。薄っぺらい紙の上だから、将来を考えずに簡単に交わるのだ。
 百合子は、ヒロインが達したところで月刊誌を閉じた。少女漫画は好きだが、こういう部分は頂けない。

「今度、鋼ちゃんの漫画、借りよう」

 百合子は独り言を呟き、月刊誌を掛け布団に置いて横になった。彼なら、少年漫画の単行本を持っている。
貸してくれるかどうかは解らないけど、頼むだけ頼んでみよう。鋼太郎と話せるなら、なんでもいいのだ。
退院予定は来週の火曜日だ。水曜日からは中学校にも行けるようになるから、その時に鋼太郎に頼もう。
 そう思いながら、百合子は目を閉じた。







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