非武装田園地帯




第一話 サイボーグ・ミーツ・ガール



 翌朝。味の薄い病院食を食べ終えた百合子は、物足りなくて仕方なかった。
 何度経験しても、あれだけはダメだ。おいしくないったらありゃしない。あれでは、治るものも治らないと思う。
口直しにジュースでも飲もう、と百合子は点滴の下がったスタンドを片手で押しながら、エレベーターから降りた。
胸元のケーブルは、今朝の検診で外された。あのケーブルは、人造心臓の機能が安定するまでの予備電源だ。
状態が安定してしまえば、人造心臓は内蔵のバッテリーだけで稼働させるため、術後数日で外されるのが普通だ。
 一階のロビーは、朝の七時前半と言うこともあって人影はまばらで、テレビを見ている患者の姿がいくつかある。
広いロビーの玄関側には、外来の受付と会計を兼ねたカウンターが連なっていて、その右手に待合所がある。
といっても、大型テレビに向けて椅子が並べてあるだけだ。その待合所の奧に、調剤薬局と売店が並んでいる。
小銭の入ったウォレットを振りながら、百合子は売店に行こうとして、椅子に座っている人影に目を止めた。
 見慣れた人物が、いたからだ。百合子が足を止めると、テレビを見ていた中年の女性が百合子に振り返った。

「あら、百合ちゃん」

「おばさん。どうしたんですか?」

 百合子は点滴のスタンドを押しながら、近付いた。背が低く丸い体形の中年の女性は、憔悴しきっていた。
その隣に座っている、女性よりも年嵩が上の男性も同じだった。二人とも寝ていないのか、目が充血している。
 二人は鋼太郎の両親だった。なぜここにいるのだろう、誰かが病気でもしたのかな、と百合子は心配になった。

「銀ちゃんか亜留美ちゃんの具合でも悪くなったんですか?」

 百合子は鋼太郎の下の兄弟の名を並べたが、鋼太郎の母親、奈津江はハンカチを握り締めて肩を震わせた。

「聞かない方がいいわ、百合ちゃん。体に触るから」

「じゃ、鋼ちゃんですか?」

 百合子は更に心配になり、今度は鋼太郎の父親に尋ねた。鋼太郎の父親、良次は目を伏せた。

「…そうだ」

「ねぇ、あたし嫌よ、あんなことまでして生かすなんて! あれじゃ、鋼が可哀想よ!」

 奈津江は、夫の腕を掴んで揺さぶる。良次は、涙を堪えている妻に向き直る。

「だが、お前もいいと言ったじゃないか! 鋼が生きてくれるならなんだっていいと、今更何を言うんだ!」

「だ、だって、あんなの、もう人間じゃないわ! あんなんじゃ、生きているなんて言えないわ!」

「馬鹿が!」

 良次の一喝が、ロビー全体を震わせた。その声に気圧され、百合子はウォレットを手から落とした。

「一番苦しいのは鋼太郎だ! これからも、一番苦しいのはあいつなんだ! それを、俺達が怖がってどうする!」

 良次は、長年の農作業によって皮の分厚くなった手で泣きじゃくる妻の両肩を押さえた。

「俺は、鋼太郎が生きているだけでいいんだ! どんな姿になったって、鋼太郎は鋼太郎なんだ! 忘れるな!」

 百合子は、足元に落ちたウォレットを拾うこともなく、その叫びを聞いていた。その意味は、もう解っていた。
病院暮らしと、特殊外科に掛かっている年月が長いと、こうした会話を何度となく診察室の中から聞いていた。
家族や友人や恋人だけでなく、患者本人の嘆きも聞いた。どうしてこんな、死んだ方がマシだ、などということを。
 そんな言葉を放つのは、特殊外科で手術を受けた者達だ。百合子も幼い頃に、そんなことを言った覚えがある。
こんな心臓いらない、私の心臓を返して、私は人間だ、ロボットなんかじゃない。だから、すぐに察しが付いた。
だが、考えたくなかった。膝の下から力が抜け、小刻みに震えていたが、点滴のスタンドで体を支えていた。
 昨日の午後六時過ぎの救急車が搬送した患者。深夜の救急車が運んだもの。それは、臓器でも血液でもない。
きっと、それは。百合子は乾いた唇を舐めてから、泣き続ける鋼太郎の母親と涙を堪えている父親を見据えた。

「もしかして、鋼ちゃん」

 良次は、目尻を潤ませながら唇を噛み締め、頷いた。

「ああ、そうだ」

 百合子はその次の言葉を覚悟していたが、それでも衝撃は強かった。



 鋼太郎は、サイボーグになった。



 その言葉が消えても、百合子の耳に音は戻ってこなかった。自分の想像が当たってしまったことが、嫌だった。
嫌な予感は、これを示していたのだ。百合子は崩れ落ちそうになったが、点滴のスタンドを握る手に力を込めた。
サイボーグ。その存在自体は、百合子は受け入れているし、自分もそうだから、嫌悪したりするはずがない。
 だが、衝撃は衝撃だ。この間まで元気だった鋼太郎が、愛想が悪くて優しくないけど大好きな、鋼太郎が。

「それって、事故?」

 百合子が弱々しく呟くと、良次は苦しげに呻いた。

「学校の帰りがけに、橋の前のところで撥ねられたんだ。頭は無事だったんだが、それ以外は全部…」

「ぜんぶ、って」

「全部は全部だ。当たり所が悪くて、手足も内臓もダメで、目も車の破片でやられていて、即死も同然だった」

「そんな」

「それでも、息は残っていたんだ。だが死ぬのは時間の問題だと言われて、手術を、お願いしたんだ」

 良次の声には、後悔と苦悩が色濃く滲んでいた。決断をするまで、どれだけ苦しんだのかは想像も付かない。
鋼太郎は長男だ。何がなんでも生きていてほしいと思うのは当然だけど、サイボーグになってまで、とも思う。
事実、そう言ってサイボーグ化手術を断って死んでしまった人間は少なくなく、医者達もまた苦悩している。
 百合子は、まだ現状を飲み込めていなかった。鋼太郎はちゃんと生きている、でも、人間ではない機械の体で。
無意識に、胸元に手を当てて人造心臓を押さえた。こんな時なのにちっとも鼓動は暴れず、落ち着いていた。
 それが、無性に寂しかった。




 夕方になって、仕事を早引けした母親が百合子の病室にやってきた。
 撫子も鋼太郎がサイボーグになった知らせを受けているのか、沈んでいた。やはり、ショックはショックなのだ。
百合子も、朝の一件以来沈み込んでいた。診察に来た医師に聞いたところ、このことはやはり事実であった。
どうして知っているのか、と逆に訝しがられたが、鋼太郎とは友達だと言うと医師と看護師は慰めるように笑んだ。
彼はもう大丈夫、すぐに治る、だから心配いらないよ、と。それは間違いないだろうが、問題は鋼太郎本人だ。
 体は自由に動いても、それは自分の体ではない。すぐに立ち直れるはずもないし、自暴自棄になるかもしれない。
そう思っただけで、百合子は涙が滲んできてしまった。助けてあげたい、支えてやりたい、との気持ちが湧いてくる。

「お母さん」

「ん?」

 百合子の着替えを畳んでいた撫子は、その手を止めて顔を上げた。百合子は、ぐいっと涙を拭う。

「鋼ちゃんの病室、どこかな?」

「今はまだ、集中治療室じゃないかしら。鋼太郎君の生身の部分と機械の部分が馴染むまで、時間が掛かるし」

 撫子は下着や入院着などを棚に入れてから、ベッド脇の椅子に座り直した。

「そりゃ、そうだけど…」

 でも、会いたい。すぐにでも会って、励ましてやりたい。百合子がまた泣きそうになると、撫子は言った。

「でも、一週間ぐらいしたら出てくるのが普通じゃないかしら。百合子の最初の時も、そうだったもの」

「あ、ねぇ、お母さん!」

 百合子は身を乗り出し、撫子に迫った。

「だったらさ、診察の時にお見舞いに行っていいかな、いいでしょ!」

「そうね。どうせ、当分は来なきゃいけないし、私も鋼太郎君に会っておきたいわ」

 撫子は頷くと、娘の小さな手を握った。人造心臓が新しくなったので血の巡りが良いのか、指先まで温かかった。
顔色も良くなっていて、日に当たらないので色の白い頬がほんの少し赤らんでいて、撫子は嬉しくなっていた。
本当なら、もっと早い時期に、中学校に入学する前に最新型の人造心臓に付け替える手術をしてやりたかった。
 だが、どうしても治療費の目処が立たなかった。部分的な機械化、セミサイボーグでも、やはり金は掛かるのだ。
手術などは保険が利くので国が負担してくれるが、治療とは別の物、つまり機械の部分は自己負担の場合が多い。
中には保険の利くものもあるが、そうでないものの方が多く、百合子に埋め込んだ人造心臓も保険適応外だった。
人造心臓本体もそうだが、超小型高性能バッテリーに充電するための装置や、各種機器も当然保険は利かない。
だから、それらを全て買えるほどの貯金が出来るまで、百合子には小さな人造心臓で我慢してもらうしかなかった。
 体が大きくなったのに心臓が小さいままだったので、走ることもままならず、体格も一向に成長しなかった。
それを見ている両親でさえ苦しかったのだから、百合子本人はさぞ辛かっただろう、と撫子は切なくなっていた。

「百合」

 撫子は、百合子の背中の中程まである髪を指で梳いた。母親に似た、真っ直ぐな髪だ。

「これで、もっと背が伸びるのよ。また走れるようになるのよ」

「じゃ、来年の体育祭には出られるかな!」

 百合子が声を弾ませると、撫子は目を細める。

「ちゃんと出られるわ」

「体育の授業にも出たいし、プールだって泳ぎたい! あ、でも、プールは先生に相談しないとダメだな」

 ちょっと悔しげに、百合子は細い眉の間をしかめる。だが、また笑顔になる。

「旅行だって行けるよね、今度こそ! 冬休みでも春休みでもいいからさ、どこか行こうよ!」

「どこがいい?」

 はしゃぐ百合子が微笑ましくて、撫子も頬を緩める。えーとねぇ、と百合子は考えあぐねたが、苦笑した。

「どこにも行きたいから、ちっともまとまんないや。後でいい?」

「百合が決めないんなら、私とお父さんで決めちゃうわよ?」

 撫子が意地悪く笑むと、百合子は途端に慌てた。

「だっ、ダメだよ、私が決める! だから決めちゃわないで、お願いだから!」

「はいはい」

 むくれている顔すらも愛おしくてたまらず、撫子は胸が一杯だった。どんな我が侭を言われても、許したくなる。
百合子は、産まれた時から小さかった。早産だったために発育が未熟で、長い間、保育器に入れられていた。
生まれつき心臓の内壁に穴が開いていたため、小さく幼い体で何度も手術を受け、その命を長らえてきた。
 長時間の手術後の、チューブが何本も繋がれた痛々しい姿を思い出すと、今の姿はまるで夢のようだった。
あまり甘やかすと百合子のためにならない、と思うが、元気に育ってくれるなら、とも思ってしまうのが親心だ。
不意に、百合子の笑顔が曇った。ベッドに座り直すと、大きな丸っこい目に涙を溜め始め、しゃくり上げている。

「どうしたの、どこか痛いの?」

 撫子が不安になると、百合子は首を左右に振った。その勢いで、数滴の涙が掛け布団に散った。

「痛いんじゃないよ。私、今、鋼ちゃんのこと忘れちゃってたよ」

 百合子は項垂れると、小さな肩を縮める。

「私なんかまだいいんだ、慣れてるから。でも、鋼ちゃんは違うんだ。私と違って、全部が機械になったんだ」

 涙で声を詰まらせながら、百合子は顔を手で押さえる。

「鋼ちゃん、私よりもっと辛いはずなんだ。痛い思いをしたはずなんだ。なのに、私」

「いいのよ、百合。あなたは悪いことなんてしてないわ、自分の体が元気になったら、喜ぶのは当然よ」

 撫子は百合子の肩に手を回し、引き寄せる。百合子は母親の胸に縋り、ぎゅっと目を閉じた。

「でも、でも、でもさぁ!」

 百合子は、今の鋼太郎がどんな姿になったのか考えたくなかった。きっと、ロボットのような姿になっている。
人間のサイボーグ化技術が確立されたとはいえ、人間そっくりのサイボーグボディは未だに開発されていない。
理由は、軍隊などで軍需用として研究されていたものを医療用として取り入れているだけに過ぎないからだ。
 鋼太郎が意識を取り戻して己の姿を見たら、きっと、百合子以上にショックを受けてしまうのは間違いない。
だから、あまり泣いていてはいけないんだ。百合子は目を開くと、母親の胸元から顔を放し、涙を拭った。

「鋼ちゃん、早く元気になってくれるといいな」

「そうね。でも、誰でも最初は荒れちゃうと思うから、覚悟しておいた方がいいわよ、百合」

 あなたがそうだったんだもの、と撫子が物悲しげにすると、百合子は真剣な顔付きになった。

「解ってる。でも、鋼ちゃんは鋼ちゃんなんだ。どんな体でも、鋼ちゃんは鋼ちゃんなんだ!」

 そうよ、と撫子が百合子の頭を撫でてきた。百合子はそれが気恥ずかしかったが、心地良くて抵抗しなかった。
鋼太郎の気持ちは、自分が一番よく解るはずだ。程度は違っているが、身に訪れたことは近しいのだから。
何を話そうかな、と考える傍ら、切なくもなっていた。もう、生身の鋼太郎には、二度と会うことはないのだ。
 百合子は、鋼太郎が好きだ。歳を重ねるごとに立派になる体付きも、大きな手も、きつい印象の眼差しも。
でも、そんな鋼太郎に会えるのは、もう写真の中だけになってしまった。そのことは、さすがに寂しく感じた。

「鋼ちゃん」

 今頃、鋼太郎は、どうしているだろう。意識が戻っていないなら、虚ろな闇の中を彷徨っていることだろう。
意識が戻っているなら、さぞ苦しんでいることだろう。百合子はまた泣きそうになったが、ぐっと我慢した。
どこかの病室でテレビを付けているのか、扉越しに音声が流れてくる。それは、プロ野球の中継らしかった。
シーズンは、始まったばかりだ。セントラルリーグの試合らしく、百合子でも聞き覚えのある球団の名が聞こえた。
 三回表、ワンストライク、スリーボール、ツーアウト、一塁二塁。勝負はまだまだこれから、という段階だろう。
甲高い打撃音がして、歓声が沸く。ライトスタンドに伸びる伸びる、行くか、行ったか、ホームラン、先制二点。
実況のアナウンサーは、ホームランを放った助っ人外人のバッターの名を連呼し、彼の活躍を褒め称えている。
百合子はその音を聞き流しながら、内心で意気込んだ。そうだ、これはきっと、鋼太郎とする試合みたいなものだ。
 鋼太郎は今、追い詰められている。九回裏、ツーストライク、スリーボール、ツーアウト、満塁。そんな状態だ。
そして、その試合のマウンドに、たった一人で立っているんだ。やれるだけのことをして、彼を助けてやろう。
 少しでもいいから、鋼太郎の力になりたい。





 


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