非武装田園地帯




第一話 サイボーグ・ミーツ・ガール



 だが、眠りはいつまでも続かなかった。
 思考が鮮明になると、自動的に感覚が元に戻る。視界センサーが作動し、回路を通じて光景が伝わってきた。
電子的なノイズが混じっていたが、すぐに補正される。薄暗い天井に西日が差し込んでいて、窓側が眩しい。
視界の隅に表示されている時刻は、午後五時三十一分二十五秒。気付いたら、もうこんな時間になっている。
 決して、気分の良い眠りではなかった。事故の瞬間を思い出したせいで、何度となくあの光景を夢に見る。
視界を奪ったハイビームの白さ、フロントガラスの奧で顔を引きつらせた運転手、呆気なく撥ねられた自分。
衝撃と痛みと、血の味と、意識が薄れていく感覚。そのどれもがおぞましく、全てを忘れ去ってしまいたい。
 これが夢であったらいいのに。もう一度眠って目を覚ましたら、体が元に戻っていてくれたら素晴らしいのに。
たった十三年と数ヶ月の付き合いだったとはいえ、自分は自分だ。離れてしまうと、途端に愛着が湧いてくる。
だが、もう二度と戻れない。医師と両親から聞かされた自分の体の具合は、普通に考えても治療不可能だった。
我ながら、よくあんな状態で頭が無事だったと思う。余程運が良いのか、それとも死に損なっただけなのか。
 そのどちらなのか、鋼太郎は悩んでいたが、聴覚センサーに音が入ってきた。生身の頃より感覚が鋭敏だ。
それは、ベッドの傍から聞こえていた。かすかな呼吸が繰り返されていて、人の気配もすぐ近くにあった。
鋼太郎は体を起こし、廊下側のベッド脇を見下ろした。頬に涙の跡が付いた百合子が、壁にもたれていた。
泣きながら眠ったのか、あまり心地良さそうではない。子供かよ、と鋼太郎は思ったが、その通りだと思い直した。
一人っ子だから両親から大事に大事に育てられているせいで、性格も未だに幼いままで、中学生らしくはない。
 鋼太郎が百合子をしばらく見ていると、百合子は身動きした。何度か瞬きすると、涙の残る目元を擦った。

「鋼ちゃん、起きた?」

 その声は掠れ、少々上擦っている。鋼太郎が何を言うべきか迷っていると、百合子は頬を拭った。

「ごめんね、鋼ちゃん」

 上手く気持ちをまとめられず、鋼太郎は顔を逸らした。謝るべきは、百合子ではなく自分であるはずなのに。
なぜ、百合子が謝るんだ。その意味が掴めずにいると、百合子はぐしゃぐしゃになったハンカチを握り締めた。

「鋼ちゃんのこと、怖かったわけじゃないんだ。本当だよ」

「なんで、まだいるんだよ。帰ったんじゃなかったのか」

 鋼太郎は、一番最初に思い付いた疑問を口にした。百合子は、そろっと鋼太郎を見上げる。

「お母さんにお願いしたの。そしたら、いいって言ってくれたから。だから」

「だからってな…。お前、さっさと帰らねぇと、また具合悪くなっちまうぜ」

 鋼太郎が内心で顔をしかめると、百合子は力なく笑った。

「あ、大丈夫だよお。昔に比べたら大分丈夫になったから、熱もそんなに出ないから」

「そういう問題じゃねぇだろ」

 鋼太郎は、百合子の根拠のない自信に呆れてしまった。そう言って、遊んだ傍から熱を出したのを忘れたのか。
幼い頃、母親に止められていたのに寒空の下に出ては熱を出し、鋼太郎に付き合って無理をしては苦しんでいた。
人造心臓を付けてからも、多少の体力は付いたが抵抗力の低さは変わらず、事ある事に高い熱を出していた。
 そんな経験があるから、鋼太郎は気が気ではなかった。百合子はむっとすると、プリーツスカートを持ち上げた。

「だから、大丈夫だってば。ほら、スカート履けるようになったじゃん」

「それがどうしたってんだよ」

 鋼太郎が内心で変な顔をすると、百合子は膝下よりも長い紺色のスカートをぴらぴらさせる。

「ほら、前はさぁ、スカートなんか履くとすぐにお腹痛くしちゃってたじゃん? でも、もう大丈夫なんだ!」

「そうなのか?」

「そうだよお。知らなかった?」

 そう言いながら、百合子は更にスカートをばさばさと振った。盛大に上下させるので、細い足が見え隠れしている。
その奧の紺色のブルマも見えたり見えなかったりで、鋼太郎は恥じらいの欠片もない百合子にげんなりした。

「とりあえず、それ、やめろ。はしたねぇ」

「えー? 喜ばないのー?」

 不満げな百合子に、鋼太郎は顔を背けて手を振った。

「お前の足なんか見慣れてる。今更見たところで、どうにもなりゃしねぇよ」

「ちょっとはどきどきしろー」

 スカートを大きくめくり、百合子は鋼太郎を睨んだ。鋼太郎は、次第に面倒になってきた。

「命令形かよ」

 そんなことを言われても、なんとも思わないのだからどうにもならない。百合子は、一体何を期待しているのだ。
ばさっとスカートを下ろした百合子は、まだむくれていた。泣いたと思ったら笑って、今度は怒っているようだ。
よくもまぁ、そんなに表情を変えられるものだ。何がそんなに楽しくて、何がそんなに癪に障るというのだろう。
 鋼太郎は掛け布団の下で胡座を掻き、背を丸めた。そして、どうして百合子はこんなに自分に執着するのだろう。
彼女と疎遠になったのは、何も中学校に入学した頃からではない。小学校の、高学年の頃から既に離れていた。
理由は、鋼太郎が少年野球チームで練習に打ち込む時間が増えたため、土日に会わなくなったからだった。
登校は集団登校だったので共にしていたが、百合子が話し掛けてきても、鋼太郎はそれを邪険に扱っていた。
 女子と一緒にいるのがなんとなく恥ずかしくなってきたから、なのだが、それでも百合子はまとわりついてきた。
その頃もそうだが、今は尚のこと不思議だ。こんな体になった人間の近くにいても、何もいいことなんてない。

「なぁ」

 鋼太郎がその疑問を百合子に言おうとすると、百合子も鋼太郎に振り向いた。

「ねぇ、鋼ちゃん」

 百合子は右手を挙げ、指を変な形に曲げた。

「カーブって、どうやるんだっけ?」

「あ?」

「どうやるんだっけ」

「こうに決まってんだろ」

 鋼太郎は右手を上げると、人差し指と中指を残して残りの指は握り、親指を立てた。

「それがどうした」

「投げられる?」

 無邪気な笑顔で、百合子は鋼太郎を見上げてきた。鋼太郎は右手をカーブの形にしたまま、顔を逸らした。

「…だから、それがどうしたってんだよ」

「そーだもんねー、鋼ちゃんはぶきっちょだから変化球が出せないんだもんねー」

 百合子は鋼太郎をからかうように、けらけらと笑った。鋼太郎は、それに少し苛立った。

「だから、それがなんだっつーんだよ!」

「投げてみたら?」

 百合子はスカートのポケットを探ると、汚れた野球ボールを取り出した。コウタロウ、と名が書いてある。

「へんかきゅー」

「それ、まだ持ってたのか?」

 鋼太郎は、百合子が手にしているボールを指した。それは、かつて自分が放ったものだ。百合子は頷く。

「うん。これ使ってさ、病院の壁ででも練習してみたら? もしかしたら、投げられるかもよ?」

 ほい、と百合子は鋼太郎にボールを放り投げた。手付きが危なっかしく力がないので、変な方向に飛んだ。
鋼太郎の手元を目指したらしいのだが、ベッドの上を通り抜けて窓際に落下し、とん、と一回バウンドした。

「へったくそ」

 鋼太郎はベッドから降りると、ボールを拾った。昔は手に余る大きさだったが、今では小さいくらいだった。
金属製の手の中では、野球ボールは随分と小さかった。だが、これを握っていると、不思議と落ち着いた。
百合子の提案も、悪いものではない。事故に遭って手術を受けてから、動いていなかったことも思い出した。
気分が滅入って仕方なかったのと、自暴自棄になっていたため、狭い病室の中にずっと閉じ籠もっていた。
 今も、他人の目にこの姿を晒すのは嫌だ。だが、少しなら、練習をしに外に出てみても良いかもしれない。
鋼太郎はボールを握り締めると、百合子に向いた。百合子はちょっと不安げな顔で、こちらを見ていた。

「少しだけだぞ」

「ん」

 百合子は嬉しそうに笑み、立ち上がった。軽い足取りで病室の外へ出た百合子を、鋼太郎は追っていった。
長い廊下には病室の扉が並んでいて、正面にある階段の踊り場の窓からは、西日が真っ直ぐに差し込んでいた。
百合子の小さな肩の上で西日が撥ね、狭い背の上では、頼りない歩調に合わせて長い黒髪が踊っている。
それが、やけに下に見えた。以前から身長差はあったが、鋼太郎の体が変わったために随分と広がっている。
 生身の頃の身長は、百六十二センチ程度だったのだが、この機械の体の身長はそれを大きく上回っている。
軍事目的、つまり、戦闘用として造られたので、パワーを出すために体格が必要なので必然的に大柄になる。
なので現在の身長はやたらと高く、二百八センチになっている。立って歩いてみると、その実感が沸いてきた。
百合子は先に階段に到着していて、鋼太郎を待っている。鋼太郎は足元に気を付けながら、階段に向かった。
 あまりにも身長が違うので、気を抜いたら転んでしまいそうだった。




 二人は、病院の裏側にいた。
 正面玄関の駐車場とは反対側で、人影はない。西に面しているので、目に痛いほどの西日が注いでいた。
百合子は目元をしかめていたが、鋼太郎に向き直った。銀色の屈強な体が、オレンジ色に染められていた。
壁には、二人の影絵が伸びている。鋼太郎はグローブがないのが物足りないらしく、左手を見下ろしている。
だが、諦めたのか、壁と向き合った。鋼太郎は右手をカーブの形にしてボールを握ると、後退って距離を開けた。
 マウンドからバッターボックスまでの距離と同じぐらいの距離を開いて、足元を踏み締めて、壁を横に見る。
左足を前に出して踏み込むと同時に腰を捻り、肩に力を込め、肘を伸ばし、思い切り手首を振って球を放った。
どぅん、と重たい衝撃と音が響き、コンクリートの壁が少し揺れた。跳ね返ったボールが落ち、転がってくる。

「真っ直ぐだったね!」

 鋼太郎の放った球を見ていた百合子は、可笑しげにした。鋼太郎は、ボールを拾う。

「るせぇ」

「やーいノーコンー」

「ちったぁ黙ってろ!」

 百合子にからかわれ、鋼太郎はついむきになってしまった。ノーコンと言われては、癪に障らないわけがない。
握り方は間違っていないはずだ、フォームだってそんなにおかしくはないはずだ、だから投げられるはずだ。
 鋼太郎は、再び壁に投球した。だがまたしてもボールは、だぁん、と真正面に当たって跳ね返ってきた。
カーブであれば、着地点は曲がるはずだ。しかし、これは間違いなく直線上だ。鋼太郎は、悔しくなってきた。

「誰が」

 足を高く上げて振りかぶり、左足を踏み込んで勢い良く球を投げた。

「ノーコンだっ!」

だが、やはり、真正面に当たった。鋼太郎が足元に転がってきたボールを拾うと、百合子がにやにやする。

「ほうらノーコンじゃーん」

「ノーコンノーコンってうるせぇな、どうせオレはエースじゃねぇよ」

 鋼太郎は百合子に言い返してから、振りかぶって投げた。だが、何度やってもボールは曲がってくれなかった。
真っ直ぐにしか、飛んでくれない。指を引っかけてスピンを掛けたつもりでも、ちっとも掛かっていないらしい。
投げ続けながら、昔もこんなことがあったな、と思い出した。レギュラーを掴めなかったのは、理由があった。
 鋼太郎は、肩だけは強かった。外野からでも力のあるボールを投げられるのだが、手先が極めて不器用だった。
だから、変化球が一切操れず、いざマウンドに立つとストライクゾーンにばかり投げ込んでは打たれていた。
レギュラーになって外野手になったのだが、バッターボックスにもマウンドにも数えるほどしか立てなかった。
バッティングもからきしだった。ピッチングもまるでダメだった。だが、力一杯投げることが一番好きだった。
練習すればコントロールが出来るようになるだろう、と思ってひたすら練習しているが、なかなか進歩しない。
 それは、サイボーグの体になっても同じらしい。指先の動きが鈍く、ボールが離れる時に引っ掛けられない。
三十二回目の投球を終え、鋼太郎は肩で息をしていた。厳密には吸気と排気なのだが、少々荒くなっていた。

「畜生」

 ちっとも上手く行かない。頭の中では出来ているのだが、指先にそれが伝わらず、動きが硬くなってしまう。
鋼太郎が苛立ちを持て余していると、上機嫌な百合子は、鋼太郎に近寄って地面からボールを拾い上げた。

「鋼ちゃんのノーコン」

「練習が足りてないだけだ! これ以上、それを言うんじゃねぇ!」

 百合子の手からボールを引ったくると、鋼太郎は振りかぶった。投げようとする彼に、百合子は言った。

「やっぱり、鋼ちゃんは鋼ちゃんだね」

 投げようとする手を止めて、鋼太郎は腕を下ろした。その姿を見上げ、百合子の胸には安堵が広がった。
鋼太郎は鋼太郎だと信じていたが、やはり不安は残っていた。だが、彼の投球を見て、彼は彼だと解った。
投球フォームも、投げるタイミングも、変化球が投げられない不器用さも、どれもこれも鋼太郎そのものだ。
 これで、ようやく確信が出来た。無性に嬉しくなってきて、百合子がちょっと泣きそうになってしまった。
鋼太郎は、泣き笑いのような顔をしている百合子を見下ろしていたが、手の中の汚れたボールを握り締めた。

「オレは、オレなんだな」

 体が変わっても、変化球が投げられないのは変わっていなかった。少しは上手くなれよ、と思わないでもない。
だが、正直、嬉しかった。自分が失われていないのだと実感出来て、自分は自分なのだと思うことが出来た。
憎らしい欠点だったが、才能のなさの現れだったが、今はありがたく思えた。ノーコンは、所詮ノーコンなのだ。
 気付くと、田畑の先にある山間に太陽が沈んでいた。辺りは薄暗くなり始め、空気が途端に冷え込んできた。
その寒さを感じた百合子が、肩を縮めて身震いすると、鋼太郎はボールを持った右手で駐車場の方向を指した。

「寒いんなら帰れよ。車、待たせてるんだろ?」

「うん」

 百合子は寂しげに、眉を下げた。鋼太郎は、ぱしっとボールを左手の中に叩き付ける。

「オレは、もう少し練習してから戻る。次は、ノーコンなんて言わせねぇぞ」

「どうだかー。ぶきっちょはぶきっちょのままだと思うけど」

「カーブだけじゃなくて、スライダーでもチェンジアップでも投げてみせるさ」

「うん。期待しないで待ってる」

 百合子は頷くと、名残惜しげだったが歩き出した。鋼太郎はその背を見ていたが、呼び止めた。

「おい」

 百合子が振り返ると、鋼太郎は彼女にボールを放った。百合子は取ろうとしたが、掴み損ねて足元に落ちた。

「やるよ」

 鋼太郎は百合子に背を向け、呟いた。百合子は汚れたボールを拾うと、大事そうに両手で包み込んだ。

「うん。もらう」

 じゃあね、と手を振りながら、百合子は駐車場に向かっていった。鋼太郎は、その足音が遠ざかるのを待った。
それが聞こえなくなってから、彼女の行った方に向いた。赤かった空は、東から藍色に移り変わり始めていた。

「ノーコン、かぁ」

 屈辱でしかない言葉だが、今だけはいいものに思えた。全く、変な励まし方だとは思うが有効ではあった。
あれだけ滅入っていた気分が、少しだけだが持ち上がっていた。この体でも、自分は自分なのだと思えてきた。
 すぐに全てを受け入れることは無理だろうが、受け入れていきたい。いつまでも、沈んではいられないのだ。
沈んでいては、良い球は投げられない。そんなことでは、ストライクはおろかボールだって取れないだろう。
だが、何もあんなにノーコンノーコンと連呼しなくてもいいじゃないか。さすがに、ちょっとは傷付いてしまった。
 憂さ晴らしに投げ込もうと思ったが、ボールは百合子に渡してしまったし、病院に野球ボールがあるとは思えない。
仕方ないので、鋼太郎は投球フォームの練習をした。それ以外にやることはないし、思い付かなかったからだ。
 多少、空しかったが。





 


06 8/20