魂よ、蘇れ。 壊れた笑い声が聞こえる。聞こえる。聞こえる。 赤黒い飛沫が天井まで飛び散り、カーテンが引き裂かれた。壁に倒れ込んだ大柄な影は、がくがくと震えている。 それが、笑い声の発生源だった。機械的なノイズを含んだそれはやかましく、外からの雨音を掻き消すほどだ。 影の手の中に、何かある。鈍い光を放つ肉塊。それも一つや二つではなく、影の足元にいくつも転がっている。 ぶぢゅり、と踏み潰され、粘ついた液体が溢れ出す。げたげたと笑う影は近付いてくると、腕を掴んできた。 みし、と嫌な音がして、細い骨が折られる。目の前の光景に飲まれてしまって、痛みが頭まで届かなかった。 目の前の影は、言葉を喚き立てている。だが、まるでまとまりがなく、独り言を並べ立てているだけだった。 割られていない方の蛍光灯が瞬き、その影を照らし出す。雨水と返り血に濡れた外装が、ぬらぬらと輝いている。 マスクフェイス。グリーンのゴーグル。そのゴーグルに映る少年の顔は血の気が引いていて、歯が鳴っている。 「宇宙だよ宇宙宇宙宇宙宇宙宇宙!」 訳の解らないことを、ひたすら喚く。骨が見えるほど折った腕から外した手で、足を握り締める。べぎ、と折れる。 「行きたくないんだよ行きたいわけがないんだよ!」 はははははは、と乾いた笑い声が聞こえる。聞こえる。聞こえる。足が痛い。腕が痛い。 「死ね死ね死ね死ねみんな死ね死ね死んじまえ全部死んじまえ死んじまえ死んじまえ!」 肋骨が折れる。腸が引き摺り出される。口の中にねじ込まれる。鼻が詰まる。喉が詰まる。息が詰まる。 「ふへはははははははは!」 ふきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃ、と笑うそれは、汚れきってはいるがアーミーグリーンの服に身を包んでいた。 正弘とその家族の内臓を踏みにじるジャングルブーツを引き摺り、顎をがくがくと揺らしながら、笑っている。 舌の上に広がる鉄錆の味と、生温い脂肪の味と、舌を刺す体液の味で、吐き気を催したが何も出てこなかった。 胃が、ないからだ。 みぞれ混じりの、冷たい雨が降っている。 もう一息で雪に変わろうかという雨だが、まだ雪にはならない。足元から、底冷えする冷気が這い上がってくる。 昼間なのに、空は夕方のように暗い。保健室は暖房が焚かれているので、窓には結露がびっしりと浮いている。 天気が悪いから、ということと、百合子がいるから、ということでサイボーグ同好会は保健室に集まっていた。 近頃、百合子は教室ではなく保健室に登校している。授業もこちらで受けているので、勉強道具が広げたままだ。 その百合子は、透をからかって笑っている。透は照れてしまっており、あらぬ方向を見て、頬を紅潮させている。 鋼太郎は、この寒さでバッテリーの消費が激しくなったらしく、腹部からケーブルを伸ばして充電を行っている。 学ランの裾からずるりと出ている黒い線が、コンセントに差し込んである。正弘も、バッテリー残量を確かめた。 今のところ、問題はなさそうだ。正弘は何か話すことがないかと思ったが、これといって思い当たらなかった。 先週行ってきた京都への修学旅行の話は、出し尽くしてしまった。撮ってきた写真も、三人に全て見せてしまった。 お土産も渡してしまい、何も話題はない。だが、三人の話を聞いているだけでも、それなりに気分は良かった。 養護教諭の烏丸小夜子は、心配げに百合子を見ている。彼女の体調が悪くならないか、気に掛けているのだ。 正弘は聴覚に意識を向けて、集中して三人の声を拾った。気を抜くと、昨夜見た悪夢の情景が蘇ってくる。 臓物の味が口の中に残っている気がして、吐き気がしてくる。正弘はポケットの中に入れた手を、固く握った。 「あ、そういえば」 唐突に、百合子が正弘に向いた。 「ムラマサ先輩って、どこの高校に行くんですか?」 「あれ、言わなかったか?」 言った覚えがあるような、ないような気がした。正弘が返すと、壁際に座っている鋼太郎も正弘に振り向いた。 「いや、まだ聞いてないっすけど。でも、とっくに決めてますよね?」 「まぁ、一応は」 「どこ、ですか?」 百合子の後ろから、透が顔を覗かせる。正弘は壁から背を外し、三人に近付く。 「一高だよ。一ヶ谷市立」 「一番無難っすね」 鋼太郎が頷いた。正弘は、ちょっと肩を竦める。 「元々、選択肢そのものが少ないからな。妥当なところを選んだまでだ」 「お兄ちゃんが、通っているのは、第二、ですけど」 透が、おずおずと身を乗り出す。百合子は興味深げに、透に寄る。 「商業? 普通?」 透はちょっと逃げ腰だったが、その場に止まった。 「普通科です。前も、普通科だったから」 「資格とか取らなくていいんだったら、その方がいいよねぇ、うん」 百合子は腕を組み、足をぶらぶらさせる。鋼太郎は、百合子の背を指した。 「オレも人のことは言えねぇけど、進学したかったらきっちり勉強しとけよな?」 「解ってるよお。これから期末テストもあるし、三学期になったらもっとテストがあるし、頑張らないと」 面倒だけど、と百合子は眉を下げる。透は、膝の上に大きさの違う左右の手を重ねる。 「ちゃんと、やっておくに、越したことは、ありませんからね」 「出来ることなら、やりたくねぇけどな」 鋼太郎は頭の後ろで手を組み、壁により掛かった。正弘は内心で苦笑いしたが言葉にはせず、外に向いた。 雨が止まない。雨は嫌いだ。雨は死を呼ぶ。雨ではなく雪であったなら、少しだけだが気が楽になるのに。 ここ数日、八年前の事件の記憶が蘇ってきていた。発端は解らないが、明確な映像が過ぎるようになった。 それだけではなく、音声や匂いや感触なども思い出されてくる。それが、夢の中であると一層鮮やかになる。 あの大柄な影が突入してくる寸前の、和やかな日常までも思い出されてきて、泣きたい気持ちにすらなった。 その直後に起こる出来事を回避したいがために、夢の中では何度も家族の名を呼んだが、記憶は極めて非情だ。 ただひたすら冷酷に、ビデオを回すかのように淡々と事実だけを並べていき、壮絶な結末を正弘に突き付ける。 決して、逃れられない呪縛だ。正弘は窓の外で降り続ける雨を眺めていたが胸苦しくなり、部屋の中に向いた。 しかし、気は晴れなかった。 授業を終えて帰宅すると、玄関には静香の靴があった。 この時期は天気が悪いのでハイヒールではなく、彼女にして割と地味なローヒールのパンプスを主に使っている。 そのパンプスが、雨に濡れたつま先を揃えて置いてあった。正弘は傘の雫を落としてから、傘立てに突っ込んだ。 こんな時間に帰ってくるとは、珍しいこともあるものだ。だが、都合が良い。これなら、三者面談のことを話せる。 三者面談の日程が迫ってきているのに、プリントすら渡せていなかった。数日遅れだが、これでやっと渡せる。 正弘は雨水と泥に汚れたスニーカーを脱いでいたが、冬用長靴の影に隠れていた別の靴の存在にも気付いた。 使い込まれた、黒のジャングルブーツ。既視感を覚えるよりも先に、ぞくりとした悪寒が背筋を駆け上った。 「う」 これは、あの靴だ。夢の中で、あの影が履いていたものと同じだ。正弘はよろけ、扉に背を押し当てた。 「マサ、お帰り」 リビングから、室内着を着た静香が出てきた。普段よりも大分薄めにしているが、きちんと化粧をしている。 来客がいるからだろう、リビングからはコーヒーの香りが流れてくる。正弘は扉から背を外し、静香を見た。 「…ただいま」 「ああ、これ」 静香はぞんざいな手付きで、ジャングルブーツを指した。 「あんたにお客さんよ、マサ。自衛隊の」 「なんで、いきなり」 正弘が問うと、静香は両手を上向ける。 「さあね。あたしには解らないわよ。とりあえず、リビングに来なさい。着替えるのは後でいいわ」 正弘は静かに言われるがままに、自室に通学カバンとスポーツバッグを置いてから、リビングに入った。 静香はホロビジョンテレビを背にしてソファーに座っており、その向かい側に見慣れないフルサイボーグがいた。 体格は正弘とそれほど変わらないが、体のラインが少々違っており、迷彩柄の戦闘服の胸元が膨らんでいる。 軍用型なのでフェイスパターンもあまり変わらなかったが、左側の側頭部にだけ通信用アンテナが付いていた。 グリーンのゴーグルが上がり、正弘を捉えた。うっすらと傷の付いているマスクが、蛍光灯の白い光を撥ねる。 「随分と、立派になりましたね」 体格に比例して低めの声だったが、響きが柔らかかった。この人は女性なんだ、と正弘は悟った。 「村田君。君は私のことを覚えているか解らないけど、私はとても良く覚えています」 彼女は立ち上がると、正弘に手を差し伸べた。 「レイチェル・宇田川三等陸佐です」 「どうも」 正弘はリアクションに困りながらも、差し出された手を握った。名前から察するに、彼女はハーフなのだろう。 「橘静香さんから、君の話を伺っていました」 レイチェルの口調は穏やかだったが、軍人らしい威圧感があった。 「社会復帰出来たようで、何よりです。事件後の経過は関係者を通じて聞いていたが、それでも不安でしたので」 「あ、はい」 正弘は事態が上手く飲み込めず、曖昧に返事をした。レイチェルは、正弘との間を詰める。 「一つ、聞いておきたいのですが。事件前後の記憶は、持っていますか?」 「少し、ですけど」 正弘が呟くと、レイチェルは素早い動きで戦闘服の腰に手を回し、何かを引き抜いた。ぎ、と引き金が絞られる。 身動ぐ暇も、なかった。ゴーグルの目の前に突き出されたものを認識するのが恐ろしくて、正弘は固まった。 黒光りする銃身、螺旋の刻まれた底の見えない穴、引き金に掛けられている銀色の指先。これは、拳銃だ。 「失礼」 正弘に拳銃を突き付けながらも、レイチェルは平然としている。 「君の記憶が戻っていなければ、私はガバを抜かなかったでしょう。ですが、記憶があるというのなら、話は別です。機密保持法に基づき、それ相応の処分をさせてもらいます」 静香が立ち上がりかけたが、レイチェルの視線が向いたので、静香は苦い顔をして座り直した。 「こんなの、聞いてないんだけど?」 「聞かせていたら、あなたは私を通してくれなかったでしょうから。実力行使に及ぶのは趣味じゃないので」 レイチェルは涼しい態度で、正弘に向き直る。 「村田正弘君。八年前の事件についての供述を求めます。拒否権はありません。場合によっては、薬物を使用する可能性があるかもしれないので、ご留意を」 口調が平坦だからこそ、圧が増している。微動だにしない銃口に睨まれ、正弘は思考が完全に止まっていた。 それはつまり、話したくなければ話させる、ということだ。正弘は震えそうな膝を必死に動かし、一歩後退した。 「でも、オレが、知っていることなんか」 少ししかない、と正弘が喉の奥から絞り出すと、レイチェルはきちりと銃口を上げた。 「それでも構いません。私は、あなたが我々の機密に抵触しているかどうかを確認したいだけなのです」 「確認…?」 「はい」 レイチェルはガバメントの銃身をスライドさせ、じゃきりと鳴らした。その音で、正弘の緊張が一気に増した。 リビングの空気は、凍り付いてしまったかのような緊張感に満ちている。話さなければ、いけないのだ。 だが、何から、何を話せばいい。正弘はゴーグルの下で視線を彷徨わせていたが、レイチェルに定めた。 グリーンのゴーグル。マスクフェイス。戦闘服。ジャングルブーツ。ガバメント。そして、この低めの声。 覚えがある。 07 1/11 |