非武装田園地帯




第二十三話 手負いの獣



 翌日。晴れてはいたが、とてつもなく寒かった。
 正弘は潮風にコートの襟を揺さぶられながら、静香を窺った。首を縮めて、両腕を抱いて背を丸めている。
かなり寒そうだな、と思いながら正弘は、鎖と鍵がじゃらじゃらと結びつけてある柵越しに日本海を見下ろした。
風に煽られ、白波が弾けている。遠くに見える佐渡島にフェリーが向かっているが、相当揺れているだろう。
何の変哲もない、ただの岬である。その舳先に、こぢんまりとした展望台があるが、屋根は付いていなかった。
木を模した形状だがコンクリート製の柵や支柱には、相合い傘やハートマークなどのカップルの落書きだらけだ。
展望台の中心には、愛の鐘、というプレートが付けられたちゃちな鐘があり、鳴らすための鎖が下がっている。
 ここは恋人岬と呼ばれる場所で、カップル誘致の観光地なのだが、こんなところで愛を誓う気にはなれない。
景色は良いというよりもただの断崖絶壁でしかなく、夏はともかく冬は寒いだけでしかなく、何より色気がない。
グアムにある岬の名を模倣しただけというありがたみのない展望台に、なぜ、ここまで人が集まるのだろう。
だが、今日は平日である上に時間帯も中途半端なので、正弘と静香以外の人間は展望台にはいなかった。
正弘は内心で呆れながら、ハート型のプレートが付いた鎖や南京錠を見下ろしていたが、静香に振り向いた。

「橘さん。なんで、恋人岬なんかに来たんですか?」

「知るかっ!」

 静香はあまりの寒さに苛立ち、吐き捨てた。

「なんとなくハンドルが向いちゃったのよ、ただそれだけよ!」

「はぁ」

 正弘はコートのポケットに突っ込んでいた左手を出し、これ見よがしに設置してあるプレハブの売店を指した。
壁にはガムテープで四辺を全部貼り付けられたポスターがあり、愛の鍵発売中、と大きな字で書いてあった。

「あそこで鍵とか買わないで下さいね。橘さんと愛を誓うなんて、想像しただけでおぞましいので」

「同感だわ。そんな無駄金、使うわけないでしょ」

 静香はにたりと口元を歪めていたが、支柱に結びつけられた大量の鎖と南京錠を見、へっと息を漏らした。

「この中のバカップルが、どれだけ別れたのかしらねぇ。そういうこと考えると、たぁーのしいわ」

「陰鬱な娯楽を持たないで下さい」

「馬鹿言うんじゃないわよ。バカップル向けデートスポットに来た時には、そういう楽しみ方をするものなのよ」

「理解したくありません」

 正弘は、至るところに落書きされているベンチに腰を下ろした。

「それで、なんでオレを引っ張り出したんですか? 今は期末試験前で、結構忙しいんですけど」

「そんなもん、後で追い上げりゃいいのよ」

「ついでに言えば、受験前なんですよ。オレの成績が落ちたら、どうしてくれるんですか」

「どうもしないわよ。マサの成績が落ちたって、それはあたしの責任じゃなくてマサの責任じゃないのよ」

「あなたって人は…」

 正弘は言い返す気も起きなくなり、背中を丸めた。左手で頬杖を付き、静香を見やった。

「三者面談、出て下さいね。たまには、まともに保護者の責務を全うして下さい」

「ま、別に言うことなんてないけどね。あたしは、あんたの進路に口出しする気なんてないもの」

 ていうか面倒なのよ、と静香はタバコを銜えると先端を手で覆いながら火を灯して、ふうっと煙を吐き出した。

「マサも、もう受験生になっちゃったのねぇ。時間が過ぎるって早いわ」

「そうですね」

 正弘は静香のくゆらすタバコの煙を見ていたが、海原に目線を投げた。時間は、気付かぬうちに過ぎてしまう。
静香と一緒なので平穏とは言い難いが、それでも一応落ち着いた日々を繰り返していたら、十五歳になった。
考えてみれば、静香は現在二十六歳なので、逆算すれば、正弘と一緒に暮らすようになったのは十九歳の頃だ。
十九歳と言えば、高卒で就職したのであれば社会人二年目であり、仕事に慣れるだけで精一杯のはずだ。
そんな中で、よく静香は正弘を預かる気になったものだ。正弘はメンソール混じりの匂いを感じながら、言った。

「今気付いたんですけど、橘さんって、オレと同居するようになった時はまだ」

「十九よ。それがどうかしたの?」

 静香はコートの裾を手で押さえながら、ベンチに腰を下ろした。正弘は、横目に静香を見る。

「いえ。よく、そんなこと出来たなぁって」

「有り体に言えば、金に負けたのよ。その頃は、とにかく金が欲しかったのよ」

 静香はベンチの傍に設置されていた灰皿に灰を落としてから、口紅の付いたタバコを銜え直した。

「あたしはね、家族が大嫌いなのよ」

「なんですか、いきなり?」

 正弘が聞き返すと、静香はマスカラの付いた睫毛を瞬かせた。

「一般的に言えば、あたしはお嬢様の部類に入る生まれなのよ。父親が医者で、母親がいいとこの娘さんで、それなりに金があって土地もあったわ。あたしは、長女なのよ。下には年子の弟と四つ離れた妹がいて、三人とも幼稚園から私立に入れさせられてたわ。登下校も車で送り迎えして、それぞれに家庭教師を付けられて、週五回は習い事に通わせられた。はっきり言って、地獄だったわ」

「地獄、ですか」

 正弘が繰り返すと、静香はため息と共に煙を吐き出した。

「あたしはね、元からこういう性格なのよ。面倒も厄介も嫌いだから、遊んでいたくて仕方ないの。勉強も面倒だからやりたくないし、習い事だって鬱陶しくて鬱陶しくて何度も逃げ出したわ。そのたびに、親からこっぴどく叱られたもんよ。たまに殴られもしたわ。弟と妹はあたしが散々叱られているのを見て、逆らわなくなったけど、あたしはその逆ね。いつかこの家を出てやるって思って、そのために必死で勉強したわ。まぁ、親はそれを反省したんだって思ったらしくてあんまり叱らなくなったから、好都合だったわ。小中高一貫の学校に入れられていたんだけど、中学の時にこっちにある全寮制の私立高校を受験したの。見事合格したんだけど、そこでまた反対されてさぁ」

 静香は短くなったタバコをもみ消すと、二本目のタバコを取り出し、火を点けた。

「お前は医者になるんだからそんな田舎に行くな、ってね。あたしは医者になんかなりたくないし、やりたいようにやりたかったのよ。だから、親とド派手な大喧嘩して、卒業式の前に家を出たわ。卒業式には出ることには出たけど、親に見つかりたくないから卒業証書だけもらってとっとと逃げ出したのよ。だから、クラスメイトとは記念撮影なんかしてないし、好きだった男子の第二ボタンももらってないし、寄せ書きもしてないわ。今となっちゃ、ちょっと惜しかったかなーとか思うけど、まぁ、もうどうでもいいわよね」

「はぁ…」

 正弘が気のない返事を漏らすと、静香はタバコを持った手で頬杖を付いた。

「それで、高校を卒業してすぐに今の会社に就職したわけよ。でも、高校が全寮制だったってことと、辺鄙な場所にあったせいで、バイトもほとんど出来なくて、貯金がなかったの。入社一年目だから給料も芳しくなかったし、生活費だけでどんどん消えちゃって、貯めようにも貯まらなかったのよ。子供の頃にずっと抑圧されてた反動なのかもしれないけど、その頃、異常なくらい物が欲しくてさ。金がないくせに高い物に手ぇ出したりして、カッツカツだったのよ。通帳の残高もマイナスばっかりで、本当にひどかったわ。そんな時に、あたし達の部署にマサの話が来たわけ」

「オレのですか?」

「そう。上司が、イヌやネコの里親を募集するみたいな感じで言ったのよ。サイボーグの子を預からないか、って」

 静香はあまり吸っていないタバコを灰皿に押し当て、その中に捨てた。

「でも、誰も手なんか上げなかったわ。誰だって渋るわよ、そんなもん。あたし達は会社員であって、施設の職員じゃないんだから。増して、里親になんかなりたいわけがないじゃない。でも、よくよく話を聞いてみると、あんたは機密に抵触するかもしれない事件に関わっていて、そのおかげで自衛隊から支援を受けてサイボーグ化した関係で将来自衛隊に上がる契約をしているし、医療費は一切負担しなくていい。ついでに、保護者になってくれる人間には自衛隊からの手当が二十万と会社からの手当が十万出るって聞いて、あたしは脊髄反射で手ぇ上げたわ。これはいい金づるだ、ってね」

「なんて人だ…」

 あまりにも生々しい言い草に、正弘は絶句してしまった。静香は、正弘を見やる。

「で、あんたと暮らし始めたわけだけど、そりゃあ最初は下心があったから上手く行かなかったわよ。マサもそれを感付いてたから、いつまでたってもあたしに懐かなかったんでしょうね」

「感付いてたっていうか、状況が飲み込めていなかったんですよ」

 正弘は、静香を見返す。

「家族が死んで、こんな体になって、退院したと思ったら香川から新潟に連れてこられて、正直混乱していたんです。そんな状況だったから、橘さんと一緒に暮らし始めてもちっとも実感が沸かなかったんです。だからだと思います」

「ま、なんでもいいわよ。マサがあたしのことを好きじゃないのは、よく知ってるから」

 静香は、激しい潮風に乱された前髪を掻き上げた。

「最初は、一年だけしか同居しないつもりだったのよ。金をもらうだけもらってから、適当な言い訳をして施設にでも引き渡しちゃおうって思ってたわけよ。でも、気が変わったの」

「なんでですか?」

「明かり」

「は?」

 静香の言葉の意味が解らず、正弘は呆気に取られた。静香は、言いづらそうにする。

「だから、さっき言ったでしょうが。あたしんちは親も子供も忙しかったから、学校と習い事を終えて家に帰ってきても、いつも真っ暗なのよ。ご飯だって出来上がったものが冷蔵庫に入っているだけで、それを一人で食べてばっかりだったのよ。それがまた、おいしくないのよ。母親の料理が下手だったからってこともあるけど、あんなにまずいものはなかったわ。一人暮らしを始めた時も、そうだった。高校時代の寮生活がごちゃごちゃしてて騒がしかったから、余計に寂しかったわ。でも、マサが来てからは、ちょっとだけまともになったのよ」

「オレは、別に何もしてませんけど」

「ランドセルをそこら辺に放り投げて、リビングでぼけーっとテレビを見てるだけだったもんね。あたしが帰ってきたらちょっと反応するけど、それぐらいだったわね。正直、そんな状態だったマサのことを薄気味悪いと思ったこともないわけじゃないけど、段々とあんたが喋るようになってきてからは、家に帰るのが嫌じゃなくなったのよ。ご飯も、たまにだけど二人で食べるようになってからは、味がまともになったのよ。だから、手放せなくなっちゃったのよ」

「オレの年齢が上がるに連れて自衛隊と会社からの支援金が増額したから、じゃないんですね」

「まぁ、それもあるわね。今じゃ、合計で月五十万だもの」

 マンション暮らしが出来るわよ、と静香は笑った。正弘は、ちょっとむっとした。

「だったらそれを、オレにももっと寄越して下さい。ていうか、元を正せばオレの金なんですからね」

「あんたにあげても、ちまちま貯金するだけじゃないの。もうちょっと、ぱーっとした使い方をしなさいよ」

「オレは常に先のことを考えていますから、橘さんのような無茶は出来ません」

「マサ。あんたって、人生損してるわねぇ。そんなんじゃ、いざって時にチャンスを取り逃しちゃうわよ」

「オレはそうは思いません」

「あー、いわゆるアレ? 三角関係になったら三枚目に徹しちゃうようなタイプ? いるいるぅ、そういう男」

 三角関係、に正弘は内心でぎくりとした。それを知ってか知らずか、静香は饒舌だった。

「自分から身を引いたくせに、女の子に未練たらたらで、愛情が憎しみに変わっちゃって、最終的にはストーカーになっちゃうのよねぇ。そういうの、慎重って言うよりも臆病なだけよね。ダメダメだわ」

「ダメ、なんですか?」

 正弘が恐る恐る尋ねると、静香は頷く。

「ええダメよ。はっきりしない男も嫌いだけど、臆病な奴は根性がないくせにねちっこいからもっと嫌い。少なくとも、好かれはしないわね」

「臆病…」

 深刻そうに俯いた正弘に、静香はにやにやした。

「何よ、好きな子でもいるわけ? やっと発情したってわけ?」

「別に、そんな」

 違う、とも言い切れず、正弘は押し黙った。静香は、楽しげだ。

「じゃ、さっさと告っちゃいなさいよ。ついでに、卒業しちゃう前に一発ヤッちゃったら?」

「い、一発って」

「ベストポイントとしては体育倉庫とか昼休み中の部室とか放課後の特別教室とかがあるけど、この時期の校舎はクソ寒いから素直に自分ちに連れ込んじゃいなさいよ。その間、あたしは邪魔しないであげるから、感謝しなさい。その代わり、後でちゃんと話してもらいますからね」

「何、言っているんですか」

 正弘は、げんなりした。静香はさも楽しげに、笑い声を上げた。

「初体験は早い方が楽よ、色々と」

「全くもう…」

 正弘はゴーグル付近に手を当て、項垂れた。静香は、正弘に詰め寄る。

「んで、ゆっこちゃんと透君のどっちが好きなのよ?」

「んなっ」

 反射的に、正弘はずり下がってしまった。静香はライターを持った手で、正弘の胸の辺りを小突く。

「だって、マサと接点がある女の子って言ったらその二人しかいないでしょ? でも、間違いなくゆっこちゃんよねぇ。部屋に連れ込んでるしさぁ」

「いや、だから、あれは、別になんでも」

 正弘は言い訳しようとしたが、出来なかった。静香は正弘の顎に手を掛け、マスクをくいっと持ち上げる。

「好きなんでしょ?」

 正弘は言葉が上手く作れず、真正面にある静香の顔を見つめるしかなかった。まじまじと見ると、割と美人だ。
普段はだらしない上に言動がいい加減なので、そう感じないだけだ。正弘は、しばらくの間、硬直していた。
静香は正弘の顎から手を外され、艶やかなマニュキアが光る。耳朶に下がる金のピアスが、鋭い日光を弾いた。

「だったら、やるだけやっちゃいなさい。後で後悔しても、遅いんだから」

 静香は三本目のタバコを、唇に挟み、ライターで火を灯した。

「ねえ、マサ」

「なんですか」

「あたし達も、所詮は動物なのよね。昨日のあの軍人さんの話で、つくづくそう思ったわ」

 静香の口調は、穏やかだった。

「あたしがそうなら、あんたもそうなのよ。どれだけ強がっても一人きりじゃ寂しいし、体が機械になったんだから種の保存の本能なんて働く必要がないのに、それがきちんと働いて、恋をする。死んだはずなのに生きているのは、最後の生存本能が働いたから。そう思わない?」

「そうなんでしょうね、きっと。オレも、そう思います」

 正弘は静香の横顔から視線を外し、日本海を見下ろした。脳髄だけになっても、やはり自分は生き物なのだ。
レイチェルから言われた、死ななかった理由ではなく生き延びた意味を考えろ、と言う言葉を何度も反芻した。
死に損ない。それは、本当のことだ。だが、死にきれなかった、ということではない。死なずに済んだ、ということだ。
サイボーグを嫌う人間は、恐らく、死することを美化しているからこそ、生に執着するサイボーグを嫌うのだ。
だが、現実はそうはいかない。誰だって死ぬのは恐ろしく、生きていたい。それは、どんな人間でも同じことなのだ。
生きることは、決して綺麗事ではない。だが、死ぬことも美しいことではない。どちらも泥臭く、生臭い世界だ。
 正弘が生きている意味。昨日今日で見つけられるほど簡単ではないし、一生見つけられない可能性もある。
だが、生きていたい理由なら存在する。また、学校に行って三人と会い、他愛もない話をして笑い合っていたい。
百合子の笑顔を見たい。鋼太郎とボールを投げ合いたい。透と言葉を交わしたい。だから、学校に行きたい。
難しいことを考えても、どうしようもない。なので、正弘にとって最も身近なものを考えたが、とてもしっくり来た。
 所詮、人間は動物なのだ。不完全な存在だ。足りない部分を互いに補い合って、刺激し合って、求め合っていく。
正弘の心の中心を貫いていた八年前の傷口は、未だに塞がっていない。記憶を取り戻したことで、一層広がった。
生き残った罪悪感は消えない。けれど、引け目はなくなった。正弘は、やはり、生きていたいから生きているのだ。
八年前の六月七日に、意識を失う寸前に様々なことを願っていた。家族と出掛けたい、話したい、死にたくない。
家族と会うことは二度と叶わない。だが、それはもう、受け止めるしかない。正弘が、死を望まなかったのだから。
レイチェルに励まされずに絶望していたら、あのまま眠りたいと思っていたら、正弘は間違いなく死んでいただろう。
だが、死にたくなかった。死ねなかった理由も、生きている意味も、根底を突き詰めればそこに行き当たる。
 そうだ、自分は所詮死に損ないだ。生きることに執着して、機械の手助けを受けて、必死に死から逃げている。
けれど、それでいいではないか。自分が生きることを望んだのは自分自身なのだから、これからも生きるだけだ。
 機械の体の内側に、最後に残った生身の部分である脳の中に、そして心の奥底に手負いの獣が住んでいる。
その獣は、最後の命の炎を滾らせて正弘自身を責め立てる。生を望め、死を恐れろ、と咆哮を放っている。
正弘の胸中に熱を帯びた安堵感が広がり、胸の奥から何かが迫り上がる感覚があった。もう、迷うことはない。
 生きて、往こう。





 


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