兄と妹の、秘め事。 今日は、透だけが百合子を見舞っていた。 病室のベッドに横たわっている百合子は、顔色がまた一段と白くなって腕も細くなり、声も覇気が弱まっていた。 けれど、表情だけは変わらない。百合子は指先で唇を押さえながら、目線を逸らし、曖昧な笑顔を浮かべている。 二人きりで会話していたのだが、そこは双方とも年頃の女子なので、ごく自然な流れで恋の話題になった。 その中で百合子は、鋼太郎から口付けられたことを告白した。詳細はぼかしていたが、鋼ちゃんからされた、と。 透は、そのことに素直に驚いてしまった。まさか、鋼太郎と百合子が二度もしているとは思わなかったからだ。 鋼太郎の話で、百合子から鋼太郎にキスをしたということは知っているが、その一度きりだとばかり思っていた。 いつ頃したのかはなんとなく解らないでもなかったが、あまり言及すると悪いので、透は敢えて黙っていた。 百合子はリクライニングに預けていた上半身をぎこちない動きで起こし、テーブルに手を付いて体を支えた。 「ね、透君」 「あ、はい」 透が返事をすると、百合子は興味深げにする。 「透君は、亘さんとどうこうしたってことはないの?」 「兄妹、ですから」 透は目を伏せ、唇の端を上向ける。 「それに、お兄ちゃんは、私のことを、そういうふうには、見ていないと思いますから」 「うん。そう、だよね」 百合子は、ごめんね、と小さく謝った。透は、首を横に振る。 「いえ、気にしないで下さい。少しぐらいなら、思ったことは、ありますけど、ダメなんです」 「ダメって?」 「私の、方が」 透は、身を硬くする。百合子は透の様子に気付き、問い詰めなかった。 「そっか」 百合子の気遣いを嬉しく思いながらも、透は笑顔を返せなかった。恋愛から先のことを、たまに考える。 だが、考えるだけだ。実際にそうなってしまったら、きっと過去を思い出してしまって、錯乱してしまうだろう。 幼い頃に、透の産みの母親、橋本香苗が連れてきた男によって手込めにされていたことは誰にも話していない。 無論、父親にも兄にも黙っている。誰にでも相談出来ることではないし、父親と兄を困らせたくはないからだ。 そのせいで、性的な行為に対して嫌悪感を持っている。それらの情報を得たいのは、対処法を知りたいからだ。 けれど、亘だったら大丈夫なのでは、と近頃では思うようになった。好きな相手だったら、嫌悪しないかもしれない。 だが、また古傷が開くのではという躊躇と、相手は兄であるということもあって考えを振り払うようにしていた。 しかし、亘への気持ちは日に日に募る。文化祭のあの出来事以降、心なしか亘との距離が狭まった気がする。 亘は透のことを前よりも気に掛けているから、なのかもしれないが、気付いたら近くにいることが多くなった。 それはとても嬉しいことであるが、同時に切ないことでもある。兄を男として意識する機会が、増えるからだ。 ふとした瞬間に感じる、声の低さや体の大きさなどの男らしさを目の当たりにするたび、胸の奥で何かが疼く。 けれど、それに触れてはいけない。増して、表になど出してしまったら兄と妹という関係が崩れてしまう。 だが、それでもいいから、という即物的な欲求もある。既に二度も経験をした百合子が、羨ましくなってくる。 「雪、降るねぇ」 百合子は、ベッドの脇にある窓に向いた。透もそちらを向く。 「ですね」 白く柔らかなものが、視界を遮るように降ってくる。病室から見える民家の屋根の上では、雪下ろしをしている。 病院の屋上にもたっぷりと厚く積もっていて、下が見えなくなるほどだ。二人は、なんとなく窓の外を見つめた。 病状が悪化しつつある百合子の口数は、減っている。病室の中に閉じ籠もっているから、気が滅入るのだろう。 透の左手を掴んでも動じずに、友達になろう、と言ってきてくれた時の姿と比べると桁違いに弱ってしまっている。 物悲しさと同時に、人間の脆さを痛感する。どれだけ科学技術が発達しても、やはり病気には勝てないのだ。 「透君」 「はい」 百合子に呼ばれ、透は振り向いた。百合子は、毛先の乱れた短い髪を撫で付ける。 「フルサイボーグ化手術ってさ、ほら、脳髄取り出すじゃん? あれって、当たり前だけど、頭蓋骨を切り開いてやるんだよね。神経も首とか腕とかから摘出して、人工神経との接続用に使うんだよね。血液とか髄液も採取して、人工体液に混ぜて拒絶反応を中和させるんだってね。考えてみたら、結構恐ろしい話だよね」 「でも、手術の最中は、麻酔が、効いていますから」 「うん。それもあるし、脳だけ取り出しちゃえば体の痛みなんてなくなるって解っているんだけど」 百合子の声色が、弱る。 「自分で決めたことなんだって解っているんだけど、それでも、やっぱり、ちょっとね」 「大丈夫ですよ。ちゃんと、無事に終わりますよ」 「うん」 透の励ましに、百合子は微笑んだが表情は弱かった。彼女の胸中には、様々な不安が渦巻いているのだろう。 当たり障りのないことしか言えないのが、少し悔しかった。透は、棚に置いてある小さな額縁に目をやった。 それは、透が百合子にお見舞いとしてプレゼントした百合の花の水彩画だった。ちゃんと、飾ってくれている。 何がいいのかよく解らなかったので、考えあぐねた挙げ句のものだったが、百合子はとても喜んでくれた。 だったら、次は別の花の水彩画を描いて贈ろう。外は雪に覆われているが、病室の中ぐらいは明るくさせたい。 何がいいかな、と透は思案した。 透は、一ヶ谷市立病院からの帰路の途中でシクラメンの鉢植えを買い、家に帰った。 デッサンをするためには、資料が必要だ。雪が降る中では重い荷物だったが、家の中に花が増えるのは楽しい。 絵を描き終わったら、玄関にでも飾ればいい。透は玄関に入る前に、肩に積もってしまった雪を払い落とした。 傘を振って、湿気を含んだ重たい雪を散らす。ブーツのつま先に溜まった雪も落としてから、扉を開けた。 「ただいま」 三和土でコートを脱ぎ、雪を払ってから廊下に上がった。家の奧から、亘が出てきた。 「お帰り、透。雪、ひどいもんな」 「うん。ひどかった」 透は雪で濡れたトートバッグとコートを脇に持ち、シクラメンの鉢植えをひとまず玄関先に置いた。 「それ、どうしたんだ?」 亘が鉢植えを指したので、透は兄に向いた。 「デッサンに使おうと思って、買ってきたの」 玄関に並んでいる靴を見回し、透は兄に尋ねた。帰ってきているはずの父親の靴が、見当たらなかった。 「お父さん、まだ帰ってこないの? 今日、帰ってくるはずじゃなかった?」 「この雪でフェリーが出ないみたいなんだ。だから、明日にならないと帰ってこられないって電話があったよ」 亘は、リビングの窓を見やった。サッシには雪がこびり付いていて結露が凍り、窓はがちがちに固まっている。 父親の拓郎の仕事は、写真だ。雑誌で使うとかで、天気の悪い中佐渡島に赴いたのだが、案の定船が止まった。 予想出来たことだが、天気ばかりは仕方ない。だが、電話の向こうの父親は、いい写真が撮れたと喜んでいた。 思うような写真が撮れないと、一週間程度機嫌が悪い時もあるが、思い通りに行ったら子供のようにはしゃぐ。 電話越しで感じた雰囲気からすれば、父親は帰りが延びてしまったことは、それほど重大には思っていないだろう。 透の母親、橋本香苗の件が一応収束してからは家の雰囲気は明るい。だから、拓郎も仕事に集中出来る。 鮎野中学校の文化祭で透から襲われたからか、香苗はそれ以降は近付いてこようとせず、最近では姿も見ない。 電話番号を変えたからということもあるが、前はひっきりなしに掛かってきた電話もなく、年賀状も届かなかった。 今度こそ、平和になればいい。そう思いながら、亘は透の手から濡れたコートを取ると、リビングに持っていった。 ハンガーに掛けてファンヒーターの前に吊り下げて、乾かしてやった。透は申し訳なさそうにしたが、笑った。 「ありがとう、お兄ちゃん」 透の頬は、寒さで赤く染まっていた。亘は、無意識に息を詰めていた。 「いいさ」 なんとか言葉を出して、リビングを出た。亘は急いで自分の部屋に入ると、扉に背を当てて深く項垂れた。 泣き喚く透を抱き締めてからというもの、透が妹ではなくなった。亘の中では、透は一人の女になっている。 何度も妹だと思い直そうとしても、女の部分が目に付く。お兄ちゃん、という呼び名が、とろけるほど甘美だ。 透は今、大変なのに、何を考えているんだ。仲の良い友人の一人、白金百合子が重い病で入院しているのに。 透は百合子のことを気に掛けている。土日には必ず見舞いに行くし、慰めになればと絵を持っていったほどだ。 それなのに、自分はどうだ。血の繋がりがないとはいえ、妹である透のことを女として見てしまっている。 今日、父親は帰ってこない。夜は長い。妹と二人きりだ。自分が何かしでかしてしまいそうで、怖くなった。 透に触れてしまえば、堪えきれないだろう。少女の甘い匂いを感じてしまえば、どうなるか解ったものではない。 大事な妹を守りたいと思っているくせに、愛してやりたいと思っているはずなのに、下劣な感情が湧いてくる。 ひどく情けないのと共に、背徳感が劣情を煽り立てる。亘は寒い部屋の中、身を縮めた。透のことが、好きだ。 妹ではなく、女として。 透は、温めた甘酒を啜っていた。 先程まで兄のいたリビングは暖まっていて、両手で包んだマグカップから伝わる熱が、指に温もりを戻してくる。 右手だけでなく、左手の指先も温める。透はコタツに入って、なんとなく付けたホロビジョンテレビを見ていた。 特に、興味のある番組をやっているわけではない。年末年始の特番ラッシュも落ち着いたが、内容は変わらない。 以前に放送したスペシャル番組やドラマの再放送であったりするが、見る気はないので、チャンネルを変えた。 百合子の話が、頭から消えなかった。透は甘酒の入ったマグカップをコタツに置き、右手を口元に添えた。 「いいなぁ」 けれど、それは決して越えてはならない一線だ。そして、透の傷が治らない限り、越えることの出来ない一線だ。 兄は、すぐ傍にいる。今も、手の届く場所にいる。だが、手を伸ばして引き寄せてしまうと後戻り出来なくなる。 「…亘さん」 透は、兄を名で呼んでみた。そう呼んだところで、透と亘の関係は変わらないのに。 「どうしよう」 傍にいたい。傍にいてほしい。けれど、傍にいたら関係が変わる。いつか必ず、兄を男として求めてしまうだろう。 しかし、求められない。怖い。痛い。苦しい。嫌。逃げ出したい。嫌悪感が噴出して、兄をはね除けてしまうだろう。 透はだんだん悲しくなってきて、涙が出てきた。亘が兄ではなかったら、こんなに苦しい思いはしなかった。 だが、亘が兄ではなくただの他人だったら、きっと好きにはならなかった。亘が兄だからこそ、透は恋をしたのだ。 「お兄ちゃん…」 亘が好きだ。どうしようもなく、好きでたまらない。透は両腕を掻き抱いて背を丸めると、ぐっと奥歯を噛んだ。 どれだけ思っても、願っても、叶うことのない恋だ。叶えてしまったら、二人とも、行き着く先は間違いなく最悪だ。 なのに、止まらない。透はメガネを外すと、突っ伏した。硬く手応えのない左手に口元を埋めて、嗚咽を殺した。 恋なんて、しなければ良かった。 07 1/19 |