鋼太郎は正弘の服を借り、制服が乾くのを待っていた。 ハンガーに吊り下げられた鋼太郎の学ランとスラックスとコートが、暖房の温風に当てられていて、揺れている。 家には、先程電話した。バッテリーが切れたから正弘の家で充電させてもらっている、と言い訳もしておいた。 充電にしては時間が長いので不審がられたかもしれないが、正弘と殴り合っていたとは言えるわけがない。 ソファーに座って、ホロビジョンテレビに映る地方局のニュース番組を見ていたが、意識は別に逸れていた。 向かい側のソファーに、胡座を掻いている女性、静香がいるからだ。彼女の存在が、気になって仕方なかった。 当の正弘は、静香にせっつかれて夕食を作っている。慣れた手つきで料理を行う姿は、なかなか様になっている。 鋼太郎は、居辛くてどうしようもなかった。正弘だけならまだしも、静香がいると意識しなくても身構えてしまう。 初めて会ったから、ということもあるし、静香は鋼太郎が正弘からエロ本一式をもらったことを知っているのだ。 それがあるので、居心地が悪くてたまらない。静香は爪の長い指に火の点いたタバコを挟み、鋼太郎に向いた。 「ねぇ、マサ、鋼ちゃん。あんた達、殴り合ったんでしょ?」 静香の言葉に、うどんの玉を沸騰した湯の中に入れようとした正弘がびくりとした。 「あ、いや…」 「鋼ちゃんの耳んとこの塗装が剥げてるし、マサの手には塗装が付いてるし、制服もカバンも雪まみれだし、二人ともシャツの襟元と胸がよれてるし。だから、考えられるのはそれぐらいなのよ」 青春よねぇ、と静香は笑い声を上げた。鋼太郎は、精一杯身を縮めた。 「何も言わないでほしいっす…」 「思い出したくもないですよ、本当に」 正弘は、大きな肩を落とした。静香はタバコを唇から離し、灰皿に灰を落とす。 「ちゃんとダメージチェックしておきなさいよ? あんた達はどっちも戦闘の心得がまるでないから、殴り合ってもろくなダメージは受けていないはずだけど、手加減も知らないからもしもってことがあるんだから。外装はなんともなくても、コードが外れたりチューブが切れたりすることがあるから、気を付けなさいよね」 「あー、はい」 鋼太郎は意識を集中させ、補助AIの内部に向けた。内蔵のコンピューターを操作し、セルフチェックを行った。 視界の隅に、各機能部分の名前が書かれた表が現れ、チェックが始まった。今のところ、故障箇所はない。 いつもは生命維持機能と関節部の機能だけを調べているのだが、今回は念のために全部を調べることにした。 調べ終えるのには、三十分程度掛かる。その間に、正弘の作っているカレーうどんも出来上がってくることだろう。 「で、なんで殴り合ってたのよ。教えなさいよ」 静香に問われ、鋼太郎はソファーをずらしそうな勢いで身を下げた。 「言えませんよそんな!」 「大方、女の子のことでしょうけどね。野郎同士のケンカの原因なんて、大体そんなもんだから」 静香は、しれっと言い放った。カレーの鍋を掻き混ぜていた正弘は、顔を背けた。 「お願いですから、それ以上問い詰めないで下さい。本当に、本当に、忘れたいんですから」 「いつかばれることなんだから、今のうちにばらしちゃった方が気が楽よ」 静香は、煙を緩く吐き出す。 「それで、ゆっこちゃんはどっちのものになったわけ?」 がらがっしゃん、とダイニングキッチンから激しい音がした。鋼太郎が振り返ると、正弘が足元を睨んでいた。 よく見ると、床に鍋蓋が転がっている。どうやら、それを取り落としたようだった。正弘は屈み、鍋蓋を拾う。 「それ以上はやめてくれませんか。オレ達にも、触れられたくない部分ってのがあるんですから」 「ていうか、なんで、解るんすか」 鋼太郎がおののくと、静香は得意げにした。 「情報を統合して判断しただけのことよ。あんた達って、三角関係なんでしょ?」 「だから、もう」 正弘が言い返そうとすると、静香はタバコを掲げて正弘を制した。 「勘違いしないでよ。あたしは別に、マサと鋼ちゃんのことを馬鹿にしているわけじゃないのよ。ようやくマサが人間に戻ったんだなーって解って、それがちょっと嬉しいだけよ」 静香は感慨深げに、目を細める。 「ホント、この一年でマサは変わったわ。中二までは中身が空っぽだったのに、この子達と連むようになって随分と元気になったじゃない。家に女の子を呼んで、友達の家に遊びに行って、ついでにド派手なケンカもして。清く正しい子供の生活スタイルよ。もっとも、体は子供じゃないけどね」 シモも馬並みよ、と静香が付け加えたので、鋼太郎は内心で目を剥いた。 「そうなんすか、ムラマサ先輩?」 「いや、馬ってほどじゃないけど。ていうか、一言多いですよ橘さん! 最後のだけ余計です!」 正弘は声を上げながら、静香に詰め寄った。だが、静香は平然としている。 「いいじゃないの。褒めてるんだから」 「どこがですか!」 「そんなことよりも、うどんが伸びるわよ」 いきり立った正弘の肩越しに、静香はダイニングキッチンを見やった。正弘は、慌ててキッチンに戻る。 「邪魔しないで下さいよ!」 「鍋から離れたのはあんたでしょうが」 静香はにやつきながら、タバコの続きを吸った。鋼太郎が戸惑っていると、静香の目が鋼太郎に向いた。 「ありがとね、色々と」 「あ、はぁ」 鋼太郎が曖昧な返事をすると、静香はキッチンの中で忙しく立ち回っている正弘を横目に見た。 「それで、マサと殴り合って、どうだった?」 「あんまり、変わらなかったつーか…」 鋼太郎は膝の間で手を組み、スリッパを履いたつま先を見下ろした。 「いくら考えても、ちっとも解らないんすよ。ゆっこのことも、オレのことも、ムラマサ先輩のことも」 「若い時なんて、そんなもんよ。人生経験が少ないのに知識だけが増えちゃうから、ぐちゃぐちゃ悩むのよ」 「でも、本当に、どうしたらいいのか解らないんすよ。けど、ゆっこに何も出来ないのも、すっげぇ悔しくて」 「何よ、鋼ちゃんもゆっこちゃんが好きなわけ?」 静香の単刀直入な質問に、鋼太郎は答えようかどうしようか迷ったが、頷いた。 「好き、っつーか、大事っつーか、そんな感じっす。あいつが死にそうになって、やっと気付いたんすけど」 やっぱりお前は馬鹿だな、と正弘の嘆息が鋼太郎の背に掛けられた。鋼太郎は立ち上がりかけたが、座り直す。 「本当に、馬鹿なんすよ、オレは。どうしようもねぇんす」 「それで、肝心のゆっこちゃんの気持ちはどうなのよ?」 静香に尋ねられ、鋼太郎は顔を上げた。 「それが、ここんとこ訳解らないんすよ。前は解りやすかったんすけど、最近はイマイチ掴めなくなっちまって」 「じゃ、ゆっこちゃんに聞けばいいじゃないの」 「それが出来たら苦労はしません」 正弘の呟きに、静香は眉根を曲げた。 「二人揃って、一方通行ってわけね。鋼ちゃんとゆっこちゃんは実質両思いのくせに双方片思いも同然、って、どこの少女漫画よ。で、マサはどうするの?」 「オレ、ですか?」 正弘が自分を指すと、静香はこっくりと頷いた。 「マサの性格からすれば身を引くんだろうけど、鋼ちゃんと殴り合うくらいだから、まだ好きなんじゃないの?」 「あ、まぁ…」 言葉を濁した正弘に、静香はため息を吐いた。 「あんたも執念深いのねぇ。普通、好きな相手に好きな子がいるって知ったら冷めるもんじゃなくて?」 「それが、全然」 正弘は、苦笑する。静香は、タバコを灰皿にねじ込んだ。 「これから受験もあるんだから、踏ん切り付けなさい。ゆっこちゃんに告って玉砕してきなさい。はい保護者命令」 「保護者にそこまで権限はありません」 静香の強引さに、正弘はむっとした。静香は正弘を見据える。 「じゃあ何よ、このぐたぐだな青春トライアングルを続行したいってわけ? いい加減嫌気が差してきたから、マサと鋼ちゃんはケンカになったんじゃないの?」 「それは…」 正弘は、口籠もった。静香の言うことには一理ある。百合子が鋼太郎と結ばれたら、きっぱり諦められるだろう。 だが、鋼太郎が煮え切らないのと百合子が先へ踏み込もうとしないため、二人の関係は依然として幼馴染みだ。 正弘もまた、変化を拒むが故に、百合子に自分の気持ちを示すことをせずにいた。その結果、淀んでしまった。 振り切れていないから、鋼太郎に嫉妬してしまう。嫉妬してしまうから、鋼太郎のことが鬱陶しく思えてしまう。 そう思ってしまう自分を、嫌悪してしまう。そういった些細なことが積み重なり、溜まったため、殴り合ってしまった。 行き場のない感情を、半ば八つ当たりのように鋼太郎にぶつけてしまった。鋼太郎もまた、正弘にぶつけてきた。 二人とも、気持ちは同じなのだ。百合子のことが好きだから、百合子のことが心配でたまらず、気が気ではない。 けれど、悩みは違う。正弘は思いが届かないが故の葛藤であり、鋼太郎は思いを届けられないが故の葛藤だ。 破れた恋をいつまでも引き摺っているから、いつか叶うのではないかという幻想に縋っているから、苦しいのだ。 正弘はキッチンに戻り、うどんの入った器にダシ汁で伸ばしたカレーを注ぎ込み、カレーうどんを三人前作った。 「格好悪いな、オレは」 湯気の上がるどんぶりを見下ろし、正弘は自虐した。百合子の心は手に入らないと、解っているはずなのに。 「オレも、すっげぇダサい」 鋼太郎も、自虐した。百合子が成長していくのが寂しくて、また、大人のように振る舞える正弘が羨ましかった。 だから、拳を振り上げてしまった。正弘を傷付けてしまうだけだと、自分が惨めになるだけだと解っていたのに。 「とりあえず、うどん食べましょ。お腹空いちゃったわ」 「そうっすね」 「冷めたら旨くないですからね」 気を逸らすため、二人は静香に同調した。静香は、テーブルの上に散らかっていたものを乱暴に押しやった。 「食べ終わったら、鋼ちゃんを家に送ってやるわ。その代わり、帰ってきたら気が済むまで飲ませてもらうからね」 「解りましたよ」 正弘は仕方なさそうにしつつも、三人前のカレーうどんと箸を盆に載せてリビングのテーブルに運んできた。 鋼太郎は情けなさと自己嫌悪に苛まれていたが、ひとまず、正弘の作ったカレーうどんを頂くことにした。 前に百合子が言っていたように、確かにおいしかった。食べている最中は、三人とも無言で黙々と箸を動かした。 鋼太郎と正弘もそうだが、静香も何かしら思うところがあるのだろう。これといって、話し掛けてこなかった。 カレーうどんの夕食が終わってしばらくした後、鋼太郎は静香の車に乗せられて、自分の家に帰っていった。 二人がいなくなってしまったので、急に部屋ががらんとした。正弘は少々寂しくなりながらも、食器や鍋を洗った。 水切りカゴに三つのどんぶりを重ねて置き、シンクに残った洗剤や汚れをざっと流して、布巾を洗って干した。 「玉砕、かぁ」 正弘は独り言を漏らしながら、ダイニングキッチンから出た。リビングのソファーに腰掛け、両足を投げ出した。 百合子。白金百合子。ゆっこ。彼女の最大の魅力であり特長は、なんといっても、あの弾けるような笑顔だ。 底抜けに明るくて屈託がなく、全身で歓喜を表現する。だが、正弘に向けられる笑顔は、涙に濡れている。 鋼太郎には見せたくない、見せられない苦しみを正弘にだけ零す。それはきっと、正弘が友人だからだ。 これからも、絶対にそれ以上にはなれない。鋼太郎のいる立ち位置には、何がどうあっても入れることはない。 正弘は、強烈な悔しさに襲われた。自分の方こそ、気付いているはずなのに、気付かないふりをしていたのだ。 百合子は、決して正弘を見ない。最初から、そして、これから先もずっと。いい加減、現実を思い知るべきだ。 死した家族をどれだけ欲しても黄泉の国から帰ってこないように、彼女の心もまた、欲しても手に入らないものだ。 正弘は、天井を見つめた。身を切られるような思いがした。苦しく、切なく、寂しく、悲しく、そして悔しかった。 けれど、これ以上は無様なだけだ。鋼太郎との情けない殴り合いよりも、更に情けないことになってしまうだろう。 破れた恋は、引き摺りすぎて千切れている。切れ端を掻き集めて縫い合わせても、もう二度と元には戻らない。 だから。心を、決めよう。 07 1/18 |