非武装田園地帯




第二十五話 泥仕合



 コートと制服を脱ぎ捨てたのは、最後の理性だった。
 雪の上に二人分の学ランが投げ落とされ、雪原に二つの闇が生まれた。向かい合いながら、シャツの袖を捲る。
腹立たしくて、どうしようもなかった。足場は悪かったが、相手も悪かったが、暴れずにはいられなかったのだ。
 駆け出したのは、ほぼ同時だった。スニーカーで雪を蹴り飛ばしながら近付いてきた正弘は、左手を振り上げる。
鋼太郎が上体を逸らすと顔の間近を拳が通り抜け、ぢっ、とアンテナの側面が擦れた。正面で受けたら、壊れる。
先程の打撃も、まだ全身に残っていた。ボディダメージを知らせるための疑似痛覚が作動し、脳を痺れさせる。
ほぼ同型だが、正弘は自衛隊御用達の戦闘型だ。パワーリミッターを強めていない分、パワーは正弘が上だ。
だが、格闘に関してはどちらも素人だ。だから互角だ。鋼太郎は正弘が振り抜いた左腕を払い、拳を放った。
 ごっ、と強く重たい打撃音が起き、正弘の上半身がのめる。思っていた以上の力に、鋼太郎はぎょっとした。
今まで、この体のフルパワーを使ったことなどなかった。日常生活では、これほどの力は必要ないからだ。
汎用型とはいえ、パワーリミッターを強化してあるとはいえ、この体の本来の用途は間違いなく戦闘用だ。
 正弘は呻いたが、よろけずに上体を起こした。意志の強さが出力に反映されて、ゴーグルが眩しく光っている。
彼のマスクフェイスが青い光に染められているので、鋼太郎のゴーグルもまた同じように光っているのだろう。

「どうした、鋼! 自分の力にビビってんじゃねぇぞ!」

 正弘は正弘らしからぬ荒い言葉を放ち、足を上げた。曲げた膝を思い切り、鋼太郎の腹に叩き込む。

「うっ」

 鋼太郎が呻くと足が伸ばされ、そのまま振り抜かれる。踏ん張るよりも先に、凄い力で蹴り飛ばされてしまった。
頭から雪の中に突っ込んでしまい、視界が真っ白になった。鋼太郎が雪の中から起き上がると、正弘は叫んだ。

「お前には、覚悟ってもんが足りない! ついでに頭もな!」

「いちいちうるっせぇなあ!」

 鋼太郎は飛び跳ねるように立ち上がり、掴み掛かってきた正弘と組み合った。

「ビビっちゃいねぇよ! あんたこそ、ゆっこにばっかりいい顔すんのやめたらどうだ!」

「なんだ、妬いたのか? ガキ臭ぇんだよ、そういうのは!」

 組み合わせていた手を解き、足を挙げた。右足を軸にして左足を振り、鋼太郎の上腕部にかかとを入れた。
潰れた声を漏らし、鋼太郎はよろけた。正弘はその肩を掴むと顔を上げさせ、右手を突き出して首を掴んだ。

「子供なんだよ、お前は!」

「あんたこそな!」

 鋼太郎は首を掴んでいる正弘の手首を握りながら、足を上げた。正弘の腹部に、膝をめり込ませる。

「ちょっと好かれたぐらいでいい気になりやがって、馬鹿じゃねぇの!」

 膝蹴りの衝撃で、首を掴む手が緩む。鋼太郎が彼の腹を蹴り飛ばすと、正弘は背中から転倒したが、起きた。

「なんだその言い草は! あの子はお前の所有物じゃないんだぞ!」

「そっちこそ勘違いしてるじゃねぇかよ! 大体なんだよ、ゆっこが気ぃ遣われて喜ぶとでも思ったのかよ!」

「え…?」

 直立した正弘が、身動ぐ。鋼太郎は、正弘に迫る。

「あいつは可哀想なんかじゃねぇ! オレらと同じで必死なんだよ! そんなことぐらい、解るだろうが!」

「思い遣って、何が悪い!」

 正弘は駆動機関の熱が頭部にまで上昇してきた錯覚に陥りながら、鋼太郎の襟首を握り、頭を寄せる。

「何が悪いって言うんだあっ!」

「それだけじゃ、やってらんねぇっつってんだよ!」

 鋼太郎は正弘の腕を強引に押しやると、ごっ、と胸元を殴って転ばせた。体から吐き出される排気が、熱い。
怒りが、脳どころか補助AIまで過熱させているかのようだ。足の回りの雪が、ほんの少しだが溶けていた。
 殴るたびに、苦しくなる。叫ぶたびに、やるせなくなる。正弘に比べて、どれだけ自分は子供で馬鹿で浅いのだ。
彼は、いつもそこまで考えて行動しているのだろうか。きっと、しているのだ。思慮深いのが正弘の利点だ。
だが、鋼太郎はそうはいかない。考えるよりも前に感情が先走って、思うように事が運んだことなど、ない。
 サイボーグ化したばかりの時も、そうだった。百合子が心配してくれたのに、荒れるばかりで怒鳴ってしまった。
そして、泣かせてしまった。他にも色々とある。褒めてくれたのに邪険にしたり、繋いできた手を振り払ったり。
どうしようもないことで、照れてしまう。なんとなく恥ずかしいからというだけで、百合子を随分蔑ろにしていた。
 特にひどかったのが、小学生の高学年の頃だ。鋼太郎が少年野球チームで、レギュラーになった頃のことだ。
クラスの男子か誰かに、百合子といつも一緒にいることをひどくからかわれた。それが、無性に悔しかった。
無邪気に懐いてくる百合子は子供心にも可愛らしくて、彼女に頼られるのを誇りに思っていたから尚更だった。
けれど、からかわれるうちにだんだんと情けなくなってきて、百合子と距離を置いた。登校の時も引き離した。
 以前は、百合子の体調が良い時は揃って下校していたのに、他の友人と一緒に帰るようになって彼女を放った。
そのことについて、百合子は何も言わなかった。いや、違う。鋼太郎が百合子を見ようとしていなかったのだ。
しかし、百合子は鋼太郎への態度を変えなかった。少年野球の試合には必ずやってきて、応援してくれた。
レギュラーになった時も、誰よりも喜んでくれた。けれど、素直に感謝出来なくて、その時も邪険にしてしまった。
使い古した野球ボールを百合子に放り投げたのも、感謝の思いを上手く言葉に出来ず、困ってしまったからだ。
だが、百合子は相変わらずだった。鋼太郎の投げたボールを、宝物か何かのように大事に大事に持ち続ける。
 本当に、なぜそこまで百合子は鋼太郎を好くのだ。理解出来ない。これといって魅力のない、愚かな少年なのに。

「…畜生」

 立ち上がる正弘を見下ろしながら、鋼太郎は声を詰まらせた。

「訳解んねぇんだよ、何もかも!」

「だったら解るように努力すればいい! お前の頭の中には何が入っているんだ!」

 正弘は勢いを付けて立ち上がると、拳を突き出した。胸部を強烈に殴られ、鋼太郎は上体を逸らした。

「ぅぐっ」

 正弘は連続して殴り付けながら、喚く。

「お前がなんとなく過ごしている日常はな、オレが全部失った日常なんだ! オレが欲しいと願っても、二度と戻ってこない、そんな世界を生きているんだ! 壊れてから気付くんじゃねぇよ! 壊れる前に気付けよ! 気付けってんだよこの馬鹿野郎おおおおっ!」

 打撃による痺れが、拳どころか両腕に響いていた。正弘は肩を上下させ、胸を押さえている鋼太郎を睨んだ。
妬ましい。羨ましい。だから、腹立たしい。同じフルサイボーグなのに、鋼太郎は失ったものが遥かに少ない。
他人と自分を比べるなど、情けなくて仕方ないことだが、それでも比べずにはいられない。彼が、近いからだ。
鋼太郎に話し掛けずにいて友人にならなかったら、鋼太郎のことを知らずにいたら、そうは思わなかっただろう。
知れば知るほど、仲が深くなればなるほど、百合子との距離の近さを目の当たりにするほど、妬ましくなる。
 本当に、小さい男だと思う。こんなことぐらいで苛立って、挙げ句の果てに鋼太郎を殴り付けてしまったのだから。
鋼太郎は、器用ではない。だがその分、迷いがない。裏表もない。だからこそ、自分を責めているのだろう。
なんと情けない争いだろう。根本的な理由も、表面的な理由も、殴り合う大義名分に出来るほど高尚ではない。
お互いへの嫉妬であったり百合子への思いであったりするのだから、呆れるほど馬鹿馬鹿しすぎる戦いだ。

「まだ、壊れてねぇよ」

 鋼太郎はよろけかけた体を立て直し、飛び出した。

「壊れさせて、たまるかあっ!」

 鋼太郎の放った右の拳が、正弘のマスクを抉る。

「畜生!」

 左の拳が、正弘の胸元を突く。

「どちくしょおおおおおっ!」

 渾身の力で正弘を殴り飛ばし、鋼太郎は吼えた。

「戻ってこないだと、そんなことはな、百も承知なんだよぉ! そりゃあんたに比べりゃ少ないかもしれねぇけど、オレだって、なくしたものは一杯ある! でもな、なくしたくてなくしたわけじゃねぇよ! だから!」

 だから。百合子を、許せない。失ってしまいたくないものの中でも、白金百合子は特に大きな存在であったから。
だからこそ、百合子が滅びていくことが許せない。なのに、どれだけ強く思っても、彼女の体は病に蝕まれていく。
キスをした理由なんて、本当にない。ただ、百合子がそこにいたから、手の届く場所にいてくれたからしたのだ。
そこにいるのが当たり前で、そこにいないわけがなくて、そこにいるべき存在で、そこにいてほしい幼馴染み。
 だから。



「好きになって、悪いかあああっ!」



 鋼太郎の猛りは、雪を巻き上げながら通り過ぎたトラックの轟音で掻き消された。

「畜生…」

 いや、違う。好きになったのではない。幼い頃からずっと好きだった。ただ、それに気付きたくなかっただけだ。
だから。必死に目を逸らして、百合子と同じことをしてくれた透に目移りして、正弘の恋心に腹を立てている。
並んで登校しないのも、後ろを追い掛けてきてくれる百合子が可愛いから。鋼ちゃん、と呼ばれるのが嬉しいから。
彼女に優しく接しないのは、照れくさいのもあるが、百合子のくるくる変わる表情を見ているのが楽しいから。
これから、少しずつ素直になろう。そう思った矢先に百合子は病に冒され、彼女は痛んだ肉体を捨てると言った。
 それもまた、許せなかった。百合子は百合子だから好きだ。だから、体が変わると好きになれないかもしれない。
機械の体の百合子を百合子として認められないかもしれない、と思ってしまう自分が嫌で、これもまた許せない。
フルサイボーグのくせに。鋼太郎が泣き出したい気分でいると、正弘は殴られたマスクを拭いながら起きた。

「やっぱり、お前は馬鹿だ」

 正弘は、自嘲気味に笑った。

「壊したくなかったら、足掻けばいいんだ。そんなことも解らないのかよ」

「だーから、なんでそんなに偉そうなんだよ」

 鋼太郎が内心で顔をしかめると、正弘は立ち上がり、手足に付着した雪を払った。

「別に、そういうわけじゃない」

「ていうか、いちいち回りくどいんだよな。ストレートに言えばいいのに。なんか、ねちっこい、つーの?」

「じゃあ、言ってやろうじゃないか」

 鋼太郎の言い草に、正弘は熱の引きかけた怒りが戻ってきた。静香と同じ言い回しだったので、尚更だった。

「今時、メイド萌えなんて古いんだよ!」

 見当違いだとは思ったが、言ってしまったものは仕方ない。鋼太郎は、釣られて言い返した。

「制服萌えの方が超絶にダセェ!」

「メイド服は労働者階級の制服だ! そんな差別と偏見の固まりも同然の服装に、萌えを感じる方がおかしい!」

「純白のエプロンと漆黒のスカートの美しいコントラストを、そこら辺の紺色上下と一緒にしないでほしいぜ!」

「フリフリヒラヒラなミニスカメイドはこの世に存在してはならない! 実用性が皆無だからだ!」

「二次元臭くていいじゃねぇか! 使えようが使えまいが、萌えるんだったらなんだっていいんだよ!」

「ブレザーの魅力が解らないお前はどうかしている!」

「ピンク色のメイドさんは邪道なんかじゃねぇ、むしろ王道直球ストレート、超絶ストライクゾーンだ!」

「だったらセーラーは王道の中の王道だ! 背徳感の極みだ!」

「だったら鮎中の制服にも萌えられるっつーのかよ!」

「ああもちろんだとも! そりゃ都市部のそれに比べたらダサいかもしれないが、だからこそいいんだ!」

「ちっとも解んねぇよ!」

「制服の素晴らしさを、お前の脳髄に刻み付けてやろうじゃないか! 掛かってこい、鋼!」

「上等だぁ! メイドの何たるかを、脳味噌のド真ん中に叩き込んでやろうじゃねぇか、ムラマサ先輩!」

 お互いに、論点が大いにずれていることには気付いていた。だが、頭が冷えていないので、続行した。

「ネコミミにメガネのメイドさんはありだぁ!」

「いや、そんなものはないっ!」

 殴り掛かってきた鋼太郎の拳を受け止めた正弘は、そのまま押し返そうとしたが鋼太郎の蹴りが飛んできた。
腰にまともに打撃が加わり、反射的に膝が曲がった。しかし、倒れることはなく踏ん張り、膝を伸ばした。
正弘は鋼太郎の懐に入っていたので、そのまま頭突きになった。あうっ、と頭の上で鋼太郎の顎が上がる。

「ミミはミミだ! 単独だからこそミミなんだ!」

「じゃ、じゃあ、スク水セーラーもなしってことだな!」

 顎を押さえて鋼太郎が言い返すと、正弘は胸を張った。

「いや、それはありだ。大ありだ。セーラー服の下から伸びる腰から足に掛けてのしなやかなラインと、布地の紺色とスクール水着の紺色の濃淡、普段はプリーツスカートの下に隠されている真っ白な太股、そして明らかに不自然ながらも妙な色気の漂う姿! たまらないじゃないかっ!」

「あんたの基準が解らねぇよ!」

「お前こそ、無茶苦茶だ! それじゃ何か、ツンデレで妹でアニメ声でぺったんこでうさ耳でニーソックスで絶対領域でしまパンで語尾には妙な単語を付けるフリロリなメイドに萌えられるのか!? オレには無理だ、そんな無節操なごった煮も同然な統一性のないあざとい萌えはむしろ萎えなんだ!」

「ついでにツインテールなら最強だぜ! 吊り目金髪ツイン!」

 拳を固めて意気込んだ鋼太郎に、正弘は不意に我に返った。今、自分は何を言っていたのだろう。

「…鋼」

「なんすか?」

「もう、やめようか。恥ずかしくなってきた…」

 正弘は顔を覆い、項垂れた。鋼太郎は先程まで自分が言っていたことを認識し、強烈な羞恥心に襲われた。

「そうっすね…」

「オレは…オレは、何を必死に語っていたんだ…」

 正弘は居たたまれないらしく、頭を抱えて座り込んでいる。鋼太郎も、次第に熱が下がって冷静さを取り戻した。
発端も、考えてみなくても馬鹿馬鹿しい。一人の女のことで言い争って殴り合うなんて、情けないにも程がある。
これを、当の百合子が見たらどうだろう。泣きながら止めに入るなんてことはせずに、きっと大笑いするだろう。
百合子は、そういう性格だ。本人がいないのにここまで真剣になってしまったのかと思うと、ますます呆れる。
 鋼太郎は正弘に殴られたせいでボタンが吹っ飛んだシャツを整えてから、学ランを拾い、雪を払って着た。
正弘は恥ずかしげに唸っていたが、放り投げたままになっていた学ランを手に取って雪を払ってから、着た。
もそもそとコートを着ていると、お互いにこの姿が非常に物悲しいことに気付いてしまい、脱力感に襲われた。
殴り合っていた最中は良かったが、正気に返ると笑うに笑えない。真剣だったので、余計に情けなくなる。

「あー…」

 鋼太郎は視界の隅の時刻表示を見、嘆いた。

「もう、七時過ぎてら…」

「とりあえず、うちに来るか? 服を乾かさないと」

 正弘は通学カバンを拾い、担いだ。鋼太郎も、自分の通学カバンを取る。

「そうっすね。家に電話もしなきゃっすけど、その前に言い訳も考えねぇと」

「一体、何をやっていたんだろうな、オレ達は」

 正弘は、ああ恥ずかしい、と漏らしながら立ち回っているうちに雪が踏み固められてしまった土手から下りた。
鋼太郎もそれに続き、道路に出た。日が完全に落ちたので、路面凍結が始まっていて滑り掛けてしまった。
橋を渡りながら、鋼太郎と正弘は言葉を交わさなかった。二人とも、内心で激しい羞恥心に悶え苦しんでいた。
しかも、最終的には性癖について言い合ってしまった。どちらからともなく、このことは秘密にしようと提案した。
 無論、即決した。





 


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