恋は、終わる。そして。 いよいよ、受験ムードが高まってきた。 二月に入り、私立高校の受験も近付いてくる。三年生の生徒達は、心なしか殺気立っているように見えた。 教室の中の雰囲気も、張り詰めている。以前は騒いでいた生徒のグループも、今ばかりは勉強している。 正弘は、単語カードをめくっていた。ひたすら真面目に取り組んできたためか、教師からは合格を保証された。 正弘の受ける予定の一ヶ谷市立高校は、レベルとしては無難な部類で、ごくごく平均の高校であると言える。 やろうと思えば上も狙えるが、進学校に進んでも将来行き着く先は陸上自衛隊なので、興味は湧かなかった。 この忌々しい教室とも、もうしばらくでお別れだ。中学校そのものは好きになってきたが、教室は嫌いだ。 サイボーグ同好会の三人がいないから話す相手もいないので退屈だし、誰も彼も正弘を拒絶しているのだ。 最初のうちは登校拒否でもしようかと思ったが、世間にいるのはクラスメイトのような下らない人間ばかりではない。 中には、百合子らのような気のいい人間もいる。それが解ったから、正弘はなんとか学校に通い続けられていた。 三年生の教室は三階にあるので、グラウンドが良く見えた。いつも投げ込んでいた場所は、雪が積もっている。 校舎裏も雪に占領されてしまっている。だが、この雪が溶ける頃には、正弘はもうこの机には座っていない。 そう思うと、感慨深い。中学生になった頃はもう三年もあるのかと思うとうんざりしたが、後少しで終わる。 そこから先は、子供でありながら子供ではない微妙な年代の高校生となり、その後は大人として世間に混ざる。 学校は、大人になるために必要だ。集団生活の理不尽さに耐え、教師の無能さを知り、人間の愚かさを理解する。 長い人生のスパンで考えれば、学校生活などほんの一部に過ぎない。高校を入れても、たったの十二年間だ。 フルサイボーグである以上、これから先の人生は、普通の人間に比べれば少々長いものとなることだろう。 その尺で考えれば、義務教育の九年間など短いものだ。だが、短いからこそ、この時間はとても貴重なものだ。 中学校という同じ容れ物の中に入れられなければ、鋼太郎とも、百合子とも、透とも、決して出会わなかった。 だが、卒業してしまえばしばらくの間三人とは会えなくなる。一ヶ谷市立高校で、また一人きりになってしまう。 けれど、今生の別れ、というわけではないのだ。正弘は几帳面に文字を書き込んである単語カードを、閉じた。 授業開始を告げる予鈴が、鳴っている。 その日の夜。リビングのテーブルには、大量の紙が積み重ねられていた。 クリップで端を固定された紙の束が、合計で十束置いてあり、大振りなホッチキスがその傍に横たえられている。 静香の部屋から持ち出してきた複合型プリンターは、正弘の所有物であるノートパソコンに接続されている。 正弘は膝の上にノートパソコンを置いていて、首の後ろのインターフェースから伸ばしたケーブルを繋げている。 どうやら、キーボードを使わずに、直接操作しているようだ。静香は、テーブルの上の紙の束を見下ろした。 線の細い、だがそれでいて可愛らしい絵柄の絵が描いてあり、きちんとデザインされたロゴが上に付いている。 静香はポップな字体で書いてあるタイトルを眺めていたが、表紙の右下に印字されている名前を読み上げた。 「…伊集院かれん?」 静香の呟きに、正弘はぎょっとして背後を見上げた。 「あっ、何を見ているんですか!」 「嫌でも見えるわよ、こんなもん。自分の部屋でやりなさいよ、製本作業なんて」 静香は紙の束を手に取ると、ぱらぱらとめくった。 「で、いつ頃のイベントに出るの? もしかして委託? それとも通販?」 「売りませんよ、別に。大体、売るんだったらきっちりオフセットにしますよ。貯金だけはありますから」 返して下さい、と正弘が手を出したので、静香はその手の上に紙の束を載せた。 「エロはないの?」 「ありませんってば。ド健全な少女向けオリジナルですよ」 と、正弘は言い切った。静香は、ふうん、とつまらなさそうにする。 「絵柄はロリぷに系っぽいのにねぇ」 「オレにロリっ気はありません」 「で、伊集院かれんって、誰?」 静香の質問に、正弘は言葉を濁した。 「いや、だから、それは…」 「はっずかしいペンネームねー。今時伊集院はないでしょうが」 静香が一笑すると、正弘はむくれた。 「いっ、いいじゃないですか! ただのペンネームなんですから!」 「ネットでサイト作る時はネカマになるわね」 「なりません。きっちり表記しますから」 「どこのお嬢様系ツンデレキャラかと思ったわよ」 静香はソファーに腰掛けると、可笑しげに笑う。正弘はむっとしながらも、データを出力し、印刷を始めた。 「ていうか、橘さんはなんでそんなに詳しいんですか」 「高校ん時のルームメイトが同人屋だったから、色々と吹き込まれちゃったのよ。それだけ」 「余計なことはしないで下さいね。この後、製本しなきゃならないんですから」 「でも、珍しいわね。マサは今まで馬鹿みたいに描くだけだったのに、製本するなんて」 静香が言うと、正弘は首の後ろに手を伸ばしてノートパソコンに繋げているケーブルを抜いた。 「いいじゃないですか」 AI直結操作は疲れるなぁ、とぼやきながら、正弘は慣れた手つきでキーボードを叩いた。 「その気になっただけなんですから」 「で、この漫画、どういう話なの?」 「えーとですね」 正弘は、顔を上げずに返した。 「一言で言えば、SFファンタジー変身魔法美少女プリンセスラブコメってところでしょうか」 「何それ」 静香が変な顔をすると、正弘は淡々と言う。 「前中後の三部構成で、今刷ってるのは前です。トナーの予備はちゃんと買ってきたので安心して下さい」 「で、夕飯は?」 「もうちょっと待って下さい。あと…三十枚、両面印刷してからやりますから。本文の残りが、三ページなんで」 「どれくらい掛かりそう?」 静香の問いに、正弘は答えなかった。壁掛けのデジタルクロックを見上げると、午後七時三十分を過ぎていた。 この様子だと、正弘が作業を終えるのはもっと後だろう。だが、それまでの間、静香の腹が持つとは思えない。 サイボーグである正弘は持つだろうが、仕事上がりの生身の人間はまず無理だ。買いに行くしかなさそうだ。 こんなことは、珍しい。時として神経質に思えるほど几帳面な正弘が、家事を放り出してまで熱中するとは。 静香は軽く寂しさを覚えたが、じゃあマサの分も買ってくるから、と正弘の背に言葉を投げてから部屋を出た。 ロングコートを引っ掛けて財布と鍵をポケットに入れ、廊下に出ると、雪混じりの強い風が吹き付けてきた。 静香はコートの襟を立てて身を縮めながら、エレベーターに向かった。ブーツの硬い足音が、壁に反響する。 一階で止まっていたエレベーターを呼び出し、乗り込んだ。長方形の箱の中は、外に比べて少しだけ温かかった。 静香は大きく息を吐き、ロングコートのポケットに入れた財布を確かめながら、正弘の姿を思い出していた。 やっていることはどうしようもないことだが、あそこまで真剣になっている正弘を見るのは久々かもしれない。 恐らくあれは、百合子のために作っているのだろう。そうでもなければ、受験前のこの時期にやるはずがない。 正弘の話に寄れば、百合子の余命は三ヶ月であり、既に二ヶ月が経過している。だから、一ヶ月もないだろう。 百合子はフルサイボーグとなることが確定しているらしいのだが、それでも、一度死ぬことには変わりない。 静香は、七月に部屋にやってきた百合子の姿を思い返した。確かに体は小さかったが、元気な少女だった。 百合子自身もセミサイボーグと化しているからか、フルサイボーグである正弘に対して屈託なく接していた。 正弘の少女漫画趣味とも話が合うらしく、楽しげに声を転がして笑っていた。その百合子が、死ぬというのか。 あまり、信じられない話だ。静香は、元気の良かった頃の百合子しか知らないので、余計にそう思ってしまう。 十四歳。静香が十四歳だった頃は、生き地獄だった。両親は日々言い争いをし、静香は勉強に駆り立てられた。 下の弟と妹も、レベルの高い私立の学校だけでなく塾や習い事に日々通わされていて、家族の会話はなかった。 十四歳の頃の静香は、今以上に斜に構えていた。両親や教師や塾の講師から、勉強を強いられていたからだ。 少しでも他の生徒と差を付けて前に出ろ、学年一位になれ、全国テストで十位以内に入れ、と言われ続けた。 そう言われるのが嫌で嫌で仕方なく、勉強道具や教科書などを全て捨てても、次の日には机の上に並んでいた。 大人が大嫌いで、またそんな大人に逆らえない自分も大嫌いで、自殺を考えたことも一度や二度ではない。 両親や教師達を責め立てる内容の遺書を書いて文科省に送り、電車に飛び込もう、と塾帰りに考えたこともある。 閉ざされた世界の中でしか生きられない自分が、不幸だと思った。生き方を縛られている自分は、哀れだと。 中学三年生になる頃には、その考えは一層強まっていた。極度のストレスで拒食気味になり、通院も少しした。 それでも、両親は静香を虐げ続けていた。それがお前の幸せなんだ、と何かに取り憑かれたように繰り返した。 けれど、それは違うと知っていた。どれだけ勉強しても静香の成績は変わらないし、日常も変わらなかった。 頑張って成績を上げてもろくに褒められず、もっと良い点が取れただろう、と言われ夕食を抜かされて勉強した。 一人きりの部屋で、寂しさと空腹で泣きながら問題集を解いた。その後、出された夜食は、冷凍食品だった。 そんな生活の、どこが幸せだ。だから、未来は断たれているとはいえ、病の最中とはいえ、百合子は幸せだ。 父親は単身赴任しているらしいが母親が常に傍におり、気の合う友人達がいて、勉強に追われることはない。 その上、鋼太郎だけでなく正弘にも思いを寄せられている。静香からしてみれば、なんとも羨ましい境遇だ。 エレベーターは一階に到着し、ドアが開いた。冷気が吹き込んできて、暖房の入った生温い空気を掻き混ぜた。 青白い蛍光灯に照らされた出入り口を出ると、静香はなんとなく夜空を仰ぎ見た。雲の切れ間から、星が見える。 「もう、終わりかな」 静香は独り言を漏らし、駅前商店街に向かって歩き出した。十二月の始めに、自衛隊から一通の封書が届いた。 正弘は中学校を卒業すれば就労年齢に到達するので、静香の元から独り立ちすることが出来るようになる、と。 つまり、静香の保護者としての役割は今年の三月で終わるのだ。だが静香は、そのことを正弘に言っていない。 本当は、十二月の休暇の最中に言うはずだった。だが、言えなかった。だから、冬休みの間に言うつもりだった。 けれど、また言えず終いだった。言おうと思っても口から出せずに、ずるずると時間だけがいたずらに過ぎた。 なぜ、言えないのだろう。言うだけなら、簡単なはずだ。来年からあんたは自由の身になるのよ、マサ、と。 「あたし、どうかしたのかしらね」 静香は自嘲して呟いた。正弘の存在は、鬱陶しいだけでしかなかった。子供なんて、本当は大嫌いなのだ。 あの事件で心を抉られた正弘は感情の起伏が少なく、泣きもしなければ笑いもしなかったから気味が悪かった。 同居している、というのは名目でしかなく、二人の生活リズムは大きく違っていたために擦れ違っていた。 顔を合わせない日もあった。一週間も会話しない時もあった。それでも正弘は、静香の部屋に帰ってきた。 マスクフェイスの下では、どんな表情をしているのか解らない。今はそうでもなくなったが、昔はそうだった。 無性に邪魔に感じて、邪険に扱ったこともあった。仕事のストレスを、一方的にぶつけてしまったこともある。 けれど、正弘はそこにいた。帰る場所がないからだ。だから、他の男とは違って静香の傍から離れなかった。 今まで付き合った男達は、静香の外面と内面の違いで距離を置き、そのうちに性格の悪さで見限っていった。 なので、長く続いてもせいぜい一年だった。それ以上は到底持たない。だが、正弘とはもうすぐ八年になる。 「…馬鹿馬鹿しい」 正弘は、体こそ立派だが中身は子供に過ぎない。十五歳の中学生に何を期待する。期待することなどない。 中学生の色恋沙汰を間近に見ているから、羨ましくなったのかもしれない。彼らの青春は、とても眩しく見える。 だからきっと、魔が差してしまったのだ。そうでもなければ、正弘のことをこんなに考えるわけがないのだ。 所詮、相手は子供だ。十五歳の少年だ。そして静香は二十六歳の大人だ。間違いなど、起こすわけがない。 正弘の年齢がもう少し高くて静香の年齢がもう少し低かったら、可能性はあっただろうが、差が大きすぎる。 帰ったら、ワインを温めて飲もう。酒でも喰らって眠ってしまえば、こんな愚かな考え事など抜けるはずだ。 だが、赤ワインは三日前に切らしてしまった。夕食と一緒に買わなきゃ、と思いながら静香は足取りを速めた。 明かりの少ない駅前通りの中で、スーパーだけが煌々と明るかった。 07 1/22 |