そして、正弘は帰宅した。 一ヶ谷駅を午後七時四十分に出る電車に乗り、午後七時五十五分頃に鮎野駅に到着して、町営住宅に戻った。 部屋の鍵は、開いていた。中に入るとリビングの明かりが点いていて、静香が顔を出し、お帰り、と言った。 正弘は条件反射で、ただいま、と返してから靴を脱いで廊下に上がり、自室に荷物とコートを置いてきた。 それから、リビングに入った。部屋着に着替えた静香はソファーの上で胡座を掻いて、缶ビールを飲んでいる。 「ゆっこちゃんの具合、どうだった?」 「それが」 正弘は静香の向かいに座ると、肩を落とした。あの様子では、百合子はあと一週間も保たないだろう。 「話も、出来ませんでした」 「昏睡してたの?」 「いえ、薬で寝てただけなんですけど、それでも、もう…」 正弘が首を横に振ると、静香は唇の端に付いた泡を舐め取ってから、こん、と缶を置いた。 「それじゃ、マサの自己完結ってわけね」 「まぁ、そういうことになりますね。最初からそんな感じでしたから、終わりも、そんなもんでいいんですよ」 部屋の暖かさと静香の変わらぬ態度に、正弘は張り詰めていた神経が緩んでしまった。 「でも、やっぱり、好きでした」 「無理しないの。泣くなら泣きなさいな、マサ」 静香は、正弘の隣に座った。正弘はマスクを掴み、項垂れる。 「はい」 それきり、正弘は黙ってしまった。わなわなと大きな肩を震わせている正弘の無表情な横顔を、静香は眺めた。 きっと、滂沱しているのだろう。好きな女子が死に往く様に直面しては、泣かずにはいられないのが当然だ。 「たちばなさん」 「何よ」 「ここに、いてください」 正弘の手が、静香の腕を掴む。静香は頷いてやると、正弘の手をそのままにして、ソファーに身を沈めた。 それくらいしか、してやれることはない。失恋の痛みと友人を失うかもしれない苦しみは、簡単に癒せはしない。 下手に言葉を掛けて、出来たばかりの傷口を抉ってしまうよりもいいだろう。静香は、正弘の肩を軽く叩いた。 それが合図であったかのように、正弘の泣き声は増した。十五歳の少年らしい声を上げ、ただひたすら泣いた。 決して出ることのない涙を、求めるかのように。 ようやく泣き止んだ正弘は、遅い夕食を摂っていた。 といっても、それほどの量ではないのですぐに食べ終わってしまう。そして栄養剤を飲めば、もう終わりだった。 静香は、正弘からあまり離れない位置に座っていた。タバコをふかしてはいるが、普段よりも酒量は少なかった。 あっという間に食べ終わった正弘は、食器を片付けて手早く洗い、水切りカゴに入れてからリビングに戻った。 「落ち着いた?」 静香に問われ、正弘はソファーに座りながら返した。 「まぁ、なんとか」 「なら、いいんだけど」 「でも、珍しいですね。なんで、こんなに付き合いが良いんですか?」 「気が向いただけよ」 静香は、横目に正弘を見やった。正弘は、不可解げにする。 「悪いものでも食べましたか。それとも、アルコールに頭をやられたんですか」 「違うわよ」 「じゃ、なんですか。他人の厄介事も面倒なはずでしょうに」 「しつこいわね」 静香がむっとすると、正弘はパーカーのポケットから封筒を取り出した。 「これのせいですか?」 防衛省。陸上自衛隊。村田正弘様。灰色の封筒を開いた正弘は、中から一枚の書類を取り出した。 「保護養育期間終了の通達、とか書いてありました。橘さんが保護者としての役割を失うとか、一人暮らしも可能だ、とか高校も都市部の学校に行ける、とか」 「それは、別に…」 静香が口籠もると、正弘は無機質な文字で書かれた書類をテーブルに広げた。 「だから、最近妙に優しかったんですね。いきなり旅行に連れて行くなんて、変だと思いましたよ」 違う、とも言えずに静香はタバコを吸い込んだ。正弘は腕を組む。 「なんか、橘さんらしくないですね。喜び勇んで、オレを追い出しに掛かるとばかり思っていましたから」 「だから、別に」 「でも、オレはまだ出ていきませんからね」 正弘は、静香を見やる。 「高校に進学しますから。だから、高校を卒業して自衛隊に入隊するまでの後三年間は、こっちにいますよ」 「あんたは、それでいいの?」 静香はタバコを口元から外し、灰皿に灰を落とした。 「じゃ、出ていって欲しいんですか?」 正弘が返すと、静香はむっとする。 「当たり前じゃないの。マサがいるだけで、あたしの生活は色々と制限されるのよ!」 「そうですかね? オレがいてもいなくても、橘さんは合コンに明け暮れているような気がするんですが。その割に、成果はさっぱりですが」 「あたしの良さに気付かない男共が馬鹿なのよ」 「でも、オレとしてはここにいた方が楽なんですよね。駅も近いし、生活をするにはちょっと不便ですけど、居心地はそんなに悪くないし、あいつらがいますから。だから、離れるのは惜しいんですよ。で、ついでに」 正弘は、静香を指した。 「オレがいなくなると、橘さんの生活は途端に悪化しますから。それを放ってはおけないんです」 「そんなの、あたしの自由じゃないのよ」 「オレが修学旅行から帰ってきたら、部屋の中がひどいことになってましたからね。食べかけのものをラップもしないで突っ込んであるし、チューブ入り調味料の類がどれも開けっ放しだし、ゴミ箱には紙とプラスチックを分別しないで入れてあるし、食器は汚れたまま積み重ねてあったし、リビングにも畳んでいない洗濯物が散乱しているし、風呂場は洗った形跡がないし、洗面台はびちゃびちゃで髪の毛だらけだったし。修学旅行の期間はたったの二泊三日ですよ、二泊三日。そんな短期間で、よくもまぁそこまで汚せますね」 と、正弘はため息を零した。静香は、新しいタバコを抜いた。 「面倒なのよ」 「そうやって滅茶苦茶な使い方をしていたら、出ていく時に修理費用を取られちゃうんですからね。賃貸だから」 「あんた、よくそんなこと知っているわね」 静香の横顔は、不機嫌そうだった。だが、その割に口調には棘が無く、言い回しもこれといって毒がなかった。 やはり、様子が変だ。けれど、それほど酔っているというわけでもない。正弘は、からかうつもりで言った。 「オレが出ていくかもしれないって思ったら、寂しくなったんですか? だから、言わなかったんですか?」 静香は、不意に表情を消した。マスカラを落とした睫毛を瞬かせ、火を点けていないタバコを銜えたまま呟いた。 「かも、しれないわね」 その答えは、正弘にとっては予想外だった。今まで、静香がこんなにしおらしい態度を取ったことはなかった。 だから、反応に困ってしまった。正弘が言葉を続けられずにいると、静香は唇の間からタバコを外した。 「あたしも焼きが回ったってことかもね」 「本当に、どうかしちゃったんですか。熱でもあるんですか」 「うるっさい」 静香は、正弘に言い返した。確かに、熱でもあるのかもしれない。そうでもなければ、こんなに弱いわけがない。 実家を飛び出してからの十一年間は、両親に逆らえたことの開放感と大人達への意地で、気を張っていた。 就職した後も、たとえ友人が出来なくても話し相手がいなくても大丈夫だ、自分一人で平気だ、と思っていた。 それは、今も変わらないはずだ。正弘と旅行に行ったのは、一度ぐらいは行っておくべきだと考えたからだ。 正弘との縁がこれですっぱり切れてしまうのだ、と考えたら、自衛隊からの書類のことを言うに言えなくなった。 言ってしまったら、正弘は静香の元を離れていくかもしれない。その時期を、ほんの少しでも伸ばしたかった。 高校受験を目前に控えているのだから、余計なことを考えさせないためにも、言わないべきだと思ったからだ。 ただ、それだけのことのはずだ。静香は、なんとなく正弘を見つめた。正弘は身動ぐと、静香との間隔を開けた。 「…なんですか」 「なんでもないわよ」 静香は結局吸わなかったタバコを灰皿の中に放ってから立ち上がり、正弘を見下ろした。 「ねえ、マサ」 「だから、なんなんですか」 「マサにとって、あたしって何なのよ」 正弘は少し唸っていたが、静香を見上げてきた。 「少なくとも、保護者じゃないですね。でも、親でもない。かといって、姉というのもなんだかおかしいですし、友達ってほど仲は良くありません。でも」 「でも?」 「嫌いじゃないですよ。なんだかんだで、いて欲しい時にいてくれますし。それに、橘さんは結構美人ですから」 そろそろ寝ます、と正弘は静香の前を横切って自室に向かった。静香は、その背を見送る。 「あ、うん。おやすみ」 正弘の部屋の扉が閉じられると、リビングは少し静まった。静香は腰に両手を当て、一笑した。 「十五のくせして、なーに気障ったらしいこと言いやがるのよ」 だが、悪い気はしない。考えてみれば、正弘が静香のことをまともに褒めたのはこれが初めてかもしれない。 大抵は生活習慣の悪さに文句を言ったり、横暴さを嘆いていたり、まるで母親のように小言を言うばかりだった。 これで正弘の歳が十七八歳だったら、少しはぐらっと来ていたかもしれない。男日照りだから、かもしれないが。 十五歳か、と繰り返し呟きながら、静香はキッチンに入った。冷蔵庫の中から、缶ビールを三本取り出した。 缶を抱えて自分の部屋に戻った静香は、乱雑に物が乗ったテーブルから物を払い、空いた場所に缶を置いた。 缶を一本取り、ベッドに腰掛けて蓋を開けて飲みながら静香は考えた。十五歳。さすがに、射程外の年齢だ。 だが、正弘はこれから成長する。十八歳ぐらいになったら、少しぐらいは考えてやってもいいかもしれない。 その頃の静香が未だに結婚しておらず、都合の良い彼氏もいないのであれば、気に掛けるぐらいはしてやろう。 そして、正弘にも彼女が出来ず、静香を一人の女性として認識するようになったらその先もあるかもしれない。 「ま、ないだろうけどね」 静香は自分自身の考えを笑い飛ばしてから、ビールの強い炭酸と苦みを味わった。まさかねぇ、と自嘲する。 相手はほんの子供だ。間違いを起こすわけがない。増して、静香が正弘のことを男としてみるわけがない。 だが、未来は解らない。そんな言葉が頭を過ぎったが、心地良く全身に回ったアルコールに身を委ねた。 心中に生まれた僅かな変化から目を逸らすために、深く、深く、眠った。寝入りすぎて、夢も見なかった。 恋の切っ掛けは、どこに転がっているか解ったものではない。 07 1/23 |