非武装田園地帯




第二十八話 ファウル・ライン



 ずっと、君のことが。


 少し前を、百合子が歩いている。
 背中の中程まである長い髪を揺らして、成長した体格に合わせて長くなった足を、惜しげもなく出している。
冴えない紺色のプリーツスカートから伸びている脹ら脛は、官能的に思えるほど滑らかで柔らかそうだった。
白いハイソックスを付けてダークブラウンのローファーを履いた足を軽快に動かしながら、振り返り、笑った。

「えー、義理だよお」

 健康的な肌色の頬は、寒さで赤みが差している。

「その割には、力入ってねぇか?」

 鋼太郎は、彼女から手渡されたものを見た。綺麗にラッピングされた箱には、ハート型のカードが差してある。
Happy Valentine。鋼太郎が百合子の書いた字をまじまじと眺めていると、百合子は髪を掻き上げてむっとする。

「義理だってば」

 指の仕草だけでも、女らしさが滲み出ていた。ヘアバンドで前髪を上げているので、形の良い耳が良く見える。
身長も伸びたが、鋼太郎には届かない。鋼太郎の身長は百六十八センチで、百合子は百五十九センチだ。
ぎりぎり、百六十センチではない。体重も、体の弱かった小学生の頃に比べればかなり増えたように思う。
手首や首筋は変わらず華奢なのに、腰から太股のラインはすっかり丸くなり、胸も大分迫り出てきている。
増えた体重は、そこに向かっているのだろう。水泳の授業で見たスクール水着姿は、なかなか魅力的だった。
これで、高校生になって体形が良くなればどうなることか。笑顔が可愛らしいので、異性に人気が出そうだ。

「ね、鋼ちゃん」

 百合子は後ろ向きに歩きながら、鋼太郎を見上げて首をかしげた。肩から、艶やかな黒髪が滑り落ちる。

「んだよ」

 鋼太郎は、百合子を見下ろした。百合子は、その場に立ち止まる。

「本命だって言ったら、どうする?」

 通学路の途中。二人の住む集落と川の東側を繋いでいる橋の袂にあるカーブミラーには、二人が映っている。
最初は大きいと思っていたのにこの二年で窮屈になってしまった学ランを着ている、スポーツ刈りの少年。
地味なセーラー服の中に少女から大人へと変わりつつある体を隠している、ロングヘアの小柄な少女。
 年相応の鋼太郎。年相応の百合子。百合子は笑う。幼い頃とちっとも変わらない、屈託のない明るい表情で。

「鋼ちゃん」

 声も、若干大人びている。高いばかりだと思っていたのに、いつのまにか柔らかな雰囲気が加わっていた。
チョコレートの入った可愛い箱を持っている鋼太郎の手に、百合子の手が重なる。その指先は冷たかった。
だが、手のひらは温かかった。鋼太郎の皮の厚い手を大事そうに包み込みながら、百合子は目を伏せた。

「私のこと、どう思う?」

「どうって」

 鋼太郎は、百合子の手の感触に戸惑った。百合子は、少し悲しげな顔をする。

「やっぱり、まだ、透君のことが好き?」

 透。山下透。それは、一学期に鋼太郎と百合子のクラスに転入してきた、東京からやってきた物静かな少女。
引っ込み思案で口数が少なく、ガラス細工のような繊細な雰囲気を纏っている。その左腕は、当然、生身だ。

「ゆっこだって、ムラマサ先輩に好きだって言われたんだろ?」

 ムラマサ先輩。村田正弘。三年生の男子生徒。鋼太郎のキャッチボールに付き合ってくれる、気の良い先輩だ。
年上の女性と同居していて、器用で理知的で大人びていてカーブも投げられる。当然、フルサイボーグではない。

「うん。でもね」

 百合子は、笑う。切なげに、それでいて愛おしげに。

「鋼ちゃんじゃなきゃ、ダメなんだ。だけど、鋼ちゃんは私のことは好きじゃないみたいだから」

 だから義理なの、と、百合子は呟いた。

「馬鹿野郎」

 鋼太郎は、百合子に包まれていない方の右手で百合子の頭を小突き、照れ隠しに笑った。

「嫌いなわけ、ねぇだろうが」

 百合子もまた、釣られた様子で笑う。鋼太郎は百合子の髪を撫でたがその手を下げ、丸みのある頬を包んだ。
手のひらに、火照った頬の温度とふっくらとした感触が伝わる。細い顎を指先でなぞると、百合子は目を閉じた。
 鋼太郎は背を曲げ、百合子はかかとを上げ、互いの身長差を埋めた。程なくして、唇に柔らかなものが触れた。
甘い少女の匂い。整髪料の香り。百合子が塗っているリップクリームのほのかな味。それらが、音もなく離れた。
百合子は、頬に添えられた鋼太郎の手に自分の手を添えた。伏せていた目を上げて、鋼太郎を見据えてきた。

「本当に」

 こうだったら、いいのにね。

 その言葉で、世界が崩壊する。手の中にあったバレンタインのプレゼントは、大量の薬に姿を変えてしまった。
百合子の頬に当てた手は機械の手に変わり、百合子の姿は病室のベッドに横たわる、痩せた少女に変わった。
これは単なる理想だ。空想だ。夢想だ。妄想だ。それを知らしめるかのように、百合子の表情は失せていく。
 長かった髪を切った。顔色が青白くなった。体を折り曲げて腹を押さえ、掠れた息を漏らして痛みと闘っている。
見舞いに行くたびに、百合子は弱っていく。握り締めてくる手も力がなくなって、骨と皮ばかりになってしまった。
鋼ちゃん。百合子はもう、そう呼んではくれない。薬で朦朧とした目を虚空に向けて、弱々しく呟くだけだ。
 いたいよ、と。




 通学路が、寂しくなった。
 それは、後ろに百合子がいないからだ。鋼太郎は黙って歩いていたが、時折振り返らずにはいられなかった。
体重の軽い足音と、明るい口調の元気なお喋りが聞こえない。そして、鋼ちゃんと呼ばれることもない。
日常が、抉り取られている。百合子の存在を抜かしただけで色彩が失せ、登校時間が恐ろしく退屈になった。
 鋼太郎は立ち止まり、頭を振った。百合子は必ず戻ってくる。それまでの辛抱だ、と自分に言い聞かせる。
けれど、それでは心に空いた穴は埋まらない。せめて見舞いに行きたいが、百合子の容態はかなり悪化した。
そのため、百合子は面会謝絶状態になっていて撫子以外の人間は傍に行けなくなり、見舞いが出来なかった。
だから、近日中にでもフルサイボーグ化手術を行うのだと、百合子の母親である撫子から聞かされている。
それがいつなのかは、教えてもらっていない。百合子は、容態が悪化する前にこんなことを撫子に言ったからだ。
開頭手術をする前に、髪の毛を全部剃られちゃうでしょ。そんなのを誰かに見られちゃうのは嫌なんだもん、と。

「…馬鹿野郎」

 近頃、すっかりそれが口癖になっていた。百合子の頑なな態度に対して文句を言う時に、使ってしまう。

「だから、なんだってんだよ」

 髪を全て剃られるぐらいでどうだというのだ。もう、それぐらいのことでは動じなくなっているというのに。
百合子の体の肉が目に見えて削げてきてしまった時は、多少なりともショックを受けたが慣れてしまった。
それどころか、それも百合子なのだと思えるようになった。百合子が鋼太郎を受け入れたのだから、当然だ。
生身の頃の鋼太郎とは似ても似つかぬ形相となった鋼太郎に、百合子は、何の躊躇いもなく接してきてくれた。
だから、同じことをしてやっているまでだ。それを今更、気にしてほしくはない。鋼太郎は、また歩き出した。
だが、すぐに立ち止まった。橋を渡りきった先にあるカーブミラー。そこに映っているのは、鋼太郎一人だった。
 今朝見た夢では、その中には生身の鋼太郎と十四歳の少女らしい体格となった百合子が並んで映っていた。
あの夢は、もう何度も見ている。決まって、百合子とキスをして終わる。甘く優しい味が、口元に残っている。
鋼太郎は、マスクに触れた。百合子の容態が悪化する前に、たった一度だけ自分から百合子にキスをした。
百合子がフルサイボーグ化してしまう前に、もう一度だけ、生身の百合子を味わっておきたかったからだ。
 あの夢の中の百合子は、本来あるべき姿に成長した百合子であり、鋼太郎もまた本来あるべき姿をしている。
そうなるものだと思っていた、そうならないわけがないと疑いもしなかった、幼い頃の想像の中の世界だ。
 しかし、現実は違う。ずっとあるとばかり思っていたものは次から次へと崩壊し、呆気なく零れ落ちていく。
だがせめて、最後の一片は手の中に残しておきたい。鋼太郎は足を早めたが、中学校に行く気はなかった。
使命感にも似た、強烈な衝動に背を押される。このまま何もせずにいたら、きっと後悔ばかりしてしまう。
今日は学校を休もう。そして、百合子の病室へ行こう。言えるだけのことを言ってから、送り出してやろう。
 手術室の中へ。




 一ヶ谷市立病院。特殊外科病棟。三一三号室。
 何度も訪れた見慣れた病室の表札からは、名札が抜かれていた。白金百合子様、という名前がなくなっている。
病室の引き戸を開けてみると、病室の中は片付けられていた。百合子のいた痕跡が、どこにも見当たらなかった。
ベッドにはぴんと糊の効いたシーツが張られ、棚の中は空っぽで、大量の計器も点滴のスタンドも、何もない。
 鋼太郎は、膝が笑ってしまいそうだった。何かの間違いだよな、と呆然として突っ立っていると声を掛けられた。

「鋼太郎君?」

 振り返ると、そこには撫子がいた。

「学校、どうしたの?」

「ゆっこは」

 鋼太郎が声を震わせると、撫子は眉を下げた。小綺麗な服装が乱れていて、顔色も青ざめている。

「百合は、昨日、手術室に入ったの。ここ二三日は落ち着いていたから、三月まで頑張れるかなって思っていたんだけど、急に悪くなっちゃって。だから、手術の日程を前倒ししたの。施術は昨日の夜七時過ぎから始めたんだけど、まだ終わっていないの。先生から説明されたけど、もう三四時間ぐらいは掛かるそうよ。百合の神経は他の人よりもずっと細いから、結合に時間が掛かっているらしいのよ」

「そう、ですか…」

 良かった。百合子は死んでいない。安堵感で崩れ落ちそうになった鋼太郎は、壁に寄り掛かって体を支えた。

「ごめんなさいね。何も知らせないで。でも、百合が、そう言ったのよ」

 撫子は鋼太郎の心を支えるように、肩に手を添えた。

「皆には言わないで、って。ちゃんと元気になってから会いたい、って。出来れば、お見舞いにも来て欲しくなかったんですって。弱っていく体を見られるのが恥ずかしいから、情けないからって。あの子も、結構気が強いから」

「手術室は、どこですか」

 鋼太郎の言葉に、撫子は嬉しそうに微笑んだ。

「あの子の傍に、いてくれるのね」

「オレには、それぐらいしか」

 彼女の目が覚めるのを、待つしかない。鋼太郎は歯痒くてたまらなかったが、それ以外には何も出来ない。
サイボーグ化する、ということがどういうことなのか、去年の十月から今日までの間に鋼太郎は思い知ってきた。
世界が変わる。当たり前だと思っていたことがとても大事だと知って、普通だと思っていたことが特別だと知る。
生身の体の素晴らしさを理解し、五感のある世界がどれだけ色鮮やかであるかを痛感し、世間の冷たさを知る。
自分自身の体の冷たさを、そして、現実に生きていることが奇跡であることを、何よりも強く味わうことになる。
 何が出来るだろう。何を返してやれるだろう。今まで、鋼太郎は、百合子を支えていたとばかり思っていた。
けれど、それは逆だ。百合子がいるから下手くそな野球も誇らしく思えて、百合子がいるから日常が楽しかった。
一度は、いなくてもいいとすら思った。傍にいられるのが照れくさくて、鬱陶しくて、無性に恥ずかしかったからだ。
だが、もうそうは思わない。慕われることは誇らしい。好かれることは嬉しい。だから、百合子のことが好きだ。

「百合は、三階の手術室にいるわ」

 撫子はバッグの中を探ると、ラッピングされた長方形の平たい箱を取り出し、鋼太郎に差し出した。

「それと、これ。百合から」

 Happy Valentine。百合子の字で書かれた、ハート型のメッセージカードがリボンの間に挟まっている。

「今日、バレンタインでしょ?」

 撫子は鋼太郎に、平べったい箱を握らせた。サイズから察するに、市販の板チョコレートが入っているようだ。
ひっくり返してみると裏側には、黒のサインペンで、包装紙の幅一杯に力の入った字が書いてあった。義理。
その文字の大きさと強さに、鋼太郎はちょっと笑ってしまった。下らないことに、いちいち意地を張っている。
来年は、この文字を本命に変えてやろう。そう思いながら、鋼太郎はコートのポケットにチョコレートを入れた。
 早く、彼女の傍に行かなければ。





 


07 1/23