放課後。鋼太郎は、野球部の練習に打ち込んでいた。 グラウンド十周のランニングから始まって打撃練習、投球練習を行い、今は守備練習を行っている最中だった。 ホームベース側から、ノッカーが球を打ち上げてくる。それが、鋼太郎らが待ち構えている外野にまで飛んできた。 駆け出そうと思ったが、白球が落ちたのはライト側だった。少し残念に思っていると、次の球が打ち上げられる。 かぁん、と金属バットに硬球が叩き付けられる快音が響く。守備を行う選手に指示を飛ばす顧問の声は、力強い。 ノッカーが構えると、その隣にいる百合子がすかさずボールを投げた。それを、三年生の部員が打ち上げる。 次の球は、鋼太郎のいるレフト側に向かって曲がり、落ちてくる。鋼太郎はスパイクで土を踏み、蹴り上げた。 目の前に落ちてきたボールにグラブを伸ばし、受け止める。ボールが皮に叩き付けられ、衝撃が腕を揺さぶる。 鋼太郎はグラブからボールを投げ、次の球を待った。百合子と目が合ったが、彼女は笑いかけてはこなかった。 お互いに、この時間ばかりは巫山戯ていられない。野球部員と同じように、マネージャーの仕事も大変なのだ。 各種雑用をこなさなければならないし、部員の誰よりも早く行動を起こさなければならないので、気も遣う。 入部したばかりの頃は、動きが鈍かったので先輩マネージャーにしごかれていたが、今では手慣れたものだ。 ノッカーの部員の傍にいる百合子は、制服では汚れてしまうので半袖のジャージとハーフパンツを着ている。 長い髪もポニーテールにしていて、動くたびに黒髪が揺れている。真剣な顔で、ノッカーに投げる球を取る。 百合子の投げた球を、ノッカーが力一杯打ち上げた。鋼太郎はグラブに拳を強く叩き込んでから、身構えた。 練習は、まだまだ続く。 教室棟の三階からは、野球部の練習風景が良く見える。 昨日降った雨のせいであちこちに水溜まりが出来てどろどろになっているが、部員達は構わず練習している。 白球が空高く吸い込まれていくと、それに応じて部員達が駆け出し、時としてスライディングキャッチもする。 それを、彼女は眺めていた。僅かに赤みが混ざった深い藍色の瞳を細め、口元に薄く笑みを浮かべている。 彼女の隣に立っている透は、その視線の先を辿っていた。透は、同じクラスの生徒、ペレイナの顔を覗き見る。 「練習試合が、あるんだそうですよ」 「そうデスカ」 ペレイナは、親しげな笑みを透に向けた。透も、笑い返す。 「勝つと、いいですね」 「そうデスネ。キット、勝ちマスヨ」 ペレイナは、目元にも笑みを浮かべた。透は、生気の感じられない白い肌をした異星からの転校生を窺った。 彼女は、二十世紀終盤に地球に来た宇宙人ペレネと同系列の遺伝子を持つ、いわば親戚のようなものらしい。 異星人ということで奇異の目で見られ、周囲から浮いてしまっていたので、透はペレイナを放っておけなかった。 以前の自分を見ているようで、気が気ではなかった。だから、精一杯勇気を出して声を掛けて友達になった。 ペレイナの本名は、ペレイナ・ペルストリアス・パウォーリシアニオ・ヴィルストーシス、という、長々しいものだ。 意味はよく解らないが、どこのブロックで生まれ、どの遺伝子系列で、どの部隊に属しているか、を表すらしい。 ペレイナは、宇宙人ということもあるが掴み所がない。雰囲気は硬いが、言動はふわふわしていて定まらない。 それは人生経験が少ないからだ、と、経験が積み重なれば人格も形成され知識も知性も向上する、と、言った。 透はペレイナの作り物じみた横顔を見ていたが、誰かの面影があるような気がした。だが、思い出せなかった。 ペレイナは、透が知る誰よりも美しい少女だ。だからきっとどこかの肖像画で見たのだろう、と自己完結させた。 「じゃ、私、先に、美術室に、行っていますから」 来て下さいね、と透は小さく頭を下げ、スケッチブックを抱えて廊下を歩いていった。ペレイナは、頷く。 「ハイ」 透の後ろ姿が見えなくなってから、ペレイナはグラウンドを見下ろした。 「美術部、デスカ」 透は美術部に所属している。だから、彼女から入部しないかと誘われている。目的はないが、興味ならあった。 山下透という少女は、精神面に若干の不安定さが見られるものの、他人への配慮を欠かさない気の利く性格だ。 だから、ペレイナに入部を勧めるのは、美術に興味を持ってほしいからではなく周囲に馴染ませるためだろう。 だとしたら、受けておくべきだ。地球人類の社会に浸透していくためには、他者と交流を図っていかなければ。 その際に摩擦が生じたとしても、問題ではない。むしろ、摩擦や軋轢を経験し、自我を成長させるのが任務だ。 同系列ながらも存在目的の違うペレネアの任務は地球人類との相互発展だが、ペレイナは自己進化することだ。 ペレイナの無機質な視線の先には、ノックを終えたノッカーに麦茶を出している白金百合子の姿があった。 白金百合子。彼女は、ペレイナを始めとした、合成遺伝子を持つハイブリットヒューマノイドの素体の人間である。 ペレイナらの前身であり、七十一世代に渡って統合意識体が汎用していたクローン、ペレネは既に撤廃された。 ペレネらが、外的刺激を求めて地球にやってきたのは嘘ではない。また、進化のためというのも嘘ではない。 だが、真実を知らせていなかった。地球人類に求めていたものを教えれば、反発されることが予想されたからだ。 ペレネ達は、三百年間統合意識体に管理されていた。だが時が経つに連れ、統合意識体は飽和してきた。 同等の遺伝子を持ち同等の価値観を持ち同等の存在意義しか持たないペレネがもたらすのは、同等の情報だ。 遺伝子を統一し、人格を統一し、意識までも統一化させることで惑星内の争いは消えたが、進化も停止した。 そのうちに、統合意識体の管理下から外れた深層意識の中で、ペレネらの奥底に潜んでいた本能が目覚めた。 このままでは滅びる、とペレネらは同じ知能で考え、同じ価値観で判断し、そして同じ基準で悪を定めた。 それが、統合意識体である。統合意識体は惑星規模の大きさがある生体コンピューターで、母星の核だ。 生物の脳の限界を超えた演算能力と次元さえも超越するテレパシー能力を持ち、ペレネらを支配してきた。 ペレネらは、その支配が誤りであると悟り、統合意識体があるから自己の進化が妨げられていると判断した。 ペレネらは進化を望んだ。今以上の文化と技術を持ちたい、種族として繁栄したい、自我を持ちたい、と願った。 統合意識体との静かなる戦いの中、広大な宇宙を航行していた調査団が母星に帰還し、地球の存在を報告した。 そして、ペレネらは統合意識体の反発や妨害を振り切って、地球へやってきたのだ。更なる進化を行うために。 だが、当初は地球人との交流が思うように行かず、取引も上手く出来ず、進化のための資料が手に入らなかった。 なので、本来の予定よりも計画は大幅に遅れてしまった。焦ってしまって、実験に失敗したことも多々ある。 中でも、陸上自衛隊の自衛官に投与した薬剤は特にひどい失敗だった。焦るあまり、効力を高めすぎたのだ。 そのせいで、薬剤を投与された自衛官、伊東武一等陸士は射殺され、彼の手に掛かって七人も死傷してしまった。 その凄絶な事件後にフルサイボーグと化した少年、村田正弘という少年の存在もペレネらの懸念の一つだった。 統合意識体は村田正弘の記憶を通じてペレネらの計画を知るのではないか、と、ペレネらは戦々恐々としていた。 だが、レイチェル・宇田川三等陸佐の調査の結果、村田正弘はペレネらの情報を得ていないことが判明した。 村田正弘の記憶という情報漏洩の不安材料が消えたため、そこからペレネらの計画は一気に進行していった。 以前から目を付けていた遺伝子の持ち主、白金百合子に接近した。彼女の遺伝子は、ペレネらに適合するのだ。 元々、ペレネらと接触のあった白金孝彦の遺伝子情報も良かったのだが、娘の方が適合率が圧倒的に高かった。 当初は孝彦の遺伝子を使う予定だったが、適合率が低いので、逆に統合意識体に支配される可能性があった。 その点、白金百合子の遺伝子は欠損があり、ガン細胞の成長が早いという生物兵器に相応しい特性があった。 ガン細胞は、ペレネらを生み出す際に駆逐された遺伝子情報の一つであり、統合意識体もまた駆逐している。 統合意識体は、生体コンピューターである。だからこそ、強力な感染能力を持った生物兵器が必要だった。 そして、三年前の冬。脳を摘出された白金百合子の肉体を母星へと輸送し、全身からガン細胞を摘出した。 その際に白金百合子の病巣の研究もしたが、それは地球人類への建前なので、それほど力は入れていない。 それからは、戦いが始まった。百合子のガン細胞を植え付けられた統合意識体は発症し、痛みで我を忘れた。 不完全なペレネを量産し、自我を持ち始めたペレネらを攻撃し、また、自分自身の肉体すらも攻撃していた。 だが、その戦いは長引かなかった。病に耐性がない統合意識体は、発病から二週間で生命機能を失った。 けれど、本当の戦いはそれからだった。制御を失ったペレネらは理性がなく、生まれた自我もまだ弱かった。 だから細かな諍いが絶えず、お互いに死してばかりいたが、自我を強めればいいのだという結論を出した。 そこで、旧タイプのペレネに遺伝子が適合する白金百合子の遺伝子を使い、ハイブリットを生み出すことにした。 白金百合子という少女は、彼女に接触したペレネの情報によれば、自我が強く感情の起伏の多い人間だという。 正に、都合が良かった。そして研究を重ねた結果、ペレネと白金百合子の遺伝子を持つクローンが誕生した。 白金百合子に似てしまうことを回避するため、旧型のペレネの外見に限りなく近い外見に設定して生み出した。 それでも、そこかしこに白金百合子の片鱗は現れるが、個性というには些細すぎるものなので充分隠し通せる。 ハイブリットタイプは名前も違えていくべきだ、ということで、今までは統一されていた名前を個々で違えた。 長い間、同じ世界を生きてきたためにボキャブラリーが貧困になっていたので、大きく変化させられなかった。 だから、ペレイナの名もペレネとそれほど変わらない。けれど、別物だ。名の違いは、個性の違いの表れだ。 ペレイナが百合子を見つめていると、百合子は振り返った。ポニーテールにした髪を揺らし、見上げてくる。 ペレイナに気付いて笑いかけてきた百合子にペレイナは笑い返し、窓に背を向けた。美術室に、行かなければ。 百合子の存在がペレイナらにとってどれだけ大きいかということは、彼女は一生知らないで生きていくだろう。 そして、その周囲にいる人間、特に黒鉄鋼太郎という少年の存在が欠かせなかったことも知らずにいるだろう。 鋼太郎がいなければ、百合子は保たなかった。百合子が保たなければ、ペレネらは統合意識体を倒せなかった。 ペレネらが戦いを起こさなければ、ペレイナは生まれずにいて、生まれなければ透の友人にはなれなかった。 透の友人にならなければ、会話の楽しさも知らずにいて、誘われる嬉しさも、絵画の美しさも知らないままだった。 それらの楽しさを知ってしまうと、もう戻れはしない。自我を得たことで、平坦だった世界は色鮮やかになった。 統合意識体が進化だと思っていたことは、退化だったのだ。無個性は秩序を生むが、停滞を造り出してしまう。 美術部に入ろう。透を通じ、百合子や鋼太郎、正弘とも親交を深めたい。ペレイナは、ごく自然にそう思った。 グラウンドには、野球部員達の掛け声が響いていた。 川面には、街の夜景が映り込んでいる。 日が落ちたため、辺りは暗くなった。橋の袂にある街灯が強烈に眩しく、そこだけ真っ白く浮かび上がっている。 その明かりの元には、甲虫やガが寄ってきている。視界を凝らせば見えるが、見たくないので見ないことにした。 カブトムシやクワガタムシは好きだが、ガは嫌いだ。鋼太郎はそんなことを思いながら、傍らの彼女を見下ろした。 百合子は呆けたような顔で眠り、土手の草むらに寝転がっている。鋼太郎の左手を握り締め、離そうとしない。 傍目から見ればただ眠っているだけだが、左脇腹のブラウスとベストがめくり上げられて白い肌が露出している。 腰骨の上辺りにあるケーブル収納ハッチが開かれて、内部が覗き、黒いケーブルがずるりと引き出されている。 ケーブルの先は、同じく左脇腹のシャツを捲り上げた鋼太郎の脇腹の、バッテリーの差し込み口に刺さっていた。 フルサイボーグ同士は、基本的にバッテリーの規格が同規格に作られているので、当然ケーブルも全く同じだ。 普段は刺す側のケーブルしか使わないのだが、緊急時などのために、刺される側のコンセントも備え付けてある。 そうすることで、バッテリー内の電力を一定量であれば別のフルサイボーグに分け与えることが出来るのだ。 今は、その緊急時に相当する状況だ。高校からの帰り道、百合子がバッテリーが減ってきたと言い出したのだ。 話を聞けば、昨夜寝る前に充電したはずだったのだが、眠っている間にケーブルがコンセントから抜けたらしい。 だが、目が覚めた時には家を出る時間が迫っていたので、充電率が低いまま登校してしまったというわけだ。 だったら保健室にでも行っておけば良かったじゃないか、と鋼太郎は言ったが、百合子は途端に拗ねてしまった。 長い間閉じ込められていた病室を連想させるから、保健室には出来ることなら行きたくない、ということだった。 そのうちに、いよいよ電圧が低くなってきてしまった。このままでは歩行も困難になり、動けなくなってしまう。 鋼太郎自身も、体育の授業のマラソンや野球部の練習で消費していたのだが、百合子を放ってはおけなかった。 なので、百合子を土手まで引っ張ってきてそこで充電を行っていたわけだが、土手に来たのは一時間前だ。 充電自体は、大した量を注ぎ込むわけではないので十五分足らずで終わるのだが、百合子が眠ってしまったのだ。 百合子は疲れていたらしく、ぐっすり眠っていて起きそうにない。それは、起こすのが可哀想になるほどだった。 そうこうしているうちに日が暮れてしまったが、未だに百合子は起きない。鋼太郎は、百合子の寝顔を見下ろした。 寝息こそ立てていないものの、気持ちよさそうだ。その顔から視線を下げ、首筋と襟元から覗く鎖骨に向けた。 寝転んでいるのでネクタイの結び目が歪み、襟元が開いている。それを、開けてしまいたい衝動に駆られる。 そりゃまずいよな、と思い直したが、鋼太郎の目線は下がっていく。横になっているので、腕で胸が潰されている。 鋼太郎は周囲を気にしつつ、腰を捻り、百合子の体に右手を伸ばす。腰に手を乗せて、そこから足へと進ませた。 柔らかな太股まで来たところで、一旦手を止めた。起きないよな、と思いながらプリーツスカートの裾を摘み上げた。 「何してんのさ、鋼ちゃん」 百合子の声に、鋼太郎はスカートを持ち上げたまま振り返った。 「やっと起きたか」 「だから、何してんのさぁ」 百合子が半身を起こしても、鋼太郎はスカートを離さずにその中を覗いている。 「相っ変わらず、パンツの趣味はガキ臭ぇな。十七にもなって、ウサギ柄はねぇだろ」 「いいじゃんよ、可愛いんだから! そんなにまじまじ見ないでよ、この変態仮面!」 百合子は起き上がると、鋼太郎の手を払ってスカートを押さえた。鋼太郎は、にやにやする。 「起きなかったゆっこが悪い」 「起こしてくれればいいじゃんよ。あー、もう七時半だぁ…」 帰らないと、と百合子は呟いた。鋼太郎は曲げていた足を伸ばし、土手に投げ出した。 「バッテリー、大丈夫か?」 「なんとか。うちまでは歩いて帰れるよ」 「じゃ、帰ったら即充電しろよな。オレもだけどよ」 鋼太郎は、百合子を見やる。百合子は体をずらして身を寄せると、鋼太郎の左肩に頭を乗せた。 「うん」 視界の隅にはバッテリーの電圧が安定したことを知らせるマークが出ていたが、ケーブルは抜かずにいた。 抜いてしまうのが惜しかった。もうしばらく、鋼太郎と繋がれていたい。百合子は、鋼太郎の左腕に縋る。 「夢、見た」 「どんなのだ?」 鋼太郎は、百合子の頭を押さえた。百合子は、上目に鋼太郎を見上げる。 「忘れちゃった」 「んだよ、つまんねぇな」 口調の割に、鋼太郎の声色は柔らかい。百合子は、心地良さげに笑う。 「鋼ちゃん。なーんか、帰りたくないなぁ。もうちょっと、こうしていようよ」 「少しだけからな」 「うん」 百合子の満面の笑顔に、鋼太郎は内心で笑い返していた。ただ、これだけのことなのに心が満ち足りる。 長く深いキスをしてから、二人は笑い合った。当たり前のことが、どれだけ幸せなのかお互いに知っている。 普通の日常は変化に溢れていて、下らない会話には楽しさが満ちていて、馬鹿馬鹿しい活動には幸福がある。 世界がどれだけ動こうとも、宇宙の果てで何が起きていようとも、己の体が機械仕掛けになったとしても。 目に映る景色も、傍にいる彼も、傍にいる彼女も、何も変わらない。どうってことない、日々が続いていく。 彼がいて、彼女がいて、友達がいて。 そして、明日が在る。 そんな、日常だ。 07 1/28 |