数日後。鋼太郎は、朝靄の中を歩いていた。 恐怖心は消えていないが、それをなんとか誤魔化しながら一週間を終えた。今日は、日曜日の早朝だ。 橋の細い歩道は薄暗く、朝靄に覆われて先が良く見えない。時折、ライトを点灯させた車が通り過ぎていく。 あれから、体裁を取り繕っていた。出来る限り普段通りに皆と接していたが、自分でも無理があったと思う。 何の前触れもなくフラッシュバックする事故の光景に、何度となく苦しめられた。鉄錆の味も、決して消えない。 悩みに悩んで、鋼太郎は結論を出した。逃れることなど無理なのだから、開き直って向き合ってしまえ、と。 スニーカーの靴底が砂を踏み、膝が軋みを上げる。周囲から音が減ると、より明確に駆動音が感じられる。 潤滑油を注したジョイントが擦れ合い、シリンダーが上下し、人間では有り得ない重さの足音が繰り返される。 百合子と二人で歩いていると短く思える橋も、一人で黙って歩いていると、やけに長いような気がしてしまう。 昇り始めた朝日が、霧を抜けて差し込んできた。昼間に比べると頼りない光が、古びた街灯を包んでいる。 橋と地面を繋げている、巨大な動物の歯にも似たジョイントを踏んで渡り切った。川から、湿った風が昇る。 その風が、朝靄を晴らした。全ての色をぼやけさせていた水蒸気の障壁が失せると、それが目に入ってきた。 鋭くも温かい朝日を受けている白いガードレールは、塗装が剥げた銀色の部分がぎらついた光を放っていた。 へこみは、思っていたよりも大きくはなかった。乗用車のフロントが、突っ込んだだけだったからだろう。 ガードレールの前には、未だにブレーキ痕が残っていた。アスファルトよりも黒い線が、二本伸びていた。 ブレーキ痕を辿った先にはガードレールの支柱があり、支柱の下には枯れた花束と供え物が置かれていた。 花束は二つある。菊の花がメインのものと、事故現場にあまり似つかわしくないミニバラのものだった。 砂と雨水で汚れた缶コーヒーが、静かに佇んでいた。置かれてから、それなりに時間が過ぎているようだ。 車が来ないことを確かめてから、鋼太郎は道路を渡ってガードレールの傍にやってくると、足を止めた。 屈み込んで、ジャージを着た膝を濡れたアスファルトに付ける。静寂の中、鋼太郎は漠然と考えていた。 これで、どうにかなるわけではない。ただ、事故現場をまともに見たというだけで、それ以外は変わらない。 恐怖心も、畏怖も、空虚感もそのままだ。鋼太郎は腰を上げて立ち上がると、ガードレールに寄り掛かった。 正弘の仕草を真似て、ジャージのポケットに両手を突っ込んでみた。空を見上げてみても、真っ白なままだ。 死んだ自分。死んでいない自分。そのどちらが本当なのか。どちらも本当だが、どちらも不可解なものだ。 定められそうで、定まらない。今の自分を真っ向から見ていると思っても、どこかで目を逸らしてしまう。 現に、今の今まで自分が死んだ場所を見ようとしなかった。つまり、肉体が死んだことを認めたくなかった。 実質的には死んでいなくても、肉体のほとんどが滅んでしまったのだから、鋼太郎にしてみれば死なのだ。 今生きている自分は、脳髄だけで生き物とは言い難い。機械の力で、生かされているだけに過ぎない存在だ。 それが、不自然でないわけがない。それを感じたくなかったから、自分の死を認めたくなかったのかもしれない。 自由に出来る体があることは、嬉しい。以前に比べれば格段に力も機能も増えていて、使い勝手は大分良い。 だが、最後の部分で受け入れられない。サイボーグボディが自分だと認めるのは、過去の自分に悪い気がする。 まるで、生身の自分を否定してしまうような、そんな気分になる。代用品は代用品で、本物ではないのだから。 ガードレールの先、坂の入り口に設置されているカーブミラーが日光を反射しているのが、視界の隅に入った。 反射的にそちらに目をやると、凸型に歪んだ薄汚れた鏡に姿が映っていた。冴えないジャージを着ている。 無機質なマスクフェイスにゴーグル、緊急救難信号を発するためのアンテナが付いた耳元、銀色の太い首筋。 この体は、ロボットにしか見えない。どこからどう見ても、黒鉄鋼太郎という少年の面影は残っていなかった。 ふと、聴覚が聞き慣れた足音を拾った。橋の方に向くと、春物のコートを着込んだ百合子がなぜかいた。 「何してんだ、お前」 思い掛けないことに戸惑いながらも鋼太郎が声を掛けると、百合子も目を丸くした。 「鋼ちゃんこそ」 「オレは…なんでもねぇよ」 鋼太郎が答えを濁すと、百合子は朗らかに笑った。 「私は散歩。それだけ」 「なんで、こんな朝っぱらに」 「目が覚めちゃったから」 百合子は、あっけらかんと答えた。鋼太郎は、その言葉を素直に信じようとしたが、彼女の手元に気付いた。 あまり大きくはないが、花束を手にしている。目が覚めたから散歩に行くというには、少々奇妙な恰好だ。 不可解さを感じながら、鋼太郎は百合子に近付いた。百合子は手にしていた花束を下げ、苦笑いした。 「…なんちゃって」 百合子は鋼太郎の脇を通り過ぎると、枯れた花束を退けて持ってきた花束を横たえ、手を合わせた。 顔を上げて立ち上がった百合子は、寂しげな、それでいてばつの悪そうな顔をして鋼太郎を見上げてきた。 「今日、三日でしょ」 「あ、まぁな」 確かに、今日は五月三日だ。それがどうかしたのか、と鋼太郎が尋ねようとすると百合子は声を沈めた。 「鋼ちゃんの、月命日みたいな日。鋼ちゃんが吹っ飛ばされちゃった日は、去年の十月三日だったから」 「そんなの、オレは覚えてねぇよ」 鋼太郎は、百合子から顔を逸らした。事故に遭った後は五日も意識が戻らず、目が覚めたらこの体だった。 その事実を受け入れたくないという思いと絶望感に苛まれていて、日付など気にするほどの余裕はなかった。 だよね、と百合子は呟いた。鋼太郎が百合子に視線を戻すと、百合子は枯れた花束をビニール袋に入れた。 「私は、良く覚えてる。手術をしたばかりで、入院してたから」 「そうだったな」 「そうなんだよ」 百合子は鋼太郎に返すと、鋼太郎の傍らに寄り掛かった。冷たく硬いガードレールが、背に触れる。 「あの日のことは、一生忘れられないや」 「んで、お前、ずっとこんなことしてたのか?」 鋼太郎は、百合子を見下ろす。百合子が頷くと、肩から長い髪が零れ落ちた。 「うん。退院してすぐにはさすがに出来なかったけど、通学出来るぐらい体力が戻ってきた頃からしてる。ここ、通り道だし。鋼ちゃんが吹っ飛ばされたのがこの辺りだって、お母さんから聞いてたから。だから」 「なんでだ」 「よく、解らない」 百合子の顔が下がると、広い額に髪が数本落ち、薄い影を作った。 「鋼ちゃんは死んだわけじゃないから、こんなことしても無駄なんだけど、でも、なんか、やらずにはいられなくて」 「オレは、死んでいるんだ。それは、間違いねぇ」 鋼太郎は、百合子が供えたばかりの花束を窺った。ミニバラとかすみ草の、可愛らしいものだった。 「でも、生きてはいるんだよな」 バラの白い花びらは朝露に濡れ、うっすらと輝いていた。 「だから、なんか、訳解らなくなっちまってよ」 「そっか。だから、この前から、鋼ちゃんの様子がおかしかったんだ」 心配したんだよ、と百合子がむくれたので、鋼太郎は平謝りした。 「悪ぃ」 「私もね、たまに解らなくなるの」 百合子の小さな手が、鋼太郎の袖をきゅっと掴んだ。 「上手くは言い表せないんだけど、私は私なのか、悩んじゃう時があるの」 「どういう意味だ」 「だから、上手く言えないって言ったじゃん」 国語は苦手なんだよお、と百合子は拗ねてみせたがすぐに表情を戻した。 「私の心臓の内壁には生まれつき穴が開いていたってこと、鋼ちゃんは知っているよね?」 「一応な」 「うん、それでね。私って、これを入れられるまでは、何度も死にかけたんだよね」 百合子は、心臓の位置に手を当てた。ポンプを動かしているモーターの唸りが、手のひらに伝わってくる。 「大きくなったら穴が塞がる人もいるらしいけど、私のは穴が塞がらないって診断されたんだ。だから、手術を何度も繰り返して体をなんとか持たせて、一番小さい人造心臓を埋め込めるぐらいに成長した頃に、サイボーグ化手術をされたってわけだ。もう十年前に生まれていたら、私はとっくに死んでいたんだって。それぐらい、私の心臓はダメだったってわけ」 穏やかながら、確かな言葉が続く。 「だから、時々思うの。ここにいる私は、十年前に死んでいたはずの私が夢見た、別の私なんじゃないかって」 百合子は、とん、とショートブーツのかかとをアスファルトに当てる。 「馬鹿みたいな考えだと思うでしょ。でも、そう思っちゃうの。だから、ここにいる私は本当は死んでいて、鋼ちゃんに会っているわけなんかなくって、とっくの昔に灰と骨になっちゃってお墓の中にいるんじゃないかって。でも、私はここにいるでしょ? 鋼ちゃんに会って、ムラマサ先輩と透君とも会って、結構元気に生きている。その死んだ方の私がいるとしたら、どんな私だったか私は解らないし知っているはずもないんだけど、もしもいるとしたら今みたいな未来を願ってたんじゃないかなって。その死んだ方の私がしたかったこととかを今の私がやっているんじゃないかって、私は私の人生をやり直している最中なんじゃないかなって。何度も、何度も。だから、ここにいる私は、その私の中の一つだったりするのかなって、思うんだ」 「言いたいことがよく解らねぇぞ」 百合子の話は抽象的すぎて掴み所がなく、鋼太郎は少々苛立った。百合子は、唇をひん曲げる。 「私だってよく解らないよ。自分で言っておいてなんだけど、ぐちゃぐちゃしててまとまってないし、何をどう言いたいのかさっぱりだし。でも、そう思うんだったら思うんだ!」 「まぁ…オレも、そんな具合だな」 鋼太郎は、百合子に掴まれている袖を振り解かなかった。川面から、朝靄がゆったりと昇ってくる。 「あの時に死んだオレはオレで、ここにいるオレもオレで、だけどオレは本当にオレなのか、よく解らなくなっちまったんだ。死んでいるのか、生きているのかも、なんだか解らなくなっちまってよ。事故の時のことを、思い出しちまったせいもあるんだけどさ。それで、自分が死んだことをちゃんと認めれば、ちったぁすっきりするかなって思ったんだ。今まで、オレはここを見ようとはしなかったからな」 「うん。解るよ、そういうの」 「ムラマサ先輩には無理すんなって言われたけどさ、早いとこなんとかしてぇんだ。オレとしては」 「それも、解る気がするな。でも、鋼ちゃん、あんまり無理しちゃダメだよ。人間の心って、そんなに強くないから」 「だろうぜ」 ここ数日で、鋼太郎はそれを嫌と言うほど思い知った。過ぎ去ったはずの過去は苦しく辛いが、逃れられない。 たまに、気が狂いそうなほど苦しい時もあった。あれがずっと続いてしまうのは、考えただけで心が壊れそうだ。 百合子の忠告は、素直に受けることにした。だが、口に出すのはなんとなく悔しかったので、言わなかった。 二人の住む集落に繋がる橋を通ってきた車が、二人の前で減速すると、左側の下り坂へ入って降りていった。 メタノール燃料の排気が風に混じり、吹き付けた。百合子は乱されてしまった髪を押さえ、きつく目を閉じた。 風が収まってから目を開け、髪を簡単に整えた。鋼太郎の袖から手を離すと、鋼太郎の大きな銀色の手を取った。 不意のことに鋼太郎は驚いたが、百合子の手の感触は伝わってこなかった。この体は、触れたものは感じない。 「帰ろう」 鋼太郎の手を引っ張り、百合子は笑った。鋼太郎は、視界の隅に表示された時刻を読み取った。 「そうだな。七時も近いしな。田植えの手伝いもしなきゃならねぇから、さっさと帰らねぇと」 「鋼ちゃんは使い勝手がいいからねー」 百合子は愉快げにしながら、鋼太郎と共に道路を渡ると橋に向かった。鋼太郎は、百合子の背後を歩く。 「せっかくの連休だってのによー。全く、参っちまうぜ」 「いいじゃん、仕事があるんだから」 「ゆっこはねぇのか、連休の予定とか」 鋼太郎は、ビニール袋を下げて歩く百合子の背に声を掛けた。百合子は振り返り、眉を下げる。 「病院に行くぐらいしかないよ。お母さん、忙しいし。お父さんも、帰ってこられないし」 「そうか」 「うん」 短いやり取りの後、百合子は鋼太郎の太い指を掴んでいた細い指を緩めて外した。鋼太郎も、手を下げた。 百合子の足は相変わらず遅く、歩調は合わない。鋼太郎は仕方なしに、かなり遅い速度で歩いて付いていった。 先程百合子に掴まれた手を上げ、顔の前に出した。使い込んできたので、指の外装の端が磨り減っている。 生きているのか、死んでいるのか、未だに解らない。だが、自己を認識出来ているのだから生きているのだ。 百合子の話ではないが、死んでいたはずの自分が望んだから今の自分がいるのだと思うと、無下には出来ない。 突拍子もない上におかしな話だったが、有り得るかもしれない。そうだとしたら、尚更大事にしていかなければ。 鋼太郎は立ち止まり、振り返った。事故現場では、百合子が供えた花束が缶コーヒーに寄り添っていた。 もう、目は逸らさなかった。 06 10/17 |