非武装田園地帯




第五話 死線




 死して尚、長らえて。


 背後に、小さい足音が続く。
 同時に、明るい話し声もする。取り留めのない話を次から次へと話していて、彼女の口が休む暇はない。
それに適当な相槌を打ちながら、鋼太郎は足を進めていた。錆の浮いた欄干が右側にあり、その下には川面だ。
淀んだ緑色は、鉛色の空を映していて普段以上に色が暗かった。ねっとりと、重たい水が音もなく流れている。
 人一人がやっと歩ける程度の幅しかない狭い歩道に、鋼太郎と百合子は前後に並んで歩き、通学していた。
昨日から重たくたれ込めていた雲は晴れることはなく、朝だというのに、陰鬱で湿った空気が充ち満ちていた。
それを紛らわすかのように、百合子は話を続けている。本当にどうでもいいことを、さも楽しげな口調で。

「待ってよお、鋼ちゃあん」

 話を中断した百合子は、小走りに駆けて鋼太郎の背後に付いた。歩幅が違うので、間が空いてしまう。

「待ってられるか」

 鋼太郎は振り返り、百合子を見下ろした。百合子は、体格に合わない大きさの学校指定カバンを背負っている。
大量の教科書を詰め込めるように充分な幅と大きさがあり、色はブルーの、今時珍しいほど野暮ったいものだ。
 どこからどう見ても格好良くない上に、三年間使えばくたびれてボロボロになってしまうほど耐久性もない。
材質もビニールで、時代遅れ極まりない代物だ。百合子は、反射テープの付いた肩掛けを両手で引っ張った。

「そんなんじゃ、女の子にモテないぞ」

「知るか」

 鋼太郎は乱暴に言い返し、歩調を戻した。こんな姿になってしまっては、女子との恋愛もへったくれもない。
 百合子は鋼太郎の広い背を見上げたが、身を引いた。二三歩遅れながら、鋼太郎の後に付いて歩いていった。
表情は窺えないが、声の端々から気が立っていることが窺える。無理もない、この橋を越えたらあの場所だ。
鋼太郎は、百合子のお喋りが止んだのに気付いたが黙っていた。百合子なりに、気を遣っているのだろう。
 長い橋の先には、坂が繋がっている。右手の方からカーブしている坂が繋がっているが、途中で別れている。
左手の方にも坂があるのだが、それは下っていて、中学校のある方向へと繋がる道、すなわち通学路なのだ。
 その、左手の坂を登り切った場所は、鋼太郎が体を失った場所だった。他の道はないので、回り道も出来ない。
一歩一歩近付くにつれて、鋼太郎はないはずの心臓が縮み上がる思いだった。もう、見たくもない場所だ。
 だから、目を逸らした。




 三時間目頃から降り始めた雨は、昼休みになっても降り続いていた。
 田植えの準備を始めた田んぼに水を行き渡らせ、川の水量を増やしてますます濁らせ、世界を曇らせていた。
廊下の窓を開けてもたれながら、その光景をスコープで捉える。画像補整を行うと、暗さは消えてクリアになる。
だが、不自然だと感じたので元に戻した。鋼太郎はグラウンドを見つめながら、大きく息を吐いて肩を落とした。
 正弘はと言えば、図書室から拝借してきたハードカバーの本を広げ、窓と窓の間にある壁により掛かっていた。

「暇だ…」

 鋼太郎がぼやいたが、正弘は視線も向けなかった。

「オレも暇だ」

「オレらの暇潰しって、雨が降るとダメっすね」

「全くだ」

 正弘は合いの手を入れながらも、視線は活字から離さなかった。横から窺うと、それはファンタジー小説だった。
年季が入っていて、ハードカバーの端が剥けている。大分読み込まれているらしく、ページもへたれている。
 鋼太郎は本のタイトルを見たが、見たことのないものだったので興味も湧かず、その本から視線を外した。
手持ち無沙汰だ。いつもであれば、グラウンドの端でキャッチボールをしているのだが、この雨では無理だ。
体育館に行くのもどうかと思うが、かといって教室にいるのはつまらない。なので二人は、仕方なく廊下にいた。
 だが、やはり何もやることがなかった。鋼太郎は窓の外をぼんやりと眺めていたが、眠くなりそうだった。
授業中は我慢していた眠気が、今になって襲い掛かってきた。頭を支えていた手を外し、腕の中に顔を伏せた。
今なら少しぐらい眠っても大丈夫だろう、と鋼太郎は意識を薄らがせようとしたが、不意に意識が冴え渡った。
 聴覚が拾った激しい音が、脳内に響き渡っている。反射的に体を起こすと、それに気付いた正弘が顔を上げた。

「どうした、鋼」

 鋼太郎は、嫌な緊張に支配されていた。聴覚が感じ取った音が聞こえてきた方向に、じりじりと顔を向けた。
校舎からやや離れた位置にある校門の、前からだった。雨で濡れた道路の路肩には、急停車した車があった。
真っ赤に輝いたブレーキランプが雨水で黒光りするアスファルトを不気味に照らし、ハザードランプが点滅する。
目を凝らすと、車体の後部にブレーキ痕が残っている。スリップしかけたために、急ブレーキを掛けたのだろう。
 音が、光が、記憶を乱暴にかき混ぜる。鋼太郎はずり下がると肩を大きく上下させ、車から目を逸らした。
大丈夫だ、あれは別物だ、怖いものじゃない。鋼太郎は思い直そうとしたが、一度現れた動揺は消えなかった。

「鋼」

 正弘に名を呼ばれ、鋼太郎は目線を足元に落とした。

「…いや、別に」

 正弘は鋼太郎の見ていたものを見やり、察した。

「ああ、そうか。そういえばお前は、車だったな」

 正弘の言葉は聞こえているはずなのに、遠かった。鋼太郎は車との距離を開くべく、窓際から身を引いた。
気のせいかもしれないが、鈍い頭痛がする。恐怖を感じて、最後の生身の部分が早く逃げろと叫んでいる。
感情が乱れてボディの制御が上手く行かなくなったのか、全身が強張ったような感覚があり、動けなかった。
動け、と焦れば焦るほど動かなくなり、吸気と排気だけが荒くなる。恐怖を紛らわすために、叫び出したくなる。

「鋼」

 再び、正弘が鋼太郎を呼んだ。鋼太郎ははっとして、正弘に向く。

「すんません…」

「別に謝られることじゃない。そういうのは、仕方ないことなんだ」

 正弘はカバーの返しをページに挟んでから閉じ、本を脇に抱えてポケットに手を突っ込んだ。彼のクセらしい。

「半年じゃ、まだどうにもならないさ」

「そう、っすね」

 鋼太郎はやや上擦り気味の声で呟き、力を抜いた。廊下の掲示板にもたれると、顔を伏せる。

「いつもは大丈夫だって思うんすけど、まだまだなんすね、オレって」

「時間がどうにかしてくれるさ。オレも、雨は死ぬほど嫌いだ。今でも嫌いだが、昔ほどじゃなくなった」

 正弘の声色は、僅かに震えていた。機械的なノイズとは違う、感情による震えだった。

「オレがこういう体になる切っ掛けが起きた日は、雨が降っていたんだ。その日の記憶はろくに残っちゃいないが、雨が降っていたことだけは良く覚えている。だから、雨は嫌だ」

「なんか、オレ、情けないっすね」

 たかがブレーキ音で、ここまで怯えることもないだろうに。鋼太郎が自嘲すると、正弘が肩を叩いてきた。

「無理はするな」

 はい、と力なく返事をし、鋼太郎は顔を上げた。だが、体を凍り付かせた恐怖は解けず、濃厚に残っていた。
このことは、次の診察の時にでも主治医に言おう。とても情けないとは思ったが、言わなければいけないのだ。
鋼太郎は、退院したとはいえ、サイボーグ化手術を施されてから日が浅く治療は完全に終わってはいない。
肉体面もさることながら、精神面も治療を行い、サイボーグボディと自分自身との距離を狭めるのだと言う。
 鋼太郎は、サイボーグボディに対する嫌悪感は薄らいでいて、それなりに現実を受け入れることが出来ている。
だから、精神面での治療はいらないと思っていたが、あからさまなトラウマが現れたのであれば仕方ない。
気を紛らわそうと、鋼太郎は掲示板から背を外した。窓際に戻って窓枠にもたれかかり、大きな背中を丸める。
 自動車に吹っ飛ばされた時の記憶は、もう消えたのだと思っていた。日常生活の中では、思い出さなかった。
というより、無意識に思い出さないようにしていたのだろう。忌まわしい記憶に蓋をして、鍵を掛けていた。
その状態が続いていればまだ良かったのに、思い出してしまうとは。あのブレーキ音が、とても忌々しい。
 すると、チャイムが鳴り響いた。給食の時間が終わって昼休みが始まったらしく、生徒達のざわめきが聞こえる。
給食室の手前にある階段を歩いてきた生徒達は、言葉を交わしながら、思い思いの方向に歩いていった。
 その中から、百合子が出てきた。セーラー服の上に厚手のカーディガンを羽織り、黒のタイツまで履いている。
百合子の少し後に、下の階から昇ってきた透が近付いてきた。こちらは普段通りに、セーラー服だけだ。

「ゆっこ、また随分と重武装だな」

 百合子の恰好に、正弘が素直な感想を述べた。真冬ならまだしも、春先にタイツを履くのは珍しい。

「だって、今日は寒いから」

 恰好悪いけど、と百合子はちょっと不機嫌そうに眉を吊り上げた。透は、体の前で手を組む。

「今日は雨が降ってますからね」

「雨さえ降って来なきゃ、外で鋼とやりあってたはずなんだけどな」

 正弘はさも残念そうに、肩を竦めた。百合子は、珍しく黙っている鋼太郎を見上げる。

「鋼ちゃん、どうしたの?」

「なんでもねぇ」

 鋼太郎は百合子に振り返りもせず、呟いた。百合子が鋼太郎の広い背に手を伸ばそうとすると、正弘が制した。
百合子は不可解げにしたが、正弘が首を横に振ったので素直に引き下がった。透は、心配そうな顔をする。

「あ、あの」

 透が正弘に尋ねようとすると、正弘は透を遮るように鋼太郎に言った。

「鋼。オレ達はいない方がいいか?」

「すんません」

 絞り出すように漏らし、鋼太郎は顔を伏せた。百合子はその声の弱さに、不安になる。

「鋼ちゃん」

「だから、なんでもねぇ」

 鋼太郎は百合子を一瞥して、歩き出した。駆動系に異常は起きていないのに、足がいやに重く、歩きづらい。
傍にいてほしいような気もしたが、いてほしくないような気もしていた。だから、自分から離れることにした。
 三人には、変な迷惑を掛けたくない。自分一人の問題なのだから、自分だけでどうにかしてしまわなければ。
追い縋ろうとする百合子の声が聞こえた気がしたが、聞こえなかったことにして、鋼太郎は鈍く歩いた。
 どこへ向かおうかなど、考えていなかった。誰もいないところへ、と思いながら階段を延々と昇っていった。
その結果、辿り着いたのは屋上の入り口だった。以前は正弘が入り浸っていて、鍵を開けて屋上に出ていた。
だが、今は鍵は閉ざされていて、誰も屋上へは出ない。コンクリートで出来た、箱に良く似ている狭い空間だ。
磨りガラスの填った扉の手前に腰を下ろし、金属製の扉に背を預ける。さぞ冷たいだろうが、感じられない。
 目を閉じる、つもりで視覚を遮断する。視覚用カメラ、センサー、オフ、との電子音声が頭の中に聞こえた。
聴覚は残しているので音は聞こえるが、鋼太郎の意識は、一切の光がない暗黒の世界の内に沈んでいった。
 雨音。足音。話し声。取り留めのない音が暗闇の中に広がっては消え、消えては広がり、途絶えることはない。
暗闇。夜。あの日の夜。ハイビームの光。ブレーキ音。運転手の顔。浮かび上がった体。簡単に砕かれた肉体。
鉄錆の味。生温い味。落ちる意識。薄らぐ意識。失せる体温。死ぬ感覚。鋼太郎は、ぐっと腕を握り締めた。
 不快感を伴った寒気が、全身を襲ったような錯覚に陥る。死んだはずだ、とっくに死んでいるんだ、自分は。
なのに、ここにいる。その違和感だけが増大し、目眩すら起きそうになる。自分というものが、解らなくなる。
自分が死んだ場所が、不意に蘇る。塞いだはずの視界一杯に、歪んだガードレールとブレーキ痕が現れた。

「…ぅっ」

 たまらず、頭を抱えて仰け反ってしまった。あれは見ていないはずなのに、見ないようにしているのに、なのに。
震えが起きそうになる。泣き出したくなる。だが、涙は出ない。出てくるのは、かなり乱れている唸りだけだ。
声にならない声を零しながら、鋼太郎は頭を力一杯抱えた。聴覚も切断して感覚は遮断したが、まだ見える。
 点滅するハザードランプ、ぐちゃぐちゃに壊れたマウンテンバイク、血飛沫の散った英和辞典、黒い水溜まり。
一度決壊した記憶は、止めどなく溢れ出る。荒れ狂う水のように押し寄せてくるあの日の記憶が、心を押し潰す。
 このままではいけない。鋼太郎は急いで視覚と聴覚を元に戻すと、頭を押さえ込んでいた手を緩めて外した。
太い腕をだらりと両脇に垂らし、小さく肩を震わせる。泣き出したいほど苦しいのに、涙は一滴も出てこない。
鋼太郎は身を傾げて、雨音の聞こえてくる扉にごつっと頭を当てた。金属と金属がぶつかり、硬い音を立てる。

「畜生」

 発声用スピーカーから出た声は、自分のものとは思えないほど弱っていた。

「ずっと忘れたままだったら、良かったのによ…」

 死んだという自覚が湧けば湧くほど、サイボーグボディを動かすこととは違った方向の違和感が生まれ出る。
どうしようもないくらい怖いような、とてつもなく寂しいような、恐ろしいくらい切ないような、気分になってくる。
ここにいるのが誰なのか、自分を認識しているものは何なのか、それすらも解らなくなりそうなほど混乱してくる。
 鋼太郎は、泣きたいと思った。涙さえ出れば、ほんの少しはこの苦しさが和らいでくれるような気がしたからだ。
 だが、出ないものは、出なかった。





 


06 10/15