非武装田園地帯




第七話 透、小さな冒険



 行き着いた先で、透は再び絵を描いていた。
 先程と同じように折り畳み式の椅子に座り、スケッチブックを広げて、色鉛筆を取り出してデッサンをしている。
だが、一枚を入念に描いていた先程とは違い、勢い良く描いては画用紙を捲り、新しい絵を何枚も描いていた。
 鋼太郎は、それを横から見ていた。自転車を路肩に止めて、歩道と車道の合間にあるブロックに腰掛けていた。
二人がやってきたのは、鋼太郎と百合子の住む集落の奧にある小高い山の上で、県道の通っている場所だった。
 歩道に並んで座っているので、背後の車道を車が勢い良く走り抜け、そのたびに透の短い髪が揺さぶられた。
だが、透はそれを気にすることもなく、ひたすら絵を描いていた。喉が渇くのか、時折麦茶を飲んでいる。
 鋼太郎は両足を投げ出し、背中を丸めていた。バッテリー残量を確かめ、体がまだ充分に動くことを確認した。
県道の両脇には、長方形に区分された田んぼが広がっていて、左手の田んぼでは大型の田植機が動いている。
人が乗って操縦するタイプのもので、一気に八条も植えている。ああいったものを使っても、やはり手間取る。
苗床は人間が運ばなければならないし、その苗を作るのにも人間の手は欠かせず、機械任せでは作れない。
機械が手出し出来る範疇は、決まっている。どれだけ機械技術が発展しようとも、人間は必要不可欠なものだ。
 鋼太郎は、手を開いて見下ろした。今は、泥の感触や水の冷たさは感じることが出来なくなってしまった。
昔はなんでもなかったことが、今となっては大事に思える。強烈な寂しさが胸を過ぎったが、気を逸らした。
 右手を握り締めてから、足の間に下ろす。空を見上げると、上昇気流に乗って天高く昇ったトビが回っていた。
独特の鳴き声を放ちながら、くるりくるりと円を描いている。視界に意識を向けて拡大すると、良く見えた。
鋼太郎が暇潰しにトビの姿を追っていると、透が大きく息を吐いた。視界を戻してから、彼女に振り向く。

「終わったのか?」

「まぁ、一応は」

 透は、スケッチブックを閉じた。ペンケースに色鉛筆を戻し、右手首に付けた腕時計を見た。

「あ、もう八時半ですか」

 腕時計の文字盤では、細い長針が6を指していた。鋼太郎も、視界の隅の時刻表示を見て確かめる。

「そうだな、もうそんな時間か」

「出る前にちょっと食べてきたけど、さすがにお腹が空きました」

 透は気恥ずかしげにしながら、リュックを探った。弁当箱の入った巾着袋を出すと、弁当箱を取り出した。
蓋を開けると、中には可愛らしい大きさのおにぎりが詰められていた。ご丁寧に、白菜の漬け物が添えてある。

「いりますか? 私が作ったので、味は、あんまり、期待出来ないと、思いますけど」

 透が弁当箱を鋼太郎に差し出すと、鋼太郎は手を伸ばした。

「くれるっつーんなら、喰うけどよ。今日、まだ何も喰ってねぇから、胃の容量も空いてるしな」

「なら、良かったです」

 透は巾着袋の中に入れていたウェットティッシュを取り出すと、右手を丁寧に拭いてから手を合わせた。

「じゃ、頂きます」

「頂きます」

 鋼太郎も、釣られてそう言ってから、マスクを開いて口を出した。そこに、透のおにぎりを押し込んだ。
さすがに一気に入らないので、何度かに分けて入れた。味覚用の人工神経とセンサーが、味を伝えてくれる。
食感は今一つ解らないが、味は塩気が強く、魚と思しきものだった。どうやら、中身は塩鮭だったらしい。

「シャケだ」

「他のは確か、昆布と、梅と、おかかと、たらこだったかな」

 と、透は指折り数えた。鋼太郎は弁当箱の中を覗き込んだが、自分が今食べた物を含めても、五つしかない。

「てぇことは、全部味が違うのか?」

「いけませんか?」

「いけねぇってことはねぇけど、でも、面倒じゃねぇ?」

 鋼太郎が感心混じりに言うと、透はおにぎりの一つを取って囓った。

「全部、味が同じだと、ちょっと、つまらないじゃないですか」

「そりゃそうかもしれねぇけど…」

 でもなぁ、と鋼太郎は透が差し出した麦茶の入ったコップを受け取り、飲用チューブを出してそれを啜った。

「って、こんなのも持ってきてたのかよ!」

 鋼太郎がコップを突き出すと、透は彼の勢いに驚いて、ちょっと身を下げた。

「いっ、いけなくは、ないと、思いますけど」

「…山下」

 鋼太郎は、いやに神妙な声を出した。

「お前さ、間違いなくいい嫁になると思うぞ?」

「そうかなぁ…」

 透ははにかみながら、自分の分の麦茶を飲んだ。

「私の場合は、ただ、怖がりなだけです。外に出れば、何が起きるか、解らないから、何が起きても、いいようにって思って、色々と準備しちゃって、それで必要のないものまで、持って来ちゃって。準備がいいって、言うより、考えすぎなんです。お兄ちゃんにも、よく、そう言われちゃってます」

「無謀なよりはいいと思うぞ」

 鋼太郎は麦茶を一旦口の中に入れて、白米の甘みと塩鮭の塩気を流してから、飲み下した。

「ゆっことは大違いだ。あいつにも、それぐらいの思慮深さがありゃあいいんだけどなぁ」

「そうなんですか?」

 透が問うと、鋼太郎は頷いた。

「そうなんだよ。ゆっこは、体力がねぇことは自分が一番よく解ってるくせに、オレに合わせて遊びたがってよ。絶対に無理だっつってんのに後ろを付いてきて、すぐにへばっちまってよ。オレがゆっこんちまで送っていかなきゃならなかったんだ。そんなことを何度やっても、懲りねぇんだ、これがまた。熱が出て顔色なんて真っ白なのに、鋼ちゃんと遊ぶー、っつって聞かねぇんだよ。馬鹿っつーか、なんつーかだよ」

「羨ましいな」

 透が、小さく呟く。鋼太郎は、怪訝そうにする。

「そうか? べたべた付きまとわれちまうのは、結構面倒なんだぜ?」

「だって、それだけ、好かれているって、ことじゃないですか。それに、黒鉄君も、優しいんだなぁって」

「オレがか?」

「そうじゃないですか。なんだかんだ、言って、ゆっこさんと、遊んでいるんですから」

透は、両手で麦茶の入った水筒のキャップを包んだ。鋼太郎はコップを足元に置くと、腕を組む。

「優しいっつーか…。ただ、構ってやらねぇとびいびい泣くし、泣かせると後味悪ぃから付き合ってただけで…」

「でもやっぱり、そういうのは、いいなぁって、思います」

 麦茶を飲み終えた透は、目線を遠くに投げた。その先には、山並みの奧にそびえる標高の高い山脈があった。
その口調がいやに沈んでいたことが気になったが、鋼太郎はあまり言及せずに、麦茶をずるずると啜った。
 背中には、感触などないはずなのに透の体温が残留しているような気がした。それが、妙に気になった。
百合子や妹の亜留美が相手なら、別に気にならない。というか、そんなことを気にしたことなど一度もない。
 なのに、透が相手だと別だった。接したことのないタイプだからか、それとも知り合ったばかりだからか。
どちらにせよ、やりづらいことには変わりない。むず痒いような、照れくさいような、情けないような気分だった。
 だが、あまり悪いものではなかった。




 そして、昼頃になり、鋼太郎は透を自宅へと送った。
 透は、またもや遠慮したが半ば強引に送り届けた。鋼太郎が丸一日暇だったから、というのも理由だった。
田植えが落ち着いたので、一日くらい休めと両親から言われて休みになったがやることが見当たらなかった。
 そこで、暇潰しと自転車の慣らしを兼ねて外へ出たところで透と会ったので、彼女に付き合ったというわけだ。
理由なんて最初からなく、本当にある種の偶然の結果だ。だが、これもまた悪いものじゃないと感じていた。
 透の家は、町を分断している鮎野川を挟んで東側にある、どちらかと言えば開けている地域の一軒家だった。
新築ではなかったが割と新しく、ガレージには段ボール箱が重なり、引っ越してきたばかりという雰囲気だ。
 この地方特有の、一階がコンクリートのガレージで、上に二階建ての居住スペースがある三階建ての家だ。
壁はややくすんだ薄いグレーで、紺色の屋根には、降り積もった雪を滑落させるために傾斜が付いている。
 ガレージの右手にある階段の先に、玄関があった。鋼太郎の自転車を降りた透は、階段の前で立ち止まった。
鋼太郎に振り返ると、小さく頭を下げた。上げられた顔は、照れくさそうでいてまた嬉しそうでもあった。

「あの」

 透は、華奢な右肩と一緒にやや大きめな左肩も竦め、笑みを零した。

「本当に、今日は、ありがとうございました」

「んー、ああ。んじゃ、明日、また学校で」

 鋼太郎は、自転車のハンドルを動かして漕ぎ出した。透は繋ぎを着た大きな背を見ていたが、意を決した。

「こっ」

 一度詰まったが、透は気力を振り絞って再度声を上げた。



「鋼ちゃん!」



 ぎゅっ、と鋼太郎は力一杯ブレーキを握り締めてつんのめってしまった。がっくん、と体が前に大きく揺れる。
鋼ちゃん。なぜだ、と鋼太郎は狼狽えながら透に振り返ると、透は緊張で表情を固めて真っ赤になっていた。

「あっ」

 透は声を上擦らせながら、顔を伏せる。

「いっ、いけないんだったら、もう、呼びません。でも、あの、その、なんか、そう呼んでみたくて」

 ごめんなさい、ごめんなさい、と透はしきりに謝っている。鋼太郎は自転車から降り、手を横に振る。

「あっ、いや、その、あのな、別にオレも気にはしてねぇけど!」

 透に釣られてしまったのか、鋼太郎までしどろもどろになる。透はメガネの下で、僅かに潤んだ目を上げる。

「あの、でも…ごめんなさい」

「いや…」

 鋼太郎は、がりがりとマスクを指先で引っ掻いた。百合子以外に、そう呼ばれたのは初めてのことだ。
照れくさいやら、やりづらいやら、ちょっとだけ嬉しいような、複雑な心境が鋼太郎の胸中で渦巻いた。
 小さめな耳まで赤らめている透が、視線を逸らしたり戻したりしている様は、なんだか可愛らしく思えた。
照れているのはあちらなのに、その仕草を見ていると、こちらにまで照れが感染してしまいそうだった。
 透はぎこちない動きで階段を登ると玄関の前に立ち、深々と頭を下げた。顔を上げ、ごく小さく言った。

「じゃ、また、明日」

「あ、お、おう」

 鋼太郎が頷くと、透は逃げるように玄関に入ってしまった。扉が閉められてから、鋼太郎はペダルを踏んだ。
前を見ているつもりだったのだが、気が逸れてしまっているらしく、うっかり石垣にぶつかりそうになった。
 姿勢を戻して、集落に戻るために鮎野川に掛けられた橋に向かっていったが、意識は未だに逸れたままだった。
ただ、愛称で呼ばれただけじゃないか。鋼太郎は、心臓があれば痛いほど苦しくなっているのだろうと思った。
それぐらい動揺していた。ペダルを踏み抜かんばかりの勢いで漕ぎ、橋を渡り、車道を抜け、あの坂に向かう。
 長く傾斜のきつい坂を、とにかく登った。動揺や照れの混じった扱いづらい感情を、発散させてしまいたかった。
 そのおかげで、家に帰り着く頃には落ち着きを取り戻していた。




 その日の夕方。透は、まだ緊張していた。
 あんなことを言ってしまって良かったんだろうか、と何度となく後悔していたため、手元が疎かになった。
割ったばかりの卵をボウルに入れ損ね、べちゃっ、と床に落としてしまった。黄身が破れ、白身が崩れる。
 透はそれに気付き、慌てて布巾を取った。どろどろとした生卵を拭っていると、リビングから兄がやってきた。

「何やってんだ、透」

「ごめんなさい」

 透は、床を何度も拭いた。不意に、亘は表情を固める。

「出かけていた間に、何かあったのか?」

「違うの、そうじゃないの、えっと、なんて言えばいいのかな」

 白身と黄身を拭い取ってべたべたになった布巾をシンクに置き、透は亘を見上げる。

「ちょっと、友達と、会ったから」

「でも、オレは気が気じゃなかったぞ」

 亘はキッチンに入ってくると、透に近付いた。

「十時ぐらいには戻るって言ってたくせに、戻ってきたのは昼過ぎだったんだから。心配したんだぞ」

「連絡、入れ損ねちゃって」

「まぁ、ちゃんと戻ってきてくれたから、いいけどさ」

 亘は固めていた表情を解き、綻ばせた。透も、釣られて笑む。

「あんなに楽しいの、久し振りだったから」

「で、今日の夕飯に何を作ってくれるんだ?」

 亘がキッチンのテーブルに並べられた材料を見やると、透は蛇口を捻って水を出し、布巾を洗った。

「オムライス。私が食べたくなっちゃったから、それにしたんだけど」

 透は洗い終えた布巾をシンクの脇に置くと、新しい卵を取りに冷蔵庫に向かった。亘は、キッチンから出た。
妹は大丈夫そうだ。亘は安堵しながら、にこにこしながらオムライス作りを始めている透の後ろ姿を眺めた。
 学校で気の合う友人が出来た、という話は聞いていたが、透の脆弱さを知っているので気が気ではなかった。
あの弱さに付け込まれてしまうのでは、という不安もあり、中学校へ行く妹の姿を見送るたびに心配していた。
だが、この様子なら安心だ。亘は自分まで嬉しくなりながらリビングに戻り、夕食が出来るのを待つことにした。
 透はチキンライスに入れるタマネギの皮を剥きながら、今日一日の鋼太郎との出来事を思い返していた。
綺麗な景色を見られたことも嬉しかったが、鋼太郎とちゃんと話し込めたことが、また嬉しいと思っていた。
 彼は正弘に比べて多少取っつきにくいところがあり、どんな会話をすればいいのかよく知らなかった。
だから、いつも話すに話せなかった。話したと言っても、他愛もないことばかりだったがそれでも充分だった。
 明日が来るのが、とても楽しみだ。以前は憂鬱で仕方なかったが、友人が出来ると百八十度変わってしまう。
朝、天気が良かったから外へ冒険に出た。それがこんなにも素晴らしい結果になるとは、予想もしていなかった。
 言ってみたかったことがやっと言えた。行ってみたかった場所にも行けた。思う存分、絵を描くことが出来た。
他人から見れば大したことはないが、透の中では大進歩だ。一日で、こんなに色々なことがやれたのだから。
普段は勇気を上手く出せないが、今日は思うように出せた。これからも、今日のようにやっていけたら良いのに。
 冒険の余韻が、心中に強く残っていた。





 


06 10/30