それでも、生きていく。 六月七日。校舎裏で待っていたのは、鋼太郎だけだった。 百合子は校舎の影から顔を出すと、ありゃ、とちょっと残念そうにした。鋼太郎が、一人で壁打ちをしている。 相手がいないので張り合いがないのかやる気のない動きでボールを拾うと、おう、と二人の少女に向いた。 百合子は透と一緒に校舎裏にやってくると、辺りを見回した。いつものメンバーなのだが、一人足りていない。 「廊下から見た時もムラマサ先輩がいなかったけど、やっぱりいないね。今日はどうしたのかな?」 「なんか、休みみてぇだぜ」 鋼太郎は泥に汚れた野球ボールを、ぼすっとグローブの中に投げ入れた。六月に入ったので、制服は夏服だ。 半袖ワイシャツに夏用のスラックスを着ているので、銀色の装甲で成された腕や首筋が露わになっている。 百合子と透も夏服になっていて、半袖ブラウスの首元にリボンを付け、夏用のプリーツスカートを着ている。 だが、二人ともブラウスの上に薄手の白いカーディガンを羽織っている。百合子は、体温を維持するためだ。 透は、機械で出来ている左腕を隠すために着ている。百合子が首を曲げると、滑らかな長い髪が軽く流れた。 「診察には先週行ったばっかりだから、病院ってわけじゃないよねー?」 「きっと、色々とあるんですよ。ムラマサ先輩にも」 百合子の背後から体を出した透は、控えめに言った。鋼太郎と視線が合うと、慌てながら目を逸らしてしまった。 透の態度に、鋼太郎は少し呆れた。透との一件があったのは五月の初旬の連休、つまり、一ヶ月以上も前だ。 それを、未だに引き摺っているらしい。鋼太郎自身も引き摺ってしまっているので、人のことは言えないが。 後から考えてみれば、本当にどうでもいいくらい些細な出来事だ。ただ透が、鋼ちゃん、と呼んだだけだ。 それ以降は普段通りの黒鉄君に戻り、鋼太郎をちゃん付けで呼んでくるのは、現時点では百合子のみだ。 だから、別に気にするほどのことでもなく、すっぱり忘れてしまった方がどちらにとっても楽なはずである。 しかし、未だに忘れられていない。顔を合わせるたびに透が照れるので、鋼太郎まで思い出してしまうのだ。 「じゃ、今日は私達だけだね!」 百合子はかかとを上げて背伸びをし、鋼太郎を見上げた。 「ムラマサ先輩がいねぇとちょっと張り合いがねぇけど、まぁ、仕方ねぇよな」 鋼太郎はグローブを左手から外し、指先に引っ掛けた。透は、つま先をそっと前に出した。 「えっ、と、それじゃ、今日は何の話をしましょうか」 「なーにがいいかなぁー」 百合子は鋼太郎の隣にやってくると、校舎に寄り掛かった。昨日の雨でぬかるんだ地面に、足跡が付いた。 鋼太郎からしてみればどうでもいいことを、さぞ大事なことであるかのような口調で、百合子は話を始めた。 透は、それに相槌を打っているだけだが楽しそうだ。女子同士だと、自然と明るく弾けた雰囲気になる。 鋼太郎は、百合子に話を振られた時以外は喋らなかった。というより、気が引けて上手く喋れないのだ。 正弘や他の男子がいればまだやりやすいのだが、相手が女子二人となると途端にやりづらくなってしまう。 百合子だけならまだしも、透がいるのは困る。嫌いではないし、むしろ好きなのだが無性に気恥ずかしい。 照れるようなことなどない、と思っても感情が勝手に先走ってしまう。自分でも、何が何だかよく解らない。 鋼太郎は、百合子の高くも幼い声と透の儚げで頼りない声の会話を聞き流しながら、高い青空を仰ぎ見た。 今は、梅雨だ。日本列島を覆い尽くした低気圧によって連日のように雨が降っていたが、やっと止んでくれた。 南から張り出してきた高気圧が低気圧を押しやり、その代わりとして、高気圧が覆い被さっているからだ。 陰鬱な曇り空が数日間続いていたので、久々に見る青空は清々しかった。夏は、もう間近に迫っている。 とても、気持ち良い天気だった。 黒く濡れたアスファルトの上を、真っ赤な車が駆け抜ける。 正面のボンネットとフロントガラスが、眩しい日光を撥ねている。水を含んだ走行音が、下から聞こえている。 最新鋭のスポーツカーが対向車線を通り抜けた直後、速度を出した大型トレーラーが追い越し車線を抜けた。 一瞬、影が降りて車内を暗くしたが、大型トレーラーが遠のくと明るさが戻った。前方に、緑色の看板が現れる。 次のサービスエリアまでの距離、十キロ。そして、次のインターチェンジまでの距離、二十七キロ、とあった。 だが、目的の場所はそこから更に先だ。正弘は、後部座席に押し込めた体を伸ばしたが天井に頭が着いた。 こういう時に、この体は厄介だ、と痛感する。いくらサイボーグとはいえ、ずっと背を丸めているのは辛い。 派手な車の運転席に座っているのは、橘静香という名の正弘の同居人であり名義上の保護者である女性だ。 バックミラーに映る顔は不機嫌極まりなく、吸い終えたタバコを吸い殻がたっぷり詰まった灰皿に押し込んだ。 「…あの」 正弘が静香に声を掛けると、静香はバックミラー越しに睨んできた。 「代わってよ、これ」 「いや、オレ、車の運転の仕方なんて知らないですし」 「言ってみただけよ」 けっ、と静香は変な声を出し、面倒そうに前方に目を戻した。正弘にも、その気持ちは解らないでもない。 二人は、かれこれ半日以上車に乗っている。運転しているのは当然ながら、成人であり普免持ちの静香だ。 鮎野町近くのインターチェンジから高速道路に乗り、サービスエリアで休憩を入れながらひたすら走っている。 「やっぱり、深夜バスの方が良かったんじゃ」 正弘が言うと、静香はアクセルを踏み込んで速度を上げた。 「嫌っ!」 「オレは、別に平気でしたけど」 「そりゃ、マサには三半規管がないからよ」 「似たものはありますけど。人工内耳が」 「そりゃ単なるバランサーよ。あたしが言いたいのはね、そういうことじゃないの」 静香の口調は、運転疲れによる苛立ちからか普段よりも荒れていた。 「この時代にもなって、なんであんな時代遅れな乗り物が栄えているのか不思議でたまんないのよ!」 「需要があるからですよ。たぶん」 「陸路以外の交通機関も発達したんだから、人類はそれだけで移動すりゃいいのよ!」 「でも、陸路は絶対に欠かせませんよ」 「だっから!」 静香の叫びが、車内を揺るがす。 「深夜バスなんて滅びりゃいいのよ、そしたら誰も使わないんだからー!」 「ですけど、リニア新幹線は高いから嫌だって言ったのは橘さんで。自力で運転していくって言ったのも橘さんで」 「うるさい。黙れ」 「すみません」 条件反射で謝ったが、正弘は理不尽な気分だった。自分で判断して自分で怒っているのだから、世話がない。 それを八つ当たりされるのは、さすがに迷惑だ。だが、車内に二人きりなのだから仕方ないと言えば仕方ない。 しかし、それらの判断をしたのは全て静香だ。去年深夜バスを利用したことも、現在車を運転しているのも。 去年の今頃も現在と同じように長距離移動を行ったのだが、静香は運転を嫌がり、深夜バスに乗ると言った。 料金はリニア新幹線に比べれば格安で、寝ている間に着くのだからきっと楽だ、と。無論、正弘も付き合った。 その結果、静香は深夜バスに酔った。正弘は、静香の言う通り三半規管を持っていないので平気だったが。 慣性制御を付けてある車とはいえ、やはり揺れるものは揺れる。そのせいで、静香は悪夢を何度も見た。 寝覚めは最悪、気分も最悪、といった経験は彼女にとって耐え難いものだったらしくバスが大嫌いになった。 元から好きではなかったのに、深夜バスによるトラウマが拍車を掛けたからだ。それほど、酷い経験だったのだ。 直線道路を走りながら、静香は苛立ちに任せて愚痴を零しているが、その内容は次第にバスから仕事になった。 結果、正弘は一時間以上も静香の愚痴を聞かされる羽目になった。 そして、二人はサービスエリアに寄っていた。 静香が眠気の限界を訴えたので、彼女が休まざるを得なくなった。うっかり、交通事故を起こされたら困る。 正弘は、サービスエリア内にある広場にいた。平日なので家族連れは少なく、トラックなどの運転手が多い。 コンクリート製のベンチに腰掛けると、縮めていた体を伸ばした。シリンダーやシャフトが駆動し、中で唸る。 あのままじっとしていたら、関節が固まってしまいそうだ。量を制限していた排気と吸気も、平常時に戻す。 バッテリー残量を確かめたが、昨夜眠っている間に充電して満タンにしておいたので、軽く二日は持ちそうだ。 駐車場には、静香の愛車が駐めてある。流線形のボディラインを持つ、かなり派手な真っ赤なスポーツカーだ。 車高は低く、ウィングも大きく、内装にも手を入れてある。ただ派手なだけで、燃費が悪く輸送力も低い車だ。 静香は、もう一台四駆のワゴン車も持っているのだが、鮎野町に雪が降らないうちは派手な方に乗りたがる。 正弘としては、車高が高くて車内が広いワゴン車の方が、乗っているのが楽なのでそちらを使っていて欲しい。 だが、静香は頑として譲らず、何がなんでも赤いスポーツカーを乗り回す。要は、派手なことが好きなのだ。 不精で物臭で私生活はルーズなのに、金遣いは荒く、服も化粧も派手と来ている。いわゆる、ダメな女の典型だ。 正弘は背中を折り曲げ、腹の底からため息を吐いた。熱の籠もった空気を全て排気してから、外気を吸い込む。 本当に、なぜあんな人が保護者なのだろうと思い悩んでしまう。たまに、保護者は自分ではと思う時もある。 家計を把握していて家事全般を行っているのは正弘であり、静香ではない。普通は、逆の立場になるだろう。 静香には会社の仕事があるので、彼女が家事をあまり行えないのは仕方ないとしても、限度というものがある。 正弘は、長時間のドライブの疲れとはまた違った疲れを感じて項垂れた。今頃、あの三人はどうしているやら。 給食が終わって昼休みが始まった頃だ、とは想像が出来る。だが、会話の内容までは、さっぱり見当が付かない。 正弘の胸中に、一抹の寂しさが過ぎった。彼らに電話でもしたい気分だったが、それは放課後を過ぎてからだ。 いつも一緒にいるので、離れると余計に彼らの有り難みを感じる。正弘は、少し切なくなりながら、立ち上がった。 ベンチの背後には、瀬戸内海が広がっている。数日間続いた雨のためか、若干色が濁っていて波も荒かった。 視界に映る景色は、以前となんら変化はない。この分だと、目的地にも、あまり変化はないのだろうと思った。 せめて、少しでも変わっていたなら、まだ区切りが付けられるのに。正弘は太い柵に手を乗せ、海面を見つめた。 潮風が吹き付けていることは、シャツの裾がうるさいほど揺れているので解るが、肌には何も感じられない。 手のひらや重要な部分などは、温度を感じられるようになっているが、銀色の肌に感触が訪れることはない。 強烈な衝撃などで装甲が破損すれば、疑似痛覚が脳内を駆け巡るようになっているが、それ以外では皆無だ。 寂しい、と痛烈に思った。正弘は、半袖のワイシャツを着ているために剥き出しになっている腕を握った。 返ってくる感触は、金属の無機質な固さだけだ。普段は、この体である事実を受け入れることが出来ている。 だが、こうして生まれた場所まで帰ってくると別だ。もしも生身のままだったら、などと想像をしてしまう。 七歳の頃に体を失ってから日が経ちすぎたため、自分がどんな顔でどんな声をしていたかを忘れてしまった。 身内は全て失ってしまったから、見本がない。成長したらこうなっていたんだろう、との想像すらも出来ない。 正弘は、黒のスラックスのポケットに入れていた学生手帳を抜いた。鮎野中学校の校章が、表紙に付いている。 表紙をめくると、一ページ目には鮎野中学校の教育方針が書いてあり、二ページ目からは校則が書いてある。 それらを送ってから、ぱらぱらとページをめくる。薄っぺらいスケジュール表には、何も書き込んでいない。 真っ白なページを送って送って、最後のページまでめくり終えた。最後の遊び紙をめくって、手を止めた。 裏表紙とビニール製のカバーの隙間に、四つに折り畳んだものが差し込んである。正弘は、慎重に抜いた。 壊れ物でも触るかのような手付きで開かれたそれは、古びたスナップ写真だった。正弘は、それに語り掛けた。 「もうすぐ、帰るから」 写真の中に納まっているのは、両親と二人の姉、そして幼い正弘。真新しい黒のランドセルを背負っている。 小学校の入学式を終えたばかりで、正弘はブレザーに半ズボンを着せられており、照れくさそうにしている。 上の姉と下の姉は正弘を囲んで、揃って笑っている。両親は、子供達の様子を微笑ましげに見守っている。 背後にある看板は花飾りが付いていて、校門の中にある桜の木からは薄い花びらが舞い落ち、地面は桜色だ。 一番幸せだった頃だ。正弘はあどけない面差しの少年を見つめていたが、写真にマスクを押し当てた。 「色々と、話すこともあるし」 まず、何から話そう。一番最初に話してやりたいことは、やはりサイボーグ同好会の友人達のことだ。 だが、話したいことや報告したいことがありすぎて上手くまとまらない。正弘は、自嘲気味に笑みを零した。 去年までは、話すことなんてろくになかった。家族の墓前に行っても、ただ寂しさを噛み締めるだけだった。 それが、どうだろう。今年は年下の友人が三人も出来たおかげで、家族に報告したいことが山ほど出来ている。 言葉遣いや態度は荒っぽいが良い話し相手になってくれる、鋼太郎。くるくる変わる表情が眩しい、百合子。 気弱ながらも精一杯近付いてこようとする姿が健気で可愛らしい、透。三人とも、とても大事な友達だ。 誰のことから、誰の何から話そう。正弘は頭を巡らせていたが、一向にまとまらないので諦めることにした。 「まぁ、いいか」 ちゃんとまとめるのは、墓前に着いてからでもいい。正弘は写真からマスクを外すと、指先で写真を撫でた。 普段は見ると辛くなるだけなのであまり見ないようにしているが、こういう時にはちゃんと見てやらなければ。 正弘は写真を折り畳んで学生証の中に戻すと、学生証をポケットに押し込んでから、スラックスのシワを直した。 制服を着ることにも、意味がある。外見では年齢は判別出来ないから、服装で年齢を示せれば、と思って着た。 来年は、高校の制服を見せに来よう。そのためにも、受験勉強をしっかり頑張って高校に合格しなければ。 鮎野町近辺の高校は、子供の数が少ないので合格枠も広く、出席日数と学力さえ足りていれば大抵は合格する。 だが、気を抜いてはいけない。正弘はこれからの勉強量を思うと多少なりともうんざりしたが、気合いを入れた。 「ん」 視界の隅に入っていた静香の車に、動きがあった。視線を向けると、運転席から静香が起き上がっている。 後ろまで倒したシートに寝転がっていたために、乱れた髪を整えながら、眠たげに欠伸を噛み殺している。 仮眠から起きたのだ。だが、彼女の頭が覚醒するまではまだ時間があるので、出発はもう少し先だろう。 すると、正弘のポケットの中で携帯電話が震えた。取り出してフリップを開くと、静香からのメールだった。 内容は、起きたからコーヒーお願い、とあった。正弘はさすがにうんざりして、一行だけメールを返した。 嫌です、と一言だけ返信すると、静香からすぐに返信があった。恐らく、中身は文句なので、開かなかった。 いい大人なのだから、中学生をこき使うのも程々にして欲しい。正弘は携帯電話を閉じると、ポケットに入れた。 「困った大人だ」 正弘は駐車場に背を向けると、サービスエリアの売店に向かった。自分で飲むものでも、買おうと思った。 売店の中に入ると、人々の視線が正弘に集中したが逸らされた。見てはいけない、と示し合わせたかのようだ。 慣れてはいるが、気分は良くない。正弘はスラックスのポケットに両手を突っ込み、ジュース売り場に向かった。 何を買おうかと考えていると、先日の診察の際、百合子が買ってきたのと同じスポーツドリンクが目に付いた。 無意識に、それに手を伸ばしてしまった。彼女はもう気にも留めていないだろうが、正弘は忘れられなかった。 その時のことを思い出していると、その時の嬉しさまで蘇った。正弘はスポーツドリンクを手放せず、結局買った。 だが、すぐに飲みたい気分でもなかったので、キャップを開けずにぶらさげながら広場へ出て海を見下ろした。 陸と島を繋ぐ巨大な橋が、長く伸びていた。 06 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