非武装田園地帯




第八話 ある、晴れた日に



 高速道路から下りてしばらく走った先に、寂れた町があった。
 鮎野町となんら遜色のない閑散ぶりで、市街地を歩いている人間の数は少なく、車通りもそれほど多くなかった。
静香のやたらと目立つスポーツカーが通ると、擦れ違った住民達は物珍しそうに真紅の車体を目で追っていた。
 シャッターストリートと化した駅前商店街を抜け、民家が並ぶ住宅地を通ると、小学校と中学校が遠くに見えた。
走っていくうちに、小学校に近付いていった。昼休みなので、グラウンドでは子供達がはしゃぎながら遊んでいる。
 正弘は、それを見つめてしまった。あのまま何もなければ、自分はここで過ごしていたのだろうと考えていた。
そして、近くにある町立中学校に入学し、やはり近くの高校に進学し、ごく当たり前の人生を過ごすはずだった。
 正弘は小学校から目を逸らすと、正面に向けた。もしも、などということをいくら考えても何一つ変わらない。
それに、今は前とは違う。それほど悲観することもない。正弘は思い直し、田畑の間に伸びる道路を見つめた。
後部座席で背中を丸めて出来る限り体を縮めながら、正弘はバックミラーに映っている静香の表情を窺った。
 先程仮眠を取ったサービスエリアで、ラフな服装から喪服に着替えている。締めるべきところは、締めている。
左右に広がっていた田畑が減り、道に傾斜が加わる。針葉樹が生えた小高い山の中に、道の先は続いていった。
 二車線だったのが一車線になり、カーブが増えてくる。静香は面倒そうにしながらも、ハンドルを切っている。
普段は深く踏み込んでいるアクセルを緩めて、細かくブレーキを掛けながら、慎重に道路を登っていった。
 大きく右に曲がったカーブを抜けると、急に視界が開けた。木々がまばらになり、駐車場と寺の門が現れた。
駐車場にバックで車を入れて、ぎっ、とサイドブレーキを掛ける。シートベルトを外して、静香が先に降りた。
正弘も、それに続いて降りる。車から出る時に、両耳のアンテナを天井に擦ってしまい、静香が顔をしかめた。

「あんまり傷付けないでよ」

「仕方ないじゃないですか。この車、狭いんですから」

 車外に出た正弘は、アンテナに触れた。静香は運転席のドアを閉めると、遠隔操作でロックを掛けた。

「あたしの車が狭いんじゃなくて、マサがでかいだけよ。規格変更されないのかしら、陸自のサイボーグって」

「無理だと思いますよ。このタイプは大分普及してしまいましたから、変更するとなるとかなりの金が」

「解ってるわよ、それぐらい」

 言ってみただけよ、と静香はくるっと背を向けて歩き出した。正弘は、不可解な気持ちだったが歩き出した。
いつもいつも怒っている、というか、カリカリしている。何がそんなに不満なのか解らないが、苛立っている。
 機嫌が良いのは、タバコか酒を飲んでいる時だけだ。色々な意味でダメすぎるが、改善されるとは思えない。
こんな大人にはなりたくない、と正弘は内心で呆れ果てながら、大きく立派な門をくぐって寺の境内に入った。
 袈裟に身を包んだ壮年の僧侶が、二人を待っていた。




 村田家之墓。黒い御影石には、そう刻まれている。
 柄杓を傾けて水を流すと、涼やかな音を立てながら石の表面を撫でていった。それを、何回か繰り返した。
初夏の日差しを吸い込んだ水滴を、布で丁寧に拭う。顔が映りそうなほど墓石を磨いてから、手を止めた。

「久し振り」

 正弘は、石の下で眠る家族に語り掛けた。

「父さん、母さん、爺ちゃん、婆ちゃん、智姉、和姉」

 いつものことながら、どんな表情をしたらいいのか解らなかった。泣きたい気もするが、笑いたい気もする。
家族の無念さを思えば、泣くべきだろう。未だに犯人は見つかっていないのだから、さぞ、悔しいだろう。
だが、いつまでも立ち止まっていることは出来ない。だから、安心させる意味で笑ってやりたい気もある。
どちらかにしよう、とは考えていても結局は定めることが出来ない。今年も、やはりそんな感じだった。
 墓の両脇にあるステンレス製の花瓶を軽く洗ってから、街中で買ってきたばかりの菊の花を活けてやった。
寺の本堂は、静まり返っている。住職である僧侶に経を上げてもらった後、静香は正弘から離れていった。
僧侶と話があるから、なのだが、実のところは正弘を一人にしてやるためだと言うことを正弘は知っている。
その心遣いは、ありがたい。他の誰かがいると話しづらいこともあるので、一人でいた方がやりやすい。
 正弘は布を手桶の中の水に浸すと、ぎゅっと絞った。立ち上がって、墓石の側面や背面もしっかり拭く。
墓石の側面には、家族の名前と共に死亡した際の年齢が刻まれている。いつのまにか、姉達は年下になった。
 村田智代、享年十一歳。村田和代、享年九歳。だが、どれだけ月日が過ぎようとも正弘にとって姉は姉だ。
上の姉、智代にはよくいじめられた。末っ子だったから、何かに付けて意地悪をされ、からかわれていた。
それでも、転んだ時に背負って連れて帰ってくれたり、迷子になったら探してくれたり、優しいところもあった。
二番目の姉、和代は智代とは性格が大きく違っていた。和代は、正弘をとにかく可愛がってくれていた。
 一番記憶に残っているのが、事件の起きる先週の日曜日のことだ。家族全員で、買い物に出かけたのだ。
今まで兄弟で共同だった部屋が分けられ、自分達の部屋をもらった二人の姉に、必要な物を買うためだった。
可愛らしいカーテンや家具などを目を輝かせて物色し、両親にあれが欲しいこれが欲しいと沢山頼んでいた。
 正弘は、それをあまり面白くない思いで見ていた。姉達には新しいものがあるのに、自分にはないからだ。
ずっと不機嫌でいると、祖父母が正弘を慰めてくれた。次の時には、マサにも新しいものを買ってあげるから。
 だが、正弘は機嫌を直さなかった。両親が姉達にかまけていたこともあって、面白くなくて仕方なかった。
家に帰っても機嫌が悪いままで、ろくに会話もしないまま眠ったが、翌朝にはすっかり機嫌が戻っていた。
待ちに待ったプール開きが、来週に迫っていたからだ。正弘はそんなことまで思い出して、少し笑った。

「そういえば、オレ、泳げないままだったっけ」

 水で遊ぶことは好きだったが、浮かんで泳ぐことは出来なかった。だから、早く泳げるようになりたかった。
だが、小学校のプールで泳いだのは一度もなかった。プール開きが訪れるより先に、悪夢が訪れたからだ。

「泳げないんだよなぁ…」

 噛み締めるように呟き、正弘は墓石に額を当てた。僅かに肩が震える。しかし、目元から涙は出なかった。
その週が始まって、数日が過ぎ、あの日が訪れた。忘れもしない、六月七日。八年前の今日、全てが壊された。
 家族の命日も、その日だ。本当なら正弘もその日に死んでしまうはずだったのだが、幸か不幸か生き残った。
近所の住民の通報によって村田家の家にやってきた警察と救急車に搬送されたが、頭部以外は全滅だった。
両手両足は叩き潰されて、吹き飛ばされた時に内蔵のいくつかが破裂していて、失血死する寸前だったらしい。
 だが、救急隊員の的確な処置によって脳が死ぬことは免れ、搬送された先の病院でサイボーグ化手術を受けた。
目を覚ましたのは、事件から半月が過ぎた頃だった。眠っている間、長くて暗い、冷たい夢を見ていた気がする。
 意識が戻ってからが、地獄だった。家族が全て死んだことや、自分の体が機械になったことを知らされた。
現実逃避をするために医者や看護婦に八つ当たりして、泣けないことを悲しんで体を破壊して、激痛に苦しんだ。
いっそ殺して、死なせてよ、と叫んだことは何度もある。その方がずっと楽になる、楽になれる、と信じていた。
しかし、死ぬことは出来なかった。誰も正弘を殺してはくれず、機械の体を壊すことも出来ず、生き続けていた。
 そのうち、泣くことも嘆くこともしなくなった。感情を爆発させても、誰も帰ってこないのだと理解したからだ。
そして、苦しみを感じたくないと切に願った結果、喜怒哀楽が極端に乏しくなり、一日中喋らない日もあった。
 精神科医の気の長い治療のおかげでその状態からは脱することは出来たが、心の傷が癒えることはない。
死ぬまで、苦しみは続く。忘れることが出来るなら、どれほど楽か。だが、決して、忘れてはならないことだ。
 正弘は、墓石に付いた水滴を拭ってゴーグルの端に拭い付けた。生温い水が、マスクをついっと伝い落ちた。

「でも、珍しいよ」

 正弘は、快晴の空を仰いだ。

「今日が晴れるなんて」

 今までは、いつも雨が降っていた。あの日も、去年も、一昨年も、そのまた前の年も、空は常に鉛色だった。
木々は瑞々しく、景色は清々しい。墓地の周辺に植えられているアジサイが、青と赤の花を咲かせている。

「なんでかな」

 正弘は燭台にロウソクを差し、ライターで火を点けると、その火で線香に火を灯した。

「話したいことが、一杯あったはずなんだけど」

 線香から立ち上る細い煙が、弱い風でなびいた。

「どれから話したらいいのか、決められないんだ」

 ロウソクの燭台の傍に、線香を立て掛ける。

「どれもこれも最初から話したいから、どれを最初にしたらいいのかが解らないんだ」

 線香の先端から、灰が零れ落ちる。

「あのさ…。えっと、なんて言えば、いいのかな」

 正弘は、慎重に言葉を選んだ。

「オレは、こういう体になっちゃったから、もうこっちにはいられなくて、だから、遠くに転校したことは話したよな」

 詰まりそうな言葉を押し出しながら、喋る。

「でも、景色はそんなに変わらないんだ。海がなくて山が増えた感じ、って言えば解りやすいかな」

 正弘は、下に向いてしまいそうだった顔を上げた。

「それで、さ。下級生にもオレと同じようなサイボーグの連中がいて、そいつらに、友達になってもらったんだ」

 声に混じる震えは、涙か、それとも嬉しさか。

「楽しいんだ、凄く」

 正弘の声は、少々上擦った。

「友達って言っても、話したりするだけなんだけど、それだけでも本当に楽しくてたまらないんだ」

 膝の上に置いた手を、軋むほど握り締めた。

「そういうこと、思ってもいいよな?」

 涙は出てこないと解っていても、顔を覆わずにはいられなかった。正弘は背を丸めて、低く嗚咽を絞り出した。
人間らしさの欠片もない体になったとはいえ、生身の部分は脳しかないとしても、正弘は戸籍上生きている。
しかし、他の家族は皆死んでしまった。その全てを背負うべきだと思っていたから、心を閉ざしてしまった。
 無限の未来があったはずの姉達、子供達の成長を待ち望んでいた両親、穏やかな老後を過ごしていた祖父母。
それらの無念は、どれほどのものか想像も付かない。だから、正弘は、自分だけ楽しむべきではないと思った。
もっとも、サイボーグと化した後の日常には楽しみなどほとんどなかったから、気兼ねすることもなかった。
 だが、彼ら三人と友人となり、サイボーグ同好会なるグループとなった今は強烈な罪悪感を感じていた。
鋼太郎とキャッチボールに興じたり、百合子との会話で笑ったり、透の見せてくれる絵が綺麗だと思ったり。
 楽しんでいる傍らで、他の家族はこれを感じることすら出来ないのだ、と頭の片隅で考えてしまったりした。
電子音声で合成した笑い声を上げた後に訪れる、ほんの僅かな間に泣き出したいほど後悔したこともある。
今までに感じたことのなかった温かさがある日常を繰り返していると、そんな罪悪感にうんざりしてきた。
 これでいいんじゃないか、楽しいのは悪いことじゃない、と心の底から語り掛けてくる自分も確実に存在する。
どちらを優先することが正しいのかは判断しかねるが、やはり、辛い思いをするよりも楽しい方が良かった。
心が締め付けられて押し潰されそうにはならないし、笑いたい時は笑ってしまわないと、感情を持て余してしまう。
 だから。正弘は、身を切られるような罪悪感と共にある種の開放感も味わいながら、丁寧に言葉を紡いだ。

「少しくらいだったら、生きていることを楽しんでもいいよな?」

 許してくれなくてもいいが、受け入れてほしい。

「ごめん」

 謝罪と、贖罪と、ありったけの懺悔の念を込めた。

「本当に、ごめんなさい」

 頬に当てた水の冷たさも、日差しの温もりも、風の勢いも、他人の手の温度も感じられないが感情はある。
様々な感情が、自分自身が機械ではなく人間であることを思い出させてくれる、何よりも大切な感覚だ。
その中でも、楽しむことは特に心地良い。それを感じていたいと思うことは、死んだ家族への罪に違いない。

「だけど、オレは」

 その罪を、犯してしまいたい。

「生きていたいから」

 正弘は立ち上がると、墓石を見下ろした。正弘の希望で、荼毘に付した正弘の肉体も墓の中に入っている。
家族から離れてしまった自分自身は寂しいが、体だけは寂しくないように、と思ったからそうしてもらった。
寂しいことは、今でも変わりない。学校を終えて家に帰ったら誰かが出迎えてくれることを、切望している。
 そんなことは二度とないと解っているからこそ、そう思う。しかし、寂しく悲しいばかりでは前に進めない。
正弘は水の入った手桶に柄杓を差し、身を下げた。両手を重ねると、目を閉じるつもりで視覚を遮断する。
しばらくしてから、視覚を元に戻した。新しい水で磨かれて艶やかに光っている黒御影石の墓を、見つめる。

「また、来るよ」

 正弘は名残惜しかったが、墓から離れた。視覚の隅に表示されている時間は、いつのまにか大分過ぎていた。
本堂の方に向くと、僧侶と連れ立った静香がこちらを見ていた。唇を締めていて、無表情にも思える顔だった。
彼女の感情は読めそうにないので、考えないことにした。正弘はスラックスの膝に付いた砂埃を、軽く払った。
 そして、顔を上げた時に肩に何かが触れた。ワイシャツ越しに、分厚く熱い手と力強い指先を右肩に感じた。

「あ…」

 振り返ってみるが、誰もいなかった。今、この寺に来ているのは正弘と静香だけで墓地には正弘一人きりだ。
だから、正弘以外の人間がいるはずもなく、増して感触など解るわけがない。この体に、触覚は存在していない。
 なのに、感じた。頼りがいのある大きさの手と、優しくありながらも確かに熱い、記憶にある温度の体温を。
無意識に、父さんだ、と思った。根拠はなかったがそう思えてならず、正弘は、膝の震えを止められなかった。
 ずしゃっ、と膝が砂利を抉った。手にしていた手桶が転がり、辺りに水が飛び散って制服にも少し掛かった。
それすらも気にならないほど、正弘は呆然としていた。何を感じたのか、なぜ感じたのか、必死に考えた。
 許してくれたのだ、と思うのは傲慢だ。驕りだ。独り善がりだ。自己満足だ。正弘の単なる思い込みに過ぎない。
しかし、責めるわけでもなさそうだ。怒るわけでも、嘆くわけでも、喜ぶわけでもない。きっと、そこにいるだけだ。
 見守っているのだろう、と正弘は直感した。途端に、あらゆる思いが溢れ出し、声にならない声で激しく泣いた。
 空は、晴れている。





 


06 11/2