非武装田園地帯




第八話 ある、晴れた日に



 翌日。正弘は、帰りの車中にいた。
 あの町のビジネスホテルに一泊して充分な休息を取った二人は、静香の運転で鮎野町への帰路を辿っていた。
正弘は後部座席の窓から、遠のいていく瀬戸内海を眺めていた。昨日のあれは、一体、なんだったのだろう。
 平たく言えば、正弘の身内の霊魂と言うことになるが、果たしてサイボーグが霊魂を感じられるのだろうか。
ああいったものは、生身の人間が感じる錯覚だというのが世間の常識だが、サイボーグには関係のない話だ。
網膜がないのだから目の錯覚は起きようもないし、感じるものは全て補助AIなどの電子機器を通している。
 だから、感じるわけがない。しかし、肩に触れた手の厚さや体温は未だに残っていて、忘れられなかった。
なんとなく右肩に手を当てながら、正弘は遠くに目線を投げていた。海は視界に入っているが、見ていなかった。

「マサ」

 運転席でハンドルを握っている静香が、口を開いた。

「返事しなさいよ」

「あ、はい」

 正弘が気のない返事をしたが、静香は不満げだった。

「何よ、朝からずーっと黙って。面白くないわね」

「オレが喋ったら喋ったで、文句言うのはどこの誰ですか」

「だって、言いたくなるんだもん」

 子供染みた口調で呟いてから、静香は正弘に横顔を向けた。

「落ち着いた?」

「はい、一応は」

 正弘が頷くと、静香は安堵した笑みを零す。

「なら、いいんだけど。だけど、あんたらしくもないわね。あんなにぎゃんぎゃん泣くなんてさ」

「あ…いや…」

 昨日のことを思い出し、正弘は無性に恥ずかしくなった。冷静になると、激しく泣いてしまった自分が情けない。
涙は出ないのだが、その分発声装置をフルに使って声を上げていた。割と長い時間、座り込んで動かなかった。
というより、動けなかった。何が何だか解らなくなるほど悲しくて、泣きたくて、足に力が入ってくれなかった。
 サイボーグボディは、意思、というか脳波を解析した電気信号を送って動かすので、意識を向ける必要がある。
だが、あまりに感情が乱れたために脳波の制御が上手く行かず、動けなかった。そんなことは、初めてだった。
エラーが起きたのではないかと思って補助AIでセルフチェックも行ったが、これといった異常はなかった。
となればやはり、心因性だったのだ。正弘は、ガキみたいだったよなぁ、と内心で自嘲しながら顔を伏せた。

「で」

 静香の視線が、バックミラーを通して正弘を捉える。

「お友達にお土産を買っていってあげないわけ?」

「…はい?」

 正弘は、きょとんとした。静香には、三人のことは話していないはずなのだが。静香は、にやりとする。

「あたしに隠し事なんて出来るわけないでしょうが」

「でも、なんでそんなことを」

「あんたの携帯の通話料金よ。ここ二三ヶ月でやけに増えたから、何かと思ってあんたの携帯を見てみたら、あたしの知らない名前が三つもあったからちょっと調べてみたわけよ。誰かと思ったら、下級生だったのねぇ、鋼太郎君と百合子ちゃんと透君って。年下趣味なんて進んでるじゃないの、マサにしては」

「人の携帯を勝手に見ないで下さいよ!」

 正弘は驚きと戸惑いで立ち上がってしまい、ごっ、と頭頂部を天井にめり込ませた。静香はしれっとしている。

「被保護者への監督行為は保護者の義務よ」

「プライバシーの侵害を、もっともらしい言い草で片付けないで下さい。ちなみに、透は女子ですよ」

「それぐらい解ってるわよ。名簿を見たから。ついでに百合子ちゃんからの可愛ーいメールも読んだんだけど、その中で山下さんは透君って呼ばれてたから、あたしもそう呼んでみただけよ」

「あの、橘さん。人道的にいけないと思います、そういうの。ていうか、メールは見ないで下さい、お願いですから」

「だからなんだってのよ」

「いい加減に怒りますよ」

 後部座席に座り直した正弘がむっとすると、静香は少し楽しげにした。

「あら、珍しい。マサがあたしに怒るなんて」

「誰だって怒ると思います」

 語気を強めた正弘に、静香はなんとなく嬉しくなってしまった。

「そうか、怒ってるのか」

 正弘が静香の元へ連れてこられた時は、正弘は何も言わない子供だった。ずっと黙って、身動きもしなかった。
外見のせいもあり、本当のロボットのようで静香も不安になってしまった。これで一緒に暮らしていけるのか、と。
一生消えない心の傷とサイボーグ化したショックが強かったため、正弘は、静香に何を言われても答えなかった。
たまに答えても簡単な返事だけで、言葉らしい言葉は一つも発しなかった。意思の疎通すら、出来ていなかった。
 それが氷解し始めたのは、正弘が小学校を卒業する頃からだ。少しずつだが、静香と会話をするようになった。
二人の距離は狭まり始めたが、今度は静香の方が忙しくなってしまい、またろくに会話出来ない日々が始まった。
このままで大丈夫なのかと心配していたが、言葉を取り戻した正弘は、自発的に行動するようになってきた。
静香がやらない家事に手を付けるようになり、疎かにしていた勉強にも勤しむようになり、学校で友人も得た。
 部屋の隅で丸一日動かずにいた正弘の姿を知っている静香から見れば、とても大きな進歩であり再生だった。
このまま、順調に進んでくれればいい。普通とは違うかもしれないが、しっかり成長して大人になってほしい。
 七年以上も同居しているため、静香は正弘に親心に似た感情を抱いている。もっとも、普段は見せないが。
照れくさいのもあるし、出してしまわないべき感情だからだ。契約上の関係でいる方が、色々とやりやすい。
静香は、会社と自衛隊から命令されて正弘の元に派遣されているだけに過ぎず、血縁関係でもなんでもない。
だから、あまりべたべたした関係は望ましくない、と上司と自衛隊からも言われており静香もそう思っている。
 いずれ、正弘は自衛隊に入隊して戦いに出向かなければならないのだ。下手に情を寄せると、後が面倒だ。
やたらときつい態度を取ってしまう裏にはそういう理由もあったりするのだが、実際は、ほとんど静香の性格だ。
行動でなら優しさを示せるが、態度で優しさを示すことが極めて苦手だ。だから、ついああいう口調になる。
 静香はバックミラーにちらりと目をやり、ふてくされている正弘を見やった。彼は、窓の外を睨んでいる。

「マサ。それじゃ、次のサービスエリアで留まるから。そこで適当なのを買いなさいよ」

「え、でも」

「何よ、あたしの好意を受け取らないってわけ?」

「いえ、そうじゃなくって…」

 正弘は躊躇っていたが、気弱に漏らした。

「オレ、どういうものを買えばいいのか、解らないんで」

「それぐらい教えてあげるわよ。出来たばかりの友達に、変なの渡してドン引きされたくないだろうからね」

「いいんですか?」

 恐る恐る、正弘は静香を窺った。静香は、後ろ手に正弘のリュックを指す。

「あたしは金は出さないからね。支払いはあんたがやりなさいよ」

「それぐらい、言われなくても解っていますよ」

 正弘は言い返してから、正面に向いた。山間に造られた高速道路はカーブしていて、先にはトンネルがあった。
トンネルに入り、オレンジ色のライトが流れていった。長いトンネルらしく、出口は遠くに小さく見えていた。
 誰かにお土産を買って帰る、ということ自体がまず経験がない。だから、どうすればいいのか解らなかった。
遠出もしないからお土産を買う機会も少ない上に、最近まで友人がいなかったので買ってやる相手もいなかった。
故に、何が良くて何が悪いのか、さっぱりだった。静香が教えてもらえるとはいえ、多少なりとも不安だった。
人が何も知らないのを良いことにいい加減なことを教えたりしないだろうな、と、頭の片隅で考えてしまった。
 正弘は、己の無知さ故の情けなさと共に、ほんの少しの誇らしさと、浮き足立つほどの嬉しさを感じていた。
トンネルを抜けた瞬間、圧倒的な光が訪れた。一瞬、視界が奪われるが、すぐに光度を補正して視界を戻す。
 左手を伸ばし、右肩に触れる。有り得たはずのない感触と感じるはずのない熱の余韻の上に己の手を重ねる。
錯覚に過ぎないかもしれないが、左手の手のひらに温もりを覚えた。ボディの発熱とは違う、柔らかい熱だ。
右肩を握り締めながら、正弘は俯いた。その体温が、徐々に消えていく。温もりは薄れ、冷たさが滲みてくる。
 金属で出来た手のひらを、ワイシャツの硬い布地とその下にある装甲に押し当てていくと、熱は引いていった。
ずっと感じていたかったが、消してしまわなければと思っていた。そうしなければ、負い目は強くなってしまう。
これでいいんだ、と思う反面、悲しくもなった。だが、前に進むことを選んだのだから、今更躊躇うことはない。
 何一つ。




 翌日。昼休みになり、いつも通り四人は校舎裏に集まった。
 正弘は、鋼太郎とのキャッチボールをしている間、ずっとスラックスのポケットの中身が気になって仕方なかった。
うっかり落ちてしまわないか、と不安になりながらもキャッチボールをやめることは出来ず、結局最後までやった。
昼休みが始まるチャイムが鳴ると、程なくして百合子が透を引っ張りながら校舎裏に現れ、メンバーが揃った。
 正弘は、どうやって切り出そうか悩んでいた。二日ぶりですー、と百合子に挨拶されても生返事をしていた。
受け答えが妙に鈍い正弘に、鋼太郎は訝しんだ。左手に填めたグローブに右手を投げ込み、正弘を覗き込む。

「どうかしたんすか、ムラマサ先輩?」

「別に、なんでもないんだ」

 正弘は、声がちょっと裏返ってしまった。やけに緊張しているせいで、動きも強張ってしまってぎこちなかった。
透は正弘の様子を見ていたが、ふとあることに気付き、その目線を下げてスラックスのポケットを捉えた。

「あの、それ、もしかしてとは、思いますけど」

 透の細い指先が伸ばされ、正弘のスラックスのポケットからはみ出ているものを指した。

「えっと、間違っていたら、すみませんが、それって、絵はがきですか?」

「あ、ホントだ。それっぽい」

 透に言われて気付いたのか、百合子が彼女が指した先を見やった。

「なんで、解るんだ」

 正弘が少し困ると、透は気恥ずかしげに目を伏せる。

「私、そういうものは、結構、見慣れているんです。だから、そうじゃないかなって。それだけです、すみません」

「ムラマサ先輩、なんでそんなもの持ってるんすか?」

 鋼太郎が首をかしげると、正弘は校舎の壁に背を当てて足元に目線を落とした。

「いや、ちょっとな。遠出してきたから、そのついでに、買ったというかなんというか…」

「絵はがきなんて、マジでアナクロっすね」

 鋼太郎が意外そうにすると、正弘は途端に気分が沈んだ。これではまずかったのか、という後悔が駆け巡った。

「あ、でも、私は好きです、紙の印刷物って」

 透が言うと、正弘は三人の様子を窺うように顔を上げた。

「そう、思うのか? 本当に?」

「はい」

 透が小さく頷く。正弘はポケットからケースに入った絵はがきを三つ抜くと、差し出した。

「欲しくないなら、別に構わないが」

「くれるって言うんならもらいますよー。もったいないオバケに怒られちゃいますから」

 百合子は正弘の指の間から、ケースを一つ抜いた。透も右手を伸ばし、受け取る。

「これって、瀬戸内海の風景写真、ですか? 随分と、遠くまで、行ったんですね、ムラマサ先輩」

 正弘は、最後に一つ残った絵はがきのケースを鋼太郎に向けた。鋼太郎は、断れる状況ではないと思った。
明らかに、正弘は緊張している。声も上擦っているし、落ち着きもない。全くもって、正弘らしくない状態だ。
彼の言葉から察するに、旅行をしたからお土産を買ってきたので渡したい、のだろうが、緊張で変になっている。
 お土産を渡すことはそこまで緊張するものなんだろうか、と鋼太郎は不可解な気分になりながらも受け取った。

「じゃ、オレも頂きます」

 全ての絵はがきが手から離れ、正弘は安堵して肩から力を抜いた。ここまで緊張するなど思ってもみなかった。
正弘は力を抜きすぎて落ちてしまった肩を元に戻してから、絵はがきを出して見ている三人の様子を眺めた。
 瀬戸内海の美しい風景を映したもので、全部で十五枚セットだ。一番無難なお土産だ、と静香が言っていた。
訳の解らないキーホルダーや味の善し悪しが不明な箱詰めの菓子などもあったが、これが最初に目に付いた。
静香も、これなら大丈夫でしょ、と言っていたし、正弘も割と気に入ったので絵はがきにすることに決めた。
 だが、やはり不安になる。絵を描く趣味の透は気に入るだろうが、他の二人が気に入るかが大いに心配だ。
百合子はぱらぱらとめくって、絵はがきの写真を全て見てからケースに戻した。そして、正弘を見上げる。

「綺麗ですね、あっちの海って!」

「うん、私、こういうのって好きです」

 透も、表情を綻ばせる。鋼太郎は瀬戸大橋の映った絵はがきの一枚を眺めていたが、正弘に尋ねた。

「四国っすかー、結構遠いっすね。ムラマサ先輩、なんかの用事でもあったんすか?」

「ああ、ちょっとな」

 正弘は、努めて口調を平静にした。

「墓参りに」

 それが誰の墓なのかは、三人とも言及してこなかった。百合子の表情がほんの少し曇ったのが、解った。
鋼太郎も、表情は見えないが僅かに顔を伏せた。透は二人の様子を見ていたが、視線を正弘に戻した。
 恐らく、鋼太郎と百合子は正弘の境遇について多少なりとも知っているのだろう。至極、当たり前のことだ。
表向きは正弘の過去については隠されているが、教師や親が口を滑らせたのを聞いてしまった子供がいる。
そこから、じわじわと水面下で情報は広まり、正弘と同じ時期に学校に通っていた子供なら大抵知っている。
だから、なんら不思議に思うことはない。正弘は、鋼太郎と百合子と透が黙っていることがありがたかった。
それは三人の優しさの表れであり、配慮だからだ。その方が、正弘にとっても三人にとってもやりやすい。
 いつか必ず、彼らにはあの事件を話さなければならないとは解っているが、今は話をする勇気は起きない。
事の真相を話してしまえば、彼らの中にある懸念は具体的なものとなり、一歩間違えば畏怖と嫌悪になる。
そうなってしまうくらいなら、いっそ、秘密にしてしまうべきだ。誰にも言わずに、自分だけで消化するのだ。
 長年の苦しみを誰かに吐露してしまいたい気持ちもあるが、この平和が壊れるくらいなら耐え抜いてみせる。
掛け替えのない友人達との関係を維持し、穏やかな日常を続けるためには、何かしらの犠牲を払う必要がある。
 それが相手の気持ちなのか、自分の心なのかの違いだけだ。正弘は空になったポケットに、手を突っ込んだ。

「それで、今日は何を話す?」

 この幸せを守るためなら、どんな犠牲も厭わない。





 


06 11/3