アステロイド家族




不快指数100%




 眠れぬ夜の、無益な時間。


 恐ろしく嫌な夢を見て、目を覚ました。
 マサヨシは息苦しくてたまらず、喘ぐように呼吸を繰り返した。全身にべっとりと汗を掻き、喉は干涸らびそうだ。
寝汗は下着だけでなく寝間着にも染み渡り、張り付いた布地が重たい。この分だと、シーツも湿っているだろう。
額を拭ってみるも、すぐさま汗が噴き出してくる。ベッドから起き、ただの煩わしい存在となった寝間着を脱いだ。
 気休めに窓を開けたが、風が止んでいた。コロニーの空気を循環させるために、絶えず吹いているはずなのに。
そして、闇が圧倒的に深かった。普段なら見えるはずの人工の月が放つ光や星空の映像が、全て消えている。
明らかにおかしい。マサヨシは手近な布で体の汗を拭いてから、枕元の充電スタンドのスパイマシンを小突いた。

「サチコ、起きろ」

〈こんな時間に何か用?〉

 サチコはスパイマシンをくるりと回し、マサヨシを見上げたが、上半身裸の姿を見た途端に反転させた。

〈えっと、なんていうのかしら、いきなりすぎてちょっと困っちゃうわ!〉

「お前は一体何を意識したんだ」

〈別に何でもないわよ!〉

 サチコの慌てようにマサヨシは苦笑いを浮かべたが、話を戻した。

「まあいい。コロニーの管理システムに異常が発生していないか、すぐに調べろ」

〈りょ、了解よ!〉

 若干上擦った声で答えたサチコは、数秒のラグの後、ぴょんと高く跳ね上がった。

〈大変だわ! 自家発電システムが全基とも停止しているわ! メインコンピューターは非常予備電源を使っているし、私の本体はマサヨシのスペースファイターで別電源だからまだいいとしても、環境循環システムが完全にダウンしちゃってるわ! 風を一つ起こすにしても、海に波を立てるにしても、空を映し出すにしても、膨大なエネルギーを消費するシステムだから、そのために自家発電システムは五基も備え付けられていて、一基ぐらいだったら故障しても大丈夫なはずな設計に作られているはずなんだけど、おかしいわね。それに、それぞれの管理システムも独立しているから、一度に故障するなんてことはまず有り得ないはずなんだけど…ああ混乱しちゃうわ!〉

「とにかく、原因を調べて修理してくれ。俺達の手が必要だったら、後で呼んでくれ」

〈ええ、解ったわ。すぐに直してみせるんだから!〉

 サチコはその場で一回転すると、開け放たれた窓から外に飛び出し、スパイマシンの出せる最高速度で飛んだ。
マサヨシはその小さな姿が見えなくなるまで見送っていたが、クローゼットを開けて、適当な着替えを取り出した。
汗をたっぷり吸い込んだ下着をいつまでも着ているのは鬱陶しくて仕方ないので、一刻も早く着替えてしまいたい。
情報端末を開いてホログラフィーを明かり代わりにしながら、丁度下を脱いだところで、前触れもなくドアが開いた。

「いぃやぁーんっ!」

 ドアを開けた本人であり悲鳴を発した主であるミイムは、フリルの付いたネグリジェの裾を翻して身を捩った。

「パパさんってば大胆すぎますぅ! そんなのってば困っちゃいますぅ! 夜這われちゃいますぅー!」

「やかましい」

 マサヨシは本当に面倒だったので、すぐにドアを閉めた。寝苦しさによる苛立ちと喉の渇きで、気が立っていた。
黙々と新しい下着とシャツとズボンを着込んでから、再度ドアを開くと、ミイムはまだきゃあきゃあと騒いでいた。

「というか、来たのはお前の方だろう」

 マサヨシが非常用の懐中電灯でミイムの頭を小突くと、ミイムはわざとらしくウィンクして舌を出した。

「てへっ」

「用件は…まあ、言わなくても解る」

 マサヨシは汗を吸って重たくなった寝間着や下着を脇に抱えて、ミイムを押し退けながら自室から廊下に出た。

「そうなんですよぉ、すっごく暑くて目が覚めちゃったんですぅ。何がどうしたんですかぁ、パパさん?」

「自家発電システムが故障したせいで、空調も何もかもが止まっちまったんだ」

「ふみゅうん、そういうことなら仕方ないですぅ」

「サチコが修理に向かったんだが、自家発電システムが五基とも故障しているとなるとすぐに直るとは思えない」

 マサヨシはバスルームに向かい、洗濯物を洗濯カゴに入れてタオルを取り、ハルの部屋に向かって歩き出した。
当然ながら、ミイムも後に続いた。マサヨシがハルの部屋の扉を開けると、ハルはベッドの上でぐったりしていた。
ハルは二人に気付くと、体を起こした。あまりの蒸し暑さに不機嫌になっているのか、ハルの表情は曇っていた。

「パパぁ、ママぁ、暑いー…」

「安心しろ、それは俺達も同じだ」

 マサヨシはハルの傍に腰を下ろし、娘の汗を拭ってやった。ハルは、丸っこい頬を張る。

「喉乾いた、ジュース飲みたい」

「パパさん、ヤブキはどうしますかぁ?」

 ミイムはハルのパジャマを脱がせてやりながら、マサヨシに尋ねた。マサヨシは、ミイムにタオルを渡す。

「俺が行ってくる。こういう時、一番動けるのはサイボーグには違いないからな」

 マサヨシはミイムに後を頼み、ハルの部屋を出た。その途中でキッチンに寄り、冷蔵庫を開けたが生温かった。
だが、ないよりはマシだと飲み物の入ったボトルを取って呷った。案の定生温かったが、喉の渇きだけは癒えた。
マサヨシは気を取り直し、二階に続く階段を上った。西側のヤブキの部屋の扉を叩くと、気の抜けた返事があった。

「なんすかー?」

 扉の隙間から顔を出したヤブキは、側頭部の外装を開き、インターフェースに通信用ケーブルを差していた。

「今、丁度ネトゲからログアウトしたところなんすけど」

「いつもそんなことをしているのか?」

 マサヨシが訝ると、ヤブキはインターフェースからケーブルを引っこ抜いた。

「ここんとこはそうでもないっすよ。ほとんどのキャラの経験値をカンストしちゃったっすから、面白味が減ってきたんでログインする時間は短くなった方っすよ。それに、色々と仕事もあるっすからね」

「お前は趣味が無尽蔵だな」

「つっても、広く浅くっすけどね。オイラ金ないし」

 ヤブキは通信用ケーブルを無造作に丸めてパソコンの傍に置いてから、マサヨシに向き直った。

「んで、何かあったんすか?」

「お前のセンサーは何も感じていないのか?」

「えーと…」

 ヤブキはネットゲームに集中するために落としていた各種センサーを再起動させて、あ、と小さく声を上げた。

「なんすか、この外気温。三十四度なんて、熱帯夜も熱帯夜じゃないっすか。でも、オイラはそんなの全然気付かなかったっす。温度が上がればそれに応じて冷却装置が自動的に作動するっすから、感じようにも感じられなかったんすね。でも、なんでこうなったんすか?」

「自家発電システムが故障したんだ。それで、俺達は地獄のような不快感に苛まれているわけだが、その間お前はネトゲに没頭していたとは良い身分だな。というか、なぜお前のパソコンの電源は落ちなかったんだ?」

「ああ、それはパソコンにもモデムにもバッテリー入れてあるからっすよ。ネトゲ廃人の基本っすよ、基本」

 平然としているヤブキが羨ましいやら妬ましいやらで、マサヨシは苛立ちを感じたが、一応平静を取り繕った。

「とりあえず、下に来い」

「はいっすー」

 ヤブキは部屋を出ていくマサヨシの背に敬礼をしたが、付け加えた。

「あ、そうだ。いいものがあるっすから、それも持っていくっすよ、マサ兄貴」

「期待しないでおくさ」

 マサヨシは懐中電灯を回しながら、階段を下りていった。リビングに入ると、着替えを終えたハルとミイムがいた。
ハルはご所望通りのオレンジジュースを飲んでいたが、生温いのが不愉快なのか、ますます眉根をしかめていた。
マサヨシは先程の飲みかけのスポーツドリンクを取り出して気休めとして飲んだが、やはり生温く、体液のようだ。
 ミイムは暑さがあまり得意ではないらしく、少しだけひんやりするフローリングに突っ伏して動いていなかった。
いつもは魅力的なたっぷりとしたピンクの長い髪も、こうなってしまえばただの体毛なので、だらりと広がっていた。
先程は、無理をしていたのだろう。マサヨシは再びバスルームから持ってきたタオルを水で濡らして、固く絞った。

「少しは違うだろう」

 マサヨシは、濡れたタオルを突っ伏しているミイムの首筋に当ててやると、ミイムは安堵の声を漏らした。

「ふみゅうー…」

 すると、どたばたと激しい足音が階段を駆け下りてきた。一人だけ元気なヤブキが、リビングに飛び込んできた。
勢い余って床に突っ伏しているミイムを踏み潰しそうになったが、寸でのところで足を止め、慌てて飛び退いた。

「うおわっと!」

 ヤブキはたたらを踏んだが、姿勢を直し、最敬礼した。

「てーわけで、いいもの持ってきたっすー!」

「うるせぇですぅ」

 ミイムは顔を横たえ、虚ろな目でヤブキを見上げた。ヤブキは小さなボトルを取り出し、高々と掲げた。

「アイヌの涙っすー!」

「なんだそれは?」

 聞いたことのない名称の物体にマサヨシがきょとんとすると、ヤブキは自慢げに胸を張った。

「これを入れた風呂に入ればめっちゃ涼しくなれるっつー素敵な入浴剤っす! 平たく言えばハッカ油っす!」

「風呂の水、落としてなかったよな」

 マサヨシが一番最後に風呂に入ったミイムに尋ねると、ミイムはこくんと頷いた。

「そうですぅ。お洗濯に使うんですぅ。でも、この際水風呂でもなんでもいいですぅ」

 ミイムはサイコキネシスで自分の体を持ち上げ、ゆらりと起き上がった。

「貸せやですぅ」

 ミイムはヤブキの手からアイヌの涙を引ったくり、ふらふらと揺れながらリビングを出た。

「適量はキャップ三杯っすからねー!」

 ヤブキは幽霊のように漂いながらバスルームに向かったミイムの背に、嫌味に思えるほど元気良く呼び掛けた。
 それから数分後。アイヌの涙入りの水風呂から上がったミイムは、バスタオルで全身を覆って背を丸めていた。
行きと同じように床に足を付けずに浮遊してきたが、バスタオルを握る手には力が入り、がちがちと震えている。
そのまま掃き出し窓に掛けられているカーテンで身を包むと、へなへなと座り込み、目に涙を浮かべて絶叫した。

「寒い寒い寒いぃっ!」

「…え?」

 ハッカ油入りの水風呂に入った程度で、それは大袈裟では。マサヨシが目を丸めると、ミイムは喚いた。

「寒いっていうか痛い、サオもタマも痛ぇんだよコンチクショウ!」

「んじゃ、鍋焼きうどんでも作るっすか? よぉくあったまるっすよ?」

 ヤブキはへらへらしながらミイムに近寄ると、ミイムはヤブキを力一杯睨み付けた。

「絶対に許さねぇぞ、ヤブキ! よくも俺を騙しやがったな底辺野郎! くたばっちまえドチクショウめっ!」

 ミイムは態度を取り繕う余裕もなくなったのか、荒い言葉を叫び散らした。そして、またがたがたと震え始めた。

「マサ兄貴もどうっすか、アイヌの涙」

 ヤブキに肩を叩かれ、マサヨシは顔を逸らした。

「遠慮しておく。他の手段で体を流せばいい」

「でも、体を流せるぐらいの量のシャワーが出るとは思えないっすよ。水道管の中に少しは残っているかもしれないっすけど、電気がないんじゃポンプも動かないわけで」

「こういう時だけ鋭いな」

「そんなに褒めなくてもいいっすよ」

「皮肉を真に受けるな」

 マサヨシはがちがちを歯を鳴らして震えているミイムを眺め、アイヌの涙入りの水風呂に入るべきか考えた。
ヤブキの言う通り、タオルを濡らす程度の水なら残っているかもしれないが、シャワーが使えるほどの水はない。
そして、全身の汗が煩わしい。一度でも気になってしまうと鬱陶しさは膨れ上がり、風呂に入りたくて仕方ない。
だが、アイヌの涙とやらの威力は凄まじい。けれど、風呂に入りたい。いっそ、暑いよりも寒い方が良いのでは。

「風呂に入る」

 マサヨシがリビングから出ようとしたところ、ズボンの裾を何かに掴まれた。サイコキネシスで引っ張られたのだ。
振り返ると、涙目のミイムが髪を振り乱しながらぶんぶんと首を横に振っている。犠牲者を増やしたくないらしい。
マサヨシはミイムに力なく笑顔を見せると、ズボンの裾を引っ張っていたサイコキネシスが消え去り、解放された。
ミイムは青ざめた唇を歪ませ、不気味な笑みを見せた。どうせなら同じ地獄を味わえ、とでも言いたげな顔である。
マサヨシはその悪意の漲る笑顔に決意が鈍りそうになったが、この蒸し暑さが消えればなんでもいい、と思った。

「パパぁ、大丈夫?」

 ハルは心配げだったが、マサヨシは娘の汗ばんだ髪を撫でた。

「たぶんな。だが、ハルは入るな。それがお前のためだ」

「はーい」

 ハルは素直に引き下がり、マサヨシを見送った。ヤブキは自分で持ち込んだくせに他人事なので、笑っている。
マサヨシはそれが多少理不尽に感じたが、ヤブキはサイボーグなので風呂に入らなくてもいいのだから当然だ。
そんな身の上のヤブキが、なぜアイヌの涙という入浴剤を持っていたのかは理解しかねるがそれはそれである。
 マサヨシは懐中電灯を頼りにバスルームに入った途端、空気に充満するハッカの匂いを吸い込み、咳き込んだ。
本当にミイムはキャップ三杯も入れたに違いない。その証拠に、放置されているアイヌの涙の中身が減っている。
マサヨシは意を決し、バスルームのドアを開けた。すると、先程よりも更に濃厚なハッカの匂いが流れ出してきた。
その匂いの強さに若干畏怖したが、ここで退くわけにはいかない。マサヨシは、生温い水の湯船に身を浸した。
 数分後に、自分の判断を大いに後悔した。生温いと思っていた水が刺すように冷たくなり、肌が粟立つほどだ。
上がるのが怖いほど、寒気が凄まじい。だが、上がらなければますます体温が奪われると思い、湯船から出た。
その際、自分自身が動いたと同時に起きた僅かな空気の流れが肌を舐め、途端に痛いほどの寒気に襲われた。
そして、最も敏感な器官、股間が痛い。痛い。痛い。マサヨシはバスタオルで体を覆ったが、脱衣所に崩れ落ちた。
服を着る余裕すらなく、その場で震えるしかなかった。あれほど蒸し暑かった空気が、真冬のように凍えて感じる。

「おのれ、ヤブキ…」

 股間を押さえたマサヨシが恨みがましく呻いていると、そのヤブキがバスルームにやってきた。

「どうっすか? やっぱり鍋焼きうどん作った方がいいっすか?」

「だから、どうして鍋焼きうどんなんだ!」

 マサヨシはヤブキに怒鳴ったはずだが、あまりの寒さで覇気が失われていた。

「やだなぁ、アイヌの涙っつったら鍋焼きうどんっすよ」

 へらへらと笑うヤブキに、マサヨシは震える手でアイヌの涙をヤブキに投げ付けた。

「こんなもん捨てちまえ!」

「えぇー、そんなの勿体ないっすー。結構良い値段するんすよー、アイヌの涙って」

「捨てろ!」

「はいっすー。そこまで言われちゃ仕方ないっすね」

 残念そうだったが、ヤブキはアイヌの涙を持ってリビングに戻っていった。だが、マサヨシはまだ動けなかった。
こんな寒さは初めてだ。情けないほど震える歯を止めようと顎に力を入れようとするが、筋肉が反応しなかった。
 これではリビングには戻れない。せめてこの寒さが収まるまで大人しくしていなければ、父親の威厳に関わる。
元々あるとは思えない威厳がなくなってしまっては、マサヨシとしては大事だ。だから、必死に寒さと戦っていた。
しかし寒い、寒すぎて痛い。特に股間が痛い。針で刺されるような痛みが続いているせいで、縮み上がっている。
サイボーグと言えど、ヤブキも男ならこの苦しみが理解出来るはずだろうに、同情するどころか楽しんでいるとは。
 今ばかりは、ヤブキを疎んじるミイムの気持ちが嫌になるほど解った。







08 6/28