夕方。ヤブキは、家から離れていた。 あのまま自室にいては、アウトゥムヌスに何をするか解らない。また、アウトゥムヌスのことも解らなくなっていた。 いや、それ自体は最初からだ。アウトゥムヌスは子供の頃からあんな感じなので、子供らしさのない子供だった。 それがそのまま成長したものだから、扱いづらくて当然だ。しかも、理由もなしにヤブキに身を捧げようとしている。 男冥利に尽きるが、人としては困惑する。ヤブキは前者と後者が入り混じった結果、とうとう逃げ出してしまった。 部屋の掃除と片付けは全て終え、畑仕事も終えてきたが、アウトゥムヌスとの一件で家に帰る気が弱ってしまった。 「おい、ヤブキ」 背後から呼び掛けられてヤブキが振り返ると、西日を背負ったイグニスが立っていた。 「なんで帰らねぇんだよ? お前の嫁がいるんだろ、早く帰ってやれよ」 「そりゃそうなんすけどねー…」 「貴様程度の男に伴侶が現れた時点で異常事態なのだ、撤退こそが望ましい判断だ!」 イグニスの背後でトニルトスが嫌みったらしく高笑いしたが、ヤブキにはそれが正論だとしか思えなかった。 「そうっすよねー、そうなんすよねぇ…」 「おいおいおい!」 イグニスは動揺し、ヤブキに詰め寄った。 「何言ってやがんだヤブキ、この万年屈辱男の言うことなんか真に受けるんじゃねぇよ! ていうかお前だったら、訳の解らない単語並べて筋の通らない屁理屈こねるだろうが! 女装ウサギに蹴られすぎて、とうとう思考回路が切れちまったのか!?」 「ならば即刻分解しなくては」 すると、トニルトスが真顔と思しき声色で言ったので、ヤブキはぎょっとした。 「そりゃないっすよトニー兄貴、オイラのは回路じゃなくて蛋白質なんすから分解したらグッチャグチャっすよ!」 「なんだ、案外まともではないか」 なぜか不満げなトニルトスに、イグニスは苦笑いした。 「その気持ちは俺にも解るがよ」 「兄貴達って、オイラをなんだと思っているんすか」 「雑魚の中の雑魚じゃねぇの?」 「単細胞生物未満の生物ではないのか?」 イグニスとトニルトスの身も蓋もない評価に、ヤブキはげんなりした。 「もういいっす…。これ以上兄貴達と話すよりは、家に帰った方がまーだマシってもんっすよ…」 いつになく疲れた様子で家に向かうヤブキの後ろ姿を見、イグニスとトニルトスは揃って不可解さを感じていた。 アウトゥムヌスが同居したことで、一番喜んでいたのは他でもないヤブキのはずなのに、なぜ思い悩むのだろう。 二人は様々なパターンを想定して話し合ったが、大して面白い結論は出なかったので、ガレージに引き上げた。 ガレージに入るとトニルトスが、イグニスと同じ空間に暮らしていることは婚姻関係ではないか、と唐突に言った。 考えてみればそうかもしれない、とイグニスが冗談めかして返すと、トニルトスは自分で言ったくせに怒り出した。 そして、腹立ち紛れにイグニスを殴り飛ばしたトニルトスは、訳の解らない罵倒を吐き捨ててガレージを後にした。 一人取り残されたイグニスは状況を理解することを最初から諦め、数十度目の家出をしたトニルトスを見送った。 どうせ、朝になれば帰ってくるのだから。 夜が訪れると、ますます気まずくなった。 自分の布団の上で胡座を掻いたヤブキは、もう一組の布団に座る湯上がりのアウトゥムヌスと向き合っていた。 ミイムから借りた少女趣味全開のフリルとレースがたっぷり付いたネグリジェを着ていて、きちんと正座している。 少々水気を含んだ赤銅色の髪からは甘いリンスの香りが漂い、血の気の薄い肌はほんの少し赤みが差している。 ハルは眠ったがミイムとマサヨシはまだ眠っていないので、階下のリビングからは二人の会話が漏れ聞こえた。 防音が整っているので、サイボーグの聴覚でも気配程度でしかない。それはつまり、こちらも同じ状態だと言える。 扉さえ閉めれば、音は漏れない。床も厚いので、震動も伝わらない。この状況なら、何をしても他人には解らない。 だが、理想的すぎて逆にやりづらい。ヤブキはアウトゥムヌスの視線から逃れるため、徐々に顔を逸らしていった。 「ジョニー君」 だが、名を呼ばれては無視出来ない。ヤブキは動揺と混乱で仰け反り、引きつった声を上げた。 「ひゃい!」 「動揺の意味が解らない」 アウトゥムヌスは肩口から長い髪を零しながら、僅かに首を傾げた。ヤブキは変な恰好のまま、返した。 「あんまり解らなくてもいいと思うっすよ、そういうことは」 「なぜ」 「なぜってそりゃあ…」 ヤブキは座り直したが、あらぬ方向を見やった。 「なぜ」 「男って生き物はどうしようもないってことっすよ」 ヤブキは腹を括り、話してしまうことにした。このままでは、彼女との関係もぎこちなくなってしまう。 「むーちゃんにあんな偉そうなこと言ったくせして、本心はそうじゃないんすよ。オイラも若い男っすから、体がマシンでも性欲は残ってて、むーちゃんを大事にしたいって思っているくせして今すぐにでもヤっちまいたいとか考えちゃうんすよ。馬鹿っすよね、最低っすよね」 「それは、生物の必然」 「でも、だからってすぐ行動に移すわけにはいかないっすよ」 「なぜ」 「だって、オイラはまだむーちゃんを好きになったばっかりなんすから」 「好き?」 「そうっす」 ヤブキは一息置いてから、床に両手を付いてアウトゥムヌスに迫った。こうなったら、勢いに任せるしかない。 「オイラはむーちゃんのことが好きっす! オイラなんかと結婚してくれるからとかもあるけど、それ以前に女の子として好きっす! 可愛いし、ちっちゃいし、何から何までぺったんこだけどそこがまた萌えるし!」 「萌え?」 「あ、それもまた解らなくていいっす」 ヤブキはアウトゥムヌスを制してから、土下座の要領で深々とアウトゥムヌスに礼をした。 「だから、オイラからお願いするっす! オイラの彼女になって、将来的には結婚してほしいっす!」 「決定事項」 「そうだとしても、やっぱり色々と手順を踏まないとややこしくなっちゃうんすよ」 ヤブキは顔を上げ、照れ隠しに笑った。アウトゥムヌスは、その説明でとりあえず納得したようだった。 「道理」 本を正せば、単純な話だったのだ。その順番がいくつか入れ違っていたから、ヤブキは戸惑ってしまっただけだ。 好きになるのと結婚を申し込む順番が逆だったせいで、アウトゥムヌスの行動が納得出来なくて混乱しただけだ。 そう、それだけのことだ。ヤブキは安堵のため息を漏らして肩を落とすと、まじまじとアウトゥムヌスを眺めてみた。 華奢な首筋も、薄く浮いた鎖骨も、きっちりと揃えられた膝も、繊細な指先も、銀色の瞳も、どこを取っても美しい。 そこで、はたと気付いた。婚前交際を申し出たのはいいが、アウトゥムヌスの返事がないと成立しないではないか。 「むーちゃん、むーちゃん」 ヤブキは背を丸め、アウトゥムヌスの視線に合わせた。 「オイラが告ったってのに、返事はないんすか?」 「不要」 「いや、でも、ないとダメっすよこういうのは。どんなシナリオだって、攻略対象のヒロインから返事がないとフラグが成立しないんすから。時と場合にも寄るっすけどね」 「解った」 アウトゥムヌスは長めに瞬きをしてから、答えた。 「了承」 「いや、だから、ね…?」 ヤブキは肩透かしを食らってしまい、脱力した。アウトゥムヌスは、眉根に薄くシワを刻んだ。 「不可解」 「だから、なんてーかな、もうちょっとこう、ないんすか? 一応告られたんすから、それらしい返事ってのが」 「執着の意味が解らない」 「むーちゃんの意味が解らないシリーズも増えてきたっすねー…」 ヤブキはアウトゥムヌスに女の子らしいセリフを言わせることを諦め、改めて彼女と向き直った。 「オイラのことを解っても解らなくてもいいっすから、オイラと一緒にいてほしいっす。今のところは、それだけで充分なんすよ。あんまり急いだって、いいことはないっすからね」 「なぜ」 「そりゃあ、オイラはアレっすから、急いでもろくなことにならないって自覚してるっすから」 「アレ?」 「…説明しろと?」 ヤブキが躊躇うと、アウトゥムヌスは小さく頷いた。今、説明してもしなくても、いずれ解ってしまうことなのだが。 だが、説明する気にはなれない。ヤブキもそれなりの羞恥心は持ち合わせているので、出来れば言いたくない。 男同士でも、童貞か否かを言い合うのは気恥ずかしい。それ以前に屈辱的だ。だから、相手が女だと尚更だ。 ヤブキは五分以上黙り込んでいたが、アウトゥムヌスは好奇心の垣間見える眼差しを揺らぐことなく注いでいた。 「ジョニー君」 アウトゥムヌスに呼ばれ、ヤブキは迷った末に逃げた。 「その時が来たら言うっすよ、その時が来たら」 「その表現では具体性に欠ける」 「ああんもうっ! そんなにいじめないでほしいっす!」 「加虐行為を行った認識はない」 「むーちゃんってば、もう…」 ヤブキは困り果てたが、笑い出していた。アウトゥムヌスの無機質な言動は厄介だが、それが妙に可愛らしい。 それこそが彼女の魅力であり、特長だ。好きにならなかったら、ただ訳の解らない少女だとしか思わないだろうが。 彼女を理解するのも、距離を狭めるのも、これから時間を掛けて行えばいい。それほど焦らなくても、時間はある。 太陽系と惑星プラトゥムは気が遠くなるほど離れている。両親が火星に帰ってくるまでは、猶予は残されている。 その間だけになるだろうが、男女交際を楽しもう。本当に結婚することが出来なくても、似たようなことは出来る。 具体的に何をどうすればいいのか、ヤブキもあまりよく知らないが、精一杯好意を示すことが最も確実で簡単だ。 心残りは、出来る限り減らしておきたい。 08 7/29 |