届かない、届けられない。 火星を旅立ってから、二週間が過ぎていた。 ブリッジの操縦席に腰掛けたジェニファーは、つま先に引っ掛けたサンダルを揺らしながら欠伸を噛み殺した。 太陽系から惑星プラトゥムまでの航路は長い。当然ワープドライブを使用しているが、短縮出来ない空間もある。 度重なる次元震の影響で空間自体が脆い宙域や、ワープドライブの余波で時空の歪みが生まれる宙域がある。 次元の狭間であれば、ワープドライブを生成するエネルギーを放出すれば脱出出来るが時空の歪みは別物だ。 万が一飲み込まれてしまったら、どの宇宙のどの宙域の未来に飛ばされるか過去に飛ばされるかは解らない。 次元の歪みも時空の歪みも発見するのが難しいので、うっかり飲み込まれないように気を付けているしかない。 だが、ダンディライオン号の管制は全てセバスチャンに一任しているので、ジェニファーがすることは操縦程度だ。 しかしそれも、何もない宙域をひたすらに進む間は自動操縦に切り替えてあるので、特にやることはなかった。 「暇ねぇ…」 ジェニファーはポニーテールに結んだ髪の毛先を弄びながら、計器の並ぶ天井を仰いだ。 〈報告がございます、マスター〉 ブリッジの後方から、船内作業用の人型ロボットに意識を移したセバスチャンがやってきた。 「ん、何よ」 ジェニファーが体を起こすと、セバスチャンは執事のように胸に手を当てて礼をした。 〈お客様が船内にいらしておりますが、どうおもてなしいたしましょうか〉 「誰よ、それ」 腰のホルスターから熱線銃を抜いたジェニファーが立ち上がると、セバスチャンの背後の空間が一瞬歪んだ。 その歪みから飛び出したのは、人間だった。灰色のロングコートを翻した黒髪の青年は、しなやかに着地した。 弱重力に従って緩く編まれた長い三つ編みがゆらりと動き、グレーのゴーグルが外されると灰色の瞳が現れた。 彼の背後から、もう一つ影が現れた。主の倒錯した趣味を如実に示す、メイド服を着たピンクの髪の少女だった。 「よーぉ、ジェニー!」 青年は快活に笑い、道端で顔を合わせた友人同士のように挨拶してきた。 「こんにちはー、ジェニファーさん。お久し振りですー」 二次元の美少女をそのまま形作ったような少女は、髪をツインテールに結んでいるが、バネ状に巻かれていた。 少女が紺色のスカートを持ち上げて、礼儀正しく礼をするとバネ状に巻かれたツインテールもぼよんと上下した。 「グレン?」 ジェニファーが熱線銃を下げると、青年、グレン・ルーはにかにかと笑いながらジェニファーに近寄ってきた。 「この辺でランデブーすると思って、ベッキーちゃんと一緒に待ってたんだぜぇー」 「そうですー、待ってたんですー」 ベッキーという名のグレンの下僕は、主と同じく朗らかに笑った。 〈太陽系標準時刻で一年二ヶ月二十五日八時間十七分二十二秒振りにございます、グレン様〉 セバスチャンが、丁寧に礼をする。グレンは、ジェニファーの操縦席に馴れ馴れしく寄りかかってきた。 「んで、この航路、この時系列で判断すると、惑星プラトゥムに不時着している開拓植民船絡みの仕事だな?」 「だったらどうだってのよ、用がないなら自分の船に帰りなさいよ。燃料の無駄だわ」 ジェニファーはグレンを無視し、座り直した。グレンはジェニファーの前に回り込み、コンソールに腰掛ける。 「まぁいいじゃねぇかよ、この船なら俺とベッキーちゃんぐらいの重量が増えたって大したことねぇし」 「大したことあるから言ってんのよ」 ジェニファーが顔を背けると、グレンは身を乗り出してくる。 「そう怒るなよ、ジェニー。俺達が乗った分の燃料を補填出来る額の金は、ちゃんと払ってやるから。それに、俺も惑星プラトゥムにはちょいと用事があるんでね。輸送船ってのは、密入国するには打って付けだからな」 「用って何よ」 「それは言えねぇなぁ、お前が先に言ってくれないと」 「だったら尚更言わないわ」 「付き合い悪ぃなぁ、もう」 グレンは残念がりながら、コートの下からタバコを抜くと電磁ライターで火を灯し、煙を吸った。 「俺の方は、まあ、いつもの暗殺だ。皇帝と皇太子が死んでからの惑星プラトゥムは皇女のおかげで前以上に勢い付いちまってるから、近隣惑星が危機感を抱いてんだよ。ちょっと前まではどこにでもある独裁国家だったんだが、皇女がその独裁体制を完璧に破壊して民主主義に造り替えちまったもんだから、惑星全体が皇女を支持している。だが、近隣惑星のお偉方はそれが気に入らないんだ。今までの皇族は適当にプライドを揺さぶっておけば星間防衛でもなんでもやってくれたんだが、皇女は頭が良い上に一筋縄じゃいかねぇ女でな、理屈をこね回して星間防衛だけじゃなく生産も軍務も全て星系内で分担する案を立てたんだ。それがまた、寸分の隙のない案でなぁ。このままじゃ皇女のいいようにされちまうから、それを恐れた近隣惑星の指導者が俺に皇女の暗殺を持ちかけてきたっつーわけだ。だが、皇女もそう簡単に殺されるような女じゃねぇ。どこをどう調べたのは解らねぇが、その指導者の使者と俺が接触したことを知って、俺が最も恐れ最も敬愛する男を盾にしてきやがった」 「ギルディーン・ヴァーグナー?」 ジェニファーがある傭兵の名を出すと、グレンは子供のようにはしゃいだ。 「そうそう、ギルちゃん! もう大好き!」 「あんた、あいつに何度も殺されてんのに、なんでそんなに喜ぶのよ?」 ジェニファーが呆れると、グレンははにかんだ。 「だってぇ、嬉しいじゃあん。殺意だってなんだって、俺に感心持ってくれてんだもん。それに、今回の仕事だって俺が暗殺者らしいって知ったから請け負ってくれたんだぜ、ギルちゃんは。これはもう相思相愛っていうの?」 「付き合ってらんないわ」 ジェニファーが操縦席から立ち上がると、グレンは拗ねた。 「なんだよぉ、そのドライな反応ー。ホモの嫌いな女子はいないんじゃなかったの?」 「それはごく一部の話よ」 ジェニファーはグレンを指差し、強く命令を下した。 「セバスチャン! 今すぐこの馬鹿を宇宙空間に投げ捨てなさい!」 〈承知いたしました、マスター〉 セバスチャンがにじり寄ってきたので、グレンは慌てて身を引いた。 「あっ解った、解ったから、怒るなよぉジェニー!」 「でもー、御主人様は超人ですからー、宇宙空間に投げされたぐらいじゃ死なないと思いますー」 にっこりと微笑んだベッキーに、グレンは眉を下げた。 「ベッキーちゃん、助けてくんねぇの?」 「だってー、御主人様ならー、セバスチャンなんて敵じゃないからですー」 微笑みを絶やさないベッキーと間合いを狭めるセバスチャンを見比べ、グレンは両手を上げた。 「解ったよ。久々にジェニーに会えて、ちょっとはしゃいじゃっただけだよ」 「解ればいいのよ」 ジェニファーはセバスチャンを下がらせると、グレンを手招いた。 「食堂に来なさい。コーヒーでも淹れてあげるわ」 「土壌栽培のがいいな」 「贅沢言わないでよ」 グレンの要求を一蹴したジェニファーは、セバスチャンにブリッジを任せて通路の壁に付いたハンドルを掴んだ。 ハンドルを前に倒すと壁の内側でベルトが動き出し、ジェニファーを運んだ。グレンとベッキーも、同様に掴んだ。 重力が0.5G以下の船内では、惑星上のような歩行は難しい。なので、こうした移動装置はどの船にもある。 歩くよりも速く、あまり体力も消耗しないので便利だ。問題があるとすれば、これに慣れきって惑星に下りた時だ。 飛ぶような移動に慣れてしまうと、自分の足で歩くのが億劫になって、全体的な筋力が低下して体が鈍ってしまう。 筋力を補強する生体改造を受けていても、運動しなければあっという間に鍛えた筋肉は弛んで脂肪へと変化する。 ジェニファーは宇宙生活が長い割に体型に変化のないグレンを横目に見て、鍛え直さなきゃな、とちらりと思った。 いつ、何があるか解らないのだから。 輸送戦艦ダンディライオン号は、船室だけは広い船だ。 元々超長距離輸送船だったものを中古でジェニファーが買い付け、改造したが、内装には手を加えていない。 使わない船室の壁を抜いて自分の部屋を拡幅したぐらいで、他は大したことはせず、資金は武装に回したのだ。 だから、食堂も超長距離輸送船時代のままなので、厨房の設備も良く食堂も広大だがそれを使い切れていない。 元来、ジェニファーは料理をしない。保存食や栄養で事足りてしまうので、それほど食事にこだわりはなかった。 幼い頃の生活環境の影響で、食べられればなんでも構わない、という考えが未だに抜けていないせいでもある。 十数人の人間が一度に食事が摂れる長さのテーブルを挟み、ジェニファーは二人の来客と向かい合っていた。 グレンには先刻通りに湯気の昇る熱いコーヒーを振る舞い、機械であるベッキーには固形燃料のパックを与えた。 「その子、調子はどうなの?」 コーヒーを啜りながらジェニファーが尋ねると、グレンは固形燃料を囓っているベッキーの髪を撫でた。 「至って快調さあ。惑星フラーテルの周辺宙域に散らばってた機械生命体の破片を繋ぎ合わせて、アウルム・マーテルとかいう高エネルギー集積体のエネルギーが堆積していた金属細胞の固まりを動力源にして、俺の人格から写し取った疑似人格をAIに組み込んだだけだが、よく動いてくれるぜ。だが、問題があるとすれば自我の発達が早すぎることだな。アウルム・マーテルの無尽蔵なエネルギー波のおかげで破損してもすぐに自己修復と自己進化が始まるのはいいことなんだが、きっちりプログラムしたはずのロボット三原則を無視するようになりやがった。これは俺の予想だが、アウルム・マーテルはただのエネルギーなんかじゃねぇ」 「そう」 「なんだよぉ、自分で聞いといて」 グレンはコーヒーにミルクと砂糖をスプーン二杯ずつ入れてから、掻き回した。 「んじゃ、今度は俺の方から聞くが、いい加減にあの野郎からは離れられたのか?」 「その質問は、この状況に関係があるとは思えないんだけど」 ジェニファーは口元に近付けていたカップを止め、僅かに眉根を顰めた。グレンは、甘ったるいコーヒーを啜る。 「その顔だと、まだ入れ上げてるみてぇだな。だが、あいつはダメだ。こっちの世界を見ちゃいねぇ」 「私もそう思うんだけどね」 ジェニファーはカップを置き、唇を歪ませた。グレンは頭の後ろで手を組み、上体を反らす。 「過去が忘れられないのは解る。愛した女と娘が死んだ辛さも理解出来る。だが、あいつはそこから動こうとしちゃいねぇ。ついでに言えば、目が死んでんだよな、マサヨシってのは」 ブーツを履いた足をテーブルの上に投げ出し、グレンは天井を仰いだ。 「俺もあいつには何度か接触したことはあるが、嘘臭い野郎だったぜ。嘘にまみれて生きてきた俺が言うんだから間違いない。表情も態度も言葉も何もかも、薄っぺらいんだよ。あいつにとっての現実は、十年前だけだ。だから、あいつにとってはお前のことなんか現実じゃねぇ。現実じゃないから、目もくれないんだよ」 「ええ、解ってるわ」 「だったら、なんであんな野郎と関わる?」 「惚れた弱みよ」 ジェニファーは頬杖を付き、自嘲した。手を引くべきだと思えば思う男ほど、ずるずると深みに填ってしまった。 マサヨシと出会ったのは、彼が傭兵として動き始めた頃だった。表情の乏しい男、という程度にしか思わなかった。 彼は存在感こそ薄かったが、他の男達に比べて影が濃かった。イグニスと会話している時でさえ、瞳は暗かった。 それまでジェニファーは様々な男と接触を持ち、場合によっては男女の関係に至ったがそこから先はなかった。 強さを誇る男ほど早く死に、金を誇る男ほど他人に縋り付き、性格を誇る男ほど女を謀り、ろくな男がいなかった。 故に、マサヨシは新鮮だった。底知れぬ暗さを湛えている瞳の深さと、親しげな言動の裏の絶望に魅力を感じた。 しかし、マサヨシはジェニファーに全くなびかなかった。隙を見て迫っても、言葉を濁して逃げてしまうばかりだった。 ある程度距離を置いて、付かず離れずの距離を保って追いかけるうちに、いつしかマサヨシに心を奪われていた。 そして、あらゆる人脈を使ってマサヨシの過去を探った結果、見つけ出したのは彼の死んだ妻子の情報だった。 サチコとハル。幸せの絶頂で死んだ妻と生まれなかった娘。死人なのに、ジェニファーの胸中に嫉妬が生まれた。 この女さえいなければ、彼はジェニファーを見てくれていたかもしれない。そう思うと、憎悪に近い感情を覚えた。 けれど、何をどうやってもマサヨシの目はジェニファーを捉えることはなく、十年前に死んだ妻子を見て笑っていた。 最初はマサヨシの心が向いてほしくて彼に協力的な行動を取っていたが、近頃では死んでも良いと思っていた。 勝手に惚れて、勝手に嫉妬して、勝手に疎んで、挙げ句の果てに勝手に裏切って、ジェニファーの独り相撲だ。 だが、今更引き返せない。マサヨシの心を捉えるか、或いは自滅するか。それ以外にジェニファーの末路はない。 それ以上、グレンは問い詰めてこなかった。ジェニファーはそれをありがたく思いつつも、肩透かしだとも思った。 徹底的に罵倒されて、完膚無きまでに叩き潰してくれれば、少しは諦めが付いて死人に勝てない悔しさも紛れる。 だが、グレンは黙り込んでしまった。彼の中途半端な優しさが鬱陶しく、ジェニファーは温くなったコーヒーを呷った。 我ながら、見苦しい恋だ。 08 7/31 |