そして、ジェニファーは依頼主と落ち合った。 火星出身の植物学者であるタケル・ヤブキとその妻シンシア・ヤブキと、スペレッセ号の船内で顔を合わせた。 タケル・ヤブキはマサヨシと同系統の遺伝子を持っているらしく、その髪の黒さと瞳の深さは近しい雰囲気がある。 体格は良いが、科学者らしく筋肉は薄い。思慮深さを窺わせる眼差しはどこか暗く、表情も陰鬱で不安げだった。 シンシア・ヤブキも顔立ちは美人と言える系統の女性だが、長年の宇宙旅行で疲労が蓄積しているらしかった。 普段はきちんと結い上げているであろうブロンドからは後れ毛が零れ落ちて、青い瞳もどことなく色が濁っている。 その名を聞いてジェニファーが最初に思い出したのは、マサヨシの元で居候しているサイボーグのことだった。 彼のファミリーネームも、同じヤブキだった。無関係ではないだろうと思ったからこそ、この仕事を引き受けたのだ。 そうでもなければ、堅気の運び屋のような面倒な手順を踏んでまでこんな辺境宇宙の惑星に来たりはしなかった。 ジョニー・ヤブキに対して恩を売っておけば、巡り巡ってマサヨシとの関係も進展するかもしれないと思ったからだ。 無論、それ以外にも利益もあるから動いたが、ジェニファーの行動理念を支えているのはマサヨシに他ならない。 「つまり、私の船でお二人を火星までお送りすればよろしいんですね?」 傍らにセバスチャンの操るスパイマシンを従えたジェニファーは、科学者然とした風貌の二人を眺めた。 「統一政府の派遣したギガント級戦艦がセンティーレ星系に到着するまでは後二ヶ月近くありますし、かといって他星系の交通手段を使って移動するのは危険ですしね。あなた方なら身分も確かですし、私の船を使って火星に降りても問題はないでしょうしね」 「そうです。一刻も早く、息子に会いたいのです」 タケル・ヤブキが語気を強めたので、ジェニファーはさも今思い出した、と言わんばかりに間を開けてから返した。 「息子さんって、もしかしてあの人のことですか? ジョニー・ヤブキという…」 「そうです、ジョニーですわ」 シンシア・ヤブキは目元を潤ませて、胸の前で手を組んだ。 「あの子を火星に置き去りにしてしまったことを何度後悔したことか。スペレッセ号の搭乗員には余裕はあったのですが、私達にはあの子を宇宙へ連れ出せるほどの余裕がありませんでした。統一政府から命じられた、新たな植民地となる惑星を発見し、人類に適した環境に開拓するという任務の重たさばかりが気掛かりで、あの子のことを考えてやれませんでした。ですから、もう一度、やり直したいんです」 母親らしい言葉と母親らしい表情に、ジェニファーは虫酸が走った。客でなければ、すぐに立ち去っていただろう。 見る者の同情を誘う眼差しに、涙に上擦った言葉尻。だからサチコが嫌いなのだ、とジェニファーは改めて思った。 母親そのものが、根っから嫌いなのだ。宇宙海賊の生まれのジェニファーは、母親というものを知らずに育った。 だが、それが不幸だと思ったことはない。むしろ、血縁とやらで自分を縛り付ける存在がいないことを嬉しく思った。 けれど、ジェニファーが暮らしていた宇宙海賊の戦艦が破壊され、軍に救助され、養子になってからは変わった。 無戸籍児だったので、戸籍を作る際に作られた便宜上の両親が出来たことでどうしようもない息苦しさを感じた。 ジェニファーを引き取ったジェファーソン夫妻は、統一政府の職員の家庭で父親も母親も先祖代々堅気だった。 だが、二人の間には子供が一人も生まれなかったので、実子の代用品としてジェニファーは引き取られたのだ。 それからの日々は、地獄だった。朝から晩まで母親と名乗る女が付きまとってきて、細々と口や手を出してくる。 服の趣味、下着の趣味、食べ物の好き嫌い、テレビ番組の好み、休日の行き先、起床時間、就寝時間までもを。 宇宙海賊として生まれたジェニファーは、共同生活の必要最低限のルールは教えられたが、それだけだった。 基本的には放置されていたが、手の空いた搭乗員が構ってくれていたので、それほど寂しい思いはしなかった。 だから、自由だった。他人の迷惑にさえならなければ、仕事の邪魔さえしなければ、何をしても大丈夫だったのだ。 けれど、ジェファーソン夫妻は違った。事ある事にジェニファーに干渉したがり、自由な時間は奪われてしまった。 何もない日だと思っていても、下らない記念日やどうでもいい行事に引っ張り出されて、母親に飾り付けられた。 ドレスも化粧もアクセサリーも嫌いだと何度も言ったのに、母親はジェニファーを着せ替え人形と同等に扱った。 父親もまた、ジェニファーがいくら嫌がっても流行りのオモチャやゲームを買い与えて、機嫌ばかりを窺っていた。 二人の干渉を受けずに行動出来る学校は楽しかったが、登下校の最中にも二人からの通信は何度となく入った。 引き取られてからの十年間、自分でも良く耐えたと思う。あれは断じて愛情などではなく、狂気じみた執着だった。 ジェニファーは学校を卒業すると同時に二人との親子関係を解消し、それからは一度も顔を合わせたことはない。 流れてきた情報では、二人はジェニファーがジェファーソン家から去った後に新たな孤児を引き取ったのだそうだ。 それを聞いた時、呆れると共に馬鹿馬鹿しくなった。自分は、つまらない家族ごっこに付き合わされただけだ、と。 一時期は二人に対して殺意に近い憎悪を抱いていたが、薄っぺらい関係に執着する二人が逆に哀れに思えた。 きっと、あの二人は子供に執着する以外に心を埋める術を知らないのだろう。今でこそ、そう思えるようになった。 〈マスター〉 セバスチャンから声を掛けられて、ジェニファーは意識を引き戻した。 「ん、何?」 〈お客様からのご依頼を総合し、御代金の見積もりを立てましたのでご覧下さい〉 セバスチャンのスパイマシンはジェニファーの目の前にやってくると、ホログラフィーを展開した。 「ま、こんなもんね」 ジェニファーはセバスチャンの提示した代金と内訳を見てから、そのホログラフィーを二人に向けた。 「惑星プラトゥムから火星への燃料費とその他諸々の経費を合わせまして、二百五十七万八千五百クレジットってところでしょうか。一度にお支払い出来ないのでしたら、分割でも構いませんが」 輸送戦艦を航行させるには、それ相応の経費が掛かる。ジェニファーとしては、割と良心的な値段のつもりだ。 タケル・ヤブキとシンシア・ヤブキはその額に目を見張り、困惑気味に顔を見合わせてから、話し合いを始めた。 値切られたら値切られたで、こちらもある程度は譲歩するつもりだ。ジェニファーは、相談が終わるまで待った。 タケル・ヤブキの表情は強張り、口元も引き絞っていた。こりゃ値切られるかもね、とジェニファーは腹を決めた。 「解りました。火星に着き次第、全額お支払いします」 予想とは逆の言葉に、ジェニファーは少々戸惑ったが愛想良く微笑んだ。 「では、こちらの契約書にサインを」 ジェニファーは情報端末から契約書のホログラフィーを展開し、ホログラフィーペンと共に二人へと差し出した。 タケル・ヤブキは躊躇いもなく署名した。シンシア・ヤブキからは礼を述べられて、ジェニファーは微笑みを返した。 だが、心中は落ち着かなかった。科学者らしからぬ羽振りの良さに違和感を感じるが、それ以上に高揚していた。 これを切っ掛けに、マサヨシとの関係が少しでも変化すれば。死者よりも生者だと、彼の心身に教えてやりたい。 彼の笑顔を向けられたい。優しく声を掛けてもらいたい。触れてもらいたい。その心を奪い、虜にしてしまいたい。 そして、いつの日か、彼の家族になりたい。偽物の家族は嫌いだが、マサヨシと一緒なら本物の家族になれる。 彼の心を覆い尽くしている嘘を引き剥がし、破り捨て、現実を知らしめて、過去に傷付いた心を癒やしてやりたい。 体さえ重ねれば、サチコのことなど忘れさせてやれる。何が本物か思い出しさえすれば、彼はこちらを見てくれる。 そのためには、手段を選ぶ余地はない。 甘い、夢を見た。 唇に残る柔らかさと鼻先を掠める匂いは、愛妻のそれだった。腕にも、艶めかしい手応えが染み着いている。 いつの頃の記憶だろう。初めて彼女を部屋に入れた時か。或いは初夜か。どちらにせよ、サチコは美しかった。 マサヨシは薄暗い天井を仰ぎ見ていたが、ベッドの傍らを見やった。だが、そこには安らかに眠る妻の姿はない。 時間が経つに連れて、記憶が薄らいでいく。サチコの匂いや肌の滑らかさや唇の柔らかさが、遠のいてしまう。 夢として記憶を掻き混ぜて再構成しなければ、サチコが生きていた頃の息吹や気配を思い出しづらくなっている。 それがどうしようもなく空しくて、マサヨシはため息を吐いたが、寝室の淀んだ空気に広がって消えただけだった。 〈どうしたの、マサヨシ?〉 不意に、優しい声色の電子合成音声が響いた。マサヨシは一瞬驚いたが、すぐに声の主に目を向けた。 「サチコ」 ベッドサイドの充電スタンドに球体のスパイマシンを据えているナビゲートコンピューターは、朗らかに笑う。 〈マサヨシがあんなに深く眠っていたのを見たのは久し振りだわ。何か、良い夢でも見たの?〉 「まあ、そんなところだ」 マサヨシは、曖昧に答えた。虚ろな意識で聞くと、サチコの電子合成音声は愛妻のそれにとても良く似ている。 当然だ。マサヨシが似せたからだ。妻の声を忘れてしまいたくなくて、サチコの声に酷似した声に設定したのだ。 だが、その中に妻はいない。コンピューターのサチコには、愛妻のサチコの記憶を一片も持たせていないからだ。 〈なあに?〉 マサヨシと目が合い、サチコは首を傾げるかのようにスパイマシンのレンズを上向けた。 「サチコ」 〈だから、何よ〉 可笑しげに声を弾ませるサチコに、マサヨシは笑みを浮かべた。だが、それはこのサチコへの笑みではない。 甘く愛おしい夢の中では、サチコは照れていた。体を重ねている間に、何度も何度も彼女の名を呼んだからだ。 初めて愛した女が愛おしくてたまらなくて、抑えきれなかった。だから、その名を呼んで、体を探って、愛し抜いた。 これが幸せなのだと、マサヨシは初めて実感した。気怠げながらも優しく微笑んだ彼女が、何よりも大切だった。 そして、彼女の偽物もマサヨシに好意を抱いている。主従関係とはまた違った、女性らしい感情を垣間見せてくる。 それは嬉しいが、戸惑いもある。偽物であってもサチコはサチコだと思う自分もいるが、サチコは一人だとも思う。 だが、時折衝動は生まれる。偽物のサチコでもサチコはサチコなのだ、と、愛妻と同じように愛してしまいたくなる。 けれど、それは愛妻と愛娘への裏切りだ。マサヨシはスパイマシンを見つめていたが、目を逸らして息を吐いた。 「なんでもない」 〈何よ、気になるじゃないの〉 茶化してはいたが、サチコは問い詰めてこなかった。 「だが、命令はある。俺が寝付くまで、そこにいてくれないか」 マサヨシが以前愛妻に言った言葉を言うと、サチコは素直に聞き入れた。 〈ええ、いいわ〉 声は同じでも、状況は同じでも、言うことは違っていた。全く別の個体だから当然だ、とは思うが、落胆も感じた。 マサヨシは独り善がり極まりない考えに軽い自己嫌悪を感じたが、サチコを責められないので何も言わなかった。 〈でも、珍しいわね。マサヨシが私にお願いを言うなんて。なんだか、照れちゃうわ〉 いや。違わなかった。その時の情景と彼女の表情が生々しく蘇ってきて、マサヨシは息苦しいほど胸が詰まった。 結婚したばかりの頃のことだ。研究員であるサチコも軍人であるマサヨシも忙しく、なかなか時間が合わなかった。 夫婦らしいことは何一つ出来ずに、擦れ違うばかりだったが、その日は久し振りに時間が合って夜を共に出来た。 思う存分愛し合って、言葉を交わして、仕事の鈍い疲労とは違った心地良い疲労に満たされながら言ったことだ。 気付かぬうちに、マサヨシはサチコに愛妻の記憶を注いでいたのだろう。偽物に、本物を求めていたのだろう。 だから、彼女は愛妻へと近付きつつある。だが、それは物悲しいだけだ。けれど、訳もなく嬉しくなるのはなぜだ。 愛している。愛したい。愛しくて愛しくてどうにかなりそうだ。マサヨシは衝動に駆られ、彼女に手を伸ばしていた。 次の瞬間、滑らかな金属の感触が唇に訪れていた。妻と娘の入った保存容器に比べて、僅かに温もりがあった。 愛する女は、今も昔もサチコだけだ。 08 8/2 |