酒は飲んでも呑まれるな。 開いた口が塞がらなかった。 ミイムは、妹の墓参りに行くと出掛けてから一週間振りに帰ってきたヤブキの発言が、脳内に伝わらなかった。 聴覚の発達した長い耳は確かに合成音声を聞き取り、伝達物質を駆け巡り、情報として認識したはずなのに。 足元の感覚が失せ、血の気すら引いたような気がする。宇宙空間よりも虚ろな空間に浮いたかのようだった。 永遠にも思える空白の時間の後、ミイムはようやく理解した。彼に寄り添っている、アウトゥムヌスの仕草で。 簡素なワンピースを着たアウトゥムヌスは、薬指に金の指輪を填めた左手の指先で、ヤブキの手に触れていた。 心なしか、頬の血色が良くなったように見える。左の首筋にやけに大きな絆創膏を貼っていることも、引っ掛かる。 だがそれ以上に、ヤブキの発言が信じがたかった。ミイムは言い返そうと唇を開いたが、喉の奥が引きつった。 「くぇ?」 そのせいで、第一声がこれだった。ミイムは唾を飲み下してから、再度口を開いた。 「ケッコンって、そりゃタチが悪すぎて笑えもしねぇ冗談だろうなコノヤロウですぅ?」 「なんなら証拠見せるっすよ、証拠」 ヤブキは情報端末を取り出し、戸籍のコピーデータのホログラフィーを展開させた。 「ほうら。オイラとむーちゃん、ちゃーんと結婚したんすから」 ミイムは何度も瞬きをし、ホログラフィーを凝視した。戸籍謄本は見たことはなかったが、大体の意味は掴めた。 本籍、現住所、年齢、氏名とヤブキに関する情報が羅列されていて、その隣にアウトゥムヌスの名が並んでいた。 続柄、妻。その上、ヤブキは金の指輪を填めたアウトゥムヌスの左手の薬指をこれ見よがしに見せつけてきた。 「ほら、結婚指輪っすよ、結婚指輪ー」 「結婚指輪」 アウトゥムヌスはヤブキに左手を掴まれたまま、顔を伏せ、語尾をかすかに上擦らせた。明らかに照れている。 あのアウトゥムヌスが照れている。無表情で無機質で無感情で無反応だった彼女がヤブキを相手に照れている。 「ぐあああああっ!」 突然奇声を上げて仰け反ったミイムに、ヤブキはぎょっとして飛び退いた。 「うおおっ!?」 「…不可解」 アウトゥムヌスは大きく目を丸め、ヤブキに寄り添った。ミイムは両手で頭を抱え、大きく頭を振り回した。 「そんなこたぁ絶対あっちゃならねぇんだよドチクショウですぅっ! この一週間の間に何がありやがったんだアホンダラですぅっ! まさかたぁ思うが、ヤブキにアレされてコレされてソレされたんじゃねぇだろうなぁタクランケー!」 「ナニをどこまで想像したんすか」 ヤブキはアウトゥムヌスを背に隠して守りながら、悶絶しているミイムを見下ろした。 「そりゃもちろん、アレからコレからソレまでですぅ」 ミイムはヤブキを睨んで、舌打ちした。急展開にも程がある。前振りはあったが、現実になるとは思えなかった。 アウトゥムヌスとヤブキの関係は途中で頓挫するのだと、友達以上恋人未満で終わるものだと頑なに信じていた。 いや、そう信じていたかった。無表情だが寸分の隙もない美少女のアウトゥムヌスは、結婚などしてはならない。 結婚などしたら、その先はどうなることか。汚れ一つない白い肌が、ヤブキの粗野な手に触れられると思うだけで。 「みゅぎゅああああっ!」 ミイムは再び絶叫し、髪を振り乱した。息を荒げていると、不安げなハルがエプロンを掴んできた。 「どうしたの、ママ?」 「な、なんでもないですぅ」 ミイムは呼吸を整えて、引きつった笑顔を浮かべた。だが、そこから先は何も言えず、頬を歪ませるだけだった。 一人だけ事の真相を知っているであろうリビングにいるマサヨシに目を向けるが、マサヨシは曖昧な顔をしていた。 知ってはいるが、言いたくはないという顔だった。そんな態度を取られると、尚のこと気になってきて仕方なくなる。 だが、ヤブキの嘘を暴かないと決めたのは自分自身だ。ミイムは相反する感情に挟まれつつ、キッチンに戻った。 ヤブキとアウトゥムヌスが帰ってきたのは、つい先程のことである。火星に出掛けてから、一週間が過ぎていた。 二人を連れ出したマサヨシが先に帰ってきたので、帰りはどうするのかと思っていたら、機動歩兵で帰ってきた。 赤銅色の装甲の可変型機動歩兵、インテゲル号だ。外見だけでも、ヤブキには不相応なほど高性能だと解った。 ヤブキの有り金では到底買えない代物なので、恐らくアウトゥムヌスのプレゼントだろう。理由は、全く解らないが。 だが、不可解な点はそこではない。ヤブキは帰ってくるや否や、アウトゥムヌスと結婚した、と報告してきたことだ。 確かにアウトゥムヌスはそういう触れ込みでこの家に転がり込んできたが、一ヶ月と少ししか過ごしていないのだ。 世の中にはやたらとテンポ良く物事を進める人種もいるようだが、アウトゥムヌスはそうだとは思えない人間だ。 乗り気なのは、ヤブキだけだと思っていた。なのに、なのに、なのに。ミイムは鈍い頭痛を感じて、額を押さえた。 「なんという悲劇だ…」 リビングの窓の外から様子を見ていたトニルトスは、大袈裟に嘆いた。 「それでいいのか、アウトゥムヌス! 本当に、ほんっとーおにその野郎でいいのか!?」 動揺しきりのイグニスに、アウトゥムヌスは振り返り、小さく頷いた。 「構わない」 〈結婚は当事者同士の問題なんだから、第三者がごちゃごちゃ言うべきじゃないわ〉 球体のスパイマシンを操り、サチコはリビングのソファーに座るマサヨシの傍を漂った。 「まあ、そうだな。それに、結婚したからといって何か変わるわけでもないんだ。そんなに騒ぐほどのことでもない」 多少の背景を知っているので、マサヨシは冷静に返した。ハルはアウトゥムヌスに駆け寄り、背伸びをした。 「むーちゃん、指輪見せて!」 「指輪」 アウトゥムヌスは、ハルへと左手を差し出した。ハルは彼女の指輪を見ていたが、ヤブキを見上げた。 「お兄ちゃんのは?」 「ああ、オイラのはこっちにあるっすよ。填められないもんで」 ヤブキは迷彩柄の戦闘服の襟元を開き、チェーンをつまんで結婚指輪を引っ張り出した。 「おー!」 ハルはヤブキの襟元から現れた指輪を見、目を丸くした。 「じゃあさ、結婚式、した?」 「不要」 アウトゥムヌスは左手を下げ、ヤブキの手を握る手に僅かに力を込めた。 「こればっかりはむーちゃんの言う通りっすよ。式を挙げても挙げなくても、結婚した事実は変わらないんすから」 ヤブキは身を屈め、ハルと目線を合わせた。ハルは途端にむくれ、丸っこい頬を張る。 「そんなのつまんないよ! 結婚したんだから、式もしなきゃダメだよ! でっかいケーキ食べたいもん!」 「どうっすか、むーちゃん?」 ヤブキがアウトゥムヌスに問うと、アウトゥムヌスは少し長めに瞬きをした。 「一理ある」 「式とまでは行かなくても、宴席ぐらいは設けようじゃないか」 マサヨシは立ち上がり、ハルを抱き上げた。 「だが、準備には時間が掛かる。すぐに、というわけにはいかないぞ」 「えぇー。ケーキ、食べたいよぉ」 眉を下げたハルに、マサヨシは笑いかけた。 「ウエディングケーキを食べたかったら、ちゃんとママの手伝いをするんだぞ。解ったな」 「はーい」 ハルは頷き、マサヨシに寄りかかった。 「そういうわけだ、ミイム」 マサヨシがキッチンでへたり込んでいるミイムに声を掛けると、ミイムはシンクの下から顔を出した。 「そういうことなら、ボクも頑張りますぅ。ハルちゃんとむーちゃんのためなら仕方ないですぅ」 「んじゃ、オイラも手伝うっすよ」 ヤブキが挙手すると、ミイムは牙を剥いてがなり立てた。 「うっせぇすっこんでろコンチクショウアンニャロー!」 「…はあ」 ケンカ腰のリアクションには慣れているが、普段よりも反応が激しい。ヤブキは戸惑いつつ、挙げた手を下げた。 「なんすか、あれ。月の障りっすか? オスだけど」 ヤブキがマサヨシに向くと、マサヨシは腕を組んだ。 「昨日までは至って普通だったんだがなぁ。お前が帰ってきたせいかもしれないな」 「料理の仕込みを手伝わなくていいんだったら、オイラは二階に行ってむーちゃんの荷物を整理してくるっす。むーちゃんの私物があんまりにもなさすぎたから、色々と買い込んできたんすよね」 ヤブキは廊下に積み重ねていたマイクロコンテナを一度に五個も持ち上げると、軽い足取りで階段を上った。 アウトゥムヌスはヤブキが持ち切れなかった小さめのマイクロコンテナを抱えると、夫の背を追いかけていった。 「結婚式か…」 マサヨシには、懐かしい言葉だった。十一年前、サチコと結婚した日にささやかながら結婚式を執り行ったのだ。 同僚と双方の友人達を集め、規模の小さいパーティを行っただけだが、ドレス姿のサチコは美しく幸福そうだった。 当初は、どちらも仕事が忙しいので式を挙げなくていいと思っていたが、一生の記念になると周囲から言われた。 それに、マサヨシもサチコのウエディングドレス姿を一目見たいと内心では思っていたので結局挙げることにした。 穢れのないドレスに身を包み、華やかな化粧を施され、友人達から贈られた花々に囲まれた新妻は最高だった。 この世にこんなに美しいものがあって良いのかと、そんな女性を妻にして良いのかと、何度となく思ってしまった。 だが、その結婚式から一年が過ぎたばかりの頃に、サチコは胎内のハルを抱いて、マサヨシの目の前で死んだ。 幸せであればあるほど、暗転すれば闇が深い。そんなことまで思い出して、マサヨシは娘を抱く腕に力を込めた。 「ねえ、パパ」 ハルはマサヨシを見上げ、澄んだ青い瞳を瞬かせた。 「むーちゃん、どんなドレスを着るのかな? やっぱり、白くてふわふわしたやつかな?」 「花嫁が着る衣装ってのは、そうだと決まっているからな。明日を楽しみにしておけ」 マサヨシがハルを撫でると、ハルは頷いた。 「うん!」 「結婚…かあ…」 リビングの窓の外で胡座を掻いたイグニスは、ふっと空を仰いだ。 「俺、ハルが男を連れてきたら、そいつを全力で叩き潰すんだ…」 「死ね、小児性愛犯罪者め」 トニルトスはイグニスに背を向け、毒づいた。だが、イグニスの物騒な発言の気持ちだけなら解らないでもない。 火星での一件以来、トニルトスの関心は絶賛売り出し中の実力派アイドル、キャロライナ・サンダーに奪われた。 傭兵の仕事での稼ぎを注ぎ込んで、彼女の発売した歌や写真集などのデータを買うたびに信奉心は増していく。 今現在、キャロライナの身辺には何もないようだが、いつか恋人が出来るかもしれない。結婚するかもしれない。 キャロライナは純粋だ。キャロライナは清楚だ。キャロライナは女神だ。そんな彼女が男に喰われると思うだけで。 「ぐおおおおおおっ!」 突然野太い奇声を発して仰け反ったトニルトスに、イグニスは呆れた。 「とうとう回路が飛んじまったのか、無能馬鹿一代?」 「うるさい、黙れ、貴様などには到底理解出来まい!」 自分の想像でいきり立ったトニルトスが殴りかかってきたので、イグニスは逃げ出した。 「どうせまたキャロライナ・サンダーのことだろうが!」 「やっかましい!」 図星だったので怒りが過熱したトニルトスは、逃げ回るイグニスに追い付き、背後から力任せに殴り飛ばした。 そこから先は、いつもの展開だ。殴られたことで怒りが伝染したイグニスは、罵倒と共にトニルトスを殴り返した。 ミイムはキッチンからその様子を眺めていたが、苛立ちのままに舌打ちした。結婚したなら、祝うのが道理だ。 だが、正直言って祝いたくなかった。憂鬱でたまらない。アウトゥムヌスが、ヤブキに穢されてしまうと思うだけで。 またもや絶叫しそうになったが理性で押さえ込んだミイムは、胸焼けのようにむかむかしている心中に気付いた。 これは一体何だろう。誰に対しての感情だろう。なぜこうなるのだろう。考えてみたが、思い当たる節はなかった。 ならば、考えるだけ時間の無駄だ。明日、結婚式もどきのパーティをするのだから、沢山料理を作らなければ。 思い悩むよりも、手を動かした方が余程有益だ。 08 8/27 |