アステロイド家族




祝言醜聞



 人間は、追いかけられると本能的に恐怖を感じるものだ。
 ヤブキはばっさばっさと袴と袖を揺らして必死に走ったが、悪魔じみた顔で追うミイムとの間隔は変わらない。
それどころか、どんどん狭くなる。袴を履いているから速度が出ないのか、或いは今度ばかりは彼は本気なのか。
重たい水音を立てる一斗樽を背にして、耳の生えた悪魔が高笑いした。最早、化け物以外の何者でもなかった。

「げはははははははははは!」

 すっかり理性が飛んでいる。ヤブキはますます怖くなって、懸命に逃げた。

「せめて樽は置いてくるっすよー、高かったんすからー!」

「んなこたぁ聞いてねぇんだよミスター底辺!」

 いきなり呂律が戻ったミイムはヤブキの目の前に着地したが、勢いが付きすぎて地面が抉れてしまった。

「要するにだな、俺はてめぇが許せねぇんだよ! 美少女の中の美少女、全宇宙の財産、でもって俺達一家の華でありアイドル的ポジションのむーちゃんに手ぇ出しやがっただけじゃなく結婚なんかしやがって! 死刑だぞ死刑!」

「それ、どこのアイドルファンクラブの話っすか?」

 ヤブキが後退ると、ミイムはすぐさま間を詰めてヤブキの襟元を掴んだ。

「俺にとっちゃな、メスってぇのは潤いなんだよ、癒しなんだよ、張り合いなんだよ、趣味なんだよ!」

「なんかいきなり発情してないっすかー!?」

 あの時に酷似した口調に怯み、ヤブキは身動いだ。ミイムはヤブキの足元を払い、綺麗に背負い投げをした。

「うるせぇ黙れ抜け駆け野郎!」

 ヤブキの大柄な体は宙を舞い、背中から地面に落ちた。ミイムは仰向けに転がるヤブキを踏み、胸を張る。

「さぁて、どう料理してやろうか。てめぇなんざ喰えもしねぇが、バラバラにすりゃ俺の怒りぐらいは落ち着くかもな」

 これは本気で危ない。ヤブキは身を起こそうとしたが、ミイムのつま先で頭部を蹴り飛ばされて頭が仰け反った。
乱れた前髪から垣間見えるミイムの瞳は、殺気にぎらついている。発情期の時と同じ、肉食獣のような瞳だった。
新婚早々殺されたくない。ヤブキは武器を出すことを覚悟して両の拳を握ると、ミイムは再び日本酒を飲んでいた。
柄杓から溢れるほどの純米吟醸酒を、唇の端から零しながら飲み干したミイムは、口元を拭って熱い息を吐いた。

「なんで寝てるんですかぁ、ヤブキィ?」

 すると、ミイムは一転してへらへらと笑った。ヤブキが身を起こすと、ミイムはその傍にぺたんと座った。

「てぇいうかぁ、なんですかぁその格好? 似合わないですぅー」

 先程の邪悪な笑い声とは正反対の、楽しげな笑い声だった。ミイムは体を折り曲げるほど、激しく笑い転げた。

「みゃははははははははは、ふみゃははははははははは!」

 涙を滲ませるほど笑うミイムに、ヤブキは戸惑った。

「えーと、今度は何すか?」

「何って何がですかぁ? みゅふはははははははははは!」

「つまり、さっきのは怒り上戸で今度のは笑い上戸ってことっすか?」

「誰が漏斗ですかぁ、うみゃはははははははははは!」

「漏斗違いっすよ」

「みょほはははははははは、解ってますぅそれぐらい、だってボクはママだもーん」

 この上なく幸せそうに笑い転げるミイムに、ヤブキはほっとした。今のうちに宴席に戻って、助けを乞わなくては。
皆が皆、こちらを見ているだけで来ようともしない。その気持ちは痛いほど解るが、一人だけ絡まれるのは辛い。
それに、泥酔したミイムは介抱してやらなければ。ヤブキが立ち上がると、ミイムはヤブキの袴の裾を掴んできた。

「何立ってやがんだよぉ、ふみゅはははははははは」

「いくらなんでも酔いすぎっすよ。一旦家に戻って、水でも飲んだ方がいいっすよ」

「だぁーいじょうぶでぇすよぉー、うにゅーうん」

 ミイムはヤブキの裾を力一杯引っ張ってきたので、ヤブキは袴の帯を押さえた。

「あんまり引っ張っちゃダメっすよ、脱げたらどうするんすか」

「それはそれであんたにお似合いですぅ、みゅみゅみゅみゅみゅうーん」

「段々笑い声も崩壊してきたっすね…」

 ヤブキはミイムの両脇を持ち上げ、とりあえず立ち上がらせた。

「いいから立つっす、でもって帰るっすよ」

「やーでぇすよぉーだ。みゃみゃみゃみゃーあう」

 真っ赤な顔をしたミイムはけたけたと笑いながら、ぐるりと頭を回した。その拍子に、サイコキネシスが放たれた。
ミイムの傍らに鎮座していた一斗樽が持ち上がったが、こちらもまた不安定で、樽が揺れて中身の酒も揺れた。
 このままではどちらも危ない、とヤブキが一斗樽を支えようと手を伸ばしたが、ミイムの頭がかくりと前に落ちた。
すると、一斗樽も前に傾き、逆さになった。直後、ヤブキとミイムの頭上に日本酒の滝が流れ、視界が奪われた。
当然、頭からつま先まで日本酒まみれだ。ヤブキの紋付き袴だけでなく、ミイムの長い髪も服もべとべとになった。
全身くまなく酒を浴びたので、飲まなくても酔いそうなほどの強い匂いが漂い、足元に日本酒の水溜まりが出来た。

「ミイム、大丈夫っすか?」

 ヤブキは日本酒まみれのミイムの頬を軽く叩くと、ミイムは顔を上げ、ぼろぼろと涙を落とした。

「大丈夫じゃないよぉー!」

 今度は泣き上戸らしい。ヤブキはほとほと呆れ果てたが、放っておけないのでミイムを抱き上げた。

「いいから、家に帰るっす。酒を飲むのはいいっすけど、飲み方ってのがあるっすよ」

「だってぇ、ボク、ヤブキと遊べなくて寂しかったんだもぉん」

「へ」

 ヤブキが呆気に取られると、ミイムはわんわんと泣き出した。

「だってぇ、ヤブキはボクのお友達だもん! 初めてのお友達だもん! 女の子も好きだけど、ヤブキのことはもっともっと好きなんだもん! なのに、あの子が来てからあんまりボクに構ってくれなくなったし、一週間も留守にしてたと思ったら、結婚なんかしちゃってんだもん!」

「はあ…」

「ヤブキはボクのものなんだもん! ボクだけが遊ぶの! ボクとしか遊んじゃいけないのー!」

 幼児のような我が侭を連発するミイムに、ヤブキは辟易した。

「ガキっすか」

「ガキだもん、ボクはまだ子供だもん! 大人の仕事させられてたけど、ボクは子供なんだもん! ボクと遊んでくれる子なんて、いなかったんだもん! あんなに遊んでくれるのは、ヤブキが初めてだったんだもん!」

「フォルテさんがいるじゃないっすか」

「フォルテは妹だけど、遊ぶ暇なんてちっともなかったんだもん! お父様も早く死んじゃって、お母様は病気で寝込んじゃって、フォルテは軍隊に行っちゃって、つまんないから仕事してただけだもん!」

「そうなんすか」

「そうなんだよぉー!」

 うああああああん、と泣きじゃくるミイムは、日本酒の水溜まりに座り込んでしまった。

「ボクがヤブキを一番好きなの、大好きなの! だから、お婿になんて行っちゃいけないのー!」

 いやあぁー、と幼児のように泣き喚くミイムに、ヤブキは物凄く鬱陶しいと思ったが同時に微笑ましいとも思った。
今まで、嫌いだ嫌いだと言われていたが好きだと言われたことはない。裏返しだとは、既に気付いていたのだが。
以前、ミイムが二週間家出をして帰ってきてからしばらくの間は、ミイムはヤブキの顔を窺いながら近付いてきた。
口では嫌だと言う割には畑まで付いてきたり、いない方がせいせいすると言うくせに遠回しに料理も褒めてくれる。
 そんなことが何度も続けば、ヤブキと言えどさすがに感付く。嫌いだと言うのは好意を見せないための盾なのだ。
全く、面倒なママだ。だが、素直ではない弟だと思えば悪くない。盛大に泣いているミイムに、ヤブキはつい笑った。

「何言ってんすか」

 ヤブキは地面に膝を付いてミイムと視線を合わせると、ミイムの髪を荒っぽく撫でた。

「結婚したって、オイラはまだこの家にいるじゃないっすか。どこにも行かないっすよ」

「本当? ボクを一人にしたりしない? ずっと友達でいてくれる?」

 ミイムはヤブキの袖を握り締め、潤んだ金色の瞳で見上げてきた。だが、恐ろしく酒臭かった。

「本当っすよ。だから、もう泣き止むっす」

「本当に本当の約束なんだからね? 破ったら、今度こそバラバラにして脳髄潰して宇宙にぶちまけちゃうよ?」

「ラリってても言うこと変わらないっすね…」

 ヤブキはミイムを立ち上がらせようとしたが、酒が回りすぎて力が入らないらしく、簡単に膝が折れてしまった。
仕方なく、ヤブキはミイムを背負った。ミイムはヤブキの背中にしがみ付き、ホントだよね、と何度も繰り返した。
その度に、ヤブキは本当だと返した。考えてみれば、こんなに弱っているミイムを見たのは初めてかもしれない。
 ミイムがひっくり返したせいで、せっかく買い付けてきた純米吟醸酒の一斗樽は空になり、一滴も残っていない。
インテゲル号を清めてやろうと思って買ってきたが、こうなっては仕方ない。別の日本酒の一升瓶を開けてやろう。
一斗樽に比べて少々規模が小さくなるが、日本酒は日本酒だ。新たな機体の門出を祝うためには、欠かせない。
 宴席に戻る頃には、ミイムは背中で小さく寝息を立てていた。暴れるだけ暴れたせいで、疲れ果てたのだろう。
サイコキネシスを使えるミイムがいないと大きなウエディングケーキを組み立てられないので、ケーキはなかった。
それが不満なのか、ハルはむくれていた。マサヨシはそんなハルを宥めていたが、ヤブキの格好を見て苦笑した。
ただひたすらに残りの料理を平らげていたアウトゥムヌスは、日本酒まみれの二人を見、かすかに眉根を歪めた。

「酒乱」

「それはオイラじゃなくてこっちっすよ」

 ヤブキは急にどっと疲れが出てしまい、ずり落ちかけたミイムを背負い直して家に向かった。

「とりあえず、この暴走ウサギを風呂にでも入れてくるっす。ついでにオイラも入ってくるっす。あーもう…」

「浮気」

「むーちゃん、それ以上疲れること言わないでくれないっすか? オイラはね、どれだけ見た目が可愛くたって野郎に欲情出来るほど落ちぶれちゃいないんすからね」

「既知」

「じゃあ尚更言わないでほしいっす…」

 重たい足取りで家に戻ったヤブキを見送り、胡座を掻いていたイグニスはぽんと手を打った。

「これが結婚式ってやつか! 最初のアレは意味不明だったが、今のはちょっとだけ面白かったぜ!」

「人類の文化など低俗極まりないと思っていたが、あまり捨てたものでもないようだな」

 なぜか感心しているトニルトスに、マサヨシは首を横に振った。

「勘違いするな。後で面倒だ」

「ねー、ケーキはー?」

 ケーキを食べたいのに食べられないので、ハルはすっかり機嫌を損ねている。

「退屈」

 ヤブキがいなくなったために興味を失ったのか、アウトゥムヌスはピザソースとチーズに汚れた指先を舐めた。

〈主役の片方がいなくなっちゃったら、パーティの意味は半減するわね〉

 サチコの冷静な物言いに、マサヨシは軽く苛立ちを感じた。

「そうだな」

 だが、最も大きな問題はそこではない。ヤブキとミイムがいなければ、誰がこの皿やテーブルを片付けるのだ。
イグニスとトニルトスとサチコは戦力外。ハルは不機嫌。アウトゥムヌスは新婦だ。だから、マサヨシしかいない。
家を新築する時に必要経費を削減するために食器洗い機は付けなかったので、大量の皿は手で洗うしかない。
油染みなどの汚れが付いたテーブルクロスも、テーブルも、椅子も、綺麗にしてから所定の場所に戻さなくては。
考えただけで嫌になるが、自分がやらなければ誰がやる。汚れたままで放っておくことは、あまり性に合わない。
 どんな宴であっても、その後始末は厄介だ。




 ひどい頭痛と吐き気で、目が覚めた。
 頭全体が重たく、胃が鋭く痛み、全身がだるくてたまらない。ミイムは最悪の気分の最中、腫れた瞼を開いた。
ぼやけた視界を動かし、枕元のデジタルクロックを見た。時刻は朝を過ぎて昼になり、窓の外の日も高かった。
ぎょっとして起きあがろうとすると激しい頭痛に貫かれ、嘔吐感が迫り上がってきたので、思わず口元を押さえた。
すると、目の前に洗面器が差し出された。途端に我慢出来なくなって、喉の奥から溢れてくるものを吐き出した。
ひとしきり吐くと、少しだけ気分が落ち着いた。今度は水を渡されたので、口中をすすいで洗面器の中に出した。

「見事な二日酔いっすね」

 洗面器を持っていたのは、ヤブキだった。ミイムは言い返そうとしたが、あまりの頭痛で言葉にならなかった。

「今日はじっとしておいた方がいいっすよ。これ片付けてくるっすから、ちょっと待ってるっす」

 ヤブキはミイムを寝かせてから、部屋を出ていった。がんがんする頭を押さえ、ミイムはしばらく考え込んだ。
昨日、何があったのだろう。確か、ヤブキとアウトゥムヌスの結婚祝いパーティを行ったはずだが、記憶がない。
途中まではあるのだが、ある部分から断ち切られている。思い出そうとしても、頭痛に遮られて思い出せない。
しばらくすると、ヤブキは戻ってきた。湯気の昇る汁椀を乗せた盆を持っており、ミイムのベッドサイドに置いた。

「なんですかぁそれぇ」

 ミイムが力なく尋ねると、ヤブキはベッドサイドに腰掛けた。

「シジミの味噌汁っすよ。二日酔いには効くっすから」

「あーそう…」

 頭痛と吐き気と胸焼けがひどすぎて、言い返す気にもならない。ミイムは上体を起こすと、汁椀と箸を取った。
少しでも気分の悪さが減るなら、なんだって構わない。シジミの味が染みた塩気の強い味噌汁を啜り、嚥下する。

「にしたって、あんなにベロベロに酔ってオイラに絡んでくるなんて、どんだけ欲求不満だったんすか」

 ヤブキが口走った言葉に、ミイムは心底驚いて味噌汁を飲み損ね、激しく咳き込んだ。

「ボクはてめぇになにを」

 したってんだよコノヤロウ、と続けようとしたが、飲んだばかりの味噌汁が戻りかけたので言うに言えなかった。

「いやーもう、凄かったんすから。オイラと遊べなくて寂しいだとか、ヤブキはボクのものだから結婚しちゃいけないとか、ボクがヤブキを一番好きだーとか。覚えてないんすか?」

 ヤブキが並べた言葉が自分の言葉だとは到底思えず、ミイムは狼狽えた。

「ボク、そんなこと言ったんですか? しかも、ヤブキなんかに?」

「そりゃもう。ミイムのせいで、オイラは偉い目に遭っちゃったっすよ。一本背負いで投げられるし、一斗樽は引っ繰り返されるし、泣き付かれるし、家に連れて帰ったら帰ったでそこら中でゲロゲロ吐いちゃうし、たまに目を覚ましたと思ったらオイラから離れようとしないし、むーちゃんがオイラに近付くと威嚇するしで、散々だったっすよ」

 おかげで初夜が消えたっすよ、とヤブキは落胆した。ミイムは鈍い頭痛を堪え、それらを思い出そうと努力した。
言われてみれば、うっすらと記憶にある、かもしれない。だが、どれもこれも霞が掛かっていて鮮明ではなかった。

「前はそうでもなかったけど、今はオイラもミイムが割と好きっすよ。でも、一番はむーちゃんっすからね?」

 ヤブキは笑い、ミイムの寝乱れた髪を大きな手で押さえた。

「…うるせぇですぅ」

 その手を振り払いたかったが、ミイムは俯いて味噌汁を啜った。振り払わないのは、頭痛と吐き気がするからだ。
だが、それが言い訳だと自分自身が一番理解していた。酒の勢いで言ってしまったことは、事実と相違なかった。
訳の解らない苛立ちも、アウトゥムヌスへの見苦しい嫉妬も、ヤブキへの八つ当たりも、いつも放つ暴言も暴力も。
 ヤブキがいなかった一週間で、嫌になるほど思い知った。だから、帰ってきたら少しは素直になろうと思った。
けれど、帰ってきた彼はアウトゥムヌスと結婚したと言い、急に遠い世界に行ってしまったような気持ちになった。
それが悲しくて、切なくて、だが感じるだけ無駄なことだと頑なに信じ、酒の力で振り払おうとしたが逆効果だった。
 今まで、特定の相手に好意を示したことはない。皇太子時代は当然だが、この家に来てからも変わらなかった。
皆のことは平等に好きで、ヤブキもそうだと思っていた。家族の一人であって、それを超えた関係にはならないと。
だが、気付けば、そうではなくなっていた。嫌いだ嫌いだと言い張っていても、好きだと思う瞬間は何度も訪れた。
ミイムはレギーナではないのだから、気兼ねすることもない。嫌われてはいないのだから、遠慮することもない。
だが、意地を緩める切っ掛けがなかった。だとすれば、これは丁度良い機会だ。逃したら、次はいつになるやら。
 冷蔵庫には、新婚夫婦の入刀を待ち侘びたウエディングケーキがまだ残っている。和食も作れないことはない。
酒が全て抜けて気分も戻ったら、意地を張らずにいられるようになったら、今度こそまともに結婚を祝ってやろう。
 同性の友人らしく。







08 8/29