同時刻。マサヨシら以外の家族は、リビングに集まっていた。 リビングのテーブルにはメレンゲがキツネ色に焼けたレモンパイが鎮座しており、四人はそれを囲んでいた。 パイを切り分けるためのケーキナイフを握り締めているアウトゥムヌスは、どことなく緊張した面持ちになっていた。 彼女はヤブキを窺ったが、すぐに視線をレモンパイに戻し、普段はあまり動かさない唇を真っ直ぐに引き締めた。 ミイムはそんな彼女を眺め、ハルはレモンパイが切り分けられる時を今か今かと待ちかねて目を輝かせている。 アウトゥムヌスはまたヤブキを窺ったが、ヤブキから注がれる視線を受けて、またもや視線をレモンパイに戻した。 テーブルに並んでいる紅茶からは緩やかに湯気が漂い、リビングにはレモンパイの甘酸っぱい香りが満ちていた。 「ほらほらむーちゃん、切るですぅ」 微笑んだミイムは、アウトゥムヌスにケーキナイフを渡した。 「でも」 アウトゥムヌスはかすかに不安を滲ませ、ケーキナイフを両手で握った。 「大丈夫ですってばぁ。ボクがちゃあんと教えたんですしぃ、ちゃんと出来てますってぇ」 ミイムが頷くと、アウトゥムヌスは僅かに眉を下げ、またヤブキに視線を向けた。 「でも」 「むーちゃんが作ってくれたものだったら、オイラはなんだって食べるっすよ!」 ヤブキは張り切り、拳を握った。待ちきれなくなったハルも、アウトゥムヌスに迫る。 「むーちゃあん、はーやーくぅー!」 「…了解」 アウトゥムヌスはまだ不安げだったが、レモンパイにケーキナイフを差し込み、柔らかく焼けたメレンゲを切った。 メレンゲの下に敷き詰められたレモンカスタードが切れると、その下のパイ生地にもケーキナイフが差し込まれた。 パイ生地の端から端に至ったケーキナイフを抜き、二等分にした後レモンパイを皿ごと九十度回転させて切った。 それを繰り返して八等分に切り分けたレモンパイの下にケーキサーバーを差し込んで、四人分の小皿へと分けた。 「ジョニー君」 アウトゥムヌスは小皿の一つを取ると、躊躇いがちにヤブキに差し出した。 「では、僭越ながら」 ヤブキはおごそかにレモンパイを受け取ると、フォークを持って両手を合わせ、礼をした。 「いっただきまぁーす!」 ヤブキはフォークでレモンパイを切り分けると、マスクを開き、その中へ新妻の手作りの洋菓子を押し込んだ。 顎の力が強すぎて食感がメレンゲとレモンカスタードの柔らかな味わえなかったのが残念だったが、仕方ない。 程良くレモンが入り混じったカスタードクリームの甘みが広がり、パイのバターの香りが抜け、ヤブキは感嘆した。 「むーちゃん最強ー!」 「そりゃあむーちゃんですからぁ、上手く出来て当たり前なんですぅー」 ねー、とミイムはアウトゥムヌスにしがみついた。彼の腕の中でアウトゥムヌスは目を伏せ、肩を縮めた。 「良かった」 「ねえねえ、私も食べていい?」 ハルが身を乗り出すと、アウトゥムヌスは頷いた。 「構わない」 「うあーい! いっただきまーす!」 ハルはレモンパイの皿を取ると、フォークを握った。ミイムもレモンパイを一切れ取ると、手を合わせた。 「それじゃあ、ボクも頂きますぅ」 ハルに続いて、ミイムもレモンパイを食べ始めた。アウトゥムヌスはまだ躊躇っていたが、フォークを手にした。 レモンパイの先端を切り、口に運ぶ。他の面々の満足げな表情を窺いながら、自作の洋菓子の味を確かめた。 優しいカスタードの甘さに混じり合う程良い酸味を感じ、アウトゥムヌスはようやく表情を緩めて、フォークを進めた。 いつもは誰よりも早く食事を終えてしまうヤブキも、深く味わいたいのか、時間を掛けてレモンパイを食べていた。 アウトゥムヌスも、ミイムに手伝ってもらいながら初めて完成させたケーキの味を、いつになく丁寧に味わっていた。 今までもヤブキに教えてもらって何度か料理を作ったことはあったが、本格的な洋菓子を作ったことはなかった。 ミイムの教え方は丁寧でそつがなく、物覚えは良いが一般常識が著しく欠けているアウトゥムヌスに配慮していた。 そのおかげで初めてのレモンパイは無事成功し、四人は素晴らしいティータイムを満喫出来たというわけである。 「そういえばさぁ」 口の周りにレモンカスタードをべっとりと付けたハルが、掃き出し窓の外を見やった。 「パパ、朝からいないけど、どこに行っちゃったんだろうね?」 「パパさんのお部屋には出掛けるっていう書き置きがありましたけどぉ、行き先は書いてありませんでしたねぇ」 ミイムは紅茶を傾けながら、マサヨシの部屋の方向を見やった。 「そうっすねー。でもまぁ、心配することもないんじゃないっすか? イグ兄貴とトニー兄貴もいないっすから、たぶんいつもの仕事に行ったんすよ」 ヤブキは胡座を掻き、既に二杯目の紅茶を飲用チューブで啜り上げた。 「そっか、お仕事かぁ」 ハルはストローを銜え、よく冷えたオレンジジュースを啜った。 「パパ、いつ頃おうちに帰ってくるかなぁ。早く帰ってこないと、むーちゃんのケーキがなくなっちゃうのに」 「そりゃ違いないっす。これだけ旨いと、一ホールは楽に行けるっすよね」 満足げに笑うヤブキに、アウトゥムヌスは僅かに目線を彷徨わせた。 「…過大評価」 「だからって、むーちゃんの処女作を全部食べちゃダメですぅ! そりゃボクだってもう一つ二つ三つほど食べられると思いますけどぉ、パパさんの分がなくなっちゃうんですからね?」 ミイムにフォークで差され、ヤブキはばつが悪そうに肩を竦めた。 「でも、マサ兄貴ってあんまり甘いモノ食べない人っすよ? たぶん、酒飲みだからだと思うっすけど」 「そりゃまぁ、コーヒーだっていつもブラックですしぃ、カレーだって何だって辛口が好きみたいですしぃ、たまの晩酌は一人酒なのにやたらと量が多いですけどぉ、パパさんはこの家の主なんですからぁ、居候の新妻のお手製レモンパイを食べる権利は充分にありますぅ」 「なんかやけに遠回りっすけど、間違いじゃないっすよね」 ヤブキは、レモンパイの大皿に目を落とした。四人で一切れずつ食べたので、半分の四切れが手付かずだった。 となれば、お代わりが出来るのは三人だ。ヤブキが拳を握ると、おのずと他の三人も拳を握り、掛け声を上げた。 「さーいしょーはグー!」 じゃんけんぽん、とそれぞれに手を出したが、誰も勝たなかった。なので、もう一度掛け声を上げ、手を出した。 五回に渡る激闘の末、勝利を収めたのはミイム、アウトゥムヌス、ハルであり、ヤブキだけは食べられなかった。 それを不憫に思ったアウトゥムヌスは二個目のレモンパイをフォークで半分に切り、ヤブキの皿へと移してやった。 新妻の心遣いに感激したヤブキがアウトゥムヌスに飛びかかったので、ミイムはサイコキネシスを放ち、阻んだ。 ハルは念力によって壁に押し付けられてしまったヤブキの姿を見、けらけらと笑い、釣られて他の二人も笑った。 アウトゥムヌスは笑い声こそ上げなかったが、ほんの少し頬を緩め、明るく笑い合っている三人の姿を眺めていた。 宇宙空間での異変を、鋭敏に感じ取りながら。 次元艦隊出撃から一時間後。次元の歪みに程近い宙域に、二人は立っていた。 金属の肌に染み入ってくる、慣れ親しんだ波長のエネルギー。生を受けた時に浴びたぬくもりと同じ力だった。 たったそれだけのことなのに、とてつもなく安堵する。声も顔も乳の味も知らなくても、母は母であり、命の源だ。 あれは全ての機械生命体の母であり、神だ。五人の司令官を、ただの機械から生命体に変化させた存在だ。 惑星フラーテルが滅んだあの日、母も滅びたものだと思っていた。しかし、母は宇宙の彼方で生きていたのだ。 空虚な宇宙空間に漂う小惑星の一つに立っているイグニスとトニルトスは、巨大な次元の歪みを目視していた。 機械生命体の視力は凄まじい。人間には不可視である赤外線や紫外線だけでなく、空間すらも目視出来るのだ。 当然、ただ見れば視えるというものではない。受信する光の波長やエネルギーの波長を、微細に調節している。 新人類の科学力を遙かに超越した感覚なので、新人類の技術を持ってしても、その機能は完全に再現出来ない。 その上、センサーの出力を最大限に引き上げれば、新人類の操る宇宙船が発する通信電波も楽に傍受出来る。 どれほど暗号化された電波でも、高密度に圧縮されたデータであっても、解析してしまえば何のことはないのだ。 今まで隠していた機能ではない。ただ、マサヨシと共に組んで戦う間はこれといって使う必要がなかっただけだ。 だから、アステロイドベルト付近に出現した次元の歪みに接近する次元管理局の艦隊の情報など筒抜けだった。 「どうする、トニルトス。あの野郎、アウルム・マーテルと戦うつもりらしいぜ」 イグニスがトニルトスに向くと、トニルトスは組んでいた腕を解き、次元管理局の方向を見据えた。 「どうもこうもせん。あの男が我らに敵対するのならば、それ相応の施しを与えてやるまでだ」 「だな」 イグニスは少し笑い、力の漲る拳を手のひらに叩き付けた。 「てめぇをさっさとぶっ殺して俺がアウルム・マーテルを独占しようって思っていたが、計画変更だ。人間共のちゃちな艦隊を蹴散らして、アウルム・マーテルを地球に誘導し、アウルム・マーテルのエネルギーを解放して第二の惑星フラーテルを創造してやろうじゃねぇか」 「貴様にしては悪くない」 トニルトスはイグニスに目を向け、僅かに細めた。 「だが、アウルム・マーテルの力で再生するのは下劣な貴様の種族ではなく、高潔なるカエルレウミオンだ」 「今のうちだけ、言わせておいてやるぜ。どうせ勝つのはこの俺なんだからな」 イグニスは小惑星を蹴り、浮き上がった。トニルトスも足場を蹴り、上昇する。 「戯れ言を。誉れ高き勝利はカエルレウミオンにこそ相応しい」 二人が噴出したアフターバーナーを直接浴びた小惑星は、許容量を超えた熱量を受け、無惨に砕け散った。 イグニスとトニルトスは、あらゆる機能を解放していた。人間と生活するために押さえ込んでいた、全ての力を。 やろうと思えば、イグニスもトニルトスに及ばぬ速度で宇宙空間を飛行出来るが、エネルギー効率が悪すぎた。 その上、燃料として摂取してきたエネルギーも量の割に燃費が悪すぎたので、本気を出すに出せなかったのだ。 だが、今は違う。次元の狭間から零れたアウルム・マーテルの粒子が、全身の金属細胞を活性化させてくれた。 二人が次元の歪みへ最接近してから数十分後、次元管理局が所有する次元探査船の艦隊が接近してきた。 二人の体表面をくすぐった超広域レーダーの電波が消えると、次元探査船の格納庫から機体が吐き出された。 マサヨシのHAL号は次元艦隊の前衛に混じっており、援護役と思しき三体の大型の機動歩兵に囲まれていた。 『所属不明の機動歩兵二機に告ぐ。こちらは次元艦隊』 イグニスとトニルトスの通信に、次元艦隊のオペレーターから通信が入った。 『この宙域は極めて危険な状態にある。直ちに退避せよ。忠告に従わない場合、そちらの身の安全は保証しない』 「だったら俺達からも忠告しておいてやるぜ、劣等種族」 イグニスはレーザーブレードを抜くと、赤く輝く切っ先を次元艦隊に向けた。 「俺達の邪魔をしたら、命はねぇ」 「これはほんの挨拶代わりだ、丁重に受け取るが良い!」 トニルトスは最加速し、次元艦隊へと突っ込んだ。先頭の次元探査船の砲塔が動き、激しい迎撃が開始された。 だが、トニルトスの予測回路は弾道を読み切っていた。ビーム弾は一発も掠りもせずに、暗黒へと飲み込まれる。 格納庫から射出された機動歩兵がトニルトスを追尾するが、トニルトスは左を守る次元探査船の船腹に迫った。 船腹に激突する寸前で急上昇すると、トニルトスの下では五機の機動歩兵が船腹に激突し、粉々に砕け散った。 更なる追撃を避けたトニルトスは、次元艦隊の中では異彩を放っている銀色のスペースファイターに急接近した。 マサヨシの操るHAL号を両断するべく長剣を振りかぶった時、HAL号を守っていた三体の機動歩兵が反応した。 『中佐、援護します!』 女の声だった。大型の機動歩兵は体格に見合わぬ俊敏な動作でレーザーバルカンを挙げ、銃口を据えてきた。 『こんな奴、俺らだけでもマジ充分だし?』 二体目の機動歩兵は自律型らしく、人間の生体反応はなかった。彼はトニルトスの背後に回り、銃を挙げる。 『そうですとも、中佐! 我らベルナール小隊に敵はおりません!』 三体目の機動歩兵も電子合成音声の言葉を発し、トニルトスを囲んできた。 『待て、レイラ。こいつは俺の友人だ』 HAL号から、マサヨシの諫める声が聞こえた。トニルトスはHAL号に向き、言い捨てた。 「そうだ、貴様は逃げておけ。私の気が変わらぬうちにな」 『何があった、トニルトス。なぜこの宙域にいる』 「解り切ったことだ。我らが母が戻ってきたのだ」 『母ってのは、この次元の歪みから出現するメガ・エンジェルのことか?』 「炭素生物共が下らぬ名を付けおって、母が穢れるではないか。我らが母はメガ・エンジェルなどという低俗な名ではない、アウルム・マーテルという素晴らしき名を持っている!」 『だが、お前達の星はとっくの昔に滅んだはずだ』 「星は死んだ。だが、母は生きていた。母さえ在れば、機械生命体は再び繁栄することが出来る!」 トニルトスは剣先をHAL号に据え、語気を強めた。 「我らの邪魔をするならば、殺してやろう! 貴様など家族でもなければ友でもない、単なる炭素生物だ!」 「ま、そういうことだな」 トニルトスの背後に滑り込んできたイグニスは、HAL号を見下ろした。 「マサヨシ、俺はお前には感謝しているんだぜ。十年前に助けてくれたことも、ハルと出会わせてくれたことも、俺と仲良くしてくれたこともよ。けどな、それはそれなんだ。俺はルブルミオンの戦士であり、機械生命体の生き残りなんだ。同族を甦らせることが出来るってんなら、実行するのが道理だろ?」 『イグニス…』 動揺に震えるマサヨシに、イグニスは笑った。 「安心しろ、ハルだけは殺さねぇ。だが、それ以外は別だ」 『ということは、俺も殺害対象に入っているんだな?』 「物解りが良くて結構だ」 イグニスはレーザーブレードを掲げ、剣先を軽く振って三体の機動歩兵を挑発した。 「どうした、俺達を止めたいんだろ? だったら、さっさと掛かってこいよ」 『だったら、お望み通り相手をしてやろうじゃねぇかよ!』 機動歩兵の一体、サザンクロスがイグニスにレーザーバルカンを据え、連射した。 「ぬるい射撃だ!」 イグニスは急上昇してサザンクロスの銃撃を避けると、その頭上に回り、レーザーブレードを大きく振り抜いた。 サザンクロスの動力炉にまで至った光の刃はバッテリーを破損させ、蓄積されていた電力が一気に放出された。 その電流はサザンクロスの体内に装備されていた武装に流入し、過熱させ、数秒後にサザンクロスは爆砕した。 『うげえっ!?』 『サザンクロス!』 もう一体の自律型機動歩兵、ポーラーベアが名を呼ぶも、兄の応答はなかった。 『おのれ、異星体め!』 ポーラーベアはイグニスへ突っ込んだが、イグニスはポーラーベアの拳を受け止めると、ぐるっと腕を捻った。 足場のない宇宙でポーラーベアの機体は呆気なく一回転し、イグニスは彼の脇腹を蹴り付けて腕をへし折った。 潤滑油を散らしながら遠のいていくポーラーベアに銃口を向けると、最後の機動歩兵、レイラが割り込んできた。 『退け、ポーラーベア! 私が相手だ!』 「粋がってんじゃねぇぞ、人間」 イグニスはレイラの機体に接近すると、その腹部のコクピットに銃口を押し当てた。 「悪いが、俺はハル以外の人間にはさらさら興味がない。てめぇがどこの誰かは知らねぇが、俺達にとっちゃ虫けら以下なんだよ。目障りだ、失せろ」 トリガーが絞られ、バレルの奥でエネルギーが収束する。コクピットの中にも熱が入り、レイラは息を呑んだ。 マサヨシがHAL号の主砲をイグニスに合わせて操縦桿のトリガーを押し込んだが、レスポンスにラグがあった。 HAL号とイグニスのレーザーバルカンから閃光が迸ったのは、ほぼ同時だったが、HAL号が僅かに遅かった。 二つの閃光が宇宙を駆け抜ける直前、次元が大きく揺らいだ。その拍子に、レイラの機体が下方にずれた。 イグニスもまた下がったため、どちらも被弾しなかった。イグニスは舌打ちしてから、次元の歪みに振り向いた。 次元の歪みから、神の力を思わせる金色の光が溢れ出した。太陽よりも神々しく、月よりも暖かい、母の光だ。 黄金の光の粒を纏った天使が、全長百万メートルを超える巨体が、次元を超えて太陽系へ現れた瞬間だった。 波打った艶やかな金髪を揺らめかせ、華奢な手足を伸ばし、六枚の翼を広げた天使は、重々しく瞼を開いた。 瞼の下に隠されていたエメラルドグリーンの瞳孔を持つ眼球は、ぐるりと動き、二人の機械生命体を見定めた。 そして、天使は笑った。 08 9/15 |