アステロイド家族




終末序曲



 この上なく、平和な時間だった。
 窓の外にちらつく雪は、音もなく降り積もっていく。時折、山の木々に積もった雪が崩れ落ちて雪煙を立てていた。
人工の空は鉛色で日が昇った後も薄暗かったが、何もするべきではない日、年始休暇の最中には丁度良かった。
 リビングでコタツに入っている面々は、いずれも弛緩していた。三が日にやるべきことはやり終えたからである。
今となっては廃れた習慣、初詣に行けない代わりに晴れ着を着て記念撮影をし、縁起物の料理を囲んで食べた。
もちろん、おせち料理を作ったのはヤブキである。いつのまにか仕入れていた餅米を蒸かし、餅も大量に作った。
ヤブキが言うには、正月の伝統行事である古めかしい遊びに興じたりもしたが、それが三日も続くと飽きてしまう。
 かといって、一度だらしない生活に浸ってしまうと、日常生活に戻るためのギアを切り替えることが難しくなった。
特に弛緩しているのが、毎日のように忙しく働いていた母親役のミイムであり、コタツからほとんど出ようとしない。
目の届く範囲ならばサイコキネシスで用事を終えてしまうし、歩くのも億劫なのか移動もサイコキネシスばかりだ。
それは良いことであるはずがないのだが、ミイムは人一倍働いているので、正月ぐらいはという気持ちも出てくる。
 マサヨシもコタツに入りながら、でろりと寝そべった少年を見下ろした。両腕を投げ出し、長い髪も乱れている。
長い耳も伏せていて、コタツ布団の下では尾が垂れ下がっている。放っておけば、このまま溶けてしまいそうだ。

「少しは動け」

 マサヨシがミイムを小突くと、ミイムは眠たげな目を上げた。

「うみゅーん、やーですぅー」

「まあ、コタツってのは魔力があるっすからねー」

 ヤブキもコタツに入っていたが、その膝にはいつものように小柄なアウトゥムヌスがすっぽりと収まっていた。
コタツを出してから、アウトゥムヌスの定位置が変わった。それまでは、彼女は夫であるヤブキの傍に座っていた。
ヤブキから付かず離れずの距離を保ち、ヤブキの腕に手を掛けていたり、ヤブキの服の裾や袖を掴んでいた。
 妻と言うよりも、妹のような構図だ。それが、コタツを出してからは尚更顕著になり、今ではヤブキの一部だった。
アウトゥムヌスはヤブキの傍にいられれば満足なのか、コタツの上に散らばるミカンを取って、黙々と食べていた。

「半分」

 アウトゥムヌスは皮を剥いたミカンを半分に割ると、頭上のヤブキに差し出した。

「どうもっす、むーちゃん」

 ヤブキは顔を下げてマスクを開き、アウトゥムヌスが差し出したミカンの半分を一口で食べてしまい、飲み下した。
アウトゥムヌスは残った半分のミカンを一房ずつ千切って食べていたが、彼女の前には皮が山積みになっていた。
 今日だけでも二十個は食べている。皮の汁が爪や皮膚に染み付いているせいか、小さな手は黄色くなっている。
いくらなんでも食べ過ぎではないか、とマサヨシは少々心配しつつ、コタツの上に転がっているミカンを一つ取った。

「ハルも喰うか?」

 マサヨシは皮を剥いてやると、マサヨシの隣に座っているハルに差し出した。

「うん、食べるー」

 ハルは丸裸になったミカンを両手で受け取ると、食べ始めた。ミイムは床に潰れていたが、ほうっと息を吐いた。

「年末年始なのに、ゴタゴタしてないってのは楽ですぅ」

「母星じゃ結構忙しかったんすか?」

 ヤブキが問うと、ミイムはごろりと身を反転させて仰向けになった。

「そりゃあもう。ボクとフォルテは年がら年中仕事をしていましたけどぉ、年末年始は式典ばっかりでぇ、年末年始の三ヶ月は休む暇なんてちっともなくってぇ、年末年始が来ると思うだけで胃がキリキリするくらい嫌だったんですぅ」

「式典ってあれっすよね、お偉いさんの演説とかパレードとかのことっすよね?」

 首を捻ったヤブキに、ミイムは今し方口にした言葉に気付き、弛緩したまま取り繕った。

「そういう大きなイベントがあるとぉ、下々も忙しくなるんですぅ」

「まあ、道理っすね」

 ヤブキは一応納得したのか、それ以上は聞いてこなかった。ハルはミカンを一房口に入れると、咀嚼した。

「ママもミカン食べる? おいしいよ」

「もちろん食べますぅ」

 ミイムはようやく起き上がると、髪の乱れを簡単に整えてから座り直し、ハルの小さな手からミカンを受け取った。
その様を外から見ているイグニスとトニルトスは、複雑な心境だった。機械生命体は、暖房に当たる必要などない。
 人間にとっては極寒である氷点下の世界も、灼熱の世界も、分厚い金属の肌を持つ者達には関係のない話だ。
あまりにも高温だったり低温だったりすると回路やケーブルに損傷が出るが、上下五百度程度であれば問題ない。
動力機関以外は温度を保つ必要性が薄いので、体温調節も必要ない。だが、コタツが無性に羨ましくなっていた。
 他の面々が気持ちよさそうに入り、呑気な会話を続けている様を見ると、必要性がなくても入りたくなってくる。
だが、物理的に無理だ。イグニスは右肩のリボルバーに積もった雪を払ってから、体を折り曲げるほど項垂れた。

「なんか寂しいな、俺達…」

「言うな」

 トニルトスも似たような心境だったのか、顔を背けた。

「なー、トニー。コタツって作れねぇかなぁ?」

「遠赤外線装置を内蔵した暖房器具を作ることなど造作もないが、作ったところで何か意味があるのか?」

「ねぇな」

 自分から言い出したくせにあっさりと切り捨てたイグニスは、トニルトスに向いた。

「んでよ、トニー。なんとなくお前のことをトニー呼ばわりしてるけど、そんなに文句言わねぇんだな」

「呼び名などどうでも良い。貴様などに抗うだけ、エネルギーの無駄遣いだ」

「解ってきたじゃねぇか」

 イグニスは少し笑い、トニルトスの肩を叩いた。

「気安く触るな」

 トニルトスはイグニスの手を弾いてから、家に向いた。リビングの中では、皆がミカンを食べながら団欒している。
この光景を見ているとアウルム・マーテルの事件が遠い過去のように思えるが、ほんの三ヶ月前の出来事なのだ。
そこに至るまでの時間は途方もなく長かったが、アウルム・マーテルの意識であるタルタロスとの決戦は短かった。
 戦闘中は時間の経過を気に留める余裕はほとんどなかったが、後から思い返してみると短時間の戦闘だった。
マサヨシやサチコ、そして五体の司令官の力を借り、タルタロスを制するまでに要した時間は一時間足らずだった。
だが、それだけの時間で、これまで機械生命体が積み上げた戦争の歴史の象徴であるタルタロスは滅ぼされた。
 時間とは不思議なものだと思う。長い時を掛けても終わらなかった戦いが、一瞬のような時間で終わるのだから。
そこから先の時間は、長くあってほしいと誰もが願う。イグニスとトニルトスもまた、平和な時間を噛み締めていた。
 皆が皆、やるべきことを果たした。起きるべきことは起きた。失うべきものは失って、守るべきものは守り通した。
だからもう、何も起きないのだと信じたい。マサヨシも、存分に時間を掛ければサチコへの感情を溶かせるだろう。
 マサヨシは大人だ。肉体的には成熟していても精神的にはまだまだ未熟だった、ミイムやヤブキとは違っている。
感情を隠しがちで本音を曝け出そうとはしないが、それもまた穏やかな時を重ねていけば壁も薄くなることだろう。
だから、何も不安に思うことはない。けれど、重たい懸念は消えなかった。イグニスは、窓越しに相棒を見つめた。
 リビングからはガンマのスパイマシンが二人を見返しており、サチコと同じだがサチコではない視線が注がれる。
ガンマは何も考えていない。サチコとは違い、感情と人格を造り出すプログラムが組み込まれていないのだから。
けれど、時折、彼女のパルスを感じることがある。イグニスはガンマを見据えていたが、ガンマは視線を逸らした。
 そう。何も、不安に思ってはいけない。




 世界は不安に満ちている。
 そう思うようになったのは、最近からだ。アエスタスは巨大なる母と対峙していたが、強い不安に駆られていた。
地球のコアと同等の質量を持つ母は、あらゆる生物を凌駕しており、神にも等しい能力と知力を持つ絶対なのだ。
けれど、母が何なのか知っているわけではない。母は母であり、母は母以外の何者でもなく、母は母でしかない。
 だが、自分は一体何なのだろう。母から生み出された個体のうちの一体であり、母の分身である四姉妹の次女。
世を偽るための軍人としての地位とそれに相応しい能力と知識を与えられ、妹達とは違った役割を任されている。
 母の望みを叶え、母の意のままに動くことこそが全てだった。けれど、母の願いを叶えた先のことは知らない。
造物主たるアウルム・マーテルを滅ぼした機械生命体は、新たな日々を歩んでいったが、自分達はどうだろうか。
 母の望みを叶えた後に、何があるのだろう。いや、何もあるわけがない。全ては、母が与えてくれていたからだ。
肉体も、精神も、知識も、記憶も、過去も、未来も、母が造ったものを愚直に受け止めることしか知らなかった。
だが、他の個体はそうではない。母を滅ぼし、造物主を滅した後も、それぞれの意志のままに歩くことが出来る。
 けれど、アエスタスにはそれが出来ない。母から見放された後のことなど、一度も考えたことがなかったからだ。
知らないことは出来ず、解らないことに迫る勇気がない。そして、これから先のことを母に尋ねる勇気もなかった。

「お母様」

 だが、母は答えない。

「お母様」

 一歩、近付いてみる。だが、母は何も返してくれない。

「お母様…」

 けれど、母はいくら呼んでも答えてくれない。アエスタスは、冷え切った怯えを感じている自分に気付いた。

「お母様?」

 足元が、今にも崩れていきそうだ。もう一歩踏み出せば、母を苛立たせるかもしれない。怒らせるかもしれない。
もしかしたら、ずっと母の機嫌を損ねているのかもしれない。或いは、分身なんかには興味がないのかもしれない。
母から生み出されたのに、母の何も知らないのは、分身には自分の情報を渡すつもりがないからではないのか。
それは、母の役に立たないからだろうか。だとしたら、尚更自分が解らなくなる。何のために、ここにいるのだろう。

「お母様」

 アエスタスは母に手を伸ばし、母を乞うた。

「どうか、答えて下さい」

 だが、母は黙している。

「私は」

 一体、何なのですか。

「私は…」

 だが、それだけの言葉が言えなかった。否定されることが恐ろしくてたまらず、アエスタスは質問を飲み込んだ。
もし、否定されたらと思うと、世界から消滅するよりも恐ろしい。自分を支えている根底が、消えてしまうのだから。
 母に否定されたら明日はない。母は母だ。母が全てだ。アエスタスは伸ばしていた手を下げ、深く息を吐いた。
靴底が透き通った床を叩き、硬質な音が巨大な空間に反響した。アエスタスが目を上げると、長姉が立っていた。

「アエスタス」

 妹達に良く似た、だが少しだけ違う声。

「どうしたの?」

「なんでもありません、ウェールお姉様」

 アエスタスが平坦に返すと、姉は軽快な足取りで次女に近付いてきた。

「そう」

 長姉、ウェールはアエスタスの傍に立ち、母を見上げた。

「お母様、次元の歪みの拡大と出力調整を完了しました。これで、お母様が管理されている全ての次元が、同一の時間軸で重なりました。何もかも、滞りなく進んでおります」

「それでは、お姉様」

 アエスタスが長姉を見下ろすと、ウェールは僅かに目を細めた。

「ヒエムスの計画が終わり次第、私達も行動を開始するわ。どんなことが起きるのか、とっても楽しみね」

「そうですね」

 アエスタスが少し言い淀むと、ウェールは微笑んだ。

「どんな結果になったって、私達には関係のない話じゃないの。だって、あちらの次元とこちらの次元は違うのよ?」

「ですが、お姉様」

「なあに、アエスタス?」

「いえ、なんでもありません」

 確かに、関係はない。けれど。アエスタスが次の言葉を選んでいると、ウェールの冷たい手が頬に触れてきた。

「大丈夫よ、アエスタス」

 ウェールのしっとりと濡れた虹彩に、不安を滲ませた次女の表情が映り込む。

「全てが綺麗に終わったら」

 アエスタスの耳元を、ウェールの吐息がくすぐった。

「あなた達はきちんと処分されるわ」

 かすかに息を呑んだアエスタスに、ウェールは冷ややかな言葉を投げ付ける。

「だって、あなた達はそういうモノじゃないの。私と違って」

 一番聞きたくない言葉に鼓膜を叩かれ、アエスタスは後退った。瞬きをした間に、長姉の姿は消え失せていた。
それは、よくある結末だ。どこでも見る展開だ。今までにも経験してきたことだ。今更、恐怖を感じる理由などない。
 アエスタス、アウトゥムヌス、ヒエムスは同一の情報から作られた個体だ。情報さえあればいくらでも生み出せる。
記憶している者がいても、いずれ母の力が及ぶ。アエスタスも、アウトゥムヌスも、ヒエムスも、いないことになる。
そのことは構わないが、存在自体が抹消されてしまうことを耐えられないほどに、自我が成長してしまっていた。
 アウルム・マーテルの件以降、不安を感じるようになってから自我が膨張し、今では持て余すほどになっていた。
アエスタスは込み上がってくる喘ぎを押し殺し、巨大な母に背を向けた。それしか、恐怖に抗う術を知らなかった。
 母の沈黙が、痛みを生むほど恐ろしかった。







08 10/11