アステロイド家族




銀嶺への挑戦



 標高五百メートルと言えど、ゲレンデの頂上は高い。
 増して、それが初心者なら尚更だった。ヤブキはこの時点でへっぴり腰になっていて、斜面を覗こうともしない。
アウトゥムヌスも、彼女なりに恐怖心を感じているらしく、最大限に目を見開いてストックをきつく握り締めていた。
 マサヨシの特訓のおかげで、二人はなだらかな斜面をなんとか滑れるようになったが、まだ早すぎたようだった。
滑れると言ってもボーゲンで極力速度を落とした状態の話で、少しでも速度を出そうものならバランスが崩れる。
アウトゥムヌスはヤブキよりほんの少し進歩したものの、五十歩百歩どころか二三歩程度の違いでしかなかった。
ターンとケガをしない転び方だけは徹底的に教え込んだが、この様子では身に付いているかどうかは怪しかった。
 このままでは埒が明かないと思ったマサヨシは、初心者夫婦をリフトに乗せてゲレンデの頂上に連行したのだ。
一緒にハルとミイムも付いてきたが、二人は早々に滑り出してしまい、その姿はゲレンデの先で小さくなっていた。

「これなんて拷問っすか?」

 ヤブキは、生身なら涙目であろう弱り切った声を発した。

「…畏怖」

 アウトゥムヌスはじりじりと後退し、ゲレンデの斜面から距離を開けた。

「マサ兄貴ー、今日の夕飯は鍋焼きうどんにするっすから、どうか許して下さいっすー…」

 ヤブキも後退すると、マサヨシに懇願してきた。鍋焼きうどんと聞いて、マサヨシの心中はぐらりと大きく揺れた。
マサヨシは、自分でも理由は解らないが無性にうどんが好きだ。基本的に好き嫌いはないが、うどんは別格だ。
 うどんならなんでもいいと思うくらい、太くて柔らかな白い麺が好きだ。天ぷらでも月見でもキツネでもタヌキでも。
そして、ヤブキの鍋焼きうどんは絶品だ。元々和食が異様に上手いヤブキの手に掛かれば、旨くないわけがない。
ダシの効いためんつゆの染みた、うどんの素晴らしさと言ったら。マサヨシは、弱点を曝してしまった己を責めた。
好物を教えるということは、付けいる隙を与えるということでもある。だが、今更後悔したところで、手遅れだった。
 マサヨシがかなり本気で悩んでいると、ヤブキとアウトゥムヌスはマサヨシの返事を待ち焦がれて見つめてきた。
だが、これとそれは別だ。マサヨシはうどんに対する名残惜しさを理性で振り払い、弛緩しかけた顔を元に戻した。

「こういうことは、許す許さないってことじゃない。俺が手本を見せるから、後に続け」

「賄賂が通用しないなんて、さすがはマサ兄貴っすー」

 ヤブキは大袈裟なため息を吐き、アウトゥムヌスは僅かながら眉を下げた。

「恐怖」

「ハルにだって出来るんだ、お前らが出来ないわけがない」

 マサヨシは傾斜のきついゲレンデに滑り出すと、いつもよりもかなり速度を落とし、斜面を横切って止まった。

「ほら、早く来い」

「ジョニー君」

 アウトゥムヌスは慎重にゲレンデに近付くと、かすかに震えた呟きを漏らした。

「骨は拾って」

「あ、わ、わわぁ!」

 ヤブキは慌ててアウトゥムヌスを引き留めると、後ろに押しやった。

「そんな不吉なこと言っちゃダメっすよ、むーちゃん! だったら、まずはオイラから行くっす!」

「そう?」

 アウトゥムヌスは心底不安げに、銀色の瞳を上向けた。ヤブキは愛妻の真摯な眼差しと、恐怖心を戦わせた。
男としてのなけなしのプライドと、夫としての体裁も一応ある。だが、恐怖心はそれらを覆い尽くすほど強烈だった。
正直、スペースファイターで墜落した時より怖い。あの時はスペースファイターという外殻があったから生き延びた。
だが、スキーは違う。当然だが体が剥き出しだ。緩やかな斜面を少し滑っただけでも、体感速度は充分速かった。
滑り出さなくても、板が外れるほど派手に転倒する結末は、最初から見えている。だから、怖くてどうしようもない。
普段なら、失敗すると解っていても実行に移せるが、今度ばかりは別だ。だが、このまま頂上にいても怖すぎる。

「恐怖心、オイラの心に恐怖心…」

 ヤブキは恐怖のあまりに訳の解らないことを口走っていたが、意を決して滑り出した。

「ウェエエエイッ!」

 更に訳の解らないことを叫んで、ヤブキは飛び出した。だが、恐怖に負けすぎて、マサヨシの後を追えなかった。
初心者故に方向転換もままならず、ブレーキングすら出来ず、コロニーの重力と体重による加速が襲い掛かった。
真っ白な雪原が視界一杯に広がると、ヤブキの思考も飛んだ。足の下が勝手に滑り出し、上体が仰け反っていく。
 死んだな、と、心の片隅でちらりと考えながら、降伏するように両手を挙げたヤブキは背中で斜面を滑り降りた。
当然、両足にはワックスの塗られたスキー板が付いたままなので、滑落し始めたヤブキを止める術はなかった。
だが、途中で背中がギャップに引っ掛かり、軌道が曲がった。ぐるりと右に旋回したヤブキは、ゲレンデを外れた。
 勢いを残したまま、ヤブキは頭から新雪に突っ込み、恐る恐る顔を上げると両足からスキー板が外れていた。
主を失った二枚の板は、水を得た魚のように滑らかにゲレンデを駆け、一直線にゲレンデの終点を目指していた。
ヤブキがその様子を呆然と見送っていると、背後で雪が削れた。振り返ると、渋い顔をしたマサヨシが立っていた。

「…てへ」

 ばつが悪くなったヤブキが自分の頭を小突くと、マサヨシは首を横に振った。

「初速を付けすぎだ」

「だって、マジ難しいんすもん」

「まあ、いきなり上に連れてきた俺も悪かったがな…」

「きあ」

 不意に、裏返った悲鳴が響いた。二人が音源に振り向くと、アウトゥムヌスが俯せにゲレンデを落下していた。
どうやら、こちらもこちらで失敗したらしい。マサヨシはアウトゥムヌスの終着点に先回りし、彼女を拾い上げた。
アウトゥムヌスは何度か咳き込んで口に入り込んだ雪を吐き出すと、忌々しげに両足のスキー板を睨み付けた。

「不要」

「まあ、そう怒るな」

 マサヨシはアウトゥムヌスを立ち上がらせると、スキー板を外してやってから、彼女自身に付け直させた。

「すぐに出来るようになる。だから、それまでの辛抱だ」

「そうですぅ、もうちょっと頑張れば出来ますってぇ」

 ヤブキのスキー板を浮かばせながら飛んできたのは、ミイムだった。

「あ、どうもっす」

 ヤブキは麓から手元に戻ってきたスキー板を受け取ると、立ち上がり、ビンディングに両足を填めた。

「お兄ちゃん、むーちゃん、大丈夫?」

 ミイムにちゃっかり運ばれてきたハルは、平らな場所に下ろしてもらってから、心配げに二人を見比べた。

「大丈夫。問題はない」

 アウトゥムヌスはスキーウェアに貼り付いた雪を払ってから、ゲレンデを見下ろした。

「続行不能」

「そんなことないって、大丈夫だってば」

 ハルはアウトゥムヌスに笑いかけてから、緩やかに滑走した。

「むーちゃん、一緒に行こう!」

 ハルは速度を落として滑り、カーブも丁寧に曲がった。アウトゥムヌスは若干険しい眼差しで、それを観察した。
ミイムはするりと飛んでヤブキの傍に近付くと雪面に着地し、照れ隠しに顔を背けながら押し付けがましく言った。

「首なんか折られたら寝覚めが悪いから、今だけは一緒に滑って降りてやるですぅ。可愛いからスキーも上手なボクと一緒に滑ればぁ、底辺極まるヤブキだってやり方が掴めるはずですぅ」

「見返りとか求めないっすよね?」

 ヤブキがにやけると、ミイムはストックを振り上げてヤブキに叩き付けた。

「じゃかあしいんだよアホンダラですぅ! つべこべ言わずに付いてきやがれスットコドッコイですぅ!」

 ミイムは言うだけ言ってから、ゲレンデに滑り出した。ヤブキは言われた通りに、ミイムの後に続いて滑り出した。
先刻通り、ミイムはかなりペースを落としていた。ヤブキを引き離さない程度の速度で滑り、カーブも大きく曲がる。
 ミイムのスキー板が作ったシュプールから外れないように、ヤブキは細心の注意を払いながら滑走していった。
彼の背をじっと見ていると、自然と体重移動の感覚も掴めてきた。バランスも大事だが、タイミングも重要だった。
周囲を見る余裕などなく、視界に入るのは白い雪原とミイムの後ろ姿ぐらいで、ヤブキはいつになく集中していた。
 滑っていくうちにゲレンデの傾斜は緩くなっていき、リフト乗り場の前に来たミイムは板を横にして制動を掛けた。
だが、ヤブキにはそこまでの技能はないので、スキー板の先端を目一杯狭めてボーゲンの要領で速度を殺した。
ミイムよりは格好悪かったが、止まることは出来た。ヤブキは緊張で固めていた手を緩め、恐る恐る振り返った。

「えーと、オイラ、降りてきたんすか?」

「やれば出来るじゃねぇかコノヤロウですぅ」

 ミイムからウィンクされ、ヤブキは妙に照れ臭くなった。

「え、あ、まあ、そうっすね」

「素直に喜びやがれ気色悪ぃなアホンダラですぅ」

 ミイムは即座にそっぽを向き、ゲレンデを見上げた。

「今度はぁ、むーちゃんの番ですぅ」

 ヤブキはミイムに倣い、ゲレンデを仰ぎ見た。傾斜の強い斜面と緩い斜面の中間地点から、彼女が滑り始めた。
マサヨシの慎重な滑りを追いかけているアウトゥムヌスは動きが硬く、体重移動もぎこちなかったが転ばなかった。
斜面の途中で待っていたハルは二人に合流すると、アウトゥムヌスと併走し、彼女に声を掛けながら滑っていった。
遠目に見ていても、アウトゥムヌスは危なっかしかった。ストックを持つ両手も力が入りすぎ、両足も固まっている。
 ヤブキは不安に駆られたが、堪えた。ミイムの後に付いて滑っていた自分はもっと危なっかしかっただろうから。
大きなカーブを何度も繰り返すうちに、アウトゥムヌスのぎこちなさは徐々に抜け始め、マサヨシに追い付いてきた。
かなり時間を掛けて降りてきたアウトゥムヌスは、ヤブキの傍で止まろうとしたが、軌道修正に失敗してしまった。
あらぬ方向で止まったアウトゥムヌスは、居心地が悪そうに視線を彷徨わせていたが、横に歩いて近付いてきた。

「ジョニー君」

 アウトゥムヌスはゴーグルを外すと、僅かながら潤んだ目でヤブキを見上げてきた。

「成功」

「むーちゃあああーん!」

 感極まったヤブキはアウトゥムヌスに飛び掛かろうとしたが、襟首を押さえられ、前傾姿勢で空中に止まった。

「ラブるんだったら時と場合を弁えやがれスカタンですぅ」

 もちろん、ミイムの仕業だった。ヤブキは首を吊られた姿勢で浮いたまま、ミイムに顔を向けた。

「いいじゃないっすか、こういう時ぐらい。今に始まったことじゃないんすから」

「開き直るな」

 マサヨシが顔をしかめたので、ヤブキは仕方なく引き下がった。

「んじゃ、大フィーバーするのは後回しっすね。超残念っすけど」

「何をフィーバーするんだよ」

 リフト乗り場を離れて皆の元に近付いてきたイグニスが何の気なしに言うと、トニルトスがしれっと言い放った。

「様々な情報媒体から収集した情報を統合した結果として、最も可能性が大きいのは生殖行為だと思われるが」

「いやいやいやいやいやいや! そういうフィーバーはまた別のフィーバーっすよ! ていうかなんかキャラ変わってきてないっすか、トニー兄貴!」

 ヤブキが慌てて手を横に振ると、ハルが首を捻った。

「ねえパパ、セーショクって」

「みなまで聞くな。そして言うな、トニルトス」

 マサヨシが苦笑いしていると、マサヨシの背後にガンマが接近し、平坦に述べた。

〈マスター。日没開始時刻です〉

「そういえば、もう空が暗いですぅ」

 ミイムは日差しが弱まりつつある人工の空を見上げ、西へと傾き始めた人工太陽に目を細めた。

「空腹」

 アウトゥムヌスは腹部を押さえ、物寂しげに呟いた。ミイムはにんまりと笑み、両手を重ねた。

「だったら、今日はお鍋にするですぅ! 一日中外にいたからぁ、体の芯まで冷えちゃってるはずですぅ!」

「そろそろ帰るか」

 マサヨシが笑いかけると、ハルは名残惜しげにゲレンデを見上げていたが、頷いた。

「うん。私もお腹空いた!」

「この私が、何一つ役立てぬまま一日を終えるのは屈辱だ。ハル、我が翼を求めるか」

 雪原に膝を付いたトニルトスが手を差し伸べると、ハルは満面の笑みを浮かべてその手に縋った。

「トニーちゃん、おうちまで連れていってくれるの? じゃ、お願いね!」

「俺はどうなるんだよ」

 不服げなイグニスに、ハルを手の上に載せたトニルトスは一笑した。

「貴様はゲレンデの整備でもしておけ。どうせ、また近いうちに使用することになるのだからな」

 それだけ言い残して、トニルトスは早々に飛び出した。マサヨシはトニルトスの現金さに、呆れるしかなかった。
家族に気を許してくれるのはいいが、その相手がハルに集中しているのは頂けない。愛犬としては真っ当だが。
 マサヨシが相棒を見上げると、彼は自分を指したので、マサヨシが笑むとイグニスは仕方なさそうに膝を付いた。
イグニスはその両手の上にハル以外の家族全員とスキー用具を載せると、家に帰るべく、スラスターを開いた。
吹き付ける風は冷え切っていて、唯一剥き出しだった頬と鼻先の肌が強張っていることに今更ながら気付いた。
 マサヨシも子供のように遊び呆けてしまった証拠だ。遊びに熱中している間は、他のことなどどうでもよくなる。
この分だと、明日は背中と足の筋肉が痛みそうだ。スキーで酷使する筋肉は、戦闘とは違うので鍛えようがない。
一番ひどい目に遭うのはミイムだな、と明日の展開を予想しつつ、マサヨシは近付いてきた我が家を見下ろした。
 たった一日離れていただけなのに、ひどく懐かしかった。




 その夜。ハルの願望が叶えられた。
 リビングのソファーやテーブルを壁際に押しやって広い空間を作り、大人四人と子供一人が眠れるようにした。
さすがに風呂ばかりは全員で入るわけにはいかなかったが、入れるだけの人数で入り、風呂でも存分に遊んだ。
夕食の寄せ鍋も締めのうどんまで綺麗に食べ尽くし、お腹一杯になったハルは、すぐに船を漕ぎ始めてしまった。
だが、自分から言い出したこともあって、ハルなりに頑張った。けれど、映画を見ている途中で寝入ってしまった。
 マサヨシは規則正しい寝息を立てているハルを膝に載せた状態で、ホロビジョンモニターを横目に眺めていた。
防寒のためにカーテンが閉められたリビングはライトも落とされて薄暗く、ホロビジョンモニターだけが明るかった。
 映し出されている番組は劇場版ニンジャファイター・ムラサメで、当然ながらマサヨシはハルと共に見に行った。
それも一度や二度ではないのでストーリーもセリフ運びも場面展開も覚えているが、放映版も思わず見てしまう。
ハルが見たがるのもあるが、マサヨシも見たいので一人で見たことも多い。何度も見ると新しい発見があるのだ。

「なんか」

 派手なアクションを繰り広げる四人のニンジャファイターを見つめながら、胡座を掻いているヤブキが呟いた。

「今日が終わっちゃうのが、勿体ないっすね」

「そうだな」

 マサヨシはハルの体温を感じながら返すと、マサヨシの隣で枕を抱えているミイムが言った。

「ヤブキにしてはまともなセリフですぅ」

 一日中遊び倒したせいでミイムも既に眠気に襲われているらしく、ふにゅう、と欠伸を噛み殺した。

「ホント、楽しい日ほど短くて嫌んなっちゃいますぅ」

「そうだな」

 マサヨシが笑みを零すと、ヤブキの腕の中にすっぽりと収まっているアウトゥムヌスが平坦に述べた。

「けれど、時は過ぎる」

「そうだな」

 マサヨシはハルの頬をそっと撫で、頬を緩めた。

「お前達が家族で、本当に良かったよ」

「それはボク達が言う言葉ですぅ」

 ミイムが微笑むと、ヤブキが笑った。

「そうっすよそうっすよ、マサ兄貴あってこそのオイラ達なんすから」

「次は俺も滑らせろよな。今度こそ、まともな方法を考えるからよ」

 窓の外からイグニスの声が聞こえ、トニルトスが続けた。

「優秀なる戦士であるこの私が、ただの傍観者に終始するというのは退屈であり屈辱極まりないのだ」

「ああ、解ったよ」

 マサヨシはリビングの外にいるであろう二人に言葉を返してから、家族を見回したが、彼女の姿は遠かった。
ガンマはリビングを見下ろせる部屋の隅にひっそりと浮かんで、監視カメラのような冷淡な眼差しを注いでいた。
 マサヨシは右手を挙げてガンマに向けて伸ばしたが、ガンマは微動だにせず、マサヨシの行動を観察していた。
指先を上げ、再度誘った。ガンマは目玉に似たスパイマシンのレンズをぎゅうっと収縮させていたが、降下した。
マサヨシの手元に近付いてきたガンマは、そっと手のひらに着地したので、マサヨシはガンマに笑みを向けた。
 彼女はサチコではない。だが、紛れもない家族だ。傍にいてくれるだけで心が安らぎ、触れると愛おしくなる。
愛妻への思いも、彼女への思いも変わらない。けれど、時は過ぎ、日常は積み重なり、痛みは和らぎつつある。
 傷は癒えない。だが、日々は連なっていく。







08 10/15