特訓開始から三時間後。 ヤブキとアウトゥムヌスに、僅かながら進歩が見られた。といっても、スキーを履いて歩けるようになっただけだ。 だが、まだまだ足元がおぼつかない。バランスを取るだけで精一杯で、少しでも気を抜けばすぐに転倒してしまう。 滑走など、夢のまた夢だ。マサヨシはよろよろと平地を歩く二人を眺めていたが、目を外し、ゲレンデを見上げた。 華麗なシュプールをゲレンデに描くミイムは、生き生きしていた。ぶっ通しで滑っていて、休憩を取る様子もない。 彼の操るスキー板が削った雪が舞い散り、空中で煌めく。何度も何度も滑っているので、ギャップすら出来ていた。 時には均されていない新雪の中に突っ込んでみたり、段差の付いた部分でジャンプしてみたりと、アグレッシブだ。 マサヨシは、アルペンなのにノルディックのように歩いている二人をちらりと見ていたが、再度ゲレンデを仰ぎ見た。 「マサヨシ」 名を呼ばれて振り向くと、リフトのハンドルを回しているイグニスが二人を指した。 「あのビギナー夫婦は俺達が見てるから、滑ってきてもいいぜ」 「我らはこの体格故に、何もやることがないのだ。それぐらいしか仕事はあるまい」 イグニスで仁王立ちしているトニルトスも頷いたが、マサヨシは少し躊躇った。 「しかし、教えると言った手前、目を離すわけには」 「ぐふぇっ」 また、ヤブキが転んだ。ヤブキはストックを突き刺して身を起こすと、マサヨシに手を振ってみせた。 「いいっすよいいっすよ、オイラ達がモノになるまではまだ大分あるっすから」 「大丈夫。問題はない。恐らく」 ヤブキの傍らで転んでいたアウトゥムヌスも、雪の中から顔を上げた。 「本当に大丈夫か?」 マサヨシが近付くと、アウトゥムヌスは手を挙げて制した。 「問題はない」 「初歩の初歩は教えてもらったんすから、後はそれが身に付くまで練習すればいいんすよ」 よっこいせ、と起き上がったヤブキは、体の前半分に貼り付いた雪を払った。 「でも、その間、マサ兄貴は暇じゃないっすか。だから、行ってきてもいいっすよ」 「すまんな」 マサヨシは皆の心遣いに感謝し、雪面に突き立てていたスキー板とストックを取り、ビンディングに足を填めた。 リフト乗り場に滑り出そうとすると、丁度ハルが降りてきたところだった。ハルはしなやかに曲がり、近付いてきた。 「パパも上に昇るの? お兄ちゃんとむーちゃんの先生はもういいの?」 「イグニスとトニルトスに見てもらうことにした。だから、一緒に滑ろう」 マサヨシが笑いかけると、ハルは大きく頷いた。 「うん!」 並んで滑り出したマサヨシとハルは、イグニスがモーター兼エンジンになっているリフト乗り場の前で止まった。 リフト乗り場には、リフトの座席が吊り下がっているワイヤーを回転させるための巨大な滑車が設置されている。 本来はその滑車にモーターを接続させて回転させるのだが、滑車の支柱には大きなギアがいくつか噛んでいる。 イグニスの握るハンドルにもギアが付けられて繋がっており、言ってしまえばかき氷機の要領で回しているのだ。 イグニスがこのリフトを作った当初は奇妙でたまらなかったが、毎年のように目にしていると慣れてしまうものだ。 マサヨシとハルがリフト乗り場に入るとイグニスはぐるぐるとハンドルを回し、二人の背後に座席を近付けてきた。 手動なので、失速と停止も簡単だ。イグニスは一旦ハンドルを止めて、二人が乗ったことを確認してから回した。 「ぱーぱぁー」 マサヨシの左隣に座ったハルは、にこにこしながらマサヨシに寄りかかってきた。 「こら、危ないぞ」 マサヨシがハルの小さな体を支えると、ハルはマサヨシの膝に頭を乗せてきた。 「だって、なかなかパパと一緒にいられなかったんだもん。ママは一人で楽しんじゃってるしぃ」 「まあ…そうだな」 マサヨシはゲレンデの支配者の如く滑り回るミイムを見下ろし、苦笑した。すっかり、ハルのことを忘れている。 だが、ミイムの気持ちも解らないでもない。家に籠もりがちな冬だからこそ、思い切り体を動かすのは楽しいのだ。 しかし、仮にも母親役である彼が娘の存在を忘却するのはどうかと思う。昼食の時にでも注意しておかなくては。 「あのね、去年よりも上手になったんだよ! 前よりもね、転ばなくなったんだ!」 ハルはマサヨシを見上げ、オレンジ色の遮光ゴーグルの奥で目を輝かせた。 「ああ。見ていれば解る」 マサヨシはハルを撫で、笑んだ。 「私、偉い? 凄い?」 「両方だ」 マサヨシが褒めると、ハルはでれっと笑みを崩した。 「えへへへへー」 弛緩した娘の笑顔に、マサヨシは胸中が熱くなった。サチコがいなくなったため、最近仕事の量を減らしている。 サチコがいないことを感じてしまうと、どうしても、サチコを守りきれなかった自分を責めてしまうようになっていた。 だから、家族との時間を増やすことにした。サチコはもうどこにもいないが、ハルや他の皆はマサヨシの傍にいる。 彼女を失った隙間を埋めることは出来ないが、一人きりではない事実を再確認するためにも、家族が必要だった。 数分後に、リフトは頂上に到着した。マサヨシはハルと一緒にリフトから降りると、ゲレンデの頂上にやってきた。 標高五百メートルの小さな山だが、全体的になだらかなのでコースは長く、場所によっては傾斜が少しきつかった。 「パパ、見てて!」 ハルはストックで雪を掻いて体を押し出すと、軽快に滑り出した。短いスキー板を曲げて、カーブを描いていく。 頂上は若干傾斜が厳しかったが、何十回と滑っているハルは慣れたもので、ゲレンデを横断しながら滑っていく。 マサヨシも、その後に続いた。ハルを追い越してしまわないようにスピードを緩め、ゆっくりとゲレンデを滑走した。 何事もなくゲレンデの中間地点に辿り着いたハルは、雪を蹴散らして制止し、マサヨシが追い付くまで待っていた。 「どう? どう?」 ハルはマサヨシを見上げ、感想を求めてきた。マサヨシも止まり、ハルを見下ろす。 「ああ、上手い上手い」 「じゃ、今度は競争しようよ! ゴールはおじちゃんのところね!」 ハルはストックの先で、先程よりも緩やかだが長いゲレンデの先を指した。 「だが、ハルが俺に勝てるのか?」 「勝てるもん! 上手になったんだから!」 「じゃ、ハルが勝ったら俺は何をすればいいんだ?」 「んーとね」 ハルはしばらく考えていたが、ぽんと手を叩いた。 「今日のお風呂は一緒に入るの! それでね、一緒にムラサメの映画を見て、パパのお部屋で一緒に寝るの!」 「そんなこと、いつもしてるじゃないか」 「全部一緒がいいの! だって、パパはハルのパパなんだもん」 ハルは拗ね、小さな唇を尖らせた。マサヨシは、ハルの頭に軽く手を乗せた。 「解った解った、その通りにしてやるよ」 「じゃ、スタートね!」 ハルは途端に機嫌を取り戻し、滑り出した。マサヨシもハルに続いてスタートし、スキー板で雪面を蹴り付けた。 掻き出すことで、スキー板は加速する。ハルは最初こそカーブを付けていたが、途中からは直滑降になっていた。 子供とはいえ、傾斜が緩いとはいえ、直滑降の速度は侮れない。滑るうちに、徐々に両者の速度は増していった。 ハルの小さな背中が、ハルの巻き上げた雪煙に隠れる。マサヨシは前傾姿勢になると、雪面を再度軽く蹴った。 加速を加えれば、体重差でマサヨシの方が速度が上がる。マサヨシが接近していくと、ハルも雪面を蹴り付けた。 どうやら、ハルも本気だ。マサヨシはなんだか楽しくなってきて、緩やかなカーブを付けながらハルの横に付いた。 「だが」 マサヨシは板が鳴るほど強く雪面を蹴り付け、加速した。 「そう簡単に、勝たせるものか」 親心としては娘を勝たせたい。しかし、勝負に負けるのは癪だ。マサヨシの背後で、ハルが不平の声を上げた。 大人げないとは思う。だが、一度加速したものは止められない。だが、ハルも負けてはおらず、食い下がってきた。 「負けないもん!」 ハルはストックで雪を掻くと、背を曲げた。マサヨシは娘の必死さに笑みを零しつつ、速度を殺さずに滑走した。 ゲレンデの両脇の木々が通り抜け、ゲレンデの裾野が広がり始め、板の下で傾斜が徐々に緩んでいくのが解る。 ハルが決めたゴールもまた、近付いてきた。マサヨシはハルを横目に見つつ、右足の板を踏み締めて曲がった。 そろそろ軌道を変えなければ、リフト乗り場に近付けない。ハルもマサヨシを追って曲がるが、遅れてしまった。 このまま進めば、間違いなくマサヨシの勝ちだ。マサヨシはリフト乗り場に接近しながら、娘の様子を窺おうとした。 だが、それがいけなかった。ミイムが派手な滑走で作ったギャップに板の端が引っ掛かり、盛大に軌道がずれた。 マサヨシは転ぶことは回避出来たが、リフト乗り場までの距離が伸びてしまっただけでなく、減速を余儀なくされた。 その隙に、ハルに追い抜かれた。マサヨシの隣を滑り抜けたハルはリフト乗り場の前で止まると、歓声を上げた。 「いっちばーん!」 ハルは両手を挙げ、飛び跳ねそうな勢いではしゃいだ。 「わーい、パパに勝ったぁ、勝ったぁ!」 「…くそぅ」 マサヨシは年甲斐もなくムキになっていたせいか、妙に悔しくなり、舌打ちした。 「じゃ、約束ね! 今日はずーっとパパと一緒、お風呂とベッドが一緒ー!」 上機嫌なハルの言葉に、リフト乗り場にいたイグニスが急に立ち上がって拳を固めた。 「マサヨシ、てんめぇっ!」 「だから、そんなのいつものことだろうが!」 マサヨシは相棒に叫び返してから、得意満面のハルに近付いた。 「約束したからには、守らないとな」 「うん、約束だもーん」 ハルはマサヨシの手を取り、上下に振った。いーっしょ、ずーっといーっしょ、と稚拙な歌が出るほど喜んでいる。 すると、滑走音が近付いてきた。ざざざっ、と雪が蹴り上げられたかと思うと、マサヨシの背に雪が襲い掛かった。 もちろん、犯人はミイムだった。マサヨシが背中の雪を払っていると、ミイムは込み上がる笑みを押し殺していた。 「みゅふふふふふふぅ」 「何が可笑しい」 マサヨシがミイムを小突くと、ミイムは寒さでほんのりと赤らんだ頬を押さえた。 「だってぇ、パパさんがハルちゃんにしてやられるなんてぇ、微笑ましすぎて吐き気がするんですぅ」 「矛盾する単語を並べるな」 「だってぇ、そんな気分なんですぅ」 みゅっふーん、と頬を押さえて身を捩るミイムに、ゲレンデの末端で顔面から転んでいたヤブキが顔を上げた。 「要するに面白くないってことっすよ。ここんとこ、マサ兄貴が留守にしないもんだから、ハルの独占権がマサ兄貴に固定されちゃってるんすよ。だから、オイラ達がハルを構える時間も減っちゃったんすよねー」 「少しは上達しろ」 マサヨシは進歩の兆しすらないヤブキに苦笑しつつ、じっとりとした視線を注ぐミイムに向き直った。 「今更何を言い出すんだ、お前は。今に始まったことじゃないじゃないか」 「じゃ、じゃあね」 ハルはマサヨシの手から片手を離すと、ミイムの手を取って引っ張った。 「ママも一緒にしようよ! お風呂もベッドも、パパとママと一緒!」 「えー、オイラとむーちゃんはハブっすかー」 転んだまま不平を漏らしたヤブキに、ハルは慌てた。 「んじゃあ、お兄ちゃんもむーちゃんも!」 「てぇことは、俺はスルーか」 「この私を除外するとは、なんたる屈辱だ」 ちぇっ、と舌打ちしたイグニスと顔を背けたトニルトスに、ハルは困惑しながら声を上げた。 「えっと、じゃあ、おじちゃんとトニーちゃんも! それとガンちゃんも!」 「風呂が壊れるぞ」 半笑いになったマサヨシに、ハルはちょっと泣きそうになった。 「…だってぇ」 困り果てたハルの表情に、マサヨシは堪えきれずに笑ってしまった。ミイムも口元を押さえ、肩を震わせている。 ヤブキも肩を怒らせており、アウトゥムヌスは僅かに口元を緩め、イグニスは背を丸め、トニルトスは俯いている。 ハルはなぜ皆が笑っているのか解らないのか、頬を膨らませた。かすかな罪悪感が沸いたが、愛しさが勝った。 結局、ハルは皆が好きなのだ。ただ、近頃はその好意を一心に受ける相手がマサヨシに集中していただけだ。 マサヨシは困り果てた末に拗ねてしまったハルを宥めながら、皆で笑えることがこの上ない幸せだと感じていた。 彼女を喪った苦悩が、悔恨が、家族との幸福に塗り潰されていく。それぞれの過去と戦いを乗り越えたからこそ。 両手から溢れるほどの幸福がある。 08 10/14 |