ささやかな、思い出を。 姉の言葉は、脳から消去出来なかった。 母に処分される。それは過去にも繰り返し経験したことであり、姉妹にとっては有り触れた単語に過ぎない。 けれど、ひどく心が揺さぶられていた。日常の一端だと認識しているはずなのに、精神が大きく波打ってしまう。 痛みなどなく、恐怖などなく、母を成す分子の一部に戻るだけだ。そして、また必要に応じて再構成されるのだ。 ただそれだけのことであり、それ以上でもそれ以下でもない。けれど、訳の解らない息苦しさが込み上がってくる。 アエスタスはその苦しさを紛らわす手段を、何度も何度も考えていた。軍務の最中も、思考を分離して考えた。 しかし、明確な答えは出てこなかった。息苦しさを感じる理由を分析出来ないように、結論は弾き出せなかった。 迷いに迷った末に出来た行動は、妹達を呼び出すことだけだった。だが、そこから先は何も考えていなかった。 ガニメデステーションのカフェで、三姉妹はテーブルを囲んでいた。アエスタスの前には、熱いコーヒーがある。 アウトゥムヌスの前には特大のパフェがあったが、既に逆円錐型のグラスの半分以下まで食べ尽くされていた。 ヒエムスはフォークでチーズケーキを切り、口に運んでいた。会話は始まる気配すらなく、沈黙だけが流れていた。 アエスタスはコーヒーを啜ったが、やはり何も言えなかった。通常空間で顔を合わせたのはこれが初めてだった。 いつもは母であるアニムスの傍でしか接触を持ったことはなく、通常空間での接触は避けていたくらいだった。 どこで誰が見ているか解らず、どこの誰が何を知るのか解らないので、様々な危険性を排除するための配慮だ。 しかし、それをアエスタスが破ってしまった。軽率な行動に後悔すると同時に、母に背いた背徳感に苛まれていた。 きっと、母は今もどこかから見ている。けれど、それでも構わないと思ってしまう自分が少しばかり恐ろしかった。 「それで、アエスタスお姉様は何がしたいんですの?」 チーズケーキを半分食べ終えたヒエムスは、小指を立ててティーカップを取り、ミルクティーを啜った。 「不可解」 アウトゥムヌスは口の周りに貼り付いたクリームを、舌先で舐め取った。 「先日、ウェールお姉様にお会いした」 アエスタスはコーヒーに砂糖とミルクを入れ、掻き混ぜた。 「あら。そうでしたの」 ヒエムスは事も無げに言い、アウトゥムヌスは細長いスプーンでスポンジケーキを掬い出し、食べた。 「必然」 「事が終われば、私達は処分される」 二人の手が僅かばかり止まったが、アエスタスは言葉を続けた。 「だが、ウェールお姉様は違う。ウェールお姉様は、この次元と密接に結び付いているからだ」 「既知」 アウトゥムヌスはスプーンを口から出し、パフェグラスを傾けて底に溜まったクリームを混ぜた。 「最初から解っておりましたわよ、そんなこと」 ヒエムスはチーズケーキの残りをフォークで突き刺し、頬張った。 「この次元に到達するまでにも、何度もそんなことがありましたもの。何を今更って感じですわ」 「そうか」 そうだな、と小さく呟いたアエスタスは、甘くなったコーヒーを啜った。 「アエスタスお姉様」 アウトゥムヌスは紙ナプキンで口元を拭うと、銀色の瞳で次女を見据えてきた。 「何か、懸念でも」 「いや…」 アエスタスは少し言葉を濁したが、コーヒーカップをソーサーに置いた。 「お前達に隠し事は出来ないし、私も嘘は吐けないからな。だが、正直、話すべきかどうか迷っている」 「迷うことなどない。アエスタスお姉様の懸念は、私の懸念でもある」 アウトゥムヌスが言うと、ヒエムスは微笑んだ。 「そうですわよ、アエスタスお姉様。私達とアエスタスお姉様は、何千万年の付き合いだと思っていますの?」 「そうだな」 アエスタスは口元を緩めたが、表情を消した。 「明確な理由も原因も解らない。だが、私は、生まれて初めて処分されることに畏怖を感じている」 妹達の表情が、強張るのが解った。アウトゥムヌスは銀色の瞳を見開き、ヒエムスは青い瞳を少し伏せた。 「ただ、それだけのことなんだ。それだけのことで呼び出してしまって、すまんな」 アエスタスが語気を弱らせると、アウトゥムヌスは細長いスプーンを紙ナプキンの上に横たえた。 「解る」 アウトゥムヌスは目線を落とし、淡いピンクのワンピースに包まれた膝の上で両の拳を固めた。 「私の精神体の本体は、お母様の内部にある。この次元での肉体を構成している物質も、お母様から頂いたもの。私という存在を支える空間軸、時間軸、次元軸も、お母様に支えて頂いている。また処分されれば、お母様の胎内に戻るだけなのだと理解している。けれど」 アウトゥムヌスは、華奢な肩をかすかに震わせた。 「蛋白質で構成された肉体に蓄積した、知識、記憶、経験、感覚、感情は、お母様の胎内では残留出来ない。これまでの私と同じように、この私もこの次元から消滅すると同時に初期化される。それが、怖い」 銀色の瞳が、滲んだ体液に歪む。 「ジョニー君を失うのが、怖い」 唇を噛み締めて肩を震わせる三女の肩を、ヒエムスはそっと抱いた。 「アウトゥムヌスお姉様…」 「それが、サピュルスの言うところの恋の力か」 羨ましいな、とアエスタスが漏らすと、ヒエムスは頬に手を添えた。 「本当に、なぁんでアウトゥムヌスお姉様だけなのでしょうねぇ? 私はこぉんなに綺麗なのにぃ」 「化粧臭すぎるからだろう」 アエスタスが冷淡に言い放つと、ヒエムスはつんと顔を逸らした。 「どんな役割を与えられようが、男みたいな言動しか出来ないアエスタスお姉様には言われたくありませんわ」 「性格だけはどうにもならん」 「そう思うんだったら、お母様に頼んで精神体から作り直して頂いたらいかがですの?」 「ヒエムスこそ、似合いもしない化粧に精を出すな。労力の無駄だ」 「あーら、お化粧の楽しさすら知らない軍人さんには言われたくありませんわねっ!」 「日がな一日、訳の解らん液体やら塗料を塗りたくっているよりは訓練に勤しんだ方が余程有益だ!」 「軍服だけ着てりゃどうにかなるような暮らしをしているお姉様には、私の苦労は一分子も解りませんわね!」 「そんな下らん苦労など解りたくない! 第一、お前の現職は看護士だろう! 男に媚びてどうするつもりだ!」 「あぁーらぁ、媚びてなんかいませんわよぉ、あっちから来るんですのぉ。来る者は拒めませんわぁ」 「そいつらの網膜が濁っているだけだろうが!」 「…ふ」 不意に、アウトゥムヌスが吐息に似た声を零した。二人が振り向くと、アウトゥムヌスは肩を細かく震わせていた。 だが、今度は泣いているわけではなかった。二人の言い合いが可笑しかったのか、懸命に笑いを押し殺している。 アウトゥムヌスの様子で自分達が何をしていたのか悟ったアエスタスとヒエムスは、ばつが悪くなって座り直した。 母の傍にいる時は、ケンカなどしたことがない。次元が違う世界に来ると、それに応じて精神面も変化したせいだ。 「なんたる失態だ」 顔を覆ったアエスタスに、ヒエムスはばつが悪そうに顔を伏せた。 「全くですわ」 「似ている」 「誰にだ」 「誰にですのよ」 「皆に」 アウトゥムヌスは滲んだ涙を紙ナプキンで拭き取ってから、薄い唇をかすかに上向けた。 「家族の、皆に」 家族。しかし、それは姉妹のことではなく、母のことでもない。アウトゥムヌスの言葉が示しているのは、彼らだ。 本当なら、アエスタスらが家族と呼ばれるべき間柄だ。同一の存在から生み出された同系列の個体なのだから。 けれど、家族らしい関係ではない。テラニア号の内部で接触し、会話しても、乾いた言葉を掛け合うばかりだった。 不意に寂寥感に襲われたアエスタスは目を伏せていると、ヒエムスが前触れもなく立ち上がり、両手を重ねた。 「だったら、今日一日ぐらいは家族らしくしませんこと?」 「らしくって、何をどうするつもりだ?」 アエスタスが顔を上げると、ヒエムスはしなやかに指を組む。 「せっかく繁華街に出てきたのに何も買わないで帰るなんて、女の子失格ですわ。それに、一度、お姉様方と一緒にショッピングしてみたかったんですの」 「荷物持ちが欲しいだけだろう」 「そうとも言いますわ」 アエスタスの文句を受け流したヒエムスは、アウトゥムヌスに向いた。 「アウトゥムヌスお姉様はどう思いますの? ショッピング、して行きませんこと?」 「ん…」 アウトゥムヌスはスプーンでパフェグラスの中身を徹底的に食べ尽くしてから、答えた。 「同意」 「そうと決まれば、早い方がいいですわ!」 ヒエムスは自身のハンドバッグを脇に抱えると、アエスタスの腕を引いた。 「アエスタスお姉様から呼び出された時に、ガニメデステーションのブティックやブランドショップの情報を洗いざらい調べてまいりましたの。リリアンヌ号で頂いたお給金も、お母様から頂いた活動資金もまだまだ残っているんですから、ぱあっと使っちゃわないと勿体ないですわ!」 「しかし、服なんか何着も買っても無意味だろうに」 「そういう色気のないことを言っていては、アエスタスお姉様はアイアンメイデン確定ですわよ?」 ヒエムスの軽口の意味に気付き、アエスタスは思わず赤面した。この手のことに、まるで慣れていないからだ。 「姉を愚弄するな!」 「お姉様」 アウトゥムヌスはアエスタスのもう一方の手を取ると、うっすらと微笑んだ。 「デート」 「女同士で、しかも姉妹ならば、デートもクソもあったもんじゃないと思うんだが」 アエスタスは気恥ずかしさを堪えつつ、二人に手を引かれて歩き出した。この状態も、充分恥ずかしかったが。 妹達と手を繋いだのは初めてだった。両手に伝わってくる妹達の手の感触は、炭素生物らしい柔らかさがあった。 母の在る次元では肉体は珪素で構成されているので体温らしい体温はなく、お互いに触れる機会はなかった。 触れる意味がないからだ。母の胎内を通じて精神が繋がり合っているため、触れなくても全てが解り合えるのだ。 だが、触れ合うのも悪くない。アエスタスは無意識に頬が緩んでいくことを感じていたが、表情を引き締め直した。 下手に浮かれて、妹達にたかられたくはない。母からは資金は存分に与えられているが、無駄遣いはしたくない。 カフェを後にする三姉妹の姿を、灰色の瞳が追っていた。だが、気付かれる前に、己のパフェに視線を戻した。 アウトゥムヌスが食べたパフェに引けを取らない特大チョコレートパフェを食べていたのは、グレン・ルーだった。 グレンはカフェが面している大通りを歩き始めた三姉妹を目で追っていたが、スプーンを止めることはなかった。 彼の向かい側の席には、メイド服姿の幼女型人造機械生命体、ベッキーが退屈そうに小さな足を揺すっていた。 「俺様ってやっぱ超天才。ここまでは読み通りだっぜい」 グレンは口の周りに付いたチョコレートソースを舐め取り、得意げに笑った。 「んで、ベッキーちゃん。あの三人の会話、録れたか?」 「いいえー。御主人様の御命令通りー、音域も周波数も最大に広げてみましたけどー、ノイズがちょっと録れただけでしたー。画像もー、録ろうとしたんですけどー、空間そのものにジャミングが掛かっていましたー」 「よおしよおし、それで充分だ。で、あいつらに俺が気付かれたって様子もないんだな?」 「はいー。ワープゲートを生成する要領でー、御主人様と私のいるテーブルの空間軸をー、ちょっとだけずらしてみましたのでー、見えてなかったと思いますー。でもー、今はー、通常空間に戻しましたー。結構危ないのでー」 「あっとっはー、なぁにをするべきかなぁー」 グレンはチョコレートパフェを抉りながら、独り言を呟いた。次元の歪みを辿った先には、必ず三人の女がいた。 アエスタス、アウトゥムヌス、ヒエムス。彼女達の経歴は、どんなルートを使って洗い出しても情報しか出てこない。 人間が生きている上で記録されるであろう画像や映像の類は皆無で、学歴も書類の上でのものでしかなかった。 彼女達を知っているという人間に接触しても、その記憶は何者かによって偽造されたもので、本物ではなかった。 ただの人間やエスパーであれば誤魔化せたかもしれないが、グレンにはどれほど周到な小細工でも通用しない。 グレン・ルーはこの次元の生命体ではない。宇宙で乱発する次元震の狭間から現れた、異次元の存在なのだ。 幼生体だった頃に落下した場所が惑星レムレスであったというだけで、この宇宙にはグレンと同一の存在はない。 かつて存在していた次元に戻り、犯罪という犯罪に手を染めるために、遊び尽くしてしまった次元を脱したかった。 次元を超越する方法を調べるためにあらゆる惑星を巡ったが、どれもこれも科学技術が低く、話にならなかった。 だが、今度ばかりは訳が違う。グレンはチョコレートパフェを食べ終えると、ベッキーを連れてカフェを後にした。 あの三人の女を調べ尽くせば、より確実な情報が得られるはずだ。それを利用すれば、次元を超えられるだろう。 そして、新天地を目指すのだ。 08 10/17 |