アエスタスは、鏡に映る自分の姿を正視出来なかった。 ブティックに到着してすぐに、ヒエムスはアエスタスを早々に試着室に押し込むと次から次へと服を運んできた。 アウトゥムヌスはそれを傍観しているだけで、ヒエムスの手助けもアエスタスの救援も何一つとして行わなかった。 手狭な試着室に投げ込まれる服の数々を放っておくわけにも行かず、アエスタスは仕方なしにそれを試着した。 どうせ誰も見ていないのだから、と思ったのだ。軍服と作業着と戦闘服以外の服を着るのは初めてかもしれない。 姿見に映るアエスタスは、ボンテージを着ていた。漆黒の革製のビスチェの下に、やはり黒のミニスカートだった。 ビスチェの胸元は大きく開き、肩のストラップはない。おまけに、豊満な乳房を強調するように、前が開いている。 胸の谷間を曝すスリットの間には繊細な銀のチェーンが付けられているが、そんなもので肌を隠せるわけがない。 丈の短い革のジャケットも寄越されていたのでそれを羽織ると肩は一応隠れるが、胸元と腰回りは隠れなかった。 ミニスカートも両サイドにスリットが入っていて、歩けば太股が露わになる。これでは、まるで露出狂ではないか。 「アエスタスお姉様ぁーん」 ヒエムスの甘ったるい声と共に、試着室に新たな衣装が投げ込まれた。 「仕上げにそれを履けば完璧ですわよぉーん」 ごっとん、と試着室の床に重たいものが転げた。怯えつつ振り返ると、そこにはやはり黒のブーツが落ちていた。 当然ながら革製で膝下まである編み上げブーツだったが、ヒールは折れそうなほど細く、そして怖いほど高かった。 「…これを履けと?」 アエスタスが顔をしかめると、カーテンの向こうでヒエムスが作り声を出した。 「当たり前ですわよぉ、靴がなかったら歩けませんわぁーん。さあ、お姉様ぁーん」 「お前、私で遊んでいないか?」 「あぁーらぁ、そんなの気のせいですわぁーん」 ヒエムスの浮かれた声に、絶対に遊んでいると確信したアエスタスは、ブーツを置いてハンガーに向いた。 「私は軍服でも構わん、だから今まで集めた服を…」 元に戻してこい、と言おうとして飲み込んでしまった。ハンガーに掛けていた軍服やシャツなどが消失していた。 アウトゥムヌスの仕業だろう。三姉妹は肉体を与えられた際に、必要最低限の超能力も同時に与えられたからだ。 もちろん、その中にはテレポートも含まれている。アエスタスは空虚な壁を睨んでいたが、カーテンを全開にした。 「アウトゥムヌス! 私の軍服を返せ!」 試着室の前には意地の悪い笑みのヒエムスがいたが、肝心のアウトゥムヌスの姿はブティックから消えていた。 先に買い物を終えたらしく、アウトゥムヌスは店名の入った紙袋を脇に抱え、チョコバナナクレープを囓っていた。 アエスタスは試着室から出ようとしたが、躊躇った。足元を見れば、脱いだはずのローヒールのパンプスもない。 だが、アウトゥムヌスが軍服を持っているのは確実だ。薄べったい紙袋が不自然に大きく膨らんでいるのだから。 しかし、このままでは取り戻せない。けれど、この衣装で繁華街を歩くのは。アエスタスは、またカーテンを閉めた。 「なんと卑怯な戦略だ…」 「いけませんわぁお姉様ぁ、とおってもお似合いですわよぉーん」 わざとらしい笑みを浮かべたヒエムスは、アエスタスの閉めたカーテンを広げ、中に上半身を入れてきた。 「こんな格好で外を歩けるか!」 思わず胸元を隠したアエスタスに、ヒエムスはにじり寄ってくる。その手には、ガーターベルトが握られている。 「いいえぇ、歩いて頂きますわぁーん。とおってもお似合いですものぉーん」 「お前は私を女王様にでもするつもりか?」 ヒエムスから逃れようとアエスタスは後退ったが、姿見によって退路を阻まれた。 「いいえ、違いますわよぉーん。私の理想のお姉様にしたいだけなんですのぉーん」 「なんだ、気色悪い」 「だあってぇ、お姉様ってば素敵なんですものぉーん」 ヒエムスの両手が伸び、おもむろにアエスタスの大きな乳房を鷲掴みにした。 「特にこの辺がぁ」 「うわあっ!?」 思い掛けない場所への攻撃にアエスタスは仰天したが、ヒエムスのおかしな言動は止まらない。 「うふふふふふふ、可愛い反応ですわぁーん。そういうところも素敵ですわ、お姉様ぁーん」 「アウトゥムヌスー!」 しなだれかかってきたヒエムスを弾き飛ばすことも出来ず、アエスタスは苦し紛れに三女の名を叫んだ。 「何」 クレープを食べ終えたアウトゥムヌスは、汚れた口元を紙ナプキンで拭いながらブティック内に戻ってきた。 「何か悪いモノでも喰ったのか、こいつは」 アエスタスは腰にしがみついているヒエムスを指すと、アウトゥムヌスは素っ気なく言った。 「シスコンごっこ」 「は?」 意味が解らず、アエスタスは声を裏返した。アウトゥムヌスは、恍惚としている四女を一瞥した。 「ただ、それだけ」 「ああ、気が済みましたわ」 ヒエムスはアエスタスの腰に巻き付けていた腕を外すと、口元を押さえてほくそ笑んだ。 「アエスタスお姉様ってば、一体何だと思いましたの?」 「もう少し健全な遊びをしないか」 アエスタスは嘆息し、編み上げブーツをヒエムスに押し付けた。 「いいから、こいつを元の場所に返してこい。そして、私の軍服も返せ」 「無理」 アウトゥムヌスは紙袋を広げてみせるが、その中にはアエスタスの軍服はなく、彼女の服しか入っていなかった。 「お母様の元へ移動させた」 「お前もか、アウトゥムヌス…」 アエスタスは生まれて初めて頭痛を感じ、額を押さえた。すると、ヒエムスがしなやかに腕を組んできた。 「大丈夫ですわ、会計はとっくに済ませておりますわ」 「尚悪い」 アエスタスはヒエムスを振り払ってから、足元に落ちているガーターベルトを指した。 「ということは、これもか?」 「当然」 アウトゥムヌスはかすかに目を細め、カーテンを閉めた。 「装着変身」 こうなっては、ガーターベルトも付けないわけにいかない。アエスタスは全てを諦め、黒い革のスカートを脱いだ。 ガーターベルトなど、付けるのは初めてだ。軍服の下に、せいぜい色の暗いストッキングを履く程度だったからだ。 太股まであるストッキングを履いてガーターベルトで吊り下げ、革のスカートを履くと、完成度が増してしまった。 炎のように赤い髪色も相まって、どこからどう見てもパンクロッカーだった。そうでなければ、SMの女王様だろう。 仕上げとして編み上げブーツを履いたアエスタスは試着室を出ると、妹達を引き摺ってブティックから飛び出した。 ここまで遊ばれたのだから、遊び返してやるまでだ。 ショッピングが一段落した三姉妹は、道端のベンチに座っていた。 左から順番に、ボンテージ姿のアエスタス、メイド服姿のアウトゥムヌス、ロリータファッションのヒエムスだった。 アエスタスは、奇抜な格好に仕立て上げた妹達を見やった。アウトゥムヌスは、平然とソフトクリームを舐めている。 だが、ヒエムスは羞恥心で赤面していた。小柄なアウトゥムヌスならまだしも、ヒエムスは百七十センチ近くもある。 フリルとリボンがたっぷりと付いたピンク色のワンピースに、つま先の丸い革靴、白いタイツ、可愛らしすぎる日傘。 そして、ネコ耳のようなデザインのヘッドドレス。ヒエムスはわなわなと震えていたが、アエスタスを涙目で睨んだ。 「ひどいですわ、アエスタスお姉様!」 「先に仕掛けてきたのはお前だろうが、ヒエムス」 アエスタスが言い返すと、ヒエムスは萎れた。 「そりゃあ、そうですけど…。でも、だからって、こんなに徹底的にやらなくても…。可愛いですけれど」 ヒエムスは、二人の間に座っている三女を見やった。アウトゥムヌスも、完璧なメイドに仕立て上げられていた。 だが、一番地味だった。紺色のワンピースに白の長いエプロンを付け、ヘッドドレスも髪を押さえるだけのものだ。 メイドと言っても媚びたデザインのそれではなく、本物のメイドだ。赤銅色の髪も三つ編みにされ、結われている。 「今ばかりは、アウトゥムヌスお姉様が一番まともに見えるのが不思議ですわ」 ヒエムスが恨みがましく爪を噛むと、アウトゥムヌスは横目に妹を見上げた。 「慣れている」 「ジョニー・ヤブキのせいか?」 アエスタスが問うと、アウトゥムヌスは首を横に振った。 「ミイム」 「ああ、そういえばそうでしたわねぇ。皇太子殿下もすっかり墜ちたものですわね…」 ヒエムスが呆れると、アウトゥムヌスはメイド服の裾を抓んだ。 「三度目」 「どこか行きたいところはあるか、ヒエムス」 アエスタスが四女に向くと、ヒエムスは唇を曲げながらも返した。 「こんな格好じゃ、目当てのブランドショップには行けませんわ。だから、他の場所に行くことにしますわよ」 「どこ?」 アウトゥムヌスはソフトクリームのコーンまで綺麗に食べ終えると、ぺろりと唇を舐めた。 「そうですわねぇ…」 ヒエムスはしばらく考えたが、肩を落とした。 「なんだか、その気が失せてしまいましたわ。まさか、アエスタスお姉様にやり返されるなんて、思ってもみなかったんですもの。意外でしたわ」 「だったら、少し休もう」 アエスタスはベンチに体重を預け、人工の空を仰いだ。循環を促すための風が吹き下ろし、頬を撫でていった。 メインストリートでは人々が行き交い、思い思いの休日を楽しんでいる。友人同士、恋人同士、家族同士などだ。 普段は耳を傾けることすらしない他人の会話や、親しい相手に向ける表情を、退屈凌ぎを兼ねて観察していた。 彼らが交わす会話は、中身がない。身内同士の出来事や芸能界のゴシップ、薄っぺらい悩み、流行りの食べ物。 けれど、とても楽しそうだった。何が楽しいのかは解らないが、事ある事に声を上げて笑っては、捲し立てている。 妹達と下らない着せ替えに興じている最中は高揚していたが、気分が落ち着くとなぜあんなことしたのかと思う。 ヒエムスにからかわれて、アウトゥムヌスから静かなプレッシャーを掛けられて、感情のままに行動してしまった。 長姉であるウェールがいない今、姉妹を統率するのはアエスタスの役目だ。それなのに、おもちゃにされるとは。 次女として情けない。軍人として失格だ。それ以前に、ダメすぎる。そう感じると、処分されて当然だと思えてきた。 「アエスタスお姉様」 三女に名を呼ばれ、アエスタスはそちらに向いた。 「乳」 何を思ったのか、アウトゥムヌスはエプロンの両脇から両手を差し込み、真っ平らな胸元に起伏を作っていた。 思い掛けないことに、アエスタスは目を丸めるしかなかった。アウトゥムヌスは、銀色の瞳で次女を見上げてきた。 「いや、だからなんなんだ、一体」 「それだけ」 「はあ…」 我が妹ながら、解らない。アエスタスが首を捻っていると、ヒエムスがフリフリの日傘を差し、くるくると回した。 「お姉様は、楽しくありませんの?」 「楽しいというか、訳が解らない」 アエスタスは黒い革のビスチェを引っ張り上げ、今にも零れ落ちそうな乳房を少しでも隠す努力をした。 「お前達の行動も、それに釣られてしまった私の行動も、何もかもがだ」 「私もですわ」 ヒエムスは日傘を回しながら、幼子のようにつま先を揺らした。 「家族らしいことなんて、今までは一度もしたことがありませんでしたもの。だから、思い付くままに行動してみましたけど、何が家族らしいのすら解りませんわ。大体、こういう馬鹿げたことなら、家族でなくとも出来ますもの。ショッピングだって、着せ替えだって、買い食いだって、相手がお姉様である必然はどこにもありませんわ」 「道理」 アウトゥムヌスは、僅かに声色を沈めた。 「空回りしてますわねぇ、私達」 ヒエムスのぼやきに、アエスタスは同意せざるを得なかった。 「だな」 「けれど、それは必然。全てが未経験だから」 アウトゥムヌスの指摘に、二人は納得したが発言はしなかった。家族らしくない家族だった、と認めることになる。 今までもそうで、これからもそうなのだと解っている。だが、自分からそうだと認めてしまえば最後だ、とも思った。 ウェールの言葉に畏怖を感じた瞬間から、歯車の噛み合わせがずれている。だが、それを直すことが出来ない。 今までの自分は、直すべきだと頑なに思っている。しかし、妹達と遊び遊ばれていた自分はそう思っていない。 どうせ処分されるのだから今を楽しむべきだ、と思う。けれど、処分されてしまうのだから何もしなくてもいい、とも。 どちらも正しい。だが、どちらも誤りだ。明確な意志と成長した自我を持つことは、母から許されたわけではない。 ただ、母は何も言わないだけだ。その沈黙を了承と受け取るのは容易いが、黙しているからこそ恐ろしくもある。 三姉妹は母の一部を受け継いだ分身だ。長姉は母の正統な娘だ。だが、母とは何者なのか、未だに解らない。 近すぎるから、見えないのかもしれない。しかし、距離を開ける勇気もなく、母を問い詰められるだけの力もない。 それは、妹達も同じなのだろう。二人から僅かに感じる思念にも、アエスタスのそれと近しい思考が混ざっていた。 母を知りたい。だが、知る勇気はない。自分自身の役割と育ち始めた自我の間で、ぐらぐらと母への思いが動く。 アウトゥムヌスが、不意に目を上げた。ヒエムスも顔を上げ、アエスタスも立ち上がり、雑踏に視線を巡らせた。 ごく近しい座標で次元が歪んだ気配が感じられたが、母も三人もそれを予期していなかったのは初めてだった。 姉妹は買い込んだ服やバッグや装飾品の紙袋を抱え、次元の歪みの発生源の空間軸を察知し、瞬間移動した。 不測の事態を防ぐのも、姉妹に与えられた役割だ。 08 10/18 |