現実の嘘。嘘の現実。 小さなシリンダーに詰まった薬液は、透き通っている。 頭上に翳せば、モニターから注ぐ光が通り抜けた。こんなもので、彼の心をどうにか出来るとは思えなかった。 だが、この薬品の効能は確かだ。リリアンヌ号でヒエムスから渡された後、セバスチャンに頼んで分析に掛けた。 もしも、これが単なる毒物だったら大事だからだ。彼の心を虜にする前に、命を奪ってしまっては何にもならない。 ジェニファーは操縦席に身を預け、薬液を見つめた。背後に近付いてきた船内仕様のセバスチャンが、述べた。 〈主に記憶障害の治療に用いられる薬品で、基本的な効能は脳内物質の活性化と血流の増進でございます。ですが、過去の記憶を鮮烈に再生させるため、警察や軍の事情聴取では自白剤の一種として使用される場合も多く、公的組織の末端から犯罪組織や宇宙海賊にも横流しされているとの事実も確認されておりますが、マスターがヒエムス様から譲渡された薬液は不純物が皆無でしたのでその可能性はございません〉 ジェニファーの視界に入らずに、セバスチャンは続ける。 〈投与量と調合により、その効能は変化します。マスターが所持しておられるシリンダーに充填されている薬液は約5ミリリットルなので、再生される記憶はおよそ十年前のものでございます〉 「ねえ」 ジェニファーはシリンダーを指の間で弄びながら、セバスチャンを見やった。 「私のこと、馬鹿だと思う?」 〈その質問には解答しかねます〉 「でも、ここまで来たら、もう後戻りは出来ないわ」 ジェニファーは操縦席から上体を起こすと、セバスチャンに命じた。 「マサヨシに連絡を取って」 〈了解しました、マスター〉 セバスチャンはうやうやしく頭を下げ、コクピットのコンソールに手を翳して操作を開始し、通信回線を開いた。 モニターに映し出された亜空間通信の電波状況を見上げながら、ジェニファーはシリンダーをポケットに入れた。 こんな小さなもので、彼の心を奪えるとは思えない。渡された時は浮かれたが、相手の目的がまるで読めない。 看護士のヒエムスにリリアンヌ号の艦長室に案内されたことからして、まず異様だ。こっちは、ただの運び屋だ。 報酬さえもらえれば、どれほど怪しい貨物でも、どれほど疑わしい人物でも、どこへでも運んでしまう裏の仕事だ。 対するリリアンヌ号は、受け入れる患者こそ犯罪者や逃亡者や亡命者はいるが活動も目的も至極真っ当だ。 宇宙に名だたる大企業や資産家から湯水の如く献金を受け、医療行為という名の絶対的正義を行使している。 それほどの相手が、ジェニファーに興味を持つ意味が解らない。増して、一個人の色恋沙汰に手を出すなどと。 意味不明を通り越して、異常だ。だが、彼らの目的はジェニファーではなく、マサヨシだとしたら話は変わってくる。 最近、マサヨシの周囲には奇妙な人物ばかりが集っている。何かに惹かれるかのように、次々に現れている。 機械生命体の戦士達、どう見ても訳ありなクニクルス族の少年、妙な言動のサイボーグ、素性の怪しげな少女。 彼らが何者なのか、ジェニファーの情報網でも掴み切れない。掴もうとしてもその傍から情報が削除されていく。 まるで、目に見えない存在がマサヨシを見守っているかのようで気色悪かったが、同時に興味もそそられてくる。 けれど、それを追いかけることは出来なかった。知りすぎた末に死んでしまっては、元も子もないと解っている。 常識的な感覚が、彼に投薬することを拒絶していた。同時に、なけなしのプライドが理性を保てと叫んでいる。 しかし、ジェニファーは年齢を重ねすぎた。良心の呵責などかなぐり捨てて、嘘でも良いから、とすら思っている。 今までの人生も、真っ当ではない。人を殺したこともある。裏切ったこともある。盗んだことも、奪ったこともある。 だから、今更一人の男の記憶を掻き混ぜても、大したことではない。ただ、その相手がマサヨシだというだけだ。 ただ、それだけのことだ。 ジェニファーから呼び出しを受けるのは、日常の一端だった。 マサヨシは自室のクローゼットを開き、パイロットスーツとアンダーを取り出し、様々な武装と共に床に置いた。 今まで着ていた私服を脱ぎ、ベッドに放った。気密性と保温性を高めるためのアンダースーツを、上下とも着る。 その機能性の割に生地が薄いパイロットスーツに両足を入れ、腰まで引き上げて、細身の袖に両腕を入れた。 両方ともマサヨシの体型に合わせて仕立ててもらったものなので、多少の余裕はあるが、無駄は一切なかった。 パイロットスーツの前を留めて、襟元を広げたままベルトを巻いていると、部屋のドアがノックと同時に開かれた。 「ぱーぱぁ!」 勢い良く飛び込んできたハルに、マサヨシは苦笑した。 「こら。準備中は危ないから入るなと言っているだろうが」 「だってぇー」 ハルは不機嫌そうにむくれ、マサヨシを見上げた。 「今日はそんなに遠くへは行かないし、大した仕事じゃないからすぐに帰ってこられるさ」 「でも、パパと一緒にいたいんだもん」 ハルはマサヨシの足に縋り、丸っこい頬を張った。 「どうしたんだ、急に」 マサヨシはハルに抗うことを諦め、腰を下ろした。マサヨシの膝に収まったハルは、父親を見上げる。 「パパは、ハルのパパだよね?」 「今更、何を言うんだ」 マサヨシが笑みを返すと、ハルはマサヨシの胸に寄り掛かってきた。 「あのね、私ね、レイラお姉ちゃんが帰った後にお外に出たの」 その言葉にマサヨシは動揺したが、顔には出さなかった。ハルは小さな手で、パイロットスーツの胸元を握る。 「パパとレイラお姉ちゃんはどこに行ったのかなぁって思って、おじちゃんと一緒にパパ達の足跡を辿ってみたんだ。そしたら、パパとレイラお姉ちゃんは、私が寝てたポッドに行ったってことが解ったの。ねえ、どうして?」 「それは…」 それを答えることは出来ない。マサヨシが口籠もっていると、ハルは青い瞳を潤ませた。 「もしかして、私のママが見つかったの? だから、あそこに行ったの?」 ハルは身を乗り出し、マサヨシに迫る。 「レイラお姉ちゃんは、本当のことが解ったからパパに教えに来たんじゃないの?」 そうだったら、どんなにいいか。明るい真実に満ちた日々があるなら、これまでに重ねた嘘に意味が生まれる。 しかし、そんな事実がないことはマサヨシが一番良く知っている。ハルのいた世界は、この世界とは違った世界だ。 今まで目を逸らしてきただけだ。ハルの帰るべき世界を知らないことも、ハルの在るべき世界に行けないことも。 あの見知らぬ言語を解読出来たら、僅かだが可能性はあった。だが、どうやっても解読することは出来なかった。 だから、その出生を調べないことにした。自分の無力さと、自分より遙かに孤独な少女の現実から逃れるために。 自分がこの世の異物だと悟ったら、どんなに悲しむだろう。幼い心を抉るだけでなく、深い闇に沈めてしまうだろう。 だから、何も知らせず、何も伝えず、何も悟らせないようにするしかない。マサヨシは、ハルの長い金髪を撫でた。 「もし、そうだったらどうする?」 「え?」 ハルの目が、困惑で丸まった。 「もし、そうだとしたら、ハルはどうしたい?」 マサヨシは笑みを崩さずに、問うた。ハルはマサヨシに撫でられながら、顔を伏せた。 「わかんない」 「俺はお前のパパだが、本当の親じゃない。それは知っているな」 「…うん」 数秒間の躊躇いの後、ハルは首を縦に振った。 「前にも言ったが、宇宙はとんでもなく広いんだ。だから、きっとどこかにお前の本当の親がいるはずだ」 「うん」 「その人達がお前を見つけ出して、お前のことを迎えに来てくれたら、その船に乗るか?」 「わかんない。だって、ここがハルのおうちだもん」 「そうか?」 「うん。だってね、パパはパパなんだもん」 ハルは、頬に当てられたマサヨシの大きな手に触れた。 「そりゃ、本当のパパとママに会えたら嬉しいよ。だって、ハルのパパとママだもん。でもね、こっちのパパも本当のパパなの。たまにちょっと怖い時もあるけど、とっても優しくて、とっても強いから、大好きなの。ママも大好き。お兄ちゃんも大好き。おじちゃんも大好き。トニーちゃんも大好き。ガンちゃんは、まだあんまりよく解らないけど、たぶん好き。お姉ちゃんのことは、今も大好き。だからね、ここ以外のおうちに行くのは嫌なの」 「どうしてだ?」 「だって、皆がいないんだもん」 ハルは唇を尖らせ、俯いた。 「本当のパパとママが迎えに来てくれても、ハルはお船になんか乗らない。ずうっとここにいる」 「そう言ってもらえると嬉しいね」 マサヨシはハルを抱き寄せ、柔らかな金髪に頬を寄せた。 「だが、本当にその時が来たら、俺達はお前を送り出すしかないんだ。それだけは知っておいてくれ」 「そんなのやだ。やだったらやだ!」 ハルはぎゅっと小さな拳を握り締め、涙を滲ませたかと思うとぼろぼろと零し始めた。 「パパとずっと一緒にいる! どこにも行きたくない!」 「でも、その時は今じゃない」 怖がらせてごめんな、とマサヨシはハルの背をさすって宥めてやりながら、穏やかに話した。 「レイラが俺のところに来たのは、少し調べることがあったからなんだ。ハルの迎えが現れたって報告じゃないことは確かだ。だから、ハルはまだどこへも行かなくて良いし、どこへも行く予定はない。もう少し大きくなったら、木星辺りの学校には行くようにはなるだろうが、それもまだ先の話だ。お前が大人になって、一人で生きていけるようになるその日まで、俺はずっと傍にいる」 「うん」 ハルは涙を拭い、頷いた。 「でも、私が大人になったら、パパはどうなっちゃうの?」 「そうだな。それもきちんと考えておかないとな」 マサヨシは指先で、ハルの頬を濡らす涙を拭ってやった。 「何にせよ、俺は今出来ることをするだけだ」 「じゃあ、じゃあ、ハルには何が出来るのかな?」 ハルに見上げられ、マサヨシは笑った。 「さあ、なんだろうな」 ハルは自分の出来ることを指折り数えながら、並べていた。その様が微笑ましくて、マサヨシは頬を緩めていた。 膝の上に感じるハルの体温は暖かく、窓から差し込む日差しは眩しく、どこまでも広がる雪原が白く輝いている。 こんな時間が、いつまでも続けばいいと思った。だが、そうもいかないのだと、マサヨシは頭の片隅で考えていた。 太陽系外周部の宙域で待機しているジェニファーから亜空間通信を受けたのは、朝食を食べ終えた後だった。 ジェニファーから援護要請を受けるのは初めてのことではないが、する場合もされる場合も、取引を行っていた。 今回もそんなものだった。小回りの利かない輸送戦艦ダンディライオン号の援護を行うため、HAL号を出すのだ。 ダンディライオン号が輸送している貨物が宇宙海賊に略奪される危険性があり、その露払いをするためだった。 「さあ、俺は仕事に行かなきゃならん」 マサヨシはハルを膝から降ろし、立ち上がった。 「それが、俺が今出来ることなんだ」 「じゃ、ハルは何をしていればいいの?」 「良い子にお留守番していてくれれば、それでいい」 マサヨシがぽんぽんとハルの頭を軽く叩くと、ハルは両手を挙げた。 「解った! 良い子にしてるね!」 「じゃ、俺は続きがあるからな」 マサヨシが促すと、ハルは素直に部屋から出て行った。廊下を軽快な足音が駆け抜けて、幼い声も聞こえた。 リビングにいるミイムを呼んでいたが、当人の声が返ってきた。バッテリーを入れた熱線銃を、ホルスターに差す。 操縦の邪魔にならない程度のナイフも備え、スーツの上にプロテクターを装着し、各種機能の動作を確認する。 脚部の保護と同時に船外活動を補助する機能を持つブーツを履き、外装を付けると、両手にも手袋を填めた。 窓の外を見やると、相棒が既に準備を終えていた。イグニスは右肩のリボルバーを回していたが、装填させた。 その背後では、不満げなトニルトスが腕を組んでいた。今日、出撃するのはマサヨシとイグニスの二人だけだ。 二人とも外出してしまったら、家の守りが手薄になるからだ。レイラの件もあるので、無防備には出来なかった。 家を留守にしている間、何も起きなければいい。いや、起きるはずがない。今まで、ずっとそうだったのだから。 だが、それが何の根拠もないことだと知っている。既に、何かが起きる前兆は生まれ落ち、這い寄りつつある。 しかし、何が起きるのか、何が起きているのかすら解らない今、マサヨシに出来ることはただ信じることだけだ。 何事もない明日が訪れることを、ようやく纏まり始めた家族の住む家の平穏を、優しさの嘘が露見しないことを。 ささやかな幸福が潰えないことを。 08 10/24 |